十月 15

MUTE BEATの軌跡

時代を先取りした日本のダブ・バンド、その歴史

by David Katz

 

1970年代後半〜80年代初頭の東京のアンダーグラウンド音楽シーンは、国民の精神状態の変化を反映している。団塊の世代が成人しようとしていたこの頃、ロンドンで爆発していたパンク・ロックや、ニューヨークで芽吹いていたヒップホップなどから、この特殊な島国は計り知れない影響を受けていた。中でも、英国内陸部のスカや2トーンのリバイバル・シーンというフィルターを通して日本に伝わった、ジャマイカン・レゲエのオフビートなリズムも重要な要素であった事を忘れてはならない。

 

高度成長とクリエイティブな改革が進み、日本のファッション・デザイナーや建築事務所が世界という舞台でインパクトを与えるようになったこの頃、自分たちの世代のサウンドを探していた若者たちに、これらの多様な音楽スタイルは大きくアピールした。東京の音楽シーンという大釜から沸騰し溢れ出した挑戦的な音の渦からは、多くの重要なアーティストが生まれたが、ミュート・ビートはその中でも最も影響力があり、かつ謎めいた存在だった。

 

アシッド・ジャズやトリップ・ホップをかなり早くに先取りしていたとされる彼らは、正規メンバーとして専属のダブ・ミキサーを迎え入れた世界初のバンドだと思われる。そのサウンドはダブ、レゲエ、パンクやエレクトロニック音楽からの影響と無意識に日本の伝統音楽にも裏打ちされ、ジャズ・コンボのフォーマットを混合し、行進するブラス・バンドの美意識も備えていた。ミュート・ビートはまだ誰も聴いたことがない何かを作り上げ、既存の音楽ジャンルの欄外に存在していた。

 

時代が70年代から80年代に移行していく中で、東京のアンダーグラウンドで活動し交流を持っていた複数のアーティストたちによって、グループの核は時間をかけて形成されていった。その筆頭は恐らくプラスチックスだろう。当時夫婦だった中西俊夫と佐藤チカの歌/シャウト・コンビを中心としたこのバンドは、パンク、グラム、ニューヨークのノーウエーヴ・シーンなどからの影響を受けていたが、それらに圧倒されることなく、独自の方向性を貫いていた。

 

 

「プラスチックスは1976年に結成され、(David) Bowie、Velvet (Underground)、Roxy Musicや(The Sex) Pistolsから影響を受けていました」と中西は言う。「偶然にも、僕らのギタリストであるハジメは、78年にBowieと同じシベリア鉄道と船に乗ってロンドンに向かっていた。そして彼とIggy Popが僕らにくれたアドバイスは、『僕らの真似はせず、自分たちの曲を書きなさい』でした」。このアドバイスを受けて制作されたグループのデビュー作「Copy/  Robot」は、イギリスのRough Tradeからリリースされることになった。

 

欧米アーティストたちの前例を認知しながらも、いかに日本的な独自の音楽的アイデンティティーを保つかということは、やがてミュート・ビートの形成に繋がったバンドたちに共通の課題だった。

 

 

それは、ザ・スポイルも同じだった。パンク、ニューウェーヴ、2トーンなどから影響を受たこのバンドの疾走感あるインストゥルメンタルは、リーダーの横山忠正のワイルドなアルト・サックスに導かれていた。メンバーは度々入れ替わったが、ある時期から横山はファンクに影響を受けたうねりのある松本隆乃のベースに合わせるようになり、更にその後トランペット奏者のこだま和文とトロンボーン奏者の星浩明が加わったことで、グループの音はより豊かに完成されたものとなっていった。

 

東京のアンダーグラウンドに存在した数多くのバンドと同じように、ザ・スポイルは数年間活動を続けるも大きな成功を収めるに至らなかったが、初期スネークマンショーのアルバム2作にいくつかの楽曲を提供し、このコント・ラジオ番組の制作者たちの手によってリリースされた。ちなみに彼らはイエロー・マジック・オーケストラの、曲の間にコントを挟んだアルバム『増殖』にも参加している。

 

ザ・スポイルが停滞し始めた頃、松本はサイド・プロジェクトとしてルード・フラワーを結成。ボーカリスト兼ギタリストの森と、ラテン色の強いパーカッショニスト、後から星浩明とこだま和文もホーン・セクションとして参加した。そして最後のメンバーであるドラマーの屋敷豪太が月刊音楽誌に掲載した広告によって加わり、バンドが完結した。

 

他のほとんどのメンバーと同様に、屋敷も東京出身ではなかった。「生まれは京都の北に位置する、綾部市です。京都市からは、山を二つ超えないといけないので、約1時間半かかります。本当に田舎者なんですよ」と言う屋敷は、幼少期から父親に伝統的な和太鼓を教わったという。「日本では多くの村に独特な和太鼓のスタイルがあり、夏の終わりに大きな収穫祭があります。僕の村の場合、2人掛かりで叩く、高さ2メートル程の大きな太鼓がありました。1人が基本のリズムを叩き続け、もう1人がソロ奏者のように自由な表現で叩くんです。6歳ぐらいの頃父親に初めて連れて行ってもらってからは、その後毎年参加しました」。

 

同じく父親に聴かされたという欧米のロックやジャズも、屋敷に強い印象を残した。「12、13歳ぐらいの時にThe Beatlesの『Let It Be』を父親が買ってくれて、『うわぁ、ロック・ミュージックは本当に表現力豊かだ』と思いました。Ringo Starrのドラミングは和太鼓に通ずるものがあったのだと思います。同じような構造を持っていました。それで大好きになって。それと、父親はジャズをよく聞いていて、Art Blakeyが好きでした。Art Blakeyのドラムミングも、祭りの太鼓に似ているんです。僕は『A Night In Tunisia At Birdland』が好きだったんですが、父親がそれのポスター、Blakeyが口を開けているやつを手に入れて。それを部屋に飾ってくれたので、毎日眺めていました。彼ははじめGretschのドラムセットを使っていたんですが、やがて日本製のPearlのセットを叩くようになった。彼が叩くPearlと祭りの太鼓に似ているように感じてきて、『うーん、もしかしたら自分にも同じような事が出来るかもしれない』と思い、12歳の時に一番安いPearlのドラムセットを買ってもらったんです。」

 

 

屋敷はルード・フラワーを、「ラテンとレゲエの中間、The Specialsに近い感じ」と説明する。Fania All Starsをラテン・サイドの手本とし、そこにThe Clashの影響も入っていたという。グループはレッド・シューズや椿ハウスなどのヒップな会場でライヴをし、好反応を得ていた。やがて原宿の有名人であったグンさんという人物が経営するクロコダイルという店のレジデント・バンドを務めるようになる。しかし、その1年以内にバンド内が分裂し、結果としてミュート・ビートが誕生した。

 

屋敷の説明によれば、「こだまさんが加入したときに変化が起きたんです。パーカッショニストとギタリストはラテン好きだったんですが、僕とこだまさんと松本さんはレゲエとダブ・ミュージックが好きだった。松本さんがUB40のファーストEPのことを教えてくれたんですが、それがすごく新鮮に聴こえました。ジャマイカのダブ・ミュージックの要素と、洗練されたイギリスのスタイルが混ざってたからです。僕と松本さんとこだまさんは、あの作品がすごく好きで、King Tubbyのようなジャマイカのダブ・ミュージックも大好きでした。」

 

「レゲエを究極の音楽だと捉えたんです」、私が通訳を通して初めて1998年にインタビューした際、こだまはこう言った。「レゲエのインストゥルメンタルとダブを発見したときは、ずっと探し求めていたけどまだ見たことのない地平をやっと発見したような気持ちでした」と言うこだまは、京都の北東に位置する福井県の出身。彼も屋敷と同様にマーチング・バンドをやっていたが、こだまは他のメンバーよりも年上で、美術を学んでいたこともある。

 

ルード・フラワーが分裂すると、自然とミュート・ビートが生まれていた。「ルード・フラワーをやらないなら、別のバンドを結成しようということになりました」と屋敷は説明する。「トランぺッター、ドラマー、ベーシストの3人だけでまず始めました。実験するために、自分たちの求めていたもの、自分たちの音楽スタイルを見つけ出すためにAboというスタジオに入りました。UB40みたいなサックスとギターは入れたくなかった。いいベースラインといいメロディといいリズムさえあれば、十分に完成された音楽が作れると思ったんです。」

 

「僕は世界中の音楽やカルチャーに影響されています」とこだまは続けた。「でもミュート・ビートの音楽は、メロディがある僕の頭の中にしか存在していなかった。ジャズは僕にとって音楽ジャンルではなくて、自由を象徴するものでした。そして、その先にあるさらに自由な音楽のフォーマットが、僕にとってはダブだったんです。」

 

屋敷はさらに、「僕らはジャマイカ人でも、アフリカ人でも、イギリス人でもない。だから、日本人にしか作れない音楽を作ろうという、と話ました」と付け加えた。

 

 

当時、屋敷は他にもいくつかのバンドに在籍していたが、中でも特筆すべきなのがメロンだ。メロンは、プラスチックス解散後に中西俊夫と佐藤チカが結成したバンドだった。屋敷がメロンに加入したことで、ミュート・ビートの活動範囲が大幅に広がった。というのも、メロンは1982年にオープンしたピテカントロプス・エレクトスという、スネークマンショーの結成メンバーである桑原茂一、石原智一、そして中西が運営していたクラブのハウス・バンドの一つだったからだ。「僕らはクロコダイルでライヴをやってたんですが、中西さんとチカさんがニューヨークから戻ってきて、僕らのライヴを見たんです。当時メロンはピテカントロプス・エレクトスで週3、4回ライヴをやっていましたが、素晴らしいクラブでした。あそこに行くと、David Bowie、Bryan Ferry、Keith Haring、(Jean-Michel) Basquiatなんかが遊びに来ていて、流れている音楽はいつも聴いたことがないものばかりで。ヒップホップが出てきたばかりでしたが、すぐにみんな夢中になりました」と屋敷は語る。

 

「ピテカンは、世界中のクラブ・シーンと交流ができる基地のような場所でした」と桑原茂一は言う。「ミュート・ビートは閃光のような存在でした。それまでの日本の音楽は、全て既存のジャンルに属していました。でもミュート・ビートは、他のピテカンのレギュラー・メンバーと同様、ジャンルを横断するバンドだった。」

 

屋敷がメロンとミュート・ビートの両方のメンバーだったことから、メロンのキーボーディストの坂本みつわがミュート・ビートに加入することになった。「みつわさんはレゲエに興味があって、The SpecialsやUB40のようなスタイルが好きだったようです。彼女はミュート・ビートを、新しいスタイルの日本のレゲエ、新しいタイプの日本の音楽だと捉えてくれた」と屋敷は説明する。「彼女はレゲエを演奏するセンスが良くて、とてもシンプルな演奏が得意でした。必要以上の演奏はしなくて、僕たちもそんな彼女の演奏が気に入って。この編成が最初のミュート・ビートなりました。3人編成は悪くなかったけど、そこまで上手くいかなかった。みつわさんが加入したとき、ザ・スポイルとルード・フラワーのトロンボーン奏者だった星浩明さんもがミュート・ビートに加わった。ピアノ、ベース、ドラム、トロンボーン、トランペットという、ある意味モダン・ジャズのコンボに近い編成になりました。」

 

 

とはいえ、グループのメンバー構成は流動的だった。半年以内に星浩明が脱退し、松本隆乃が増井朗人を招き入れた。増井は他のメンバーと同様、マーチング・バンドの経験があったため、こだまが演奏するメロディにハーモニーを重ねることができた。「こだまさんが僕らの音楽の70%から80%を作っていました。彼はスタジオにメロディ・ラインだけを持ってきたので、僕はハーモニーを作る担当でした」と増井は説明する。「僕はシンプルなメロディ・ラインにシンプルなトロンボーンのフレーズを加えることで、どれだけ表現を豊かにし、感情的な変化を表現出来るかを考えました。子供の頃はクラシック音楽、特にJ.S. Bach、バロック音楽、ルネッサンス音楽に影響を受けました。」

 

ピテカントロプス・エレクトスに出演していた頃に、ミュート・ビートの最も特徴的なメンバーとなった札幌出身のダブ・ミキサー、ダブ・マスターX(以下DMX)こと宮崎泉が加入することになった。「高校生の頃に、初めてミックスに興味を持ちました」とDMXはメール・インタビューで答えてくれた。「サウンド・エンジニアの学校に行きたかったんですが、東京に出て来てからあまり勉強しなくなってしまった。僕みたいな田舎者には、東京にあまりにも誘惑が多くて、友達と遊んでばかりいました。友達に、ピテカントロプス・エレクトスという新しいクラブのことを教えてもらって、そこでミックス・エンジニアを募集しているという話を聞いたんです。初めてミュート・ビートを見たときは、UB40のコピー・バンドかな?と思いました。でもすぐに、そうではないということに気づかされましたね。」

 

DMXは「彼らには、最初から専属のエンジニアがいたわけではありません」と続ける。「私はまだ新米でしたが、チーフ・エンジニアにミュート・ビートのエンジニアをやらせて欲しいとお願いしたんです。そしたら幸運にもいいよ、と言ってくれて。もともと私はオペレーション(基本的なPAミキシング)だけさせてもらっていたんですが、本人たちが自らダブ処理をしていることをふと考えた時に、もし私がそれを手伝ったら、彼らはもっと演奏に集中できるんじゃないかと思ったんです。」

 

ダブ・ミキシングは疑いようもなくジャマイカを起源とするものだが、DMXはダブに影響を受けたUKの音楽から、より影響を受けたことを強調する。「1983年、当時はそれほどダブにのめり込んでいたわけではありません。もちろんとても興味深い音楽だったので、たくさんのレコードは聴きましたが、ルーツ・レゲエとルーツ・ダブにはそれほどのめり込めなかった。ジャマイカ人にしか出来ないからです。いくら日本でがんばっても、ジャマイカ人のようにルーツ・レゲエや ダブを作ることは不可能だと思った。私が本当に影響を受けたダブ・ミキサーはMad Professorだけです。Steven Stanleyのダブ・アレンジは大好きだし、Trevor HornやSteve Lipsonも好きで、エフェクトで背景が構築されたZTT Recordsのプロダクションにも凄く影響を受けています。」しかしながら、最も重要なポイントは、他の人の真似をしないということだった。「リーダーのこだまさんはいつも『余計な音は削ぎ落して、タフで強い音楽を作ろう。』と言っていて、皆も同じ考えでした。世界の誰にも真似できない、ライヴ・ダブ・バンドになりたかったんです。」

 

この目標を達成する上で即興演奏が重要な要素になっていき、特にライヴではDMXがダブ処理を加えると、すぐにメンバーが演奏を止めるようになった。こだまは、「即興は自由、スリル、そしてひらめきです。僕たちは楽曲を演奏する際に一切ルールを設けなかったし、ダブはこの音楽を実践する上で最も有効なスタイルでした。ダブ・マスターXはエフェクターやいろんな機材を使って、我々にスリリングな効果をもたらしてくれたんです」と説明する。

 

 

1983年末、ミュート・ビートがライヴ・シーンでインパクトを与え続けていた頃、10インチのシングル盤「Butterfly / Still Echo」が、クラブとして始まりレーベルとしては短命に終わったPithecan Recordsから極限定枚数のみリリースされた。同年9月にPhenomenonスタジオにてレコーディングされ、その後は活動を共にすることはなかった松留よしかずがギターを担当している。「Butterfuly」は、彼らには珍しく、屋敷と日本のレゲエDJ(ラッパー)の草分け的存在であるNahkiによる、アップビートなボーカル・デュエット曲だった。Nahkiは恐らく日本で初めてトースティングをアートとして追求したアーティストでもある。名曲「Still Echo」は、その後何度も再録されることになる。

 

それから程なくして、松本に代わり、より広い音楽性を持ちアコースティックのアップライト・ベースも弾ける松永孝義が加入した。屋敷は松永のことをこう語る。「松永さんの演奏スタイルは、他では見たことがないものでした。ソリッドでパワフル。いろんなスタイルを熟知していましたが、特にレゲエ、ファンク、アルゼンチン・タンゴが大好きでした。彼には色んなことを学ばせてもらいました。」当然このバンドの根幹にはレゲエがあったが、松永と増井は彼らにジャズという新たな方向性をもたらした。

 

1984年から85年にかけて、ミュート・ビートはさらに特筆すべき作品を、カセット・テープとアート/カルチャー・マガジンをセットにして発行していたTRAからリリースする。「TRAはartのスペルを逆さにした名前で、新しいアーティストのインデックスとして機能していました」と語るのは、フォトグラファー伊島薫とグラフィック・デザイナーのミック板谷と共にTRAを創刊した式田純だ。「私たちは東京のカルチャー・シーンを本気で変えようとしていた。ほとんどの物がつまらなくて、古くさかったから、ファッションや音楽、さらに他のカルチャー・シーンにおいても、過去に例の無いようなことやろうとしていたんです。」

 

 

こうして、1984年にミュート・ビートの疾走感あふれる曲「Shonen Tiger」が、山川惣治による1930年代の絵物語『少年タイガー』に付随する音楽として、TRAのコミック・スペシャルのカセットに収録された。重厚感のある木製のシガー・ボックスに入ったこのバイリンガル誌は、The Residentsや日本の様々なアーティストの音楽やアートを取り上げていた。物憂げなトランペットのイントロから、ギャロップするようなリズムに入るこの曲はミュート・ビートの演奏力の高さを示していた。その後にリリースされた数々の楽曲とは違い、コード進行やパーカッションが明らかに日本的だったのは、絵物語に合わせたものだったからだ。

 

1985年4月には、TRAがミュート・ビート音源だけを収録したカセット・アルバム『Mute Beat TRA Special』をリリースした。カセットを板チョコのように銀色のホイルに包み、前作同様シガー・ボックスに収めたこだわりの仕様は「感動を最大限にするため」だと式田は語っており、2〜3,000部がプレスされたと記憶している。さらに式田は続けて「”TRA Special”は作るのにかなり時間がかかりました。あまり予算もなかったので、YMOの細野晴臣さんが立ち上げたLDKスタジオでレコーディングしました。最初期のレコーディングは一発録りで、それを家に持ち帰ってDub Master Xと変なディレイを足したり、ダブ処理を加えたのを覚えています。」

 

結果として出来上がった『TRA Special』アルバムは、まだグループの方向性が定まり切っていなかったことが伺える多彩な内容だった。タイトルがジャマイカのトースティングからの影響を表し、最もレゲエ色が強くスキャットが散りばめられたダブワイズ・トラック「De Jey Style」、Horace Andyの「Money Money」を抽象的に解釈したような「Break A Road」、Dave Brubeckの「Take Five」をダブで再構築した「Dub No 5」などが収録されていた。これらに加え、ローランドTR-808を使ったファンキーなグルーヴのエレクトロを軸にした「Downtown」や、メランコリックなジャズ・ナンバーであった「Fiolina」を聴けば、その後のバンドの音楽性を概ね内包していたことが分かるが、屋敷の不明瞭なヴォーカルを乗せた「Mix Up」は、それらと比較すると成熟度がまだ低かったかもしれない。

 

 

坂本みつわは約半分の楽曲に参加しているが、アルバムがリリースされる頃にはバンドを脱退していた。代わりに加入したのは、増井が連れて来た博多出身のシンセサイザー・スペシャリストでThe Clashファンでもある朝本浩文だった。「みつわさんが辞めた理由は分かりません。飽きてしまったんじゃないかな」と屋敷は振り返る。「本気だったかどうかは分からないけど、こだまさんがステージで酔っぱらうと『みつわ、キスしてくれ』って言ってね。みつわさんは『冗談やめてよ』って言うやり取りを何度か見ました。でも、僕が想像するには、バンドの向かっていた音楽的な方向性が、みつわさんが行きたい方とは違ったんじゃないかな。」

 

1986年のOverheat Recordsとの出会いが、ミュート・ビートの地盤を固めることになる。Overheatのオーナーである石井志津男によれば、The Mighty Diamondsのジャパン・ツアーのサポートメンバーとしてこだまと増井を雇ったことがきっかけで、ミュート・ビートをマネージメントすることになる。「本当はレコーディングだけでバンドのマネージメントはやりたくなかったんだけどね」と石井は言う。石井は既にグラフィック・アーティストのGary Panterや Salon Musicというプラスチックス以降のニューウェーヴ・バンドを輩出し、レゲエ映画『Rockers』の日本配給、Bob Andy、Frankie Paulなどをリリースをしていた。

 

その後程なくしてグループはTamcoスタジオで、それからリリースされる数枚の12インチ・シングルのレコーディングに入った。彼らの実力を知らしめる最初のリリースだったが、またメンバーが入れ替わることになってしまた。屋敷は1985年にメロンと共にロンドンに渡り、Virginのためにレコーディングしていた。その後バンドはSonyと新たに契約し、ロンドンで次のアルバムをTrevor HornとBasing Streetスタジオでレコーディングをすることになっていた。そのため、こだまは一時的な代打として今井秀行を連れて来た。

 

 

「初めてこだまさんがステージでトランペットを吹いているのを見た時、一瞬でこだまさんとミュート・ビートの大ファンになったんです」と語るのは、こだまと一緒にジャングル・ジムというユニットで短期間共に活動した今井だ。「こだまさんは凄くヒップでユニークな人で、こだまさんの音色や音楽だけでなく、人間性に惹かれました。素晴らしいジャマイカのレコードをたくさん聴かせてくれて、そのほとんどがダブでした。ある日こだまさんが、『ここにあるレコード持って帰って聴いてみなよ』と言ってくれた。”King Tubby Meets Rockers Uptown”、”Super Ape”、”In The Light Dub”、”Man From Wareika”、”Seven Seals”、”Dance Hall Style”、”Macka Fat”など、そのどれもが最高でした!次の日自分のアパートにあったレコードを全部売っぱらって、ダブのレコードを買い漁るようになった。それが86年の春ですね。」

 

Overheatからの最初の12インチEPが1987年10月に世に出た時、それまでの作品よりも遥かに立体的なサウンドになっていた。疾走感あるスカのペースの「Coffia」は、ホーンの情緒的なファンファーレが、半音進行で際立ったメロディアスなベースラインの上に乗り、渦巻くようなオルガンのコードと軽快なキーボードが彩りを添えた。さらに抑制の効いたエコーがブレイクに入ることによって、レゲエの影響を覗かせ、こだまと増井のソロの掛け合いが緊張感を高めていた。

 

 

「Coffia」に続いてリリースされたオフィシャル・ビデオを見れば、ミュート・ビートがいかに多様なパーソナリティの集合体であったかが分かるだろう。松永は長髪の魔法使いの体で現れ、恍惚とアコースティック・ベースを弾き、こだまは神秘的な眼差しで激しいトランペット・ソロを鳴り響かせ、長身の増井がトロンボーンでその旋律を影のように追ったかと思えば、今度は一気に上昇し華やかで表現豊かな自分のパートへとさらう。朝本はエネルギー全開で、不良のシンセポップ・スターのようだ。ドラマーのポジションは頻繁に入れ替わったことから、今井の亡霊のように存在していた。クライマックスが近づくと、このバンドに不可欠なエコーとディレイを魔法のようにDMXが操った。

 

次いで12月に出たセカンド・12インチは、さらなる驚きに満ちていた。「Still Echo」がとうとう、バンドがピテカン録音時当初から思い描いていたであろう全面ステレオ処理によって再録音された。しかも、B面に収録されたヴァージョンはさらに意表をつき、ジャマイカのメロディカ・マスター、Augustus Pabloをフィーチャーしていた。前年7月にPabloがJapan Splash‘86出演のために来日した際、レコーディングされたものだった。「最初はそんなに熱心そうには見えませんでした」とDMXはPabloのことを振り返る。「でも曲のサウンドを聴いたら、演奏する気になったようでした。」このヴァージョンにはさらに、今井によるワンドロップ・リズムのドラムパートが加えられており、このバンドにおける彼のデビュー・レコーディングとなった。

 

 

間もなくして、ミュート・ビートはOverheatからのデビュー・アルバムとなる『Flower』を録音した。本作の制作は、『TRA Special』の収録楽曲(具体的には「Metro」、「Rhythm And Echo」、「Landscape」、「Beat Away」)を再度世に出す絶好の機会となった。新曲「Whisky Bar」には、レゲエのリズムに乗せた軽快でホンキートンクなピアノ・リフと、ブレイクには跳ねるようなベースラインとオルガン・コードが入っていた。恐らく、このアルバムがこれまでと最も違った特徴は、屋敷ほどロック色が強くない今井のドラミングだろう。石井は今井が類い稀なワンドロップ・ドラマーだと評するが、今井自身はパンクとニューウェーヴにルーツがあると述べている。

 

「まだドラマーとして成熟していませんでした。ですが、バンド・メンバー全員が励ましてくれて。とてもありがたかったです」と今井は言う。「バンドの加入時は、自分がレゲエ・ドラマーとしての存在感を持ち、特別な何かをもたらせていたとは思えなかった。そもそも、レゲエもスカもミュート・ビートに入るまでプレイしたことがなかったんです。僕はこだまさんと松永さんといつもつるんでいて、よく一緒にレコード屋に行って、僕が聴くべきものを選んでくれましたね。特にベーシストのFlabba (Holt) とドラマーのStyle (Scott)が並外れたサウンドを奏でていたRoots Radicsのレコードをたくさん教えてくれました。そのうち、Style Scottが僕の最も好きなドラマーの1人になりました。」

 

 

バレンタイン・デーに東京で行われたキーボーディスト、Gladdy Andersonのライヴのバックを務めたあと、その夏ミュート・ビートは『Flower』の全国ツアーを行った。その頃には、屋敷はメロンとのロンドン・レコーディングを終えてやっと帰国していた。しかし、彼はバンドを避けるようになっていた。旅が彼の気持ちをオープンにし、日本から出て海外で活動したいと考えるようになっていた。「東京に戻ってきたのに、なんだか居場所がなくなっていました」と彼は続ける。「Portobello Roadでのレコーディングは貴重な体験でした。日本には日本文化しかないということに気づかされました。日本人がやっていることしかない。でもイギリスに来てみて、こっちはずっと規模が大きいということに衝撃を受けた。多文化が混ざり合っているからです。アフリカ人もジャマイカ人も、あらゆる人がここにはいる。『僕は一体何をやってるんだ?』って何度も自問しました。だからメロンも辞めて、ミュート・ビートも辞めて、身一つになって何かをしたり新しいことを学びたくなった。東京でこのまま続けていても、成長出来ないと思ったんです。こだまさんにそのことを話したとき、やっとミュート・ビートのレコードが売れるようになってきたところでした。それまでまったく売れてなかったのに!だからこだまさんは少しショックを受けていましたね。」

 

ミュート・ビートが次のアルバムを発売するまでの間、1988年の春夏には重要なライヴ・イベントがいくつか開催された。5月、日本国内のイベントでRoots Radicsと並んでヘッドライナーを務めた。7月には、伝説のジャマイカン・サックス奏者、Roland Alphonsoのバックとして、渋谷のパルコ5階にオープンしたばかりのクラブ・クアトロに出演した。「7月15〜17日に3公演がスケジュールされていたので、7月頭からリハーサルを始めました」と、今井は当時を振り返る。「トマトスの松竹谷清さんがサポートのギターとしてリハに参加していました。彼はThe SkatalitesやStudio Oneの音をよく知っていたので、すぐにバンドに溶け込みました。」

 

しかし、最後の最後で思いがけないことが起こった。Roland Alphonsoのビザ申請で問題が起き、石井が裏でよほどの画策しない限り、伝説のサックス奏者の来日は絶望的になってしまったのだ。「Rolandのビザの状況はかなり悪く、7月15日まで何の進展もないままでした」と今井は続ける。「初日公演の朝、機材を会場に搬入していると、Rolandが飛行機で東京に向かっているという知らせが届きました。開場時間にやっと彼が到着したので、開場時間を遅らせて、ステージでRolandと5分ほどだけリハーサルをして、すぐに演奏を始めました。本当にドラマチックでしたね、Rolandの来日は無理だと諦めそうになっていたので。彼は脚が悪かったので、とてもゆっくり歩きました。でもステージの上ではとてもパワフルで、すべての曲で数分に及ぶソロ演奏をしたんですよ。本当に楽しい3日間でした。」

 

 

Alphonsoがステージに登場する前、ミュート・ビートは次のアルバム『Lover’s Rock』から何曲かを演奏した。これには8曲の書き下ろしとIan Duryの「Lullaby for Francies」インストゥルメンタル・カバーが収録された。「新曲のみで構成されたアルバムをゼロから制作するのはあれが初めてでした」と今井は語る。「だから、『Flower』時よりもリハーサルに長い時間をかけました。このバンドは極めて民主的だったので、各メンバーがアイディアを持ち寄り、お互いの意見をしっかり聞き、みんなで一緒に曲を作り上げていきました。それは素晴らしいことでした。でも民主的な方法での曲作りには短所もあった。例えば、曲自体のフォーカスが失われ、根本的な力強さが無くなってしまうことがある。この経験からは、たくさんのことを学びました。」

 

アルバムのタイトル名『Lover’s Rock』は、英国発祥のサブジャンルであるロマンチックなレゲエ・バラードを想起させるが、実際はどの曲も全くこの枠にはまるものではなかった。むしろアルバム全体を覆っているのは、「Old Air」や「Everyday」に顕著に聴き取れる、センチメンタルな雰囲気である。しかし、増井作曲の「Down Train」ミュート・ビートらしい安定感の抽象的な曲や、こだま作曲の彼らしいダブ仕様のメランコリックな「キエフの空」も収録されていた。

 

さらに混乱を助長したのが、スリー・マイル島原子力発電所の写真を配したジャケットだった。「原子力業界に対しては、バンド・メンバー全員が共通意識を持っていました」と今井は説明する。我々は当時も今も、原子力発電所と原子力産業そのもの、そして当然核物質を使用した核兵器(もしくは軍事兵器全て)に反対です。こだまは日本で最も原子力発電所が多い福井出身なので、地域住民がどのように不当に原子力産業と関わらされていたか、どれほど多くの人たちが汚職に関わっていたかをよく知っていました。初めてこだまさんに会った時、人間が放射性物質を扱おうとすることがどんなに馬鹿げたことか、色々と教わりました。二年が経過していましたが、チェルノブイリ事故はまだ僕たちの中では重要な話題で。発電所の強力なイメージをジャケットに使おうと提案したのもこだまさんでした(元々アルバム・ジャケットは基本的にこだまのアイディアで制作されていた)。凄くパワフルなジャケットだと思います。特に2011年の福島原発事故を体験した今」。

 

 

次にミュート・ビートがリリースしたアルバムは、意外であったが、納得のいく新しい方向性を示した。石井が企画した『Mute Beat Dubwise』は、バンドの音源のダブ・リミックス集だった。 典型的なレゲエの流れを汲み、ジャケットの表面にはKing Tubby、Lee “Scratch” Perry、DMXが描かれているのにも関わらず 、見かけとは少し違う内容になっていた。King Tubbyの「代理」として、実際には仲間のKen “Fatman” GordonがTuff Gongにて3曲のミックスを手掛けており、Perryはいくつかの曲にヴォーカルを提供しているものの、それらのミックスはLloyd “Bullwackie” Barnesがニュージャージーの本拠地にてミックスしていた。いずれにせよ、その結果は非常に素晴らしいもので、「Beat Away」、「Still Echo」、「Down Train」、「Summertime-Frozen Sun」などミュート・ビートの名曲が、新たな次元のダブによる魅力を放っていた。

 

なぜTubby本人ではなく、Gordonが代理で参加することになったかについて今井はこう説明する。「当時はまだインターネットもない時代で、キングストンにはFAX機もあまりなかったので、King Tubbyのスタジオで使用していたテープデッキに関する情報が中々手に入りませんでした。DMXは48トラックのデジタル・マスター・テープを、1インチの16トラック・テープにコピーし、(それをジャマイカに運ぶ係であった)石井さんに託したんです。彼はいつも、『あとは俺がキングストンで何とかする』とか『大丈夫だよ、俺はとにかくジャマイカへ行くぞ』なんて言っている人で、僕は石井さんのそういうアグレッシブな姿勢がとても好きでした。そして彼らが実際にウオーターハウスにあるTubbyのスタジオを訪れたところ、新しいスタジオを建設中で、残念ながらTubbyの手元には1インチ16トラックのテープデッキがありませんでした。さらに彼には、自分のスタジオ以外では絶対にミックスを行わないというポリシーがあった。代わりに彼は、愛弟子であるFatmanをTuff Gongスタジオに送り、彼にダブ・ミックスを任せる事を提案したんです。彼は石井さんに自身の名義をクレジットすることを承諾しました。個人的に、僕はFatmanのミックスのドラム・サウンドをとても気に入っています。鳴るべき音で鳴っているように聴こえる。でも現実には、僕たちが夢見ていた70年代後半のBlack Ark StudioやKing Tubby Studioのような場所は、もう存在していませんでした。」

 

『Mute Beat Dubwise』でDMXが手がけた3曲は、今振り返ると本人は納得がいっていない部分もあるというが、収録されている他の楽曲と比べても全く引けを取らない彼のダブ・ミキサーとしてのスキルを明確に示していた。「私が初めてダブ・ミックスを担当した作品は『Deep Drift Dub』と『Per Head』でした。今聴き直してみると若干硬く聴こえますね。もっとじっくり取り組んでいれば、更にタフで面白いダブになっていたかもしれません。『After The Battle』はそのスタイルでミックスしたもので、ダブというよりリミックスするという意識で取り組みました。ですから、テープ速度を落としてキーを下げ、ピアノを加えたんです。似た手法でリミックスされていた、Art of Noiseの『Moments In Love』に影響を受けて作りました。」

 

 

ミュート・ビート最後のスタジオ・アルバムとなった『March』は1989年にリリースされ、朝本浩文に代わって加入したじゃがたらの北村賢治と、トマトスの内藤幸也をフィーチャーしていた。彼らの存在が、ミュート・ビートのサウンドの完成度をさらに高めた。いつも通りのレゲエを基調にアブストラクト・ジャズを掛け合わせた「道しるべ」や「Carrilion」。「Harmony In Martinique」はややわざとらしいシンセ・ラインが導くストレートなレゲエ・ソング。タイトル曲のファースト・ヴァージョンはバンドのルーツであるマーチング・バンドにオマージュを捧げているが、”Rebel Music In The Air” ヴァージョンではそれをルーツ・ロック・レゲエに再構築している。どういうわけか、「Raindrops Keep Falling On My Head」のヴァージョンや「Fiolina」のニュー・テイクも収録されていた。このアルバムは、DMXのミックス方針が初めてはっきりと示された作品という点でも注目に値する。

 

国際的な注目もピークに達していたミュート・ビートは、『March』の大々的なツアーを行う。日本での日程を終えた後、いくつかのライヴのためにアメリカに渡った。この旅は、素晴らしい体験となった。今井はこう振り返る。「Lloyd “Bullwackie” Barnesが僕たちのツアー・マネージャーになってくれました。彼はレジェンドで、僕たちは彼と彼の音楽の大ファンでした。サンフランシスコでの公演を終えた後、彼はバックステージまで来て、いかに僕たちのパフォーマンスに感動したかを伝えてくれました。一晩中笑顔を絶やさず、松永がFamily Man Barrettに似ているなんて言っていましたね 。その後LAで公演を行い、そこからニューヨークに向かいました。ニューヨークの雰囲気には本当に刺激を受けました。当時、 DJ Noriさん(現在は東京が拠点のハウスDJ)というDMXの友人がニューヨークに住んでいて、 彼に伝説的なクラブであるSound FactoryやThe Choiceに連れて行ってもらいました。衝撃的な体験でしたね。サウンド・システムがもの凄い上に、音質もこの上なくて、そこでようやくハウス・ミュージックのレコードがどういった環境でプレイされるべきものなのかを学び理解しました。」

 

アメリカでの経験が有意義なものとなり、バンドには明るい未来が待っているように思われた。バンドの人気も急上昇し、国外のオーディエンスからも注目され始めた矢先、深刻な問題が起こり始める。ワシントンD.C.での公演がキャンセルになり、UKツアーも中止。それに伴い、予定されていたUB40のAli Campbellとのレコーディングも延期となってしまった。表面下でくすぶっていた問題が徐々に拡大し、長年の蓄積されてきた問題の数々は、もう乗り越えることが出来ないように思われた。

 

「『March』で、初めて全編のエンジニアを自分が担当しました」とDMXは語る。「しかし『Dubwise』以降、他のメンバーと確執が生じてしまいました。私のやり方に彼らを従わせようとしていた。思い返すと、自己中心的だったと思いますし、それを後悔しています。でも、これは私だけに言えることではなくて、メンバーみんながそれぞれ異なる意見と確執を抱えていた。」

 

 

「僕個人は、『March』のレコーディング中慢性的な手首の痛みに苦しんでいました。」今井はこう語る。「痛みを緩和するため、演奏スタイルを変えたんです。でも、全く上手くいかなかった。本当に憂鬱でした。アメリカ・ツアー直前に、ドラムをやめようと決めて、ツアーから戻ってきたらバンドにミュート・ビートを脱退することを告げるつもりでした。異なる方向性に進むべき時だと思ったんです。ツアーから帰ってきてから一発目の東京でのライヴの後、石井さんとメンバーでミーティングをして、みんなに脱退する意思を伝えました。そしたら同じ場で、内藤さんもバンドを辞めて、よりロック、R&B寄りのバンド、スーパー・バッドに入ると言ったんです。」

 

脱退を考えていたのは今井と内藤だけではなかった。1989年11月にはバンド・リーダーのこだまも脱退を宣言した。石井は、この頃のこだまは精神的に参っていたのではないかと察する。その理由の一つに、アメリカで思いがけず初めて目の当たりにした、ホームレスの人々の壮絶な生活環境に対する衝撃が考えられる。アルコールの関与もあったかもしれない。こだま自身は、自由な表現を求めたことが一番の動機だと語る。「僕がバンドを辞めたのは、 独りになって、もっと自由な芸術的表現を追求したかったからです。」

 

更に詳しく聞いてみたところ、辞めていくメンバーの代役を探す苦労も原因の一つだったと言う。「バンドの解散は、自分にとってもバンドにとってもマイナスな出来事であって、それ以上掘り下げることはありません。レゲエ・バンドは、ドラムとベースが基盤。屋敷が辞め、今井が加わり、松本が辞め、松永が加わり、ベストなメンバーを維持することが難しかった。僕たちはロックやジャズ・バンドではなかったので、そう簡単には新しいメンバーが見つからなかった。ミュート・ビートのオリジナルなサウンドは、リズム・セクションにかかっていたので。しばらく辛い時期を過ごした後、バンドがいなくても自分の音楽が作れる事に気づいて、マイナスな状況をプラスに変える事が出来ました。」

 

1990年初頭までにミュート・ビートは完全に解散していたが、ストーリーはまだここで終わらない。解散後、今井はBullwackieとのコラボレーションのためアメリカに渡り、石井の弟のソニー落合と共に初めてジャマイカを訪れ、そのままニューヨークに居着く。松永は数年の間身を引いていたが、90年代前半から散発的にレコーディングを再開。こだま和文もしばらく公の場からは離れていたが、1996年には活動を開始し、ソロに加えて屋敷との意外なコラボレーション・ユニットKODAMA & GOTAを結成し。アルバム『サムシング』をリリースした。「僕はミュート・ビートを脱退したので、こだまさんには嫌われていると思っていました。でもそれから10年の月日が経って僕たちも少し大人になり、本当に楽しくアルバムを制作する事が出来ました。AswadのTony Gadや、Dennis Bovell、Rico RodriguezやJanet Kayなどのメンバーと共に。まるで夢が叶ったみたいでしたね。」

 

 

屋敷とのコラボレーション後、こだまはSonyからLee “Scratch” Perryをフィーチャーした『Quiet Reggae』、SpeedstarからBulllwackieをフィーチャーした『Requiem for Speedstar』などのアルバムをリリース。松永はセッション・ミュージシャンとして活躍し、2004年にはソロ・アルバム『The Main Man』を発表した。朝本は数々のバンドでプレイし、当時のディープ・ダブ、ジャングルやトランスなどへの挑戦を試みた。

 

90年代半ばのこだまと屋敷のコラボレーションは、バンド・メンバーたちを長く結びつけた親密さを表している。実際のところ、屋敷は松永とMatsunaga Rhythm Sectionとしてもコラボレーションしており、今井も海外に移り住んでいるにも関わらず、数人のメンバーたちと今も連絡を取り合っている。「僕とこだまさん、内藤さん、松永さんは解散数年後から、とても仲良くしています。僕が帰国した時はみんなで飲みながら何時間も語り合います。」

 

そして2008年、石井からグループのメンバーに意外な声がかかった。石井はOverheatの設立25周年を記念して、4月2日にリキッドルームで一夜限りのミュート・ビート再結成コンサートを開催したいと考えたのだ。果たして一晩のために、過去の相違を乗り越え、オリジナル・メンバー集まってくれたのだろうか?こだま、屋敷、松永、DMX、増井、朝本、そして内藤、全員が参加に同意したのであった。屋敷はこう振り返る。「ミュート・ビートの再結成は一度も話題に上がった事はありませんでした。でも、みんな石井さんを本当に尊敬しているので、『よし、やろう!』と決めたんです。」

 

過去にはメンバー間の相違があったかもしれないが、再結成のパフォーマンスは大成功だった。しかし、肺炎の犠牲となった松永が2012年7月に他界してしまい、このようなイベントは二度と実現出来なくなってしまった。ミュート・ビートの音が沈黙に取って代わられても、その影響力が消えることはない。彼らは間違いなくドライ&ヘヴィーのようなジャパニーズ・ダブを受け継ぐ次世代のバンドや、マイティー・マサやラス・タカシ、若い世代のネオ・フォーク・シンガーの元ちとせなどの手本となった。アシッド・ジャズやトリップ・ホップといったブームをはるかに先取りし、日本と欧米の架け橋となった真の東京アンダーグラウンドのパイオニア、その音楽は時と場所の境界を超越する。

 

インタビューに応じて頂いた、ミュート・ビート、プラスチックス、TRA、スネークマンショーのメンバーのみなさん、石井志津男さん、そして通訳のサポートをして下さった澤大介さん、ご協力ありがとうございました。

 

Photos: Hiroshi Nirei