二月 23

ノーザン・ソウルの実態:Part 2/3

イングランド北部で生まれたカルトユースカルチャーの実態を関係者たちの言葉から探る特集記事のPart 2を紹介する

By Lauren Martin


Frank BroughtonとBill BrewsterのDJHistory.comからシーンの重要人物及びDJの談話を抜粋・再構成し、ハードディガーをひとつのステータスにしたイングランド北部発祥のユニークなユースカルチャーの実態を明らかにしていく特集記事の第2回(全3回)は、シーン最高値を付けた激レア盤が生まれた経緯やニューヨークディスコとの共通点などについて語られている。

 

Part 1はこちら>>

 

 

 

 

 

《登場人物》

 

Kev Roberts:Wigan CasinoレジデントDJ。現在もノーザン・ソウル系イベントを開催している。

 

Ian Levine:Blackpool MeccaレジデントDJ。Hi-NRGの生みの親としても知られる。

 

Jonathan Woodliffe:ノーザン・ソウルDJ / プロモーター

 

Ian Dewhirst:ノーザン・ソウルDJ / プロモーター

 

 

 

Kev Roberts

ドラッグの蔓延とその影響によるハイテンポの他にノーザン・ソウルの特徴として挙げられるのが、シーン内が微妙に分裂していたことと、それぞれのDJへの忠誠心だ。当時の対立で一番大きかったのが、Russ WinstanleyファンとIan Levineファンの対立だった。WinstanleyがWigan Casinoと共に人気を獲得していくと、Wigan Casinoには独自の客がつくようになった。Wigan Casinoの客層はBlackpool Meccaのそれとは大きく異なっていたんだ。WinstanleyがWigan Casinoのキング、Ian LevineがBlackpool Meccaのキングって感じだったね。

 

 

Ian Levine

The Torchが閉店した1973年頃、私はノーザン・ソウルシーンの “ビッグネーム” になっていた。あの頃の私は、プロデューサーやアレンジャー、シンガーの名前を見れば、すぐにバラードなのか、ノーザン・ソウルなのかが判断できた。

 

しかし、自分の立場に100%満足していたわけではなかった。真実を言えば、私たちはあっという間に燃え尽きてしまった。1975年になってもまだ激しく足を踏みなせる “ストンピング” な1960年代シングルはまだ大量に残っていたが、1973年から1974年にかけての黄金時代、つまりシカゴ、デトロイト、ロサンゼルスはもちろん、ヴァージニアまでを掘り返していた時代に私たちがプレイしていたシングルほどそれらのクオリティは高くなかった。全体的なクオリティが下がっていったので、余裕がなくなっていった。良いと思えた全てのレコードが必要なレコードになっていた。

 

その例をひとつ挙げよう。1973年夏、マイアミへ向かった私は、救世軍のショップから1枚5セントでシングル4,000枚を購入した。そのマイアミ滞在中にラジオでCarstairsの楽曲を聴いた。彼らはOkehからリリースされていた「He Who Picks A Rose」をヒットさせていたが、この時に聴いた新曲「It Really Hurts Me Girl」に私は心底驚いた。実にノーザン・ソウルらしいハスキーヴォイスでフィーリングも詰まっている一方、モダンなフィリーサウンドまでとはいかないが、ストンピングなビートの代わりに、シーンからは多少嫌われる可能性がある、危険なシャッフルビートが使われていた。

 

 

 

 

私はこのレコードが気に入ったので、手に入れようとした。しかし、どのレコードショップにも置いていないし、誰も聴いたことがないようだった。次にラジオ局に出向くと、レコードレーベルからデモ盤として送られてきたものだと言われた。Chessがディストリビュートを担当していたGene Redd Jr.のレーベルRed Coach Recordsからだとね。それで、Red Coach Recordsに直接電話をかけると、今度はディストリビューターを失ったのでお蔵入りになってしまったと言われた。私はラジオ局へ戻り、何でも言うことを聞くからデモ盤を譲ってくれと頼んだ。しかし、彼らも気に入っているという理由から断られた。最悪だと思ったよ。

 

英国へ戻ると、スコットランドからイングランド・ノーフォークへやってきたJohn Anderson(※1)というディーラーを見つけた。それで私は彼に「It Really Hurts Me Girl」が欲しいと伝えた。彼は丁度米国のラジオ局から10万枚のデモシングルを取り寄せたばかりだった。それで、Andy Hanley、Bernie Golding、私の3人でその山を漁ると、3枚見つけることができた。

 

私がこの楽曲を知ったのは、リリースされるはずだった1973年だったが、手に入れたのは1974年に入ってからだった。手に入れたあと、Blackpool Meccaでプレイすると、この楽曲はシーン全体を変えることになった。Carstairsのシャッフルの効いたヒプノティックなリズムは、1960年代のストンピングなリズムとは真逆だった。Marvin Holmes「You Better Keep Her」、Bobby Franklin「The Ladies Choice」、Don Thomas「Come On Train」、Jay Armstead「I’ve Got The Vibes」などと共に、Blackpool Meccaは突如としてノーザン・ソウルの新世代サウンドのホームになった。

 

 

 

 

しばらくは素晴らしい時間が続いた。このサウンドはWigan Casinoのファンからは嫌われていて、彼らは依然として1960年代の “ストンパー” をプレイしていたが、Carstairsのような楽曲がプレイされると、ストンパーをプレイするよりもフリアが盛り上がった。しかし、その後すぐにブートレグが生産されるようになり、私たちの独占性が失われてしまうようになった。Eddie Foster「I Never Knew」、The Glories「I Worship You Baby」、The Sweet Things「I’m in a World of Trouble」のような、私たちが掘り出したありとあらゆるレア盤がクラブでブレイクしてから4~5週間後にブートレグとしてリリースされるようになった。

 

Blackpool MeccaのDJたちは、「レコードがブートレグとしてリリースされたら、そのレコードを二度とプレイしない」というルールを設けていた。毎週3~4枚のブートレグがリリースされていたので、毎週その数のレコードがプレイリストから外れていた。だから、その穴を埋めるレコードが必要だった。これがきっかけとなって、シーンのサウンドクオリティが下がっていった。この流れを作り出した罪に問われるべきひとり、または見方によってはシーンの貢献者のひとりと言えるのが、Simon Soussanだ。彼がFrank Wilson「Do I Love You?」でやったことは、シーンにとても大きな影響を与えた。

 

※1:Andersonはスコットランド・アバディーンの公衆電話からノーザン・ソウルのレコードを売り始め、その後ノーフォークのキングス・リンでディストリビューターSoul Bowlを立ち上げた。

 

 

 

 

Kev Roberts

Simon Soussanはモロッコ系フランス人で、1960年代に英国に渡ってきた人物だ。SoussanはThe Twisted Wheelを訪れたあと、ノーザン・ソウルにハマったんだ。奴はBurton(※2)で仕立てを担当していたんだが、Burtonの本社はリーズにあったんだ。Soussanは非常に頭が良かったが、今ひとつ信用できない男だった。米国でレアシングルを買い集めてリストを作って英国で売るという商売を始めた最初のひとりだったが、Soussanからちゃんとレコードを受け取った人もいれば、受け取らなかった人もいた、だから「信用できない」という噂されるようになったのさ。だが、素晴らしいレコードを持っていた。The Torchでブレイクしたレコードの多くは彼が持っていたレコードだった。

 

Soussanは誰もが求めているレコードの再発を狙っていた。だから、英国最大のノーザン・ソウル・レコードショップだったSelectadiscと組むことにしたんだ。人気の高いレコードを自分たちで再発するというのは、Selectadiscにとってはビジネス拡張にパーフェクトなアイディアだった。当時、Motown はMotown Yesteryearsを再開させるためにTom dePierroをバックカタログの管理役として雇っていた。また彼らはオフィスをデトロイトからロサンゼルスへ移していた(※3)。それで、ロサンゼルスでSoussanに偶然出会ったdePierroが、Soussanにいくつかのレコードを貸したんだ。その中の1枚がFrank Wilson「Do I Love You?」だったのさ。

 

※2:英国のファッションブランド / リテイラー。今も続いている。

※3:失敗に終わった1970年代中頃のロサンゼルス時代は “Mowest” と呼ばれている。

 

 

Ian Levine

Frank Wilson本人から聞いた話では、Motownは「Do I Love You?」をプレスに回したが、当時、WilsonはBrenda Hollowayのプロデュース中だった。それでBerry Gordy(※4)から「こんなに忙しくなってまで、お前はアーティストになりたいのか?」と訊ねられたらしい。それで、Wilsonが「あんたの言う通りだよ。俺はアーティストにならなくても構わない」と返すと、Gordyがプレス済みの「Do I Love You?」を全て壊したそうだ。しかし、どういうわけか2枚残った。Soussanはその1枚をdePierroから借りたんだ。

 

※4:Motown設立者

 

 

Kev Roberts

Simon Soussanは「Do I Love You?」を聴いたあとに色々と調べ回って、誰もこのレコードをまだ見たことも聴いたこともないことを知ったんだ。それで、このレコードをカバーアップして、アセテートを数枚作り、英国に送った(※5)。その時のカバーアップタイトルが、Eddie Foster「Do I Love You?」だった。Eddie Fosterはすでにノーザン・ソウルヒットを生み出していたアーティストだったが、Simon Soussanは、これが彼のレコードだと思い込ませようとした。そして、Soussanの思惑通り、このレコードはあっという間にクラブヒットとなった。それで、何千枚とプレスすると、山火事のように一瞬で売れたんだ。そのあと、Soussanは自分のレコードコレクションを売り出すことにした。その時に、Shakatakを見出したLes McCutcheonという人物がオリジナルのFrank Wilson「Do I Love You?」を500ポンドで手に入れたんだ。当時の500ポンドは大金だった。

 

※5:Wigan CasinoのレジデントDJだったRuss Winstanleyはこの盤を受け取ったひとりとして知られている。このトラックを英国で初めてプレイしたのがWinstanleyだった。

 

Ian Levine

そのあと、dePierroからレコードを返すように言われるたびに、SoussanはMcCutcheonに売りさばいたことには一切触れずに「OK、明日持って行くよ」と嘘をついた。やがて、dePierroはエイズを煩い、Soussanからレコードを受け取ることなくこの世を去った。その後、オリジナル盤はMcCutcheonの手を離れ、Jonathan Woodliffeが所有することになった。

 

 

 

“あの頃はギグに出掛けると「Do I Love You?」をレコードバッグから出してくれと良く言われた。写真を撮りたいからってね”

Jonathan Woodliffe

 

 

 

Jonathan Woodliffe

ある日、McCutcheonを捕まえて「あのレコードが本気で欲しいんだ。売ってくれないか?」と頼んだ。そのあと、オフィスで膝をつき合わせて話し合い、500ポンドならという話になった。自分で自分を「どうかしてるぜ!」と思ったが、周りに訊ねてみると、誰もが世界にその1枚しか存在しないと言ってきたので、買い取ることにした。1978年から1979年の半年をかけて分割で払ったよ。あの頃はギグに出掛けると、レコードバッグから出してくれと良く言われた。写真を撮りたいからってね。当時、500ポンドはレコード1枚に支払われた金額としては最高額だった。2年ほど所有したよ。

 

 

Kev Roberts

そのあとで俺がWoodliffeから譲り受けた。350ポンド分のアルバムと12インチと引き換えにね。手に入れた瞬間を今でも鮮明に覚えているよ。1979年から1980年にかけてのシーンは下火だった。多くの人から「ああ、Frank Wilsonのレコードか。Tamla Motownからもリリースされているよな。あんた、このレコードに350ポンドも払ったのかい? どこにでもあるぜ!」なんて言われたよ。だから、大切に仕舞い込んで、このレコードについて色々考えないようにした。そのあと、1980年代に入ると、半年ごとに奇妙な電話がかかってくるようになった。「Frank Wilsonのあのレコードを持っているんですよね? 売る気はないですか? 700ポンド払いますよ」なんて言われるようになったのさ。1987年になる頃には、その金額は1,000ポンドに跳ね上がっていた。

 

結論を話すと、俺はこのレコードを1991年までキープしたあと、今はGoldmine(※6)で俺のパートナーを務めているTim Brownに5,000ポンドで売ったんだ。だが、ひとつ面白い話がある。当時のGoldmineで俺と組んでいた、Martin Cappellがデトロイトに住むRon Murphy(※7)という男からMotownのコレクションを買い取ったんだが、その中からオリジナルの2枚目が見つかったんだ。のちに、その2枚目は15,000ポンド(※8)でスコットランドに住むコレクターが買い取った。2枚共ちゃんと存在するんだ。1枚はTim Brown、Tim Brownのよりも状態が良いもう1枚はスコットランド人のコレクターが持っているのさ。

 

※6:Kev Robertsを中心にして立ち上げられたノーザン・ソウルのコレクティブ / レーベル。複数のビジネスを展開しており、現在はイベントからマーチャンダイジングまでを行うGoldsoulを母体にしている。

※7:レコーディング / カッティングエンジニア。Motownからデトロイトテクノまでデトロイトのサウンドを支え続けた。

※8:1991年のレートで約360万円

 

 

 

 

Ian Dewhirst

ブートレグが、ノーザン・ソウルのサウンドクオリティに影響を与えるようになった。また、Levineの個人的な趣味趣向もシーンに影響を与えるようになっていった。Levineは両親(※9)と一緒にマイアミへ頻繁に通っていたから、フロリダ州のありとあらゆる倉庫へ向かってレコードを掘り出していた。それで、Snoop Dee「Shake and Bump」やPaul Humphrey「Cochise」のような酷いレコードを持ち帰るようになったんだ。当時は誰もこういうレコードが新譜だということを知らなかったから大ヒットした。シーンにモダンな感じが加わるようになったんだ。

 

そのあと、Levineはマイアミ通いを止めて、ニューヨークシティのアンダーグラウンドなゲイディスコに通い始めた。それで、北部に当時新しかったディスコを持ち込むようになったのさ。別にシーンが分断されたわけじゃなかったが、Blackpool Meccaは、Levineがどんどん新しい音楽を持ち込み、Colin Curtisが昔ながらのストンパーをプレイするクラブになった。1970年代中頃は初期ディスコサウンド(Southshore Commission「Freeman」やGeorge Benson「Supership」など)がノーザン・ソウルと併存していたんだ。

 

※9:Levineの両親はブラックプールでLemon Treeという名前のカジノを経営しており、マイアミに家を所有していた)。

 

 

 

  

Ian Levine

私がニューヨークのディスコに通い始めたのは1974年、1975年頃だった。素晴らしいミックススキルでディスコミックスを次々と生み出していたTom Moultonがスーパースターとして扱われていた頃だ。それで私も、ニューヨークディスコサウンドのパーフェクトなレコードを生み出すことを目標に定め、1976年にその目標を達成した。Barbara Pennington「24 Hours A Day」でね。私はミキシングについて学ぶためにMoultonの元を訪れ、自分たちの音楽を比較することにした。それで、私がノーザン・ソウルのヒットをプレイすると、彼はAlfie Davidson「Who Is Gonna Love Me」のようなまだリリースされていなかったフレッシュなディスコサウンドが詰め込まれたテープをプレイしてくれた。

 

ノーザン・ソウルは非常にヘテロセクシャルなシーンで、ニューヨークディスコは非常にゲイなシーンだったが、音楽的な共通点は多かった。どちらも平均的なプロデューサーでは生み出せないスペシャルなサウンドを求めていた。そして、ストリングスと女性ヴォーカルをふんだんに盛り込んだソウルフルな音楽に合わせて踊り明かしたいと思っていた人たちのためのサウンドを作り出そうとしていた。また、ソウルフルと言っても、Otis Reddingのヘヴィなメンフィスサウンドを参考にすることはなかった。常にアップビートでアップタウンなサウンドを求めていた。フィリーサウンドは昔からフィリーサウンドだった。流れるようなオーケストレーションを備えていた。

 

 

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