五月 16

NWOBHMのDIY精神

ロックミュージックに大きな影響を与えたインディームーブメントはパンクだけではない。同時期に同じ国で活動していたインディーメタルバンドとレーベルの歴史を振り返る

By Tony Rettman

 

ロックミュージックにおけるインディペンデンス ― インディーレーベルというコンセプトや独自の活動を展開するバンド、これら2つに共通するDIY精神に集約される独立性 ― は定期的にパンクロックの誕生と結びつけられている。

 

これまで幾度となくリリースされてきたドキュメンタリー映像や書籍を通じて、我々はSex PistolsやThe Clashのサウンドや、マンチェスターのBuzzcocksの4曲入りの自主制作EP「Spiral Scratch」が他のバンドやレーベルを刺激して彼ら独自のシーンを形成していった経緯について繰り返し学んできた。

 

しかし、このストーリーから常に外されていることがひとつある。それは、彼らより髪と曲だけではなく、ギターソロも長いバンドたちによるこのDIY活動への貢献だ。

 

パンクは1970年代の終わりにイングランド全土で起きたムーブメントだが、同時期にIron Maiden、Angel Witch、Def Leppard、Samsonなどに代表される新世代のUKヘヴィメタルバンドもパブを人で溢れかえらせ、グラスルーツレベルでファンを増やしながら、サウンドと美学の両面で斬新な新ジャンルを生み出していた。彼らのムーブメントもまたひとつの形になりつつあったのだが、実際にそうなったのは、週刊紙『Sounds』のエディターAlan Lewisがこれらのバンドが形成していたシーンを「New Wave of British Heavy Metal」という言葉でひとまとめに表現した1979年春だった。

 

New Wave of British Heavy Metal - NWOBHM - は、創意工夫・自立心・強固な意思を備えていたという意味ではパンクと同じ抵抗活動だったが、パンクとは異なり、自分たちより上の世代のヘヴィロッカーや当時流行っていたエリート主義に対して明確な敵意を持っていたわけではかった。メジャーレーベルの大半がブラックレザージャケットを羽織ったグリーンヘアのキッズたちと契約しようと躍起になっていたことが、新世代メタルバンドたちに自力で活動を展開することを決意させた。

 

 

 

 

1979年初頭にリリースされたDef Leppard「Def Leppard」EPと同年末にリリースされたIron Maiden「The Soundhouse Tapes」は共に自主制作で、この2枚はNWOBHMが自給自足できることを高らかに宣言した。「Def Leppard」が当時すでにテイストメイカーとして高い人気を誇っていたBBCのJohn Peelにピックアップされ、「The Soundhouse Tapes」(タイトルはメタル版Peelと言えるNeal Kayがパブで主催していたクラブナイトへのオマージュ)がギグでの手売りと通販で5,000枚売れると、アンダーグラウンドメタルバンドの多くが、 “悪名” を得るための別ルートの存在に気がつくことになった。

 

「間違いなくDef LeppardとIron Maidenがきっかけでした。彼らはその気になれば誰だってできるんだということを示したのです」― 『Suzie Smiled: The New Wave Of British Heavy Metal』をはじめとするNWOBHM関連の書籍を数多く執筆している歴史家・作家のJohn Tuckerはこう語り、次のように続ける。

 

「私はパンクの魅力を一度も理解できませんでしたが、彼らのDIY精神は自分たちでもやれるということを示していました。A&Rがいなくても自分たちを売り出せるということを証明したのです。デモテープや自主制作盤の方が自分たちの名前を広められたのです」

 

Def LeppardとIron Maidenのアクションに感化されたバンドのひとつが、ノースロンドンで活動していたCharlie ‘Ungryだった。

 

「Def LeppardとIron Maidenが自分たちの音楽を自主レーベルからリリースしたことで新たに生まれた流れに自分たちも乗りたいと思ったんだ。やってみる価値があると思ったのさ」と語るのはCharlie ‘UngryのドラマーだったAndy Demetriouだ。テムズ川に係留されていた荷船内のスタジオで行われたレコーディングセッションの一部を抜き出し、Mike Oldfield「Tubular Bells」を世に送り込んだTom NewmanがプロデュースしたCharlie ‘Ungryのデビュー7インチEP「House on Chester Road」は1980年8月にリリースされた。

 

 

 

 

このEPに詰め込まれているBlue Oyster Cultをストリップダウンしたような彼らのサウンドは若き情熱と欲望に満ち溢れている。しかし、ロンドンのメジャーラジオ局Capital RadioのDJ、Alan Freemanにピックアップされてエアプレイされたにも関わらず、他のレーベルからひとつも声がかからず、結局、Charlie ‘UngryはこのEPのリリースからしばらくのちに解散した。Demetriouは「要するに俺たちは幼かったんだ。まだ最初の一歩に過ぎなかったのに、失敗の痛みに耐えられなかったのさ」と振り返っている。

 

しかし、2000年代初頭に「House on Chester Road」への興味が高まった。NWOBHM初期にリリースされたあと時代の流れに埋もれてしまった無名、またはワンオフのリリース群を集めていたレコードコレクターたちの間で話題になったのだ。

 

その結果、Tom Newmanがプロデュースしたレコーディングセッションをすべて収録した10曲入りアルバムがイタリアのレーベルRave Up Recordsから2014年にリリースされると、EPも収録順を入れ替えた形でその2年後にシカゴのレーベルHoZacから再発された。Demetriouは「ここ15年くらいの動きは本当に嬉しいよ。でも、俺たちをちゃんと導いてくれるマネージメントチームがいたらもっとビッグになって大きなインパクトを残せていたことが分かったから悔しい気持ちもある」と語っている。

 

 

 

“ディストリビューションは全部俺たちでやったが、今出回っている枚数ほど売らなかったのは分かっている。レーベルが勝手にプレスして俺たちに黙って売りさばいたんだろう。別に怒っちゃいないが、賢くはなったね”

John Roach(Mythra)

 

 

 

パンクはロンドンが中心だった(支配者層や権力に楯突くという大義上、首都を拠点にする必要があった)が、NWOBHMの中心は首都から遠く離れていた。

 

まず、イングランド北部に位置するマンチェスターで、Cargo RecordsがTurbo「Stallion」やOxym「Music Power」を含むいくつかの重要なシングルを雀の涙ほどの予算で制作してリリースした。これを受けて、マンチェスターから数マイルの距離に位置するヨークシャーに拠点を置いていた7 Year Itchも同レーベルからシングルのリリースを試みたのだが、すぐに自分たちが思っていた以上に “協働” しなければならないことに気が付いた。7 Year ItchはCargo Recordsと共にあくせくと働いてレコーディング費用をかき集めることに成功したが、レコーディングはなるべく安く済ませるために深夜に行われた。

 

また、7 Year Itchはそのシングル「I’m Gonna Make Ya」をリリースしてすぐに同名のバンドが存在するためバンド名を変える必要があることに気が付いた。そこで彼らはバンド名をWammと改めたのだが、当然、それに合わせてシングルのアートワークとラベルも変える必要があった。

 

このバンドのヴォーカルを務めていたRita Roweは自分たちが解散してから間もなくして “同じ発音” のポップデュオが世界的な人気を獲得したことを笑えるジョークとして考えており、次のようにコメントしている。「Wammなんて名前を付けるバンドなんて絶対にいないと思っていたから選んだのに。あんなことになるなんてまったく予想してなかったわ!」

 

マンチェスターよりさらに北、スコットランドとの国境近くに位置するダラムには、Terry Gavaghanという謎の人物がレコーディングスタジオの裏で運営していたレーベルGuardian Records ‘N’ Tapesがあった。

 

レコードコレクターの視点から運営されていたGuardian Records ‘N’ Tapesは特殊でミステリアスなインディーレーベルで、彼らのバックカタログにはHollow Ground、Battleaxe、Mythraをはじめとするイングランド北部のバンドによる不可解で原始的なサウンドのシングルが多数含まれている。しかし、深く調べてみると、このレーベルは徹底的なDIY精神で運営されていたことが分かる。

 

1982年、ローカルバンドのSatanがGuardian Records ‘N’ Tapesのラベルを貼ったデビューシングルをリリースしたが、レコーディングとプレスの費用はバンド持ちで、リリースまでのほぼすべてのプロセスもほぼバンドだけで進めた。SatanのギタリストSteve Ramseyは「プレスしたのは1,000枚で、スリーブは全部俺たちのハンドメイドだった。ベーシストの兄貴が印刷してくれたんだ。シートで出力されたから、自分たちで型抜きしたあとナイフで折り目を入れて、袋状にのり付けしたんだ」と振り返っている。

 

 

 

 

MythraのギタリストJohn Roachも「Death And Destiny」EPのリリース時に似たような経験をしている。Roachは「ディストリビューションは全部俺たちでやったが、今出回っている枚数ほど売らなかったのは分かっている。だから、俺たちの間では、Terry(Gavaghan)が勝手にプレスして、俺たちに黙って売りさばいたんだろうって話になってるよ。別に怒っちゃいないが、賢くはなったね」と語っている。

 

労力にめげなかったSatanは、コツコツとレコードを売りさばいていった。Ramseyは「『Sounds』紙に広告を出していたディストリビューターを使ってシングルの大半を売りさばいた。このディストリビューターはオランダ・アイントホーフェンにあるレコードショップに大量に卸してくれた。それで今や世界的に有名なアイントホーフェンのヴェニューDynamo Clubに呼ばれてプレイすることになったのさ」と振り返る。

 

そしてこのヴェニューでのライブが、ヘヴィメタル系インディーレーベル大手として知られるRoadrunner Recordsの耳に届き、彼らからGuardian Records ‘N’ Tapesよりも良い契約条件を出されたSatanは、1983年6月にRoadrunner Recordsからデビューアルバム『Court In The Act』をリリースした。

 

SatanがRoadrunner Recordsと契約を交わした頃、NWOBHM第1世代のバンド群はすでに「家内制手工業」から脱していた。Iron Maidenは4枚目のアルバム『Piece of Mind』をEMIからリリースしており、Def Leppardは3枚目のアルバム『Pyromania』が北米で大ヒットしたことで玉座を手に入れていた。また、Neat Recordsの初期バンド群の多くはMCAへ移籍しており、彼らほど知名度がないバンドも数年前のパンクブームと同じように「世間の購買欲」に乗じて売れていた。

 

 

 

“VenomのギタリストJeff “Mantas” DunnにVenomがヘヴィメタルの未来に与えた影響の大きさについて話すと、本人から強い北訛りで「もしそうならもっとリッチになってたはずだぜ」と笑いながら返されました”

John Tucker

 

 

 

Guardian Records ‘N’ Tapesがオファーしていたような自分たちの助けにならない契約内容や自主制作に伴う労働がバンド側にとって面倒極まりなかったというのも理由のひとつだったはずだが、NWOBHMバンドの多くはメジャーレーベルからのオファーを拒否しなかった。Tuckerは次のように語る。「正真正銘のパンクでも心の底ではスターダムを欲していたと思います。私がインタビューした中で、大金がもらえるメジャーレーベルとの契約とそれがもたらす富と名声を求めていなかった人はひとりもいませんでした」

 

問題は、大量発生していたNWOBHMバンドと契約していたメジャーレーベルの多くが、それらのバンドの音楽とルーツをほとんど理解していなかったところにあった。Iron Maidenのようなストリートレベルの信頼を勝ち取っていたバンドがいた一方、契約書のインクが乾くか乾かないかのタイミングでファンとレーベルの両方から忘れ去られてしまった “犠牲者” が数多く存在した。

 

「皮肉なのは、あっという間にメジャーレーベルと契約を交わしたあと、タイミングが早すぎたがゆえにレーベル側からプレッシャーをかけられて解散に追い込まれ、世間から忘れ去れてしまったバンドがいるということです。無名時代が比較的長く、自給自足を続けてきたNWOBHMバンドの方が、富や名声、Madison Square Gardenでのライブよりも価値があるストリートレベルでの信頼を得ていました」

 

こう説明するTuckerは、著作『Neat ’N’ Tidy: The Story of Neat Records』のためにVenomのギタリストJeff “Mantas” Dunへインタビューを行った際にVenomがヘヴィメタルに与えた影響の大きさについて触れると、本人から強い北訛りで「もしそうならもっとリッチになってたはずだぜ」と笑いながら返されたと続けている。

 

NWOBHMの枠に入るにはデビューが遅すぎたものの、共通するDIY精神を備えていたバンドがハンプシャー出身のSiegeだ。1984年に結成され、女性ヴォーカルのSharon Thompsonを擁していたこのバンドは、1985年に7インチシングル「Goddess Of Fire / Don’t Push Me」を自主リリースしたあと、牛追い用の鞭を小道具として使っていたThompsonの魅惑的なステージパフォーマンスを通じてクラブサーキットで多くのファンを掴んだ。

 

残念ながらSharon Thompsonは2010年6月に逝去したが、今もSiegeとして活動を続けているギタリストAl Stringerは、彼女の思い出を次のように語っている。「初めて会った時の彼女はまだ14歳か15歳で、ミュージカルに興味を持っていた。でも、フリンジ付きのホワイトレザージャケットにブーツ&ジーンズを合わせて一丁前のメタルファッションをしていたんだ」

 

女性ヴォーカリストでなかったらバンドは違う扱いを受けていたのではないかという質問に対し、Stringerは次のように考えを述べている。「若い女性ヴォーカルがいるバンドは当時珍しかったし、彼女はリスペクトされていた。バンド内では彼女を含め全員が同じ立場だった。彼女は歌が上手く、オーディエンスを引きつけることができたし、何よりも歌詞が素晴らしかった。彼女の声とキャラクターはファンを勝ち取れるだけの魅力を備えていた。ある時、マネージャー的立場にいた奴がトップレスになればもっと人気が出ると彼女に進言した。彼女は猛烈に怒ったし、当然、そんなことにはならなかった」

 

 

 

 

このマネージャーの発言は我々を酷く落胆させるが、当然ながら例外ではなかった。NWOBHMに関わっていた女性が実際にどれだけいたかは関係なく、この音楽の中にはミソジニー的アイディアが明確に残っていた。胸が露わになっている女性が男性に殴られて流血している姿が描かれているWitchfinder Generalのアルバム『Death Penalty』のアートワークが最も顕著な例として挙げられる。

 

「今振り返ると、ちょっといかがなものかと思うわね」とRock Goddessのリードヴォーカル / ギタリストのJody Turnerは切り出し、「でも、正直言うと当時はそこまで嫌だと思っていなかった。慣れてたのよ。みんなそんな感じだったから。でも、ロックに自分の居場所がないと感じたことは一度もなかった。それは多分、わたしは絶対に負けないし、女性だからできないなんて誰にも言わせないと強く意識していたからだと思う」と続けると、長い間を置いて次のように付け加える。「立って用を足すのはさすがに無理だけど、それ以外なら…」

 

機会が平等ではなく、マッチョな空気に満たされていたが、NWOBHM黄金時代のクリエイティビティに解放感があったことは否定できない。富と名声を勝ち得た者がいれば、三流レーベルのペテンに遭った者もいたが、全員が自分たちなりの形で障壁を乗り越えながら、それまでのヘヴィメタルシーンには存在しなかった強固に結びついたコミュニティとアンダーグラウンドなメンタリティを生み出していった。

 

「経済的な見返りを考えず、自分たちの好きな音楽を作っていた連中が集まった大家族のようなものだった」とSatanのSteve Ramseyは振り返り、次のように続ける。「ファンもその家族の一員だった。メディアは人気のレーベルやバンドだけじゃなくて、小さなレーベルやバンドもチェックする必要があった」

 

また、NWOBHMはヘヴィメタルの未来を指し示すことにもなった。その影響は今も残っている。NWOBHMから多大な影響を受けているMetallicaをはじめとするポストNWOBHM時代のUSのレーベルとバンドがその好例だ。

 

Tuckerは次のように簡潔にまとめている。

 

「NWOBHMレーベルの台頭は、Metal BladeやMegaforceなどに代表されるUSのインディーメタルシーンの躍進に大きな影響を与えたと考えています。NWOBHMによって、インディーレーベルのボスたちがシーンの中心人物になっていきましたし、当時リリースされた作品の多くがセールスよりもファンを重視していました。ひとつも悪いところはありませんでした。スカンジナビア半島のブラックメタルシーンもNWOBHMに影響を受けて始まっていますし、スラッシュメタルもNWOBHMと強く結びついています。NWOBHMの重要性は無視できません」

 

 

Header Image:Def Leppard(1979年)© Chris Walter/WireImage/Getty Images

 

17. May. 2019