十月 15

Partying During Wartime

クリミナル・ジャスティスから紛争時のバルカン半島、アフガニスタンへの従軍までをも経験した、ある男の半生

By Ray Philp

 

1991年、グラスゴーのウエストエンド出身の長身のセルティックファン、Keith Robinsonは古い鉄道用トンネルでパーティを開催した。その壁にはサダム・フセインの顔が描かれたバナーが吊り下げられていた。フセイン印のチケットを持ってKelvinbridgeと呼ばれるそのトンネルを訪れた参加者たちは、「Death Or Glory(栄光か死か)」と記された一連の現代的な壁画も目にすることになり、そこには戦闘機をはじめとした湾岸戦争関連の絵も描かれていた。そして積み上げられたスピーカーからは、グラスゴー市内にかつて存在したレコードショップ23rd Precinctから持ち込まれたハウスとテクノのレコードが鳴っていた。この日が初開催だったRobinsonによるパーティ、Desert Storm Soundsystemでは、のちにレイヴカルチャーと武力紛争が反体制同盟を形成することになったが、同時にこれは彼の信じがたい人生を要約する存在にもなった。

 

1990年代を通じて、カリスマ性を持っていたRobinsonに惹かれ様々な人たちが入れ替わり立ち替わり参加していたDesert Storm Soundsystemは、英国及びヨーロッパで無料(そして通常は非合法)のパーティを開催し続け、最終的にはUKの初期レイヴシーンをベースにした、政治色が強く、反企業精神を打ち出したヨーロッパ全土に及ぶムーブメントTeknivalの一部となった。そして1990年代半ばにはクロアチア経由でボスニアを訪れ、バルカン半島で起きていた一連の紛争において、支援部隊と共に人道的支援を行ったが、Desert Stormが提供したのは食料ではなかった。彼らが提供したのはパーティだった。彼らのサラエボ初訪問時を追ったドキュメンタリーの中で、Robinsonは「俺たちは音楽を贅沢品だとは思わない。音楽は必要不可欠なんだ。だが、戦争時には音楽は常に最初に犠牲となる存在だ」と語っている。

 

 

Desert Stormは、一時的にスコットランドのエレクトロニック・ミュージックシーンに関わっていた。安定した評価を得ていたJames “Harri” Harrigan、Domenic Cappello、OptimoのJG Wilkes、そしてAndrew Weatherallなどは揃ってDesert Stormでプレイしたが、彼らがその周辺には長く留まることはなかった。Robinsonはウェアハウスや草地、納屋、トンネル、人里離れた半島などでレイヴを開催しており、友人とポルシェに乗り込んで17世紀風の屋敷を訪れ、そこのオーナーに映画撮影で100人を連れ込みたいと頼み込む時もあった(これは初期にRobinsonが頻繁に使っていた偽装発言のひとつだ)。

 

Robinsonはイーストロンドンの本部で次のように振り返った。「あの日のことは憶えている。多分800人から900人はいたんじゃないか? オーナーがバルコニーから中庭を覗くと、Andy Weatherallが丁度やってきて、人で溢れかえっていた。俺はオーナーに『これで100人位ですかね』と言ったが、実際は900人ほどが来ていたのさ。殴られるかと思ったね」

 

このような逸話を聞くと、Desert Storm Soundsystemは勘と経験だけで運営されていたパーティだと思うかも知れない。実際、そういう時もあった。しかし、Robinsonはスコットランドで萌芽しつつあったカオスなレイヴシーンの中で辣腕を振るっていた存在だった。1990年、グラスゴーがEUから「文化都市」の称号を受けると、市内のクラブの経営は朝5時まで可能になったが、翌年に市議会がこの決定を取り下げると、Robinsonは迷彩ペイントが施された自分のトラックを持ち出し、クラブ閉店後の客を踊れる場所へと運んでいた。

 

しかし、時間と共に警察がレイヴカルチャーと対立し始めると、Robinsonも法律と真っ向から対立することが多くなった。また、当時はギャングの台頭も問題になり始めていた。初期Desert Stormはエントランス料金を取っていたため、グラスゴー市内のギャングたちに目を付けられたのだ。Robinsonは自身と仲間を守るべく用心棒を用意したが、状況は悪化するばかりで、最後にはパーティのコントロール自体が難しくなってしまった。そして1996年になる頃、Desert Stormはスコットランドから完全撤退した。

 

 

「グラスゴーの金とクラブの問題は酷いもんだった。危ない街だったよ。エントランスに男が来て、『ゲストリストに入ってるはずだ』と言うから調べると、そんな名前は載っていなかった。だが、その男は『いや、入ってるね』と言って、懐から巨大な鉈を出して見せた。俺は『鉈をお持ちならどうぞ!』って言ったもんさ。ドアマンを担当していた奴には『自分の名札を返すよ。あんたとはもう二度と一緒に働きたくないね』と言われたね」(RobinsonはジャーナリストMatthew Collinにも、同種のパーティのVIPルームの様子について『鉈を持ったドラッグでドン決まりの奴らで埋まっていた。一触即発のムードだったよ』と振り返っている)

 

1994年、Desert Stormは「屋外での反復するビート」に対する規制を定めたクリミナル・ジャスティス法(Criminal Justice and Public Order Act 1994)に抗議するデモに参加すべくロンドンへ出向いたが、この旅はRobinsonにとって運命的なものになった。彼に新たな目的意識を与えると共に、サウンドシステムを海外へ持ち込むきっかけとなったのだ。

 

RobinsonとAlly McKinnes(Desert Stormの元レジデントDJ)を含む仲間たちは、同年10月にトラックに乗り込んでロンドンへ向かった。自分たちで「緊急展開用車両」と呼んでいたそのトラックについて、「屋根にスピーカーが置いてあって、両サイドが開くようになっていたから、低音がサイドから鳴り響くようになっていたんだ。後部のドアを開けば、そこにはターンテーブルが置かれていて、荷台には発電機が積まれていた。発電機の排気は運転席側から出していたね」と説明するMcKinnesは、友人Jamie Clougheyと共にDesert Storm名義でトラックもリリースしている(※1)。

※1:Somaからリリースされたシングル「Desert Storm / Scoraig 93」はそれなりの成功を収めた。

 

 

その移動式サウンドシステムは、ロンドンに集まった何万人もの間をゆっくりと進み、やがてトラファルガー・スクウェアの中央に停車した。困惑した警察官たちが目を向ける中、デモ参加者たちはそのトラックを取り囲み、サウンドシステムから放たれるハウスとテクノに食いついていた。しかし、3度目だったこの時のデモは、同年5月と7月に行われていたデモのような夢見心地の状態にはならなかった。デモがハイド・パークに沿って進んでいくと、警察が介入して衝突が起きたのだ。プラスティック製のライオットシールドを抱えた警察官たちが列を作り、踊りながら進むデモ参加者たちの方へ向かっていった。

 

衝突が起きている間、ある男がRobinsonのトラックの元を訪れた。「俺が『トラックから離れろ。警察が攻撃してくるぞ』と言うと、その男は『俺の電話番号を渡すよ!』と言ってきた。俺が『こんな時に正気かよ!』って返すと、奴は『電話番号を渡してくれ』って言ってきたのさ。俺が番号を渡すと、奴はトラックを離れていった。そのあとで、グラスゴーに戻った俺たちがロンドンでの一連の出来事を思い出していると、電話が鳴って『俺はPaddyっていうんだ。憶えてるか? ロンドンで電話番号をもらおうとして危うく警察にのされそうになったクレイジーなスコットランド出身の男だよ』と言ってきた。そして俺が『あぁ、憶えてるぜ! 何の用事だい?』と訊ねると、『ボスニアにサウンドシステムを持ち込む気はないか?』って言ってきたのさ」

 

 

現在、Desert Stormの本部はロンドン東北部のウォルサムストウの2階建てのビジネスビルの中にあり、そのビルは運輸省管理のガレージと住宅地に挟まれている。Robinsonは、家1軒分の荷物が詰まっているそのオフィスへ私を案内してくれた。壁一面の金属製の棚はローラーブレード、靴下、寝袋、シンバルなど様々な物が詰め込まれたダンボール箱で埋まっており、玄関付近には様々なサイズのガスボンベが置かれていた。また、部屋の隅にはXboxとテレビが置かれ、その並びの壁はスタジオになっており、そこにはドラムキットとコンソール、Novationのシンセが置かれていて、別のシンセの上に置かれた鍋やフライパンが日の光をまぶしく反射していた(Robinsonは「前は綺麗だったんだけどな! 今はちょっと時間がない。片付けられないんだ」と謝るように言っていた)。

 

 

 

"家族だろうと誰だろうとみんな死んでいた。だが、俺たちがクレイジーなトラックに乗ってパーティを開催しているのを見れば、彼らは状況が好転しているに違いないって思うのさ"

Keith Robinson

 

 

 

この部屋はRobinsonの思考をそのまま表現している鏡のように思えた。彼の話には多種多様なディテールが含まれており、要点に辿り着くまでに、様々な逸話を経なければならない時も多かった。また、彼の話ぶりは芝居がかっていて、まるで2、3人で朗読しているようだった。私たちがバルカン半島の話に辿り着いたのは、2007年のグラスゴー空港のテロ未遂事件を知った後に入隊し、アフガニスタンへ従軍し、2014年に除隊したという国防義勇軍時代について長く話し合ったあとだ。

 

「俺たちの考えでは文化的支援をしていたってところだな。ビーンズの缶詰を届ける代わりにさ。まぁ、彼らはそれを好きですらないってことがあとで分かったんだけどな。なにせムスリム国家にソーセージ入りのビーンズだ! 豚肉を届けていたんだぜ! あっちが気付いたら暴動になっただろう。とにかく、俺たちは大きな影響を与えたと思うね。なにせ酷い状況だったからな。家族だろうと誰だろうとみんな死んでいた。だが、俺たちがクレイジーなトラックに乗ってパーティを開催しているのを見れば、彼らは状況が好転しているに違いないって思うのさ。家から飛び出てきて、『やった! 俺はまだ生きてるぞ!』って感じるのさ。俺たちは気に入ってもらえた。彼らはあんな音楽を今まで聴いたことがなかったのさ」

 

Robinsonたちのボスニア初訪問は1994年12月半ば、ボスニア人とクロアチア人による最悪の戦闘が収まったあとのことだった。同年3月に調印されたワシントン合意によって、両陣営に比較的平和な状態が訪れていたが、それでもボスニア訪問は危険と考えられていた。水漏れや倒壊寸前の壁、爆撃による巨大な穴、骨組みだけの建物など、あらゆる戦争の爪痕が道路やトンネルに残っていた。

 

 

その後のDesert Stormについては、彼ら自身と前出のCollinなどを含む他のジャーナリストによって驚くような事実の数々が事細かく記録されており、その中には、まるでレイヴ神話のようなストーリーも含まれている。彼らはクロアチアの海岸に沿って縫うように走り、海へ向かって吹き付けるユーゴスラヴィアの風に煽られてトラックが岩に打ちつけられそうになる瞬間なども経験しながらトゥズラを目指し、スナイパー通りと呼ばれる、サラエボ市内にあるその名の通り危険な一角を、トラックのライトを消して真夜中に通過した(スナイパーライフル同様、対戦車ライフルに狙われる危険性もあった)。そして大晦日を迎える前、一行はトゥズラに到着した。ここはボスニア・ヘルツェゴビナ北東に位置する工業都市で、国連が安全地帯と宣言していた都市だった(しかし、これから数ヶ月後の1995年5月、セルビア系ボスニア軍によって市民への攻撃が行われ、71人が死亡した)。

 

到着した彼らは、当初計画していたバスケットボールスタジアムでのパーティ開催案をキャンセルし、トラックからテクノを流しながら市内を巡ることにした(この頃のRobinsonの音楽の好みは、パーティ初期の中心だったデトロイト/シカゴ系から変わっており、本人は『Carl Cox系のテクノを流していた』と振り返っている)。そして移動を始めるとすぐに武装した兵士たちに呼び止められ、音楽のヴォリュームを上げると同時にライトを消すように言われた。奇妙なことに、この指示はグラスゴー時代に彼らが警察から言われていたことの真逆だった。

 

 

 

"DJがLa Lunaによるブレイクビーツを盛り込んだ高速テクノ「Bang to the Beat of the Drum」をプレイすると、屋内から人々が飛び出してきた。中には真っ暗闇の夜空に向かってアサルトライフルを撃ち始める人もいた"

 

 

 

歓喜した警察官たちが夜空へ向かって銃を撃ち、パトカーの上でダンスを踊る警察署の前を通過した一行は、やがて住宅地に辿り着いた。DJがLa Lunaによるブレイクビーツを組み込んだ高速テクノ「Bang to the Beat of the Drum」をプレイすると、屋内から人々が飛び出してきた。中には真っ暗闇の夜空に向かってアサルトライフルを撃ち始める人もいた。小さな携帯用レーザーが曳光弾と共に夜空に舞った。

 

トゥズラはWorkers Aid For Bosniaが率いる護送車両団にとって大きな意味を持つ目的地だった。ロンドンのデモの最中にRobinsonにアプローチしてきた男は、このアナクロな無政府主義団体のメンバーで、彼らは公式なボスニア支援関係からは無視されていた。要するに何か間違いが起きても、彼らには頼るべき支援ネットワークが何もないという状況だった。「トゥズラは左翼思想が根強い鉱山労働者の都市で、その歴史から多民族都市の形態を維持していた」その護送車両団に同行していた元ジャーナリスト、Drew Hemmentが後日このように説明してくれた。「故に、トゥズラはボスニア内で唯一民族間の断絶が存在しない場所で、左翼思想が根強く残っている。また、トゥズラはUKの左翼的組合運動とも歴史的な繋がりがあった。1984年から1985年にかけて起きたUKの鉱山労働者たちのストライキにおいて、トゥズラは食料などの支援物資をUKの鉱山労働者たちに送った。そういう意味でトゥズラは非常に特別な都市だったが、非常に脆弱で、あらゆる陣営から目を付けられていた」

 

 

 

"Desert StormのFacebookページには、クラバーたちはスナイパーに撃たれないために300m弱ダッシュしてクラブへ向かわなければならなかったと記されている"

 

 

 

Desert Stormは1995年夏にトゥズラを再訪し、デイトン合意がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争をクリスマスの10日前に終結させたのを見計らってサラエボへ向かった。彼らには、どうしても通らなければならなかったスナイパー通りを除き、停戦を迎えるまでサラエボには入るべきではないということが理解できるだけの知識は備わっていた。停戦前に市内に入っていれば、彼らはセルビア系ボスニア軍によって撃たれるか、誘拐されていただろう。紛争終結直前のボスニア軍は国連の平和維持活動軍の兵士をも人質に取っていた。

 

サラエボに入った彼らは、テクノを打ち鳴らし、その晩にClub Obolaで開催されるパーティを告知した。サラエボ市内でその種のパーティが開催されたのは3年以上も前のことだった(Desert StormのFacebookページには、クラバーたちはスナイパーに撃たれないために300m弱ダッシュしてクラブへ向かわなければならず、しかもその後数日間クラブ内に潜んでいなければならなかった時もあると記されている)。

 

やがてRobinsonは、勤め人の業務内容が日々入れ替わるのと同じように、危険な出来事や死を感じさせる出来事を日々体験するようになった。「ギリギリの体験は数え切れないほどある」と振り返る本人は、実体験もいくつかしており、セルビア領土を眺められるサラエボ市内のアパートに滞在していた時に、自分が丁度眺めていた窓の反対側の窓に弾痕を見つけたことがあったと振り返った。そして隣国クロアチアの危険度も、サラエボと同等、もしくはそれ以上に高かった。

 

「クロアチアで危険な町に入ってしまったんだ。門前にはメルセデス(ベンツ)が停められていて、嫌な感じだったね。そういう奴らは友好的じゃないのさ。ひげ面で体もいかつくてね。とにかく、その町に辿り着いた俺たちはコーヒーを飲もうとしたんだ。その店の男も嫌な奴で、俺にカップを投げつけてきたから、店先に戻った俺は『とっととここを出よう』とみんなに伝えた。すると、俺たちのテーブルの前に窓が全面スモーク張りのベンツが現れて、その窓のひとつがスッと下がると、車内にはAK-47(訳注:アサルトライフル)を俺たちに向けて構えているヒゲづらの大男がいた。俺たちはコーヒーを飲んですぐに立ち去ったよ」

 

 

その後、アフガニスタンの従軍から帰還し、伍長に昇進したRobinsonは、自分が教官に向いていることに気が付いた。「『フルメタル・ジャケット』を見たことがあるか? 俺はスコットランド人の黒人バージョンってところさ。俺は面白おかしく教えていたが、真面目な部分も含ませていた。教えるのが上手かったのさ。自然にやれていたよ」Robinsonがこの話をした時、彼が着ていたのは彼が以前所属していた6 SCOTS連隊のTシャツで、私たちは今回のインタビューを始めてから30分間に渡り、この時代について立ち話をしたが、彼は部屋の中を大きな黒いアーミーブーツでよく動き回っていた。

 

軍生活はRobinsonに向いており、彼の人生において希少な安定期と呼べるものだったが、同時に彼を変えることにもなった。バルカン半島でのDesert Stormの生活を追った古い映像の中の彼は比較的リラックスしており、悲惨な状況に置かれていたにも関わらず常に笑顔だったが、実際に会った時の彼は、立ったり、座ったり、歩いたり、身振り手振りを加えたりと、落ち着きがないように見受けられ、その振る舞いには驚くほどの激しさが感じられた(電話でMcKinnesは「Keithは永遠に何かを探しているのさ。奴は自由なる精神なんだよ。Keithのようにアクションを起こし、様々なミッションや旅を経験してきた奴は他にはいないね」と説明している)。

 

 

 

"俺にとってパーティはパーティでしかない。ボスニアだろうがどこだろうが、ただのパーティなのさ"

Keith Robinson

 

 

 

「俺には善悪を感じ取るコンパスが備わっているんだ。だから常に人助けをしてきたのさ」私が考えてもいなかった質問に答えるかのように彼は語った。「レイヴをオーガナイズしながらトラックで回ったり、厳しい生活を送ったりしたヨーロッパから戻ったあとでも、俺のそのコンパスは壊れていなかった。他人のそれよりも優れていた位さ。多少歪んではいたけどな。だが、除隊したあと、すべてが調整されたのさ。忠誠心、品位、自己犠牲、他人への敬意ってのがあるだろ。別に常にそのすべてを実行する必要はないが、俺の中では目指すべきものとして存在していた。だが、戻ってきてからそこが完全に変わったのさ。俺は花火を見に行く回数が少なくなった。火薬が爆発する大きな音は好きじゃないし、背後に人が立つのも嫌なのさ。俺は変わっちまったんだ」

 

Robinsonの元を訪れた時、彼と現在のDesert Stormの仲間2人(※2)は、ロンドン郊外で開催予定のDesert Stormのための機材を準備しようとしているところだった。20代と30代の大半において、Robinsonにとって軍隊という存在はパーティのユニフォームに過ぎなかったが、今は別のものに変わっている。恐らく今はただの上着に過ぎないのだろう。若き日のRobinsonが胸に抱いていた曖昧な平和主義は、40代半ばを迎えた彼の中では厭世的なものに変わっており、本人はそこに誇りを持っている。

※2:ボロボロのレコードバッグにジャングル、ドラムンベース、ガバを詰め込んでいた若手DJ、Terry Beachと、ビールを片手に握りながらデスクに突っ伏して眠っていたフランス人ローディー

 

Robinsonが軍生活から学んだことは、Desert Stormの日々の運営にもある程度活きている。兵士としての経験は今の彼でも活かせるスキルを彼に与えており、それが最近のDesert Stormのオーガナイズに役立っていると本人は感じているようだ。そこで私が、紛争時のバルカン半島でのパーティは、現地に対する自分の見解を変える助けになったのと訊ねると、彼は次のように回答した。

 

「実は変わってないね。あそこで得たのは、『ここでパーティが開催できれば、どこでも開催できる』ってことだった。俺にとってパーティはパーティでしかない。ボスニアだろうがどこだろうが、ただのパーティなのさ。メディアを通じて自分が賢い奴だと思われたいよ。自分でちゃんと考える知的な奴だってね。だが、結局はただのパーティなんだ。俺たちはただパーティするだけだし、それが俺のやっていることなんだ。パーティ、パーティ、パーティってね。パーティの代わりにタリバンを相手にしていた時間を除いて、俺は14歳からずっとパーティ三昧なのさ」