二月 23

ノーザン・ソウルの実態:Part 3/3

イングランド北部で生まれたカルトユースカルチャーの実態を関係者たちの言葉から探る特集記事のPart 3を紹介する

By Lauren Martin

 

Frank BroughtonとBill BrewsterのDJHistory.comからシーンの重要人物及びDJの談話を抜粋・再構成し、チャートミュージックや大衆とは無縁だったユニークなユースカルチャーの実態を明らかにしていく特集記事の最終回は、ディスコやメインストリームとのクロスオーバー、ブーム終焉の理由などについて語られている。

 

 

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《登場人物》 

 

Kev Roberts:Wigan CasinoレジデントDJ。現在もノーザン・ソウル系イベントを開催している。

 

Ian Levine:Blackpool MeccaレジデントDJ。Hi-NRGの生みの親としても知られる。

 

Ian Dewhirst:ノーザン・ソウルDJ / プロモーター

 

Guy Hennigan: ノーザン・ソウルDJ(The 6t’s Mafia)

 

 

 

Kev Roberts

Levineがディスコに傾倒するようになった1974年代前半は、米国へ行って無名のソウルレコードを拾ってきた全員がノーザン・ソウルシーンに参加できるようになっていた。そして誰もががそのルートで参加していた。The Twisted Wheelがまだあった1969年頃は、米国にレコードを探しに行くのは珍しかった。だが、1970年代初頭になると状況は完全に変わっていた。

 

比較的安く米国へ行けるパッケージツアーが売られるようになったし、レイカー航空が30~40ポンドで格安の片道航空券を売り始めたから、誰もが飛びついていた。俺が初めて米国を訪れたのは1975年だった。イエローページをめくって見つけた中古レコードショップでノーザン・ソウルのレコードを何枚か見つけることができた。米国に行ったことがなかった奴は、みんなそうやって探していたのさ。

 

俺は “危険なエリア” を気にしていなかった。誰かから「スパニッシュ・ハーレムにソウルレコードを扱っているショップがあるぜ!」と言われた時も、銃弾が鼻先をかすめる可能性があるのは知っていたが、気にせずに向かっていた。俺が気にしていたのは、122nd Streetと8th Avenueの角にレコードショップがあるということだけだった。で、そういうショップが他のサウンドに興味を持たせることになった。Blackpool Meccaでは、俺がモダンソウルと呼んでいた「Cashing In」や「Seven Day Lover」がプレイされていたからさ。

 

 

 

 

ニューヨークへ行くたびに通っていたのが、Downstairs Recordsというレコードショップだった。クイーンズにあったGreenlineというレコードショップで働いていたNickとRoyが経営していて、2人は1950年代ドゥワップのコレクターだったが、ディスコシーンが盛り上がりつつあることに気付いていたから、 “オールディーズ” の他に新しいレコードも扱うようになっていた。

 

何人もの客が、Scepter、Roulette、Wandなどの12インチをカウンターで視聴しては、それらを買って帰っていた。だから俺も数枚買うようになったのさ。Levineもディスコシーンに気付いていたが、ほんの少しの間、俺の方が彼よりも先を行っていたんだ。

 

あるレコードが俺の全てを変えることになった。Tony Gioeという男と知り合った。Tonyはディスコナイトを開催していたニューヨークのクラブ、Peppermint LoungeのDJだったが、Midland InternationalのA&Rで、Silver Conventionのライセンスを担当していた。Tom Moultonのように自分を売り込まなかったからほとんど知られていないが、TonyはMoultonと同時代に活動していた。Tonyは、Eloise Laws「Love Factory」やBimbo Jet「El Bimbo」のようなフィリーサウンドをプレイしていた。それである日、彼が俺にO’Jays「I Love Music」のテストプレスをプレイしてくれたのさ。

 






この頃、マンチェスターのThe Ritz(※1)でオールデイヤー(※2)が始まり、それまでとは違う客層が生まれていた。それまでのオールデイヤーはノーザン・ソウル限定で、ノッティンガムのPalaisなどでしか開催されていなかった。で、The Ritzも最初はノーザン・ソウルだった。だが、ここでLevineが「I Love Music」をプレイし始めると、この手のレコードが真剣に受け止められるようになった。変化を迎えつつあったこの時代は、Tavares「Heaven Must Be Missing An Angel」やCandi Staton「Young Hearts Run Free」が大ヒットした。

 

それで、Levineは「ノーザン・ソウルは死んだ」と自分に言い聞かせて、ディスコへと舵を切ったんだ。Levineの変化についていけなかった連中は、Wigan Casinoへ向かって1960年代のストンパーを楽しみ続けたが、Levineはもっと新しくてクールな、都会の連中を掴むようになっていった。1977年から1979年頃になると、ジャズファンクが流行るようになって、Brass Construction「Movin’」のようなレコードがBlackpool Meccaの古い慣習を壊すようになるんだが、Levineたちはワトフォード周辺に住んでいるような連中ものめり込めるようなファンキーグルーヴを打ち出そうとしていたんだ。

 

イングランドの北と南が初めて繋がったのはこの頃さ。LevineとColin Curtisが都会的なファンキーグルーヴを北に持ち込んだんだ。色々なレコードがこの変化、別の言葉で言えば “分裂” を加速させた。「Heaven Must Be Missing An Angel」、「I Love Music」、「Young Hearts, Run Free」の他には、Vicki Sue Robinson「Turn The Beat Around」もヒットした。ハードコアなノーザン・ソウルファンには嫌われていたが、彼らを除く全員が気に入っていたよ。

 

※1:O2 Ritz Manchester

※2:All-Dayer / 日中開催のパーティ

 

 

Ian Levine

David Toddという名前のRCAで働いていたブラックがいた。彼は1976年にリリースされたVicki Sue Robinsonのアルバム『Never Gonna Let You Go』の担当だった。このアルバムの1曲目が「Turn The Beat Around」だ。DJたちがこの曲の7インチの収録分数が短いと文句を言っていたので、そのためのマーケティング戦略として、Toddがディスコミックスを収録した12インチとしてリリースしたんだ。

 

こういう12インチはVicki Sue Robinsonが初めてだった。自宅を賭けてもいい。他には、Sam Cookeの姪、Simona Cookeのレコードや、Bee Gees「Subway」、Brenda Russell「Gonna Do My Best to Love You」などがあった。また、MoultonがRCAからリリースしたレコードもあった。どれも貴重なレコードだったが、Blackpool Meccaではこういうレコードがプレイされていた。

 

 

 

 

Kev Roberts

ノーザン・ソウルは2つの問題が原因で信用を大きく失ってしまったと俺は思っている。最初の問題は、レコード会社がシーンの変化に気付いて、チャンスだとばかりに食い込み始めた1974年後半に起きた。

 

奴らは新しいポップサウンドを「これが今のサウンドなんだ」と言って、Russ Winstanleyを言いくるめたんだ。それで、Winstanleyが「Goodbye Nothing To Say」をプレイするようになり、さらには「Police Story」のテーマソングのような、醜悪で馬鹿らしいポップレコードをプレイするようになった。昔懐かしのストンピングサウンドだったからヒットしたが、どれも中身は空っぽだった。The Ventures「Hawaii Five-0」が大ヒットした瞬間、これが決定打となって俺の気持ちはWigan Casinoから完全に離れたが、1975年後半までここでプレイした。


Blackpool Meccaのフロアは、LevineとCurtisがプレイするモダンなレコードのおかげで賑わっていた。お客がその方向性を決めていた。Wigan Casinoは真逆だった。DJたちはロッキンな4/4ビートが備わっているレコードだけに拘って、こういうレコードだけを探していた。だから、Gary Lewis & The Playboys「My Heart’s Symphony」のようなポップレコードしか見つけることができなかったのさ。もちろん、優れたソウルレコードもプレイしていたが、Lorraine Silver「Lost Summer Love」やBrian Hyland「The Joker Went Wild」のような本物のソウルの真似たホワイトたちのポップレコードが大量にプレイされていた。

 

 

 

“Wigan Casinoに観光客がなだれ込むようになり、Blackpool Meccaが本来のシーンを維持したい純粋主義者たちが集まる場所になった”

 

 

 

その頃、Dave McAleerが、無名のノーザン・ソウルを最悪の形でカバーしたWigan’s Chosen FewのレコードをPye RecordsのサブレーベルDisco Demandからリリースしたんだ。これがきっかけとなって、ハードコアなファンたちがこの手のポップレコードを嫌悪するようになり、Wigan Casinoから一気に離れていった。そして、この楽曲が『Top Of The Pops』でプレイされて、バッジやランニングシャツ姿のダンサーたちが踊っているのを見た世間が「これが今流行ってるサウンドか! 俺たちも波に乗ろうぜ!」みたいな感じで飛びついたのさ。

 

それで、Wigan Casinoには観光客がなだれ込むようになり、Blackpool Meccaが本来のシーンを維持したい純粋主義者たちが集まる場所になったんだ。

 

もうひとつの問題は、1978年に起きた。どういう理由かは分からないが、この頃、Wigan CasinoではRichard Searlingが優れたノーザン・ソウルのレコードを大量にプレイしていた。だが、俺に言わせれば、Searlingが新Levine的な立場になっていたことも問題だった。Searlingはカバーアップや誰も知らないレコードなど、素晴らしい音源を大量に持っていた。

 

その頃に、Searlingと一緒にプレイしていたRuss Winstanleyが、劣悪なポップストンパーをプレイするようになったのさ。Searlingは、所謂 "センスの良い" DJだったが、Winstanleyは薄っぺらいレコードをプレイするようなDJだった。これが、昔の俺がWinstanleyにムカついていた理由のひとつさ。素晴らしいクラブでプレイしていて、キッズも集まっていて、最高のレコードだって山ほどあるのに、何だってJoey Dee & The Starliters「Good Little You」をプレイするんだってね。

 

 

Ian Levine

ブラック系レアソウルとメインストリームポップのクロスオーバーは大きな影響を与えた。本当に大きかった。初めてメインストリームから高く評価されたノーザン・ソウルのレコードは、Tams「Hey Girl Don’t Bother Me」だった。これはThe Twisted Wheelでプレイされていたんだが、実際はノーザン・ソウルのサウンドではなかった。“The Twisted Wheelのサウンド” だった。

 

Blackpool Meccaで初めてブレイクしたレコードは、Archie Bell & The Drells「Here I Go Again」で、これは、Barbara ValentineのレコードやEsther Phillips「Catch Me I’m Falling」のような、1960年代サウンドをモダンにしたようなヒットレコードを生み出すことになった。「Here I Go Again」はBlackpool Meccaで大ヒットになったのでAtlanticがリプレスをすることになり、1972年10月に英国チャートの11位に入った。

 


 

 

Blackpool Meccaでの人気だけが理由でリリースされた究極のノーザン・ソウルレコードは、Robert Knights「Love On a Mountain」だった。1973年11月に英国チャートで10位に入り、大きな話題となった。「ノーザン・ソウルシーンで愛されていたから」以外に、このレコードがトップ10入りする理由はなかった。なぜなら、オリジナルは少なくとも5年前にリリースされていたからだ。

 

これがきっかけでシーンに商業的価値が見出され、MotownでさえもR. Dean Taylor「There’s a Ghost In My House」をリリースすることになった。これは1974年5月に英国チャートで3位に入った。

 

 

Ian Dewhirst

R. Dean Taylor「There’s a Ghost In My House」を米国からトップシングルとして英国に持ち込んだのはLevineだった。Levineは「最高のノーザン・ソウルレコードを見つけたよ」と言ったあと、“史上最高” と言い直し、「VIPシングルだ。Brian Holland、Lamont Dozier、Edward Holland Jr. が書いた曲で、シンガーも有名だからね」と続けた。俺は「良く言うぜ、そんなレコードがレア盤のはずないだろ!」と思っていた。

 

だが、その晩、Levineがこのレコードを6回プレイすると、3回目には誰もが「確かに史上最高だ」と思っていた。あっという間に英国で最も求められているレコードとなり、大きな話題を生み出した。誰もが「Levineがまたやりやがった。キラーレコードを見つけやがったぞ」と思っていた。それで、その翌日には全員が米国の仲間たちに連絡を取って探してもらったんだが、結局、誰ひとりとして見つけることはできなかった。俺たちはこのレコードがそこまでレアなことが信じられなかった。







騒ぎは6週間ほど続いた。このレコードのニーズは半端じゃなかったんだ。そのあと、奇妙な出来事が起きた。Wigan Casinoからの帰り道に、新聞を買うためにサービスエリアに立ち寄った奴が、Music for Pleasure(※3)のLPが置かれているラックを覗くと、『Indiana Wants Me』というタイトルのR. Dean Taylorのコンピレーションがあったんだ。そして、そのサイド2の3曲目に「There’s a Ghost In My House」が収録されていたのさ。実は英国内のありとあらゆるレコードショップにあったのに、誰も気が付かなかったんだよ(笑)。

 

もちろん、騒ぎはあっという間に収束した。俺も50枚ほど見つけて、1枚5ポンドで売りさばいた。だが、当時の俺は少しスノッブなところがあった。Wigan Casino的なホワイトのヴォーカルが入っている高速ストンパーは星の数ほど存在していて、俺もたまにDean ParrishやPaul Ankaのようなホワイトなレコードをプレイしていたが、個人的には「ノーザン・ソウルはブラックのヴォーカルじゃないと」と思っていた。

 

※3:HamlynとEMI Recordsが共同出資したレーベル。オリジナルや再発を安価で売っていた。

 

 

Ian Levine

レコードは最初にプレイした人のもの、つまり、残念ながら、あのレコードは私のものだ。R. Dean Taylorのあのレコードは、Motownの安っぽいホワイトポップレコードだった。ノーザン・ソウルは、無名のレーベルからリリースされていた、もっとブラックでラフでレアなMotownサウンドだった。だが、あのレコードはブラックじゃなかった。ブレイクさせた自分を恥じるべきだね。

 

 

Guy Hennigan

シーンは米国と俺たちで成り立っていた。音楽もコンセプトもね… そして特に覚えおくべきなのが、「海外のもの」だったという点だ。俺たちにとって、ノーザン・ソウルの音楽は、究極の目標のようなものだったんだ。特定のマナーの下で育ち、特定の音楽を聴いてきた俺たちにとって、ノーザン・ソウルの音楽はそのどれとも違うように思えた。また、俺たちは最高を目指していたし、自分には少し手が届かないように思える何かを求めていた。

 

音楽が好きで、ホワイトの労働階級のメンタリティと一緒に育ったなら、その気持ちはさらに強くなる。音楽を聴くために旅をして、さらに良い音楽を聴くためにさらに遠くへ向かうんだ。十字軍のようなものさ。アクションを起こさなければ気が済まなかった。

 

 

Ian Dewhirst

ノーザン・ソウルの黄金時代はひとつしか存在しない。俺たちは、1972年から1976年の間にありとあらゆる名盤を見つけ出してしまったんだ。そして、このシーン最高のプレイリストもひとつしか存在しない。そのプレイリストに何曲収録されているのかについては色々と意見があるはずだが、真実を言えば、その数が200曲を上回ることはない。そこに入るのは、Tony Clark「Landslide」やGloria Jones「Tainted Love」のような最高のダンスフロアレコードだけだ。

 

とはいえ、ノーザン・ソウルのエートス(精神)は今も続いている。独自性は保たれている。レイブシーンが急速に人気を獲得した1980年代後半、俺はこのシーンをノーザン・ソウルが20年続いた結果だと感じていた。労働階級のホワイトたちが地下室でドラッグを摂取して、強烈だが愛すべき雰囲気の中でハイスピードな音楽に合わせて踊っていたんだから。「レイブカルチャーはノーザン・ソウルの別世代バージョンだった」ではなく、「ノーザン・ソウルはレイブカルチャーのオリジナル」なんだ。俺たちはそこに誇りを持っている。

 

 

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