四月 25

UKガラージを生んだパーティーHappy Days

跳ねるスネアと強烈なベースとシャンパン−UKガラージの20年間はHappy Daysというひとつのパーティーから始まった。

By Stephen Titmus

Happy Daysは日曜日に開催されていた小規模なアフターパーティーだったが、すぐに様々なパーティーに影響を与え、ロンドンの音楽文化において最も重要なシーンのひとつの礎を築くことになった。しかし、それから20年が経った今も、Happy Daysに正当な評価が与えられているとは言い難い。今回はその歴史を振り返る。

Happy Daysは90年代初期のロンドンのハードコアシーンを席巻していた巨大な屋内レイヴAWOLから派生したパーティーだ。ドラムンベースのパイオニアであるKenny Ken、Randall、Mickey Finnがレジデントを務めていたAWOLは一歩先を走っており、ジャングルのプロトタイプが熱狂的に支持されていた。そして、このパーティーが終わる頃、外では酔ったレイバーたちがマーケットの業者によって自分たちの車がレッカー移動させられていることに気づくというシーンが良く見られていた。

「Ministry of Soundから出てくる客を相手したアフターパーティー」というシンプルなアイディアから始まった。

AWOLではブレイクビーツが鳴り響くメインルームに対し、セカンドルームではUSハウス・ガラージがプレイされていた。Matt Jam Lamontも1992年当時はまだ そこでのプレイを切望する数多くの若手DJのひとりに過ぎず 、プロモーターTimi Ram Jamに自分を売り込んでいた。Matt Jamは当時を次のように振り返る。「30分で良いからセカンドルームでプレイさせてくれと頼んだんだ。彼の足にしがみついて頼んだよ。最終的には『プレイさせてやるから、どっか行ってくれ』と言わせた。結局2時間半プレイして、それ以降レジデントになれたんだ」

そして1993年にTimiはAWOLを去ると、Happy Daysを立ち上げた。このパーティーは「Ministry of Soundから出てくる客を相手したアフターパーティー」というシンプルなアイディアから始まった。当時のMinistry of Soundはヨーロッパナンバーワンのクラブとして高い評価を得ていた。ニューヨークサウンドを追求していたMinistry of Soundは、Paradise Garageの華やかさとパワーを巨大なラウンダバウト位しか取り柄のないサウスロンドンへ持ち込もうとしたクラブで、Paradise Garageのサウンドシステムと同等のシステムを用い、更にはニュージャージーの誇るハウスDJ、Tony Humphriesをレジデントとして迎え入れていた。アメリカへの憧憬がその根底にあったこのクラブは、UKのクラバーたちにとっては非常にユニークな存在として認識されていた。



一方、Happy Daysはこれ以上ない程にUKらしいパーティーだった。サイズ感こそ適切だったにせよ、これといって特徴のないパブ、The Elephant & Castleにサウンドシステムが持ち込まれただけのシンプルなパーティーだったが、スタート直後から大勢の客が訪れた。「Ministry of Soundの隣だったのが良かった」Matt Jamは振り返る。「もう少し距離が離れていたら、みんな行くかどうか迷っていたと思う。Ministryは9時にクローズで、Happy Daysは10時から14時まで開催された。当時はMinistryから出てきた客がThe Elephant & Castleの前に座ってオープンするのを待っていたね」

「Ministryから出てきた客がThe Elephant & Castleの前に座ってオープンするのを待っていたね」−Matt Jam Lemont

当時近辺には他のアフターパーティーも開催されていたが、ロケーションに恵まれていたHappy Daysはすぐに最も有名なパーティーとなり、Timiは入りきらない人たちのために、通りを挟んだ向かい側のパブThe Charlie Chaplinも使うことになった。「キャパは200人だったけれど、400人が来ていた」Matt Jamが言う。「一回外へ出たらもう一度中へ入るのは難しかった」内部は汗がしたたるような熱気に包まれており、ビール一杯買うのも至難の業だった。

 

Happy DaysのDJたちはユニークなスタイルを打ち出していた。当時はMinistryでもHappy DaysでもKerri ChandlerやMK、E-Smoothなどがよくプレイされていたが、MinistryのTony Humphriesがヴォーカルトラックを好んでいたのに対し、Happy DaysのUK陣はダブバージョンを好んでプレイした。更に、Matt Jam、Mickey Simms、Justin CantorなどのレジデントDJたちはUSのDJたちよりも速いピッチでそれらをプレイしていた。「22時から8時までMinistryでがっつりレイヴしていた客を相手に、BPM120の音楽をプレイしたくなかった。客にもう少し勢いを与えなければならなかった。だから流れを保てるようにピッチを上げたんだ」Matt Jamは説明する。

90年代初頭はエクスタシーが影響していた部分も否めないが、基本的に当時のUKのダンスミュージックの殆どすべてが高速化していた(ハードコア/ジャングルはBPM140〜160でプレイされていた)。The Elephant & CastleでもMasters At Workのダブバージョンが+8でプレイされるのがお決まりだったが、このクレイジーでスピーディーなバージョンのニューヨークガラージは、朝の10時からもう一度踊りたいと思っていた客層にはパーフェクトだった。そしてこれがUKガラージの原子スープになった。

 

この特徴的なサウンドは、実はMatt Jamが既に数年前に作っていたものだった。1991年にリリースされたThe Jam Experienceの「Feel My Love」は複雑なドラムパターンとカットアップされたヴォーカルが特徴のトラックで、粗いニューヨークガラージと言えるトラックだが、強烈なベースラインが非常にユニークだった。それまでのガラージは基本的にスムースでソウルフルな、洗練されたトラックだったが、このトラックの低音はそれを良い意味で無視していたのだ。

「Blameが俺の家に来て、俺が作っていたトラックを聴くと、『ベースを上げろ! ベースを上げろよ!』って言ってきた。そしてそれをThe Elephant & Castleでプレイしたら、低音の振動で窓が揺れた」−Matt Jam Lemont

このヘヴィーな低音は、Mattのハードコアシーンの友人たちのアドバイスによって生まれたものだ。「ドラムンベースのプロデューサーBlameが俺の家に来て、俺が作っていたトラックを聴くと、『ベースを上げろ! ベースを上げろよ!』って言ってきた。そしてそれをThe Elephant & Castleでプレイしたら、低音の振動で窓が揺れた。パブのオーナーもすっ飛んできて、すぐにベースを下げろと言ってきたね。あれがUKガラージの誕生だった」

Happy Daysの成功は、ロンドンのサンデーアフターパーティーシーンに大きな影響を及ぼし、新たなパーティーを誕生させると同時に、既存のパーティーを活気づけていった。同じくサウスロンドンのパブThe Park in Kenningtonでは16時からのパーティーがスタートし、そしてこれが終わると初期UKガラージ時代のクラブとして知られているCafé De ParisかThe Gass Clubへ人が流れていった。そして1年以内にサンデーアフターのシーンは膨れ上がっていき、様々な人種の労働者階級たちや事情通が集まり、前夜から遊んでいたクラバーたちがギャングたちと共に踊るようになっていった。Creedが振り返る。「誰も知らないクラブにいるような感じだった」

Credit: Ewen Spencer
UKガラージ初のMCだったCreedは誰よりも日曜日のシーンを知っている人物だ。彼はHappy Daysを含むあらゆる初期UKガラージのパーティーに参加していたが、このシーンに関わっていた他の人たちと同様、UKガラージがスタートする何年も前からレイヴで遊んできた。「当時の日曜日のシーンの客層は若くなかったね。40代、50代が来ていたよ。勿論、20代前半もいたよ。でも大半は30代以上だった。スーツやオシャレなシャツを着ている男や、ヒールを履いている女たちさ。彼らにとってクラブはシャンパンを開けるような場所だった。あの時から始まったんだ」

「一番嬉しかったのは、『お前の声をレコードかと思っていたよ』って言われた時だね」−Creed

Creedはアシッドハウス時代からMCとして活動をしていたが、他のMCとは違いハードコアやジャングルの方向へは進まずにハウスシーンに留まり続けており、AWOLのガラージルームでホストを務めることさえもあった。「当時の俺の周りはMCがいなかった。ハウスDJはMCと一緒にプレイするのに慣れていなかったし、MCは必要ないという考えの奴さえもいた。俺はMCという存在を知ってもらうために活動していた訳でもないし、DJよりも目立とうとしていた訳でもなかった。ただ音楽と上手く混ざり合おうとしていただけで、上手く入れられるタイミングでMCをしていただけさ。一番嬉しかったのは、『お前の声をレコードかと思っていたよ』って言われた時だね」Creedがいなければ、UKガラージにおけるMCはそこまで重要にはなっていなかっただろう。

サンデーアフターのシーンでは、同じような考えを持つDJたちがそれぞれ小さなグループを作り、例えばNorris “Da Boss” Windross、Daryl B、Dominic “Spreadlove”、Hermitは初期ガラージをプレイするDJとして様々なクラブでプレイするようになった。Ministryのようなクラブはレジデントを抱えており、新人が入り込む余地がなかったため、UKガラージのDJたちは独自の方法で自分たちの名前を売り込んでいった。

そのUKガラージをサポートしていた存在のひとつがパイレーツラジオだった。有名なパイレーツラジオの中では、Girls FMとLondon Undergroundがこの新しいUK産ハウスに飛び付いた。1990年代初頭、ロンドンのパイレーツラジオではジャングルが大人気だったが、過激なジャングルをプレイしていた局でさえも、ハウスやレアグルーヴの番組を持っていた。そこに登場したスピーディーで重低音のハウス、UKガラージは、USのスムースなハウスよりも局の打ち出す方向性に上手くフィットした。

1994年頃になると、プロデューサーたちはサンデーアフターパーティーやパイレーツラジオ用のトラックの制作をスタートさせていった。中でもGrant Nelson のNice ‘N’ Ripeのリリース群は、カットアップヴォーカル、ヘヴィーなベース、スナップの効いた音数の多いスネア、フィルターがかかったハイハットというこのスタイルの完成形を作り出したものとして知られている。その後程なくしてサンデーアフターパーティーシーンの外側にいたDJやプロデューサーたちもUKガラージの存在を知るようになり、この頃にはMatt JamもハードコアグループのDouble Troubleの元エンジニアKarl BrownとTuff Jamを組み、USハウスとベース重視のUKレイヴを組み合わせたスタイルを確立させた。

「UKガラージの歴史の中で、The Archesはベストの箱だったね」−Matt Jam Lemont

その後もHappy Daysはその影響力を強めていった。スタートから1年半後にThe Elephant & Castleからより大きなサイズのFrog & Nightgownに移ると、最終的には1000人を収容する巨大なウェアハウスThe Archesへと場所を移した。ロケーションは一般的と言えたが、客層は独特で、セレブ感とヘドニズムが溢れたその雰囲気は「今という瞬間」そのものであり、翌日に仕事がある人たちが大半だったのにも関わらず、パーティーの勢いは止まらなかった。Matt Jamも素直に「UKガラージの歴史の中で、The Archesはベストの箱だったね」と振り返る。またSpoonyもThe Archesを懐かしんでおり、Bill Brewsterの本『The Record Players』の中で、「あそこへ行くと特別な雰囲気が感じられた。エントランスをくぐって、中へ入って深く息を吸い込めば、すぐに500%のパワーで踊っている人たちに囲まれた。あそこでは周りに誰がいるかを気にしている人はいなかった。間違いない雰囲気があったから、必ず良いプレイができると感じられたね」と語っている。

1995年の時点でHappy Daysの人気に対抗できた唯一のUKガラージのクラブは、The Gass Clubだった。このクラブではDominic Spreadloveが初期UKガラージ、跳ねるようなニューヨークハウス、そしてLenny De Iceの「We are E」のようなレイヴアンセムなどをプレイしていた。尚、ブレイクビーツをガラージに組み合わせるこのミックススタイルは、98年以降のガレージシーンの主流となる2ステップの登場を促すことになった。また、Todd TerryがThe Gass Clubでプレイした時に「スピードガラージ」という単語を生み出したとも言われている。


この頃になると、「安息日」である日曜日にパーティーを楽しむことはロンドンに住む人たちにとって一般的なものになっていた。サンデーアフターのシーンは既に内輪や終われないレイバーたちのためだけのものではなく、多くの人たちにとって1週間の中で最高の夜を過ごせる日として認識されていた。UKガラージをルーツに持つこのシーンがいかに巨大なものになったかを端的に表しているのが、Tony HumphriesがThe Archesでプレイしたという事実だろう。Mattは次のように振り返っている。「Tony Humphriesは大好きだが、彼のプレイはヴォーカルが多すぎたんだ。The Archesのバイブスはダビーでスピーディーだった。客は彼に大して容赦なかったね。最初のレコードから「もっと速くしろ!」って言っていたよ。でもそのプレイを貫いたのには、さすがTonyだと感服したよ。単純にタイミングと場所が合わなかったのさ」

この1995年がUKガラージの絶頂期だったと言う人も多く、現在も「Back To 95」というタイトルのレトロなUKガラージのパーティーが存在する。当時The ArchesはHappy Daysの他にもTwice As Niceを抱えており、Twice As Niceはその後The Coliseum、そしてThe Endへと規模を広げながら続いていった。Steve Gordenがプロモーターを務めていたこのTwice As Niceは毎週1500人以上を集め、日曜日のシーンをまた一段上へ引き上げる役目を果たした。The Endは人気クラブであると同時に、UKのサブカルチャーを代表する存在となり、90年代後半、ここよりも優れたクラブはなかっただろう。ちなみにDavid BeckhamさえもここでDJプレイを披露した(Dane BowersとのB2B。このクラブの評価を多少落としてしまう話ではあるが)。

UKガラージの話は良く聴くが、ひとつのパーティーをきっかけにこのシーンが形成されていったという部分に関してはあまり知られていない。Happy Daysはサンデーアフターのシーンの形成において大きな役割を果たした。このパーティーがなければUKガラージのサウンド、カルチャー、そして姿勢は違うものになっていただろう。