五月 30

フランスで甦るニューヨークのレジェンドサウンドシステム

フランス最高のサウンドシステムはベルギー国境付近の個人宅の中に置かれている。The LoftとParadise Garageを支えたサウンドシステムの再現を目指すオーディオマニア/ DJを紹介する

By Smaël Bouaici

 

そこはフランス・リール郊外の住宅が建ち並ぶ閑静な通りの途中にある。

 

同じデザインの赤煉瓦住宅が建ち並ぶ通りを進んでいく私たちは、背の高い鉄製の扉と鉄線によって要塞のように守られている、特筆すべきことは何もないごく普通の住宅の前で立ち止まる。高い塀に立てかけられている木材の山に沿って歩き、風に揺れるプラスティック製パンチングボールを過ぎると、出窓からディスコビートが聞こえ始め、玄関の扉が開くとその出窓が明るくなる。

 

キッチンに隣接しているスペースの後方にいる私たちの視線は何万枚ものレコードが収まっている垂木まで届く高さのIKEA Expedit 2セットへ向けられるが、すぐにその下のリビングルームに設けられているKlipschorn製スピーカー4発に囲まれた自家製ダンスフロアへ移動する。クリスタルのような透明度と高い没入感を備えているこのレジェンドスピーカーは、1946年に同社を立ち上げたPaul W. Klipschに栄光をもたらすことになり、それから70年以上が経った今も、オーディオマニアのフォーラムでは畏怖の念と共に語られている。

 

 

 

 

DJブースでは、青いシャツにバミューダパンツを合わせ、サラリーマンのようなメガネをかけた家主、Seb Deswarteがレコードをプレイしており、ディスコ、ハウス、テクノ、ソウル、ヒップホップ、レゲエが素晴らしいサウンドシステムから放たれている。サウンドの細部の細部まで再現するKlipschornのスピーカーはクラシックトラックに完全に新しい光を当てる。

 

ここのサウンドシステムのシメが、このスペースの奥へ続く廊下を塞いでいるBerthaだ。この神話的ベースボックスは、レジェンドクラブとされているシカゴのWarehouseMusic Box、ニューヨークのStudio 54とLarry Levanで知られるParadise Garageのサウンドシステムを担ったオーディオウィザード、Richard Longによってデザインされた。DJ Harveyがハワイで経営していたクラブから運び込まれたこのベースボックスは、ニューヨーククラブカルチャー全盛期を支えた極上サウンドシステムの再現を目指す長い旅の中で彼が手に入れた最後の宝石だった。

 

 

 

 

よくある話だが、すべてはあるレイブから始まった。Sebは、1990年代のパリでクラブカルチャーに出会ったが、主に通っていたのはベルギーのパーティだった。フランス北東部、ベルギーとの国境付近に位置する港町ダンケルク出身のSebはフランスのディスコが酔客にコンガを叩かせがちだった時代に、ベルギーのありとあらゆるハウス / テクノクラブに通っていた。

 

「毎週末ベルギーで遊んでいました。よく通っていたのはルーヴェンにあったクラブ、Foodです。ここはシカゴのDJを呼んでいました。友人が校門まで迎えに来たあと、ゲントに寄ってレコードを買ってから、翌朝9時まで踊っていましたね」と振り返るSebは、やがて学校を中退してその時間をターンテーブリズムに費やすようになるとハウスとそのルーツに大いに興味を持つようになり、当然の流れとしてニューヨークへ向かった。この都市が彼のすべてを変えることになった。

 

 

 

 

 

 

ニューヨークの天啓

 

1998年、21歳になったばかりのSebは単身ニューヨークへ向かった。「知り合いはいませんでしたし、英語もお粗末でした。タクシーでユースホステルへ向かったのですが満室で、用意していたホテルリストはそのタクシーの中に忘れてしまっていました」とSebは振り返っているが、それは大した問題ではなかった。絶対に訪れるべきクラブとチェックすべきDJのリストは脳に記憶されていた。彼はTimmy Regisfordのパーティ「Shelter」が開催されていたソウルフルなハウスヘイブン、Club Vinylへ向かった。

 

「Timmy Regisfordは大好きなDJでした。僕は深夜12時に入りましたが、仕方なくでした。というのも、彼は12時間はプレイするからです。僕が入った時間帯はまだキッズしかいないんですよ。4時くらいになると音楽をちゃんと知っている人たちがやってきて、8時くらいになるとParadise Garageを知っている人たちがやってきました。このタイミングでTimmy Regisfordがディスコをプレイし始めました」と振り返るSebは、Regisfordのプレイ中にDJブース横で照明をいじっているMasters at WorkのLouie Vegaの姿も確認したが、魅了されたのは自分の全身を撃ち抜くかのようなそのサウンドだった。

 

「Berthasが4発置かれていたんです。あそこのサウンドシステムが放っていた音は信じられないクオリティでした。パワフルでしたが、同時に非常にクリアでした」

 

 

 

 

François KがDanny Krivit、Joe Claussellとレジデントを務めるパーティ「Body & Soul」にも顔を出したSebは、ニューヨークハウスシーンの歴史に興味を持つようになった。

 

Mel Cherenの著作『My Life in the Paradise Garage』とTim Lawrenceの著作『Love Saves The Day』を読み、世界初のハウス専門サイトだったdeephousepage.comでMerlin BobbとTony Humphriesのミックスを聴いた。このようなリサーチがSebをDavid Mancuso - 名著『Last Night a DJ Saved my Life』で知られるBill Brewsterが言うところの “ダンスをしたことがある人、またはヘッドフォンを首にかけたことがある人全員が何かしらの恩恵を受けている人物” - に引き合わせた。

 

 

 

The Loftのストーリーはフランス北東部出身の少年に大きな影響を与えた。1970年にMancusoがスタートさせたこのプライベートパーティは、私たちが知っているクラブカルチャーの青写真になると同時に、ニューヨークのアンダーグラウンド&ゲイコミュニティに避難場所を提供した。

 

また、The LoftはKlipschornを中心に据えたハイクオリティなサウンドシステムと、Mancuso(2016年11月死去)による純粋主義でも知られていた。Mancusoはトラックとトラックを繋がず、トラック間に無音を挟んでいた。そしてその無音はすぐにフロアからの拍手で埋められていた。Sebが語る。「Mancusoはピッチも変えませんでした。レコードをそのままプレイすることでムードを作っていました。こういうプレイをすれば、フロアは音楽をちゃんと聴くようになります」

 

 

 

 

この体験をしてから1年後、Sebは自分のアイドルとベルギー・アントワープで共演する機会に恵まれた。

 

「ウォームアップ担当という話だったのでレコードを準備していましたが、最終的にMancusoがひとりでプレイすることになりました。彼と握手をしましたし、写真も一緒に撮ってもらいましたが、The Loftにお邪魔したいとは口が裂けても言えなかったですよ(笑)。彼には素晴らしい対応をしてもらいました。僕は彼のパーティのヴィジョンをリスペクトしています。パーティをビジネスにしなかったことについてはひときわリスペクトしていますね」と振り返り、The Loftをフランスとベルギーのクラブと比較するのは不可能だと強調するSebは、やがてThe Loftを支えていたサウンドシステムに使用されていた機材群を集めるようになった。

 

「Mancusoについて最も重要なのは、彼がサウンドをいかに愛していたかという点です。Klipschornのスピーカー、Mark Levinsonのアンプ、1万ドルの価値がある光悦のカートリッジ…。これらはインターネットを探せば中古で見つけられます。ですので、見かけたらすぐに連絡していました」

 

 

 

 

 

 

サウンドを探す旅

 

Sebは、1999年にジャズマニアから最初のKlipschornペアを手に入れた。車で2時間の距離に住んでいたその人物は家の中を整理したがっていた。3,000ユーロ(約36万円)という取引価格は、通常なら10,000ユーロ(約120万円)は下らないことを考えると大バーゲンだった。

 

それから5年後、スペインとの国境付近で次のペアを見つけたSebは、迷うことなくトランジットバンに飛び乗ってフランスを横断した。「取引価格は3,500ユーロ(約42万円)でした。売り手はKlipschornに拘っていませんでした。というのも、彼は日本人のために27,000ユーロ(約324万円)のJadis Eurythmieを組み上げた人物だったんです。これも本当に素晴らしいサウンドなんです」

 

 

 

 

そして3ペア目は思いがけない幸運によって手にすることになった。

 

「2015年に兄と父がハンティング仲間の家に招かれたんです。ウェディングパーティだったんですが、その家のガレージに1972年製のKlipschornが置かれていたんです。15年も埃を被って放置されていました。それを見た兄がすぐに画像を送ってきたので、兄に500ユーロ(約6万円)でオファーを出すように頼みました。ですが、その持ち主は周囲に訪ね回ったあと、Le Bon Coin(フランスの中古品売買サイト)に3,500ユーロで売りに出したんです」

 

「ですが数週間経っても売れなかったので、結局、僕がその半額で買い取り、自宅からたった20マイル(約32km)の距離にあったその家から引き取って修理することにしました。Voltiaudio製フィルター、BMS 4592NDを入れ、Voltiaudio製木製パネルとBob Crites 15’’ ラウドスピーカーを用意しました。最高に魅力的なペアになるはずですよ。他のペアよりも良いサウンドになるはずです」

 

 

 

 

ある日、いつも通りオーディオ機材フォーラムをチェックしていたSebは、もうひとつの歴史的機材 ― サウンドシステムデザインのレジェンドGary Stewartが製作したBerthaのベースボックス ― に出会った。ハワイ・ホノルルのThirtynine HotelでDJ Harveyが使用していたものだった。

 

「Berthaのペアを買うことは考えていませんでしたが、あまりにも素晴らしいチャンスだったので逃すわけにはいきませんでした。DJ Harveyが離婚してクラブを閉めたあと、別れた奥さんがeBayで2,000ドルで売りに出していたんです! 入札しようとしましたが、発送が米国限定でした。彼女はこの巨大なスピーカーを欲しがる人が地球の裏側にいるなんて考えてもいなかったんです」

 

「何とかして事前に連絡を取ろうとしましたが、結局、連絡が取れたのはオークションが終了してからでした。他の入札者がいなかったので、結局僕が落札したんです。それで彼女と話をして、僕がカーゴ機を手配して空輸したあとトラックで自宅前まで運びました」

 

 

 

 

Klipschorn 3ペアとBertha 2発を手に入れた時点で、Sebはすでにあらゆるクラブエンジニアを震わせるだけの環境を手に入れていた。しかし、全財産を自分の情熱に注いできたこのフランス人は細部まで拘り抜く人物だ。

 

SebはBerthaのサウンドをコントロールするためにDJミキサーのBozak(Sebが曰く「見つけるのが不可能」)の修理業を営んでいるGary Stewartの友人からベースフィルターを購入した他、Paradise Garageに設置されていたDBX 100 Boomboxと同様の機能(トラックの最低周波数帯を使用して、それより低いサウンドを生み出す)を果たすサブハーモニックシンセサイザーも導入した。

 

「20~36Hzと36~56Hzの帯域ですね。ディスコトラックはハウストラックよりも低域が低くないので、これを通すことでパワフルなサウンドが得られるんです」と説明するSebは、自分の情熱の “不健康” な側面を認める。「レコードショップに行って何も見つからないと、すでに持っているレコードを買ってしまうんですよ!」

 

また、現在Sebは所有しているCrown Macro-Techsの代わりにカナダのブランドBrystonのアンプを手に入れようとしているが(本人は「サウンドを強化するために必要な最後の機材」と説明している)、自分がすでに理不尽な領域に突入していることも理解している。「すべての機材を繋ぐ日は来ないでしょうね。僕が持っている機材を合わせるとナイトクラブ2軒分になりますから」

 

 

 

 

 

 

フランスのThe Loft

 

自宅のリビングルームに置かれる前、Sebのドリームダンスフロアは3年に渡りダンケルクで一般公開されていた。2007年、Sebはフランス北部の港町の中心地にバーを出し、そこに自分のサウンドシステムを置いたのだ。すぐに幼馴染みたちがここを集合場所にするようになったが、近隣住民たちはそこまで気に入らなかった。Sebが説明する。

 

「何しろ3軒先まで振動が伝わっていましたからね(笑)! 近所に迷惑がられてたあと防音にかなり力を入れて、バーも午前2時に閉めるようにしました。パーティは閉店後も続けましたが。それで問題はなくなったのですが、新しい人たちが越してきてすべてが変わりました。彼らは僕たちと折り合いが悪く、警察に通報し続けたんです。僕は壁をさらに補強して、防音扉も導入しましたが、通報は止まりませんでした。それで努力するだけ無駄だと判断して諦めたんです」

 

 

 

 

15年以上に渡りDJとして活動し、パーティもオーガナイズしてきたSebはヘッドフォンを置き、家族を持った。リールへ移住し、オーディオ機器店で働いたあと復学し、セールスエンジニアを経て銀行員になった。オーディエンスから距離を取ったSebは自分の情熱を家の中に閉じ込めてきた。

 

「どこかでバーかクラブをオープンしても良かったと思いますが、僕にはビジネスの才能がないんですよ。自分をどうやって売り込んだら良いのか分からないんです」と語るSebはダンスフロアに背を向けた。1990年代ハウスがリバイバルした時は後ろ髪を引かれなくもなかったが、本人が「疲れるだけ」と表現するDJとしての生活にはひとつも後悔がなかった。

 

こうして、Sebは自宅のリビングルーム・サウンドシステムに専念するようになり、2年前からは友人と知人を20~80人ほど集めた口コミ主体のシークレットパーティを定期的に開催している。また、シカゴのベテランディスコ / ハウスDJのRahaanがフランスを訪れるたびにSebの家を訪れ、数日間この素晴らしいサウンドシステムでミックスを楽しんでいる。

 

 

 

 

しかし、自分なりのThe Loftを作りたいというアイディアは、今もSebの頭のどこかに残っており、ここ最近は、今の家を売りに出して農園を購入し、すべてがサウンドに捧げられている場所 ― フランス最高のサウンドクオリティを誇るリビングルーム・ディスコ的空間 ― の主人になるというアイディアを持っている。

 

「友人が寝泊まりできるスペースを用意できれば最高ですが、そこでビジネスをする気はありません。David Mancusoは多くの人に影響を与えましたし、儲けようと思えばいくらでもできたはずですが、彼はそうしませんでした。そして最も長く活動を続けたDJのひとりになったんです」

 

 

 

 

 

 

 

All photos incl. header image:© Sarah Bastin

 

30. May. 2019