十月 30

OFF SITE: IMPROVISED MUSIC FROM JAPAN

「音響系」と呼ばれた静音系即興音楽の始まりと今

By Clive Bell

 

1990年代、東京は経済の急成長と地価の高騰によるバブル景気に沸いていた。このような変化は、第二次世界大戦後の貧困と7年間に及ぶ(統治権も認められず、国民が海外に出ることも許されなかった)アメリカ軍占領時代を生き抜いた世代を困惑させたに違いない。しかし、この時代においても、日本のアンダーグラウンド・ミュージックについての情報が国外に出ることはほとんどなかった。90年代の初頭は、日本のオルタナティブ・ミュージックが外国に輸出されることは少なく、外国では日本で何が起こっているのか全く分からない状態であった。

 

だが、大友良英とボアダムズのシンガー(山塚)アイがLondon Musicians' Collectiveフェスティバルに出演した1995年までには、日本で何かが生まれていることが海外のオーディエンスにもはっきりと伝わっていた。大友はターンテーブルと激しくシンプルな自作ギターで音の洪水を浴びせかけ、アイはまるで死の世界の番犬に追われているかのように、Purcell Roomステージをところ狭しと跳びまわった。5秒だけの曲もあれば僅かに長い曲もあったが、いずれもハチャメチャなエンターテイメント性とギリギリのパッションに目新しさを覚える観客の大歓声を浴びた。

 

山塚アイが1986年に結成し、2年後にドラマーYoshimiを迎えたBoredomsについての評判は、既に大阪から広まっていた。過激なパフォーマンスにも関わらず、BoredomsはWarner Brothersと契約を結んで北米とUKツアーを敢行、その行程にはSonic Youthとの共演も含まれていた。一方の大友は、東京の北300キロに位置する福島 —2011年3月の原子力発電所事故で広く知られることとなった都市— からやって来た若者であった。彼が10代のときにお金を払って見た初めてのライブは、地元福島のジャズ喫茶での、伝説のフリー・パンク即興プレイヤー阿部薫のサックスとフィードバック・ギターのステージだった。この日のフィードバックが、その後大友を音楽の道へと歩ませた。

 

 

さらに掘り下げてみると、日本のインプロヴィゼーションとノイズ・シーンには既に長い歴史があったことが明らかになる。80年代の高柳(昌行)と灰野敬二(共にギタリスト)によるノイズ・パフォーマンスは、90年代のシーンのマエストロMerzbow(秋田昌美)や、Jojo広重によるトラッシング・ギターバンド、非常階段へと受け継がれていた。大友はといえば、この飛躍の90年代に自身が結成したダブル・ドラム、ダブル・ギターとダブル・サンプラー(これを最後に担当したのはSachiko Mだった)という激震コンボのバンド、Ground Zeroで活動した。このGround Zeroを通じて、彼は絶妙なタイミングとドラマチックな演奏のセンスで即興プレイヤーとしての腕を磨き、注目を浴びるようになっていた。

 

Ground Zeroは、インプロとノイズやロックを含む他の日本のスタイルとの融合を目指していた。サンプラーという斬新なテクノロジーの開拓を試みつつも情報過多なそのサウンドには、通常は折り合わないとされるジャンル ー日本の琴や韓国のオーボエといった伝統音楽を含むー を敢えて一緒くたに突っ込んでいた。Ground Zeroはカネとノイズ、そして情報が溢れる当時の東京に対する強烈なレスポンスであった。

 

そしてその後、劇的な変化が訪れることになる。Ground Zeroの壮大な唸りが息絶え、メンバーは次のステップを模索していたところだった。大友は「Ground Zeroの後は何もできなくなった」と述べ、「3ヶ月間ただ漫画を読んで過ごし、やっと音楽を聞くところから始めようとした。」サンプラーのエキスパートとして在籍したもう1人のメンバーは、新しいスタートを求めてSachiko Mとして活動を始め、求められたどんな音でも奏でるという一見無節操な性能の奥に何が秘められているのか、自身の楽器とじっくり向かい合った。

 

新たな世代によるアプローチが生まれようとしていたが、その声は不思議と抑圧されたものだった。フリー・インプロヴィゼーションの世界の新しい解釈… それは肉体的なエネルギーや即効性のあるレスポンスよりも、リスニングとサイレンス、そして忍耐力を前面に押し出していた。

 

このシーンはOff-Siteという名前の、新宿にある小さな古い一軒家で育まれた。東京は代々木駅の隣に、日本の携帯電話市場に革命を起こしたNTTドコモの60階建の高層ビルがある。エンパイア・ステートビルとビッグベンを荒々しくミックスしたような、尖峰を備えたタワーには、きらびやかな緑のライトと白くライトアップされた巨大な時計が埋め込まれている。そこから50メートルと離れていないクラブOff Siteからそれを見上げながら、ミュージシャンの中村としまるは2003年、私に「これはタチの悪い科学者による世界征服の陰謀ですよ」言った。

 

Off Siteは伊東篤宏と妻ゆかりが賃貸一軒家を改造し、1階に最大でも50人が座れるほどの質素なギャラリーとパフォーマンス・エリアを、2階に心地よいカフェ兼レコード・本屋を構えたスペースであった。ドコモのビルよりもずっと近く、薄い漆喰の壁のすぐ向こうにはお隣さんが住んでいるという環境だった。中村は、「通常、賃貸物件には手を加えたれませんが、ここはとても古くて処分前だったようで、恐らく大家さんも取り壊しを予定していたんでしょう。だから以東さんは好きなように出来た。一度、近所の人が役所の騒音検査官と一緒に現れたことがありました。問題にならないように、演奏は静かにしなければいけなかったんです」と教えてくれた。

 

こうしたわけで、Off Siteに集うミュージシャンは静かな演奏スタイルを確立せざるを得なかった。いずれにせよ、彼らはこのような方向性に進み始めていた。初期のOff Siteを牽引していたのは、中村としまる(”ノーインプット・ミキシング・ボード”、野球帽)、秋山徹次(ギター、つば広帽)、杉本拓(ギター、ポークパイ・ハット)の3名で、彼らはマカロニ・ウェスタンの世界から飛び出した難民トリオのような出で立ちだった。それ以前は、隣接する高速道路からの騒音がサウンドスケープに味わいを与える、バー青山という店でコンサート・シリーズを行っていた3人は、自らの音楽がピアニッシモ(極めて弱く演奏する)に向かって洗練されていくと共に、Off Siteのような環境こそが自分たちに相応しいことに気づく。

 

2000年から2003年にかけて、このトリオはOff Siteギャラリーにて「Meeting」というイベント・シリーズを開催した。「それまで拓と僕はかなり奇妙なブルースを演奏したり、(Olivier-Eugène-Prosper-Charles) Messiaenに影響を受けた静かなデュオをやっていたんです。その頃にはみんなジャパニーズ・ノイズやサイケデリアに飽きていて、これ以上はいらないと感じていた。」そこにOff Siteが出来たのだった。「小さい音での演奏の機会が与えられたのも、偶然みたいなものでした。多くの即興プレイヤーは大音量で、たくさんのエフェクトがないと演奏できない。もし彼らの機材が盗まれて、さあアコースティック・ギターでどうぞと言われても、何もできないでしょう。僕たちは、音と音の隙間のスペースに興味があった。お互いの演奏に反応して弾くというよりは、音楽を解放していくような感覚です。」

 

中村はこじんまりとしたスペースでも大型フェステバルのステージでも同じように演奏をこなせる人で、そのどちらにも自由があるという。「その空間を鳴らすんですよ。顕微鏡を覗けばミクロの世界が見えるのと同じで、そこにまた宇宙がある。スケールが違うだけです。だから小さな音で演奏しても、そこには同じだけ自由があります。完全な、無限の自由なんていうのはただの幻想。どれだけ大きな音で演奏したとしても、例えばその部屋の大きさだったりPAシステムの容量だったりという限界がある。だから、僕は小さい部屋で演奏することに制限は感じません。(大きな会場と)同じように、充分なスペースがあると感じます。」

 

中村の「ノーインプット・ミキシング・ボード」は、フィードバックを捉えて造形する装置である。まるで電光で絵を描くように、捉えにくい音波を生成していくこの機械は、音量に左右されない驚くほど豊かな音源である。私がロンドンで、初めて中村を見た時のことは忘れられない思い出だ。演奏を始める直前に、彼のモニターが出火したのである。煙が収まり、スピーカーが交換されるまで公演は保留された。2002年にOff Siteで中村と話したのは、彼が『Vehicle』という素晴らしいレコードをリリースしたばかりの頃だった。彼が高熱に苦しんでいるときに録音されたそうだが、徐々に変化する低音のループがまるでヘリウムを吸ったカバのようにダンスフロアを跳ね回る。フリー・インプロとリフの威力が一体となっている珍しい成功例だ。

 

 

中村の相棒である秋山徹次は、仲間内では「キャップ」として知られ、日本版Clint Eastwoodのような非情で物憂げな物腰の人物である。実験音楽家としての秋山の守備範囲は非常に広い。彼のコラボレーターとしてのスキルの高さ、特にデュオ形態での腕前は数多くのアルバムで証明されている。2002年、秋山はリゾネーター・ギターを弓弾きするのに、実家で見つけたという日本刀を使い始めた。「遠い祖先がサムライだったのは本当です」と、秋山は私に語った。「でもこれはもっと新しいやつで、うちの祖父が居合道の稽古や、詩の朗読と一緒に剣劇をやっていた時に使っていた刀です。50年から100年くらい、まだわりと新しい方ですね。リゾネーター・ギターにはピックアップがないので、ギターじゃなくて刀にピックアップの役目をやらせようというアイデアです。」

 

 

この凄腕トリオを構成する第3のメンバーは、1998年のソロ・アルバム『Opposite』で既に世界的な注目を集めていた杉本拓である。Derek Bailey以来最もオリジナルなギター・サウンドを奏でる人物の1人で、まるで背後から忍び足で近づいてベースボール・バットの代わりに羽毛で襲いかかるような、控えめな表現の達人である。杉本は初めの1年間、Off Siteでのイベント「Meeting」シリーズのオーガナイズを手伝っていた。そこでは、イギリスのサックス・プレイヤーSeymour RightやアメリカのベーシストJason Roebkといった、海外からのゲストと共にトリオがパフォーマンスすることもあった。地元東京からはヴォーカリストの吉田アミ、シンセ奏者ユタ川崎、Sachiko Mに大友良英なども加わった。CD化された2002年のコンサート・シリーズには、ジャケット前面にこんな中村の言葉が記載されている。「こそこそと続けてきたシリーズらしく、録音に残された音もこそこそというがぼそぼそと独り言のようにも聴こえるところがる。でもこれらのこそこそ、ぼそぼそは、ほとんどの独り言と同様、実は人々に聴かれたがっている、とも思う。」

 

イベントに力を注いでいた杉本だったが、突然姿を消してしまう。1年の間に、新たな正統派インプロとして現れたものに苛立ち、より簡素なスタイルへと逃れた。Wandelweiser(ヴァンデルヴァイザー)楽派に影響を受け、10分に1回いくつかの音が鳴れば良い方、という程のウルトラ・ミニマルな曲を作り始めた。2003年に私が話をしたのは、彼がちょうどOff Siteを去ったばかりの頃だった。友人や多くのミュージシャン仲間はまだ留まっていたが、杉本はもうやりがいを感じられず、シーンが「小さな音響派学会」になりつつあると思うようになっていた(サウンドという意味の"音響"は、日本における静音系インプロヴィゼーションに当てはめられる。国外のライターには好まれた言葉だが、ミュージシャンには好まれていない)。「Off Siteに浸りすぎました」と杉本は、私宛のメッセージに書いた。「もうあそこではやらないと決めました。」

 

「杉本はネコみたいなんですよ」と中村は言った。「興奮すると飛びつくんだけど、何かが気に入らないと挨拶もなしに去っていく。秋山と僕は同じことを長いことやり続けるタイプ。杉本は、『よし今やろう』と言って、止めて、また次のアイデアが浮かぶまで待って、また再開する。彼の、とても勇気があって明確な考えを持っている部分はとても尊敬していますけどね。」

 

杉本は、自ら定義しないと決めたことを頑に追求している。私は杉本に何をしようとしているのかを尋ねがら、自分が木づちを持って蝶を追いかけているイメージを浮かべていた。「ゴールなんてない。答えもない」と彼は強調した。では、音楽における静寂の重要性についてはどう考えていますか?「全然分かりません!多分、”無”が好きなんでしょう。無音が。でもそれは音楽としては存在し得ない。僕にとって最も重要なことは垂直なものを作ること。何かスピリチュアルな、タワーみたいなもの。この文化は全体的にとても水平なんですよ、表面しかない。そんなものは必要じゃないんです、娯楽でしかないから。芸術がテレビみたいになって、信じられるものがなくなった。必要なのは崇高なもの、本物の文化です。」

 

Off Siteでは他にも多くのミュージシャンが定期的に活動し、幾つかのライブ・シリーズも行われていた。東京のライブハウスで連続コンサートをやるなら、まずは名前をつけなくてはいけない。そしてシリーズものの本を出版する際の様に、毎回番号をつけていく。私は伊東篤宏のシリーズに一度行ったことがあるが、「Absolute Antenna Vol. 23」というタイトルがついていた。シンガーの吉田アミは、その短く鋭い厚みのある発声や、声門を使った口笛や小さな叫び声で、よく同会場でライブやレコーディングを行っていた。わずかなエレクトロニック・マニピュレーションを施した彼女の声は、ヤカンの笛か短波ラジオ、あるいは蛙に悪態をつく昆虫で溢れかえった熱帯雨林か喉を鳴らして唾液をぶくぶくやる赤ん坊だかのように聴こえた。

 

シーン全体に極めて重要となったのが、鈴木美幸という精力的な人物の存在だ。彼はウェブサイトとレーベル、本/雑誌類を立ち上げ、それらは全て「Improvised Music From Japan」という名前で統一された。2001年の12月、鈴木はサイトの5周年を祝って桐箱入りの10枚組CDをリリース、そのタイトルはもちろん『Improvised Music From Japan』で、即効ソールドアウトとなった。「あれで生計を立てることが出来るなんて、信じられないですよ」と言う秋山によれば、「彼はビジネス・センスがありますね。」

 

「もし僕にビジネス・センスがあったとしたら、あのCDをリリースすることはなかったでしょう」と鈴木自身は反論する。実に控えめで謙虚な鈴木は、自身の役割を過小評価し、私からの質問には全て「分かりません、僕はミュージシャンじゃないですから」と答えた。

 

 

少し視野を広げてみれば、確かにこの静音系インプロヴィゼーションは日本だけで起こった現象ではない。ロンドンにも、Mark Wastellのレコード屋Sound 323を中心とした、冗談半分に「New London Silence」と呼ばれたシーンがあった。加えて、このロンドンのシーンに1960年代から決定的な歴史的影響を与えてきたAMMのサウンドスケープがあった。ピアニストのJohn Tilbury、パーカッショニストのEddie Prevost、そしてテーブルトップ・ギタリストのKeith Roweらは静音とは程遠かったが、彼らのステージの冷淡なまでの根気強さは、フリー・インプロヴィゼーションにありがちな騒々しさから脱却しようとするミュージシャンにとって、新たな指標となった。

 

このような音楽は、数多くの小さなライブ会場でイベントが行われているベルリンで、最大の評価を得てきたと言えるかもしれない。ドイツ人はこれを「Echtzeitmusik (リアルタイム音楽)」と名付け、2011年にはその全ての記録が分厚い本『Echtzeitmusik Berlin: Self-Defining A Scene(=ベルリンのリアルタイム音楽:そのシーンの自己定義)』として出版された。中村としまるはこれに、自身が影響を受けたベルリン旅行の回想録を寄せている。「インプロヴィゼーションは楽しいからやるというものではない…だが、僕を即興音楽に注力させた何かがあり、それはこの世界への扉を開けた頃に起こった。そして僕がその扉を見つけた場所は、東京ではなくベルリンであったと思う。」

 

 

では東京のミニマル・インプロにはどんな背景があり、またそれはどのように、より広義の日本文化に取り込まれていったのか?一部の評論家は短絡的な結論に飛びついた。「穏やかで、静寂に満ちて、日本的…禅に違いない」と。「僕の音楽はただ生まれてくるんです」と、中村はこれに対し2003年の北米ツアー中のインタビューで異論を述べている。「実際のところ、禅については何も知りません。いや、それはないですね。100%正直に答えると、ノーです!リスナーは、他の何かと関連付けることによって、より深く音楽を理解したいのかもしれません。『オッケー、彼は日本人だから、そこには何か伝統との関係があるに違いない』と。もしかしたら空気中とか体の一部とかに影響はあるのかもしれませんが、僕はそんな意図はないし、何も知りません。」

 

伝統的な文化が、現代の日本人の生活にどれほど浸透しているかを計ることは難しい。能を見たことがないとか、尺八演奏を見たことがないとか、テレビ以外で歌舞伎を見たことがないのは普通である。日本の最も有名なクラシック音楽の作曲家である武満徹も、自国の伝統音楽に出会う前に西洋の作曲法を学んでおり、和楽器のための作曲をすることは実に稀だ。

 

多くの場合は勘違いされていたとしても、日本の伝統は西洋とは大きく異なったかたちで日本に根付いているのもまた事実である。茶道の儀式的な静穏、華道の美学、弓道の哲学、琵琶に9世紀の(雅楽器)笙の音…これらは、日本のアーティストが手を伸ばそうとすれば、いつでも手の届くところに、まるで着替えが詰まった衣装ケースのように存在しているのである。

 

 

Ground Zeroを1998年に解散してから、大友はSachiko Mと即興デュオ、Filamentとしての活動を開始した。そこではミニマル・エレクトロニクス、特にSachikoの有名な「空の」サンプラーのサイン波に焦点を当てていた。何も保存されていない状態のサンプラーのサイン波だけを使用し、レーザービームのような、突き刺さるようにクリアでハイ・ピッチな音を奏でた。「単純に、もっと深く音を聴きたかったんです」と彼女は言った。「彼らのようなミュージシャンたちは、物理的に楽器を演奏することではなく、音を聴くことにフォーカスしているんだと思います。時には楽器が障害になることもあります。ただ、音をもっと聴きたいんですよ。」

 

Sachikoが聴くことを重視することと、日本人の自然音への関心の高さとの関連は明らかである。虫、鳥、木の葉、寺の鐘 — これらの音にはメロディーもハーモニーもリズムもない。そこにあるのは音そのものである。哲学者の下迫真理はこう記している。「これは特徴的な嗜好を示している。日本人はまず単音の独特な音色を楽しみ、それから”間(ま)”、つまりその後に生まれる空間を楽しむのである。」日本固有の宗教である神道もまた、音楽的な伝統を持つ。神道の理論家である友清歓真は、音霊(おとだま)は人間の心を浄化する作用があるとする音霊法を説いた。「つまり”音”を聴いているだけ。静かに一定の音を聴いて気を鎮めるだけのことです。音を聴くと申しましても音楽のようなものを聴くのでなく、変動のない一定の音を聴くのです。瀧の音、小川のせせらぎ、雨の音、浪の音、なんでもよい。」

 

 

Off Siteは2005年に閉店した。2014年の春、「Multiple Tap」と名付けられた企画が、ロンドンのCafé Otoの週末を満員にした。日本のアンダーグラウンド・シーンのミュージシャンたちが、万華鏡のように様々なコンビネーションでパフォーマンスを繰り広げたのだ。中村としまる、秋山、笙の匠石川高が昔のように集い、型破りな三味線奏者田中悠美子、浅草ロック座のストリップ・アーティスト若林美保などが出演した。非常階段、複数のターンテーブルを操るデュオBusRatchに在籍した毛利桂、サウンド・アーティスト川口貴大、蛍光灯を奏でる伊東篤宏(Off Siteの創設者)、原始的な自作楽器制作者池田謙、Painjerkなどがノイズを担当した。そして最後に、(大友とSachiko Mと共にI.S.O.で活動していた)一楽儀光による、レーザーとビデオ・サンプリングのプロジェクト、ドラびでおが参加した。

 

こうしたアーティストたちの間には、新たな連帯が生まている 。10年前にはあまり知られていなかったミュージシャンの中には、ずっと有名になった者もいて、必ずしもみんなが静かな演奏を続けているわけではない。クラウド・ファンディングによって「Multiple Tap」の出演者を取りまとめたのは、新星の若きギタリスト康勝栄で、彼はこれらの音楽を取り巻く環境を、特に日本において変えていくという使命を負っている。「この手の音楽は、日本で全く理解されていないんです」と康は私に説明してくれた。「非常に大きな問題です。最近、同じメンバーを集めて日本で何度かイベントをやったんですが、こういう音楽を初めて聴いたという人たちがとても楽しんていました。もっと自由な感性でこういう音楽を楽しめるようにする必要があると思います。みんなが、『この音楽は特別だから』と言うんですが、それが良くない。他の音楽のファンも気軽に楽しめるような環境を作るべきです。」

 

その一方で、東京ではImprovised Music From Japanの鈴木美幸が、常に変化し、新しい世代によって再活性化されるインプロヴィゼーション・シーンをサポートし続けている。2012年からは水道橋で、鈴木はサブレーベルFtarriのパフォーマンス・スペース兼ショップを運営している。この記事に登場したミュージシャンの多くは、ここか西麻布のクラブSuperDeluxeで聴くことが出来る。

 

あの芭蕉の有名な俳句はどんなだっただろう?「古池や 蛙飛びこむ 水の音。」そう、音楽に重ねて言うならば、10年前にOff Siteで生まれたさざ波は、今も池に広がり続けているのだ。

 

 

Illustrations: Acci Baba

 

 

参考文献:

Improvised Music From Japan

Ftarri

Insect Sounds

Toshimaru Nakamura

David Novak on Off Site

Hearn, Lafcadio. Insect-Musicians, in Writings From Japan, Penguin Classics 1994.

Shimosako, Mari. Philosophy and Aesthetics: Essay in The Garland Encyclopedia Of World Music Vol 7, Routledge 2002. p.548-551.