一月 24

ノーザン・ソウルの実態:Part 1/3

イングランド北部で生まれたカルトユースカルチャーの実態を関係者たちの言葉から探っていく。

By Lauren Martin

 

1960年代後半のヒッピームーブメントの萌芽と1970年代の英国工業地帯の崩壊に挟まれるような形で、フラワーパワーには粗野すぎるが、それでも日々の苦しみからは逃れたい気持ちを持っていた “北部” の若者たちの間にロンドン・モッズシーンのアンダーグラウンド・クラブカルチャーが浸透していった。

 

チャートミュージックや大衆紙を無視していた、ラディカルな(そして時としてエリート主義だった)ユースサブカルチャー、ノーザン・ソウルは、労働階級のホワイトキッズたちが国内を何百マイルも移動してスペシャルなクラブナイトへ通い、今は英国の文化意識にしっかりと刷り込まれており、初期レイブシーンの先駆けとして評価されているサウンドに合わせて手を叩いたり、足を踏みならしたり、ハイキックを繰り出したりする現象を生み出した。

 

ノーザン・ソウルはほぼ全てにおいて “ニッチ” だったが、このユースカルチャーは “変化” でもあった。

 

親の世代が土曜の夜に “ターン” を繰り返していたダンスホールやベースメントを乗っ取ったアンフェタミン漬けの空間に多くの若者が集まった。ペアダンスの代わりにシンクロしたダンスをするグループが登場し、スーパーフィット&スーパーハイの着飾った男性陣がシャープなドレスを着込んだ女性陣にブルース・リーと『ソウルトレイン』を組み合わせたようなダンスムーブを披露し、女性陣と同じくらいシャープなタイム感を持つ、初期Tamla Motownに代表される無名の米国産ブラックミュージックが英国各地のインナーシティや海岸沿いの街の桟橋で鳴り響いた。

 

ドラッグ摂取は風土病のように当たり前で、ファッションはウインク&中指のポスト・モッズだったが、ノーザン・ソウルを牽引し続けたのはその音楽だった。

 

この音楽を構成している要素は少ないが、そのどれもが不可欠だった。米国で不発に終わったソウルフルなR&Bの7インチシングルが英国ではヒットトラックとなった。それらには、豊かなオーケストレーション、アップリフティングなコード進行、ロッキンな4/4の全ての拍で力強く鳴るスネアと、勝ち取り、失い、再び勝ち取った愛への思いが備わっていた。

 

無名のレコードをブレイクさせてライバルを出し抜こうとするDJたちの競争は、彼らのキャリアを作り上げたあと、シーンの崩壊を促すことになったが、“ブラックアメリカ” のソウルが “何かを探していた” 英国の若者たちの心に響いたという事実はその後も語り継がれていった。"抵抗" − 若者たちが生み出した他の重要なムーブメントと同じく、これがノーザン・ソウルの血だった。

 

今回はこの偉大なるユースカルチャーのレガシーとUKクラブカルチャーへの貢献を讃えるべく、Frank BroughtonとBill BrewsterのDJHistory.comからシーンの重要人物及びDJの談話を抜粋・再構成し、その実態を明らかにしていく。全3回。

 

《登場人物》 

 

Ian Levine:Blackpool MeccaレジデントDJ。Hi-NRGの生みの親としても知られる。

 

Kev Roberts:Wigan CasinoレジデントDJ。現在もノーザン・ソウル系イベントを開催している。

 

”Farmer” Carl Dene:CatacombsレジデントDJ。ハードディガーとして人気を誇った。

 

Ian Dewhirst:ノーザン・ソウルDJ / プロモーター

 

Keb Darge:世界的人気を誇るレコードコレクター / DJ。

 

  

 

 

Ian Levine

私は1953年にブラックプールで生まれた。13歳からMotownのレコードを買い集めるようになると、14歳でMotownがリリースしている全てのレコードを集めることにした。UK初のレアレコードディーラーと自称しているGary Wildeという男が、ブラックプールの中心地でタバコ屋を営んでいた。ビクトリア・ストリートでタバコとレアレコードを売っていて、モッズたちがそこに集まっていた。

 

1967~1968年頃の話だ。Motownのレコードを全部集めると言っても、その中の一部は手に入れるのがとても大変だった。だから、Wildeのような連中がそういうニーズにつけ込んで、1枚4~5ポンド(※1)で売っていたんだ。私は、15歳になる頃には、家族旅行で訪れた米国のレコードショップで激レアのデトロイト産レコードを手に入れていた。

 

※1:1960年代は1ポンド=1008円の固定相場制。消費者物価指数は約5分の1だったため、5ポンドは2018年現在では2万円程度の価値。

 

“Farmer” Carl Dene

1964年~1965年頃は、UKにUS産ブラックソウルを輸入している奴なんてほとんどいなかった。俺の記憶では、輸入されるようになったのは1966年頃だ。Dave Godin(“ノーザン・ソウル” という単語を生み出したジャーナリスト)がマンチェスターのショップとロンドンのショップに入れ始めたんだ。俺はバーミンガムのレコードショップDiskeryに通っていた。ほとんどのDJがあそこに通っていたよ。なぜなら、他のレコードショップでThe Impressionsについて訊ねても「お前何言ってんだ?」って顔をされたからさ。

 

Kev Roberts

1960年代中頃から終わりにかけての北部には、ブラックミュージックに合わせて踊れるクラブなんてなかった。モッズが台頭していた当時のロンドンのダンスシーンは、北部にとっては遠い出来事だった。ロンドンの連中がワトフォードから北に行くなんてことはありえなかったし、ウィガンやリー、ウォリントンのようなマンチェスター周辺の連中がJames Brownで踊るために出掛けることはなかった。都会的過ぎたんだ。北部の工場で働いている連中のエンターテインメントはパブが中心だった。

 

Keb Darge

姉貴がモッズだったから、彼女がかけるMotownのレコードが好きだった。そのあと、姉貴はヒッピームーブメントにのめり込んだんだが、俺はのめり込まなかった。当時の俺はまだ12~13歳だったし、ベトナムについて泣き言を言っているフォークソングなんて聴きたくなかった。

 

最近は現実逃避の方法がひと通り揃っているが、俺たちの時代は、「ミュージシャンになる」、「アーティストを目指す」なんて言っても、「駄目だ。工場で働くんだ。ずっと働くんだぞ。20年ほど働けば、管理職用のトイレの鍵がもらえるかもしれないからな」なんて言われたのさ。これが俺たちに用意されていた未来だった。

 

そんな未来しかないなら人生は終わりだし、現実逃避するしかない。その選択肢と言えば、都市部のディスコに行くか、あとはニワトリの頭を食いちぎって小便をもらす − ヘルズ・エンジェルスかヒッピーになる − くらいだった。だが、どれもクラブとは関係がなかった。当時の姉貴の現実逃避はヘロインで、俺の現実逃避はダンスフロアでプレイされるトラックを徹底的に調べることだった。ノーザン・ソウルは自分が興味を持たない限り存在しない世界だった。

 

 

 

“労働者クラブに24時までいるだけじゃ満足できなくなっていった”

Ian Dewhirst

 

 

 

Ian Dewhirst

まぁ、俺たちは陰鬱とした未来を相手にしていたのさ。鉄鋼業か炭鉱業以外に実入りが良い仕事はなかった。だから、月曜から金曜までひたすら同じ作業を繰り返す退屈なハードワークに従事している奴が沢山いたのさ。で、週末になるとストレスを発散したがった。だが、労働者クラブ(※2)に24時までいるだけじゃ満足できなくなっていったんだ。

 

俺がその解決策のヒントを初めて得たのは、1970年か1971年だった。16歳の時に数人のモッズと出会ったんだ。その頃の俺は1,000~1,500枚のソウルレコードを聴き込んでいて、クレックヒートンのパブで開催されていたMotownナイトに顔を出していた。そこにブレザーを着込んでいるモッズが数人いたのさ。

 

そのブレザーにはマークが付いていた。The Torch(※3)のね。俺が「それは何だい?」と訊ねると、「ソウルクラブさ。毎週土曜にオールナイターが開催されているんだ」と言われた。それで「俺もソウルが好きなんだ」と続けると、「お前が知ってるソウルじゃない。ノーザン・ソウルさ」と言われたんだ。

 

当時のノーザン・ソウルは “ムーブメント” よりもアンダーグラウンドなものだった。The Torchに向かった時は、秘密の世界に入り込んだような気がしたね。そこにいた、ノーザン・ソウルに乗り換えたモッズたちは、自分たちはビールをがぶ飲みしている普通の工員より優れているんだという雰囲気を作り上げていた。このシーンに関わるのはある種のステータスだったのさ。意図的なエリート主義が明らかに存在していた。集まっている連中は全員が最先端のファッションをフォローしていてモヘアスーツなんかを着込んでいたし、女性も他の女性より美しく見えた。着飾っていて、セクシーで、他の女性たちの先を行っていた。

 

※2:北部の工業地帯を中心に作られた労働階級用社交クラブ。飲食やレクリエーションが提供される。ライフスタイルの変化に伴い、近年は減少傾向にある。

※3:正式名称はGolden Torch。ストーク・オン・トレント郊外タンストールに存在した伝説のソウルクラブ。

 

Kev Roberts

Golden Torchのノーザン・ソウルは1年(1972年)だけだった。あそこはUS産の音楽が聴ける唯一のR&B / ビートクラブだった(※4)。レジデントDJは、Alan Day、Colin Curtis、Keith Minshull、Tony Jebb、Martin Ellisだった。凄いと思ったよ。なぜなら、USのブラックソウルの7インチをひたすら聴きながら踊れた初めての場所だったからさ。

 

外から見たThe Torchは、テラスハウス(※5)のストリート沿いに建っているソーシャルクラブのようだった。タンストールのホヴ・ストリート沿いだ。タンストールは世界の果てのような場所だった。鉄道駅はひとつもなかった。だから、ストーク・オン・トレントとクルーを結ぶ路線のロングポート駅で下車して、そこから1マイルほど歩いて丘を越えなければならなかった。The TorchでDJをするためには上階に行く必要があった。上階はステージになっていて、ダンスフロアと古びたDJブースが用意されていた。満員時は1,000~1,200人が集まっていた。

 

The Torchでプレイされる音楽はソングライティングが非常に重視されていた。質量が感じられる楽曲が求められていて、全てがハイスピード&ハイエナジーだった。奇妙なUSレーベルからリリースされていた素晴らしい女性ヴォーカルグループの楽曲やOkehからリリースされていた謎の7インチがプレイされていた。OkehはMajor Lanceのレコードしか見たことがなかったが、The TorchではSandi Sheldon「You’re Gonna Make Me Love You」のような楽曲が聴けたのさ。

 

※4:1960年代はThe Graham Bond OrganizationやTheBeatstalkersなどが演奏していたライブヴェニューとして有名だった。

※5:連棟住宅。主に労働者階級が暮らす。

 

 

 

 

Kev Roberts

ノーザン・ソウルシーンは非常に小さなシーンだったから、始まった頃はこの手の音楽をプレイしていた小さなクラブ同士は近しい関係にあった。シーンに大きく貢献したのは、The Twisted Wheel(マンチェスター / 1963年~1971年)だった。あそこはBobby Blandのようなシンガーのブラックミュージックのレコードを積極的にプレイしていたからね。だが、神のように崇められていたのは、ウルヴァーハンプトンの小さなクラブCatacombs(1967年~1974年)でプレイしていたDJ、“Farmer” Carl Deneだった。The Twisted Wheelでプレイされていたレコードを初めて見つけたのが奴だったのさ。

 

Deneは、Mirwood RecordsからリリースされていたRichard Temple「That Beating Rhythm」を掘り出した。誰もこのレコードが本当に存在するなんて信じていなかった。Catacombsだけでしか聴けないものだと思っていたんだ。Deneはレコードを掘り出す能力を持っていたが、ヒットさせることはできなかった。なぜなら、Catacombsは24時に閉店していたからだ。一方、The Twisted Wheelはもっと遅くまで営業していた。だから、Catacombsより影響力が大きかったし、このようなレア盤をヒットさせることができた。DJはレア盤をヒットさせる能力が不可欠だ。

 

 

 

 

Ian Dewhirst

Marc Almondが、俺がレジデントだったリーズのクラブ、Warehouseのクローク担当だった。Warehouseは、Q Tipsを火曜と水曜の晩に演奏してもらうように手配していた。俺は「いいじゃないか。俺もソウルをプレイしよう」と思い、分かりやすいノーザン・ソウルのレコードを持ち込むことにした。客入れの時間帯にプレイするためにね。それで、ある晩、「Tainted Love」をプレイすると、9ヶ月間、俺が一方的に避けていたMarc Almondが近寄ってきたんだ。いつも揉め事に巻き込まれている奴だから関わりたくなかったんだ。

 

Marcは「この曲は何て言うんだい? 曲名を教えてくれよ!」と言ってきた。それで、Gloria Jones「Tainted Love」だと教えると、奴は「テープが欲しいな!」と言ってきた。これがきっかけで、Marcは俺の家に来るようになったんだ。Gloria Jonesはもちろん、色々なノーザン・ソウルを聴かせてやったよ(※6)。

 

※6:Marc AlmondはSoft Cell名義で「Tainted Love」をカバーして1981年最大のヒットのひとつを生み出し、スターの仲間入りを果たした。

 

 

 

 

Kev Roberts

レアなソウルレコードは宝物のように扱われた。奇妙なカバーアップ(※7)もやるようになった。DJたちは自分が掘り出したレコードを知られたくなかったんだ。Freddy Jones「My Heart’s Wide Open」が半年プレイされていたと思ったら、実はそれがAtcoからリリースされていたThe Coasters「Crazy Baby」だったっていう話なんかは確かに面白かったが、俺はカバーアップのファンではなかったね。自分でカバーアップをした記憶はないが、周りは真剣に取り組んでいたな。

 

※7:オリジナルのレコードを分からないようにすること。

 

Ian Levine

最初にカバーアップされたレコードは、Rob BellarsがThe Twisted WheelでプレイしていたBobby Paterson「What a Wonderful Night for Love」だった。これはJetstarがリリースしたUK産レコードだった。実は新譜だったんだ。Robはこのレコードが “オールディーズ” じゃないことを知られたくなかった。当時のシーンは古いレコードがプレイされるべきだったからね。だから、Benny Harper「What a Wonderful Night」としてカバーアップされた。1970年の話だ。私が初めてThe Twisted Wheelに行った年で、私は17歳だった。

 

 

 

 

Kev Roberts

DJたちはほとんど誰も知らないようなシングルを掘り当てる必要があったが、歌いながらダンスやバックフリップをしたくなるような楽曲じゃないと意味がなかった。The Sweet Things「I'm In A World Of Trouble」、The Glories「I Worship You Baby」、JJ Barnes「Our Love Is In The Pocket」などには、Motown的な素晴らしいコーラスが備わっている。なんで当時の米国でヘヴィプレイされなかったのか今でも不思議だね。俺たちはプレイしまくった。英国のオールナイターでは、毎週50~60枚の “新発掘” レコードがプレイされていた。

 

Ian Levine

私たちの「新しい」は、非常に1960年代的な意味で使われていた。「モダン」よりも「発掘」という意味が強かった。1970年代前半の米国は、James BrownやLyn Collinsのような初期ファンクが一世を風靡していた。Motownのようなビートは時代遅れになっていた。だから、私たちは新しいレコードの代わりに4~5年前のレコードを探す必要があった。これが独特のレア盤への拘りになっていった。

 

そのあと、The Twisted Wheelが閉店し、警察が小規模なクラブのオールナイターを取り締まると(ドラッグが使用されていることが伝わっていたことが大きな原因)、シーンはさらに小さくなった。全てがBlackpool MeccaとWigan Casinoを中心に回るようになった。私たちの音楽をプレイするビッグヴェニューは国内にこの2つしかなかった。

 

Ian Dewhirst

週末に複数のクラブをはしごする生活に慣れたあとは、夜中の3時~4時半頃にBlackpool Meccaへ向かって3~4時間過ごしたあと、40~50分車を飛ばしてWigan Casinoへ向かうようになった。Wigan Casinoは、現地に着くと盛り上がっているのが肌で感じられるところが良かった。これから興奮のるつぼに飛び込むんだということが分かったんだ。あと、あそこはメンバーシップ登録が必要だったから、ある種のコミュニティ感もあった。

 

Wigan Casinoのエントランスはかなり古かった。だから、大入りの時はそこから蒸気が出ているのが見えた。もちろん、地下の小さなクラブならこういう光景は日常茶飯事だが、あんなに大きい建物から蒸気が出るのは珍しかった…。Wigan Casinoはありとあらゆる部分が衝撃的だった。超ハイテンポな楽曲がプレイされているし、凝縮されたエナジーに面食らう。そのあと、見事にシンクロしているハンドクラップが聴こえてくるんだ。雷鳴のような大きさで鳴り響いているのさ。

 

クリーソープス・ピアのような場所に午前4時頃向かうと、ドン! ドン! ドン! と足を踏みならす大きな音が聴こえてきた。みんな一緒にダンスしているのさ。現実とは思えなかったね。何せ、海に向かって突き出ている桟橋の上のボールルームから大勢が同時に足と手を鳴らしている音が1マイル先から聴こえるんだからな。

 

 

 

“車でクラブに向かっていた連中が、道中にあった薬局に押し入って、アッパーになれるあらゆる薬を奪っていたのは間違いないね"

Kev Roberts

 

 

 

Kev Roberts

Wigan Casino(Russ WinstanleyとRichard Searlingがメイン)とBlackpool Mecca(Ian LevineとColin Curtisがメイン)のどこが違ったかって言うと、Wigan Casinoの音楽のテンポは当時のオールナイター最速だったんだ。ノーザン・ソウルではスピードは非常に重要だった。なぜなら、そこに集まっている2,000人のキッズの95%がアンフェタミンでブッ飛んでいたからさ。

 

シーンの大物たちはウィガンに向かうあらゆるルートを確認して、その途中にある警備がゆるい薬局を調べ上げていたんだと思うね。当時は、全国から車に乗ってグループでウィガンへ向かっていたんだ。道中の薬局に押し入って、アッパーになれるあらゆる薬を奪っていたのは間違いないね。

 

ドラッグがダンサーたちの間に広まると、ドラッグがプレイされる楽曲のスピードをコントロールするようになった。夜中の12時頃にドラッグを摂取して、午前3時頃まで踊っていれば、超高速のトラックを求めるようになる。つまり、Wigan Casinoではペースやムードを変えることは不可能だったのさ。2曲連続でハズせば一気に盛り下がった。フロアの雰囲気が明らかに悪くなり、突如として勢いが止まってしまう。だから、Wigan Casinoでは冒険的な選曲でレコードをブレイクさせるのが難しかった。心地良くて甘いフィリー系をプレイするような環境じゃなかったのさ。

 

あとは、ブレイクしたレコードの多くがドラッグを連想させるタイトルだったのも当時の特徴だった。「Blowing My Mind to Pieces」、「Blowing My Mind」、「Cracking Up」、「Ten Miles High」なんかがブレイクしたんだ。The Invitations「Skiing in The Snow」も歌詞の一部「Gotta get my gear out, ready for winter’s near」が流行ったね。現場へ向かうと、全員がブッ飛んでいて、この部分が来ると、みんなで「Gotta get my gear out!」とシャウトしていた(※8)。俺はこの曲だけでイケる感じだったが、周りの連中は相手をつかまえて一緒にイキたがってたね…。

 

 

 

 

ついでに、当時がどの程度クレイジーになり得たかを説明しておくと、The Torchには、Frankieという名前のレジェンドダンサーがいた。奴が来れば、みんなが脇へ避けたし、本人も分かっていた。Frankieは強靱な肉体を持っていた。壁に向かって、壁を使ってバックフリップをするような奴だった。その並外れた運動神経を駆使して色々なムーブをやっていた。

 

Wigan Casino時代は、エアプレーンスピン(※9)をする奴が必ずいた。まさに目にも留まらぬスピードで回転していてね。それで死んだ奴を見たこともある。クリーソープス・ピアでエアプレーンスピンをしていた男が回転を止めると、目や鼻、口や耳から血が流れ出した。"ブッ壊れた" のさ。DJブースの目の前で起きたからかなり動揺したよ。

 

※8:歌詞に登場するgearはスキー用具の意味だが、gearは英国のスラングでヘロインを意味する。

※9:飛行機のようなポーズを取ったパートナーを抱えながら回転するダンス(肩に乗せるなど複数のバージョンが存在する)

 

 

Part 2へ続く