十一月 11

Masters At Work:インタビュー

Masters At Workの来日を記念して、2013年のRBMAレクチャーからの抜粋・編集記事を紹介

By Red Bull Music Academy Japan

 

“Masters At Work(仕事の名人)”と言う名前が、彼らのすべてを物語っていると言っても過言ではないだろう。’Little’ Louie VegaとKenny ’Dope’ Gonzalesは、独創的な制作スタイルと様々な音楽スタイルにおける想像力を武器に、20年以上に渡りダンスミュージックの新しい道を共に築き上げてきた。共通の友人Todd Terryを通じて出会い、数々の楽曲を手がけ、不朽のヒット曲を生み出していった彼らの活動は、ニューヨークハウスの始まりから絶頂期までの道のりと同義語と言えるだろう。彼らの強みである、Masters At Workはリミックス制作を中心に、Madonna、Debbie Gibson、Lisa Stansfield、 Saint Etienne、Michael Jackson、Brand New Heaviesなどを含む、約800組もの多種多様なアーティストと楽曲制作を行ってきた。ハウス、ヒップホップ、ファンク、ディスコ、ラテン、アフリカンミュージック、ジャズまで、ありとあらゆる音楽をひとつの普遍的なグルーヴにミックスさせていったMasters At Workは、私たちが生きる多文化社会の象徴とも言える、カルチャー・メレンゲとなった。今回は11月18日の来日公演を記念して、2013年のRed Bull Music Academyにおける彼らのレクチャーから一部を抜粋・編集した記事を紹介する。

 

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来日情報:

 

Masters At Work in Japan 2017

 

日程:

2017年11月18日14:00 - 21:00

 

会場:

ageHa

http://www.ageha.com/

 

 

詳細:

http://mawinjapan.com/

 

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インタビュー本文

 

RBMA

今日はニューヨーク出身のゲストを2人迎えています。私が彼らをどれほど好きなのかについては、いくらでも語ることができますが、おそらく皆さんにとっては非常につまらない話になるでしょう。ですので、早速本題に移ります。まずは前置きとして、「一体どこでハウスミュージックは始まったのか」という現在進行形のテーマがあります。シカゴの人たちはシカゴで始まったと言うでしょうし、ニューヨークの人々はパラダイスガラージをはじめとするあの時代のあらゆる現象から始まったと言うでしょう。その答えが何であれ、Louie VegaとKenny Dopeはハウスシーンに多大な影響を与えた人物と言えます。まずどこでハウスミュージックが生まれたかではなく、Masters At Workがどうやって始まったかについて話していければと思います。

 

Kenny Dope

そうだね、Masters At Workはブルックリンで始まったんだ。元々僕は自分のクルーと一緒にブルックリンにあるサンセットパークというエリアでその名前でパーティをやっていた。徐々に50人、75人、100人と遊びにやって来る人が増えていった。当時、僕はMike Delgadoと一緒にパーティをやっていたんだけど、Todd Terryがよく僕たちのパーティに来ていたんだ。それがToddに出会ったきっかけだね。そしてToddが僕にLouieを紹介してくれたんだ。その頃僕たちはスピーカーを担いで運んで、パーティを定期的に開催していたんだけど、僕はパーティに飽きてしまって、音楽制作やビートメイクを始めたくなった。それで、学校をサボってToddの家に行っては、彼の制作を眺めていたのさ。それが音楽制作の始まりだね。1987年、1988年からNu Groove Recordsでリリースをスタートさせた。デビュートラックが「Power House」で、そのあとで「Celia Cruz」というラテンレコードをサンプリングした「A Touch Of Salsa」をリリースした。つまり、僕たちが出会った時点で、僕はすでにレコードをリリースしていて、Louieがそのレコードを持っていたのさ。それでLouieがToddに僕のレコードについて話したことがきっかけで、Toddが僕たちを繋げてくれたのさ。当時Louieはそのレコードをリミックスしたがっていて、結局それは実現しなかったんだけれど、最終的に僕たちは一緒に音楽を作るようになった。Louieは家にドラムマシンを持っていて、それを使って一緒にビートメイクをするようになった。それが1990年だね。

 

Todd Terryが2人を繋げた存在だったんですね。

 

Kenny Dope

まさにそうだね。そして実は1987年以前、ToddはMasters At Work名義で2枚レコードを出していたんだ。でも僕はToddに「いつかまたその名前を使うつもりだから」と伝えていた。それで1990年にLouieと出会い、「何か一緒にやろう」と話していた時に、この名前を使うことにしたのさ。

 

Todd Terryの名前を知らない人のために、彼について少し話してもらえますか? 

 

Kenny Dope

Todd Terryとは、シカゴハウスにヒップホップのフレイバーを付け加えた人物だね。その当時、彼のトラックはただただハードだった。ハードハウスの生みの親さ。彼がサンプリングする楽曲の多くはブレイクビーツだった。彼はヒップホップ育ちだったから、そのバックグラウンドを生かして制作を行っていた。実は、彼の「Party People」は、Marshall Jeffersonのトラックをサンプリングして作ったトラックなんだ。Toddは僕にとって特別な人物だ、なぜなら彼の制作を眺めるところから僕の音楽制作活動が始まり、彼が僕にLouieを紹介してくれたわけだからね。もし彼がいなければ、今日という日も決してなかっただろう。

 

「A Touch Of Salsa」を初めて聴いた時のことを覚えていますか? 

 

Louie Vega

覚えているよ! 僕はブロンクス出身で、1985年にブロンクスで本格的にDJを始めたんだ。Kennyがブルックリン出身で僕はブロンクス出身だから、僕たちはかなり遠く離れていたんだけど、「A Touch Of Salsa」が僕たちを出会わせてくれたんだ。Devil’s Nestという、ヒップホップレーベルFever Recordsのダンスミュージック版のクラブがあって、そこで一度DJをした後に、レジデントDJにならないかと誘われたんだ。これをきっかけにニューヨークのクラブでたくさんギグをこなすようになった。それで、Todd Terryが僕のところにカセットを持ってくるようになったのさ。でも、僕は「カセットはプレイしないよ。オープンリールで持ってきてくれ」と頼んだんだ。当時は、アセテートじゃない場合は、オープンリールでプレイする必要があったんだ。

 

Kenny Dope

アセテートについて説明しなよ。

 

Louie Vega

おっと、そうだね。レコードをマスタリングするとき、アセテートを使うんだけど、それがレコードを作るための原盤になるんだ。分厚い板のような… 何でできてるんだっけ? 

 

Kenny Dope

内側はメタルでできていて、ラッカー塗料で表面がコーティングされているものだ。非常に重くて、テストプレイ用なんだ。

 

Louie Vega

当時のToddはアセテートを作れなかったから、オープンリールを持ってくるように頼んだのさ。当時の僕は、オープンリールデッキと3台のターンテーブル、Ureiを持っていた。

 

Ureiは、縦フェーダーのミキサーとは違うミキサーですよね。 

 

Louie Vega

そうだね、Ureiは各チャンネルがノブなんだ。僕にとってUreiはベストミキサーだね。1980年だったっけ、Ureiが生まれたのは。何年も前だ。まぁとにかく、Ureiは当時ニューヨークのどこのクラブにもあったんだ。だからToddはその翌週末にオープンリールを持って戻ってきた。彼は数曲持ってきていたんだけど、Kenny曰く、それらはKennyがToddのスタジオにいた時に作られていた曲だった。「Royal House」とか…。

 

Kenny Dope

「Black Riot」とかね。

 

Louie Vega

Toddの作ったトラック群は84~85年にハウスミュージックが初めて出てきた頃に作られたもので、その元ネタの多くはシカゴ産だった。当時は他にも様々なスタイルの音楽があった。それらはハウスとは呼ばれてはいなかったけど、 ニューヨークではダンスミュージックとしてまとめて認識されていたね。

 

すでにクラブミュージックと呼ばれていたんですよね? 

 

Louie Vega

そうだね、クラブミュージックと呼ばれていた。ハウスという言葉がちょうど生まれた頃で、ハウスミュージックとも呼ばれていた。Todd Terryはそういうトラックをサンプリングしていた。Marshall Jeffersonはもちろん、D.J. Internationalをはじめとするシカゴのビッグレーベルからリリースされていたトラックさ。でも彼はヒップホップやブレイクビーツもサンプリングしていた。Public EnemyやAfrika Bambaataaをね。Toddはそういうトラック群を組み合わせて、さらにパワフルなサウンドに変えていたのさ。シカゴのアーティストたちからは怒りを買っていたけどね。

 

Kenny Dope

彼らはかなり怒っていたね。

 

Louie Vega

その頃、Kennyも活動をしていて、すでにDope Waxを立ち上げていたから。Kennyのことは知っていた。彼はディスコとFanina Recordsのラテン系アーティストの楽曲をサンプリングしたクールでグルーヴィーなトラックを作っていて、僕はよくプレイしていたんだ。ちょうどその頃、僕はToddと仲良くなっていた。Toddはよくブロンクスに来ていたから、「Kennyを紹介してくれないか」と訪ねると、「彼はレコード屋で働いていて、たくさんのビートを作っているよ。Nu Grooveがディストリビューションを担当する自分のレーベルDope Waxからリリースしている」と教えてくれた。僕はKennyのトラックを集めていたから、彼がヒップホップ、ディスコ、ファンク、ソウルと、あらゆる音楽を愛していることを、彼の音楽から感じとっていた。僕は彼のそういった様々なジャンルへの造詣の深さと、曲のバリエーションの豊富さが大好きだった。それでお互いを紹介されたあと、Kennyは少しずつクラブに足を運んでくれるようになった。

 

1985年~90年にかけて、僕はたくさんのリミックスを手掛けるようになっていた。ErasureからDebbie Gibsonまで、ありとあらゆるリミックスを手がけた。それで、Atlantic Recordsと契約を結んだんだ。彼らは「君はたくさんのリミックスを手がけているよね。Atlantic Recordsに来てこのアルバム制作をしないか?」と声をかけてくれた。それがちょうどKennyに出会った頃だったんだ。だからKennyに「ちょうど今このアルバムを作っているんだけれど、君にビートパートを作ってほしい。君はたくさんの素晴らしいビートを作るから、たくさんのビートを作ってもらって、僕がそれに上音を乗せて、一緒にグルーヴを作り出して行きたいんだ」と声をかけて、制作活動を進めていった。アルバムのビートの大半はKennyが作ったんだ。それで、そのアルバムを作り終えたあとも一緒に曲を作っていった。それをFrankie Knuckles、Tony Humphries、Junior Vasquezに渡すようになったんだ。

 

当時の彼らはビッグDJでしたね。

 

Louie Vega

当時も今もね。彼らは僕たちの音楽にハマっていったよ。僕たちのトラックは全方向へのアピール力を備えていた。それに当時、僕はAtlantic Recordsと契約していた上に、Warner Brothersとも数多くの仕事をこなしていたから、たくさんのポップグループのリミックスの仕事が入ってきた。だから僕は「Kenny、これらのリミックスを一緒にやろう。でもB面は僕たちの名前がクレジットされるような、スタジオで僕たちがやっているような、他とは違ったことをやろう。何か名義を用意してね」と話した。Kennyのことはビートメイカーとしてだけではなく、プロデューサーとしても信用していたし、僕たちは一緒に成長していけると確信していた。それでKennyから「Louie、僕たちのこのプロジェクトをMasters At Workと名付けたいんだ」と言われたのさ。僕が「それってTodd Terryが使ってる名義じゃない?」と返すと、「元々は僕のクルーの名前だったんだ。だから取り戻したんだ」と言ってきた。それで、Masters At Workと名乗ることにしたのさ。

 

Masters At Work dubの初期作品のひとつに、Debbie Gibsonの「One Step Ahead」があります。

 

Louie Vega

彼女は当時のBritney Spearsのような存在だったんだ。そんなシンガーの曲を、アンダーグラウンドのDJがプレイするなんて想像できるかい? Frankie Knucklesが彼女の曲をプレイしたり…。Tony Humphriesが彼のラジオのミックスショーで彼女の曲をプレイしたり…。僕たちはただただ圧倒されたよ。1990年だったかな。僕たちにとって、フレッシュなサウンドをキープすることと、常にクリエイティブなビートを作ることはとても大切なことだった。Kennyが作り上げたすべてのドラムキットを聴いて、僕はいつも「Kenny、もっとたくさんの異なるドラムキットを組む必要があるな」と言っていたよ。そして僕たちはそのすべてのドラムキットを使いながら、曲を作っていったんだ。それが僕たちの制作方法だったね。僕たちは様々なビートを編集しながらトラックを作っていたんだ。

 

Masters At Workだけではなく、ニューヨーク産ハウスミュージック全体がそういう流れでしたよね? 

 

Kenny Dope

そうだね。僕にはプログラミングにハマっていった時期があった。本当に深くまでハマっていたよ。当時の多くのプロデューサーたちは、僕がどうやってプログラミングしているのかを解明して、真似しようとした。僕のビートを理解するために、相当聴き込んでいたね。僕は一時期2台のドラムマシンを同時に使ってシンクロさせたり拍をずらしたり、ありとあらゆることをやっていたからさ。僕は彼らとある種のゲームをしていたんだ。「もっとディープなところまで行ってみようぜ」ってね。

 

常に一歩先にいく必要を感じていたのでしょうか? 

 

Kenny Dope

そうだね。基本的にはレコードごとに異なるドラムキットを使っていた。ドラムマシンのプリセットは使わなかったよ。レコード別にキットを組んでいたんだ。僕たちが一緒に作った初期の作品のうちのひとつは、明らかに初期の909の音だったけど、それ以降はどんどんクレイジーな音になっていったね。

 

Louie Vega

そうだね、シンセサイザーを使う以上、「この音だ」というようなサウンドを見つけることが重要だった。そういうサウンドを見つけたあとに、それを使ってトラックを作ったのさ。そのサウンドがインスピレーションになったんだ。僕たちにとって、それが常に最重要ポイントだった。誇張しているわけじゃないよ。本当に1日18時間ノンストップで、毎日作り続けた

 

Kenny Dope

1990年代中頃に、僕たちはスタジオを2~3カ所借りている時期があったんだ。僕たちはずっとそのスタジオを行ったり来たりしていて、それはもうクレイジーだったね。大量の音楽を作っていたけど、その倍の依頼を断っていた。すべてを引き受けることは無理だったんだ。本当にね。1日中スタジオにいて、数時間だけ家に帰ってシャワーを浴びて、またスタジオに戻ってまた次の曲、そしてまた次の曲と言う風に作っていた。それが生活のすべてだった。

 

当時のメジャーレーベルの多くが、ポップミュージックにアンダーグラウンドなリミックスを加えようとしていた理由は何だったのでしょう?

 

Kenny Dope

彼らはたくさんのレコードを売っていたからね。その当時は、MP3はもちろん、CDさえなかった。カセットとレコードだけだった。そして彼らは海外でもレコードを売っていて、現地のDJたちがプレイしていた。僕も含めたそういうDJたちの多くは、クラブでのプレイのため、自分自身のためにと2枚、時には3枚と同じレコードを買っていたよ。

 

Louie Vega

UKのダンスシーンはとても大きくて、たとえばダンスミュージックのレコードがナンバーワンのポップ曲になりえたんだ。僕たちがクラブのために作ったようなハウスレコードでもね。それも彼らがアンダーグラウンドなリミックスを欲しがっていた大きな理由のひとつだった。僕たちが自分たちのレーベルを始めた時は、130,000枚も売れた。それはもうすごいことで、「僕たちのレーベルがこんなにもたくさんのレコードを売っているのか」と感動したね。メジャーレーベルは、ダンスミュージックがひとつの波を起こしているところを見ていたのさ。USの複数のラジオ局で、ダンスミュージックがかかるようになり、それが注目されると、メジャーレーベルがTen CityやUltra Natéなどのダンスミュージック系アーティストと契約を結んでいった。Strictly RhythmやNervous Recordsのようなニューヨークハウスのビッグレーベルもだね。彼らについて調べてみれば、そういう曲を沢山見つけられると思うよ。

 

当時のニューヨークのハウスミュージックがラジオ、メジャーレーベル、そしてNervousやStrictly Rhythmなどのビッグレーベルに大きく影響していた理由は何だったのでしょう? 

 

Kenny Dope

当時の選択肢が少なかったからさ。ストリートで育つのか、音楽を作ってDJするのか、もしくは大学に進学するのか。当時はこういう選択肢しかなかった。だからたくさんのキッズがDJになりたがった。彼らはまずDJを始めて、それから曲を作り始めた。そしてキーボードを弾き始め、その中の一部はリズムに興味を持ってビートメイクを始めた。その当時はあらゆるレーベルが次世代の若いキッズを探していて、僕たちのようなレコードを作っている若者がたくさんいたから、良い時代だったと言えるね。当時は、ベッドルームで音楽を作り、移動式のパーティを仕掛けていた多くの若者が、レコードを作り始めていたんだ。そしてそういう若者のトラックを手に入れようと、レコードレーベルが小切手を片手に目を光らせていたのさ。それで少しずつ、そのうち何人かの曲が売れ始め、そこそこのお金を生み出すようになった。そうやって僕たちも海外に進出し、ツアーするようになった。それが続いていったんだ。

 

あなたたちはニューヨークのグループとして海外へ進出したわけですが、UKを含め、異国の地をどう感じていましたか? 

 

Kenny Dope

実際に海外進出する前から、どうやって発音するかもわからないような外国から小切手を受け取ることがあったんだけど、クレイジーな気分だったね。「自分たちのレコードがそんな国でプレイされたのか?」ってさ。そうやって遠くまでレコードが届けられてプレイされていることは衝撃的だった。海外プロモーターたちが、「僕たちの街のクラブで是非プレイして欲しい」と電話をくれ始めたのもその頃だ。僕たちも「あんな遠いところに行くのか」という気分になったよ。それで2人で一緒に行ったり、ソロで行ったりするようになった。先にLouieが80年代後半に行ったのかな? プロとして海外に出向き、大好きなDJができるなんて、本当にクレイジーだよね。

 

Louie Vega

僕たちのリミックスをリリースするメジャーレーベルや、Strictly Rhythm、Nervous Recordsなどが近所にあったから、僕たちはよくスタジオで制作をしては、朝4時にNervous RecordsのMichael Weissに電話をして、「今すぐスタジオに来いよ」って伝えていたよ。当時はそれだけ活気があったんだ。Michaelは4時半に僕たちのスタジオに来て、僕たちが作ったばかりの曲を聴いていたよ。僕たちはそれだけワクワクしていた。Strictly RhythmのGladys Pizarroもね。僕たちにはそういう販売経路があった。彼らは世界中に様々な人脈を持っていたし、UK、イタリア、フランスなどありとあらゆる国のライセンスも持っていた。そういう背景が、僕たちの音楽を海外へ送り出すきっかけになったんだ。海外に進出し始めて、Masters At Workとして初めてUKに行った時なんかは、もう大混乱だったね。大量の音楽を生み出すMasters At Workという2人組は、一体どんな奴らなのか、みんなが知りたがっていた。他の国でも同じで、ひとつギグをこなすと、その次、またその次とどんどん増えていったんだ。

 

Kenny Dope

その頃はFacebookなどのソーシャルメディアは一切存在しなかったからね、だから誰も僕たちがどんな人物なのか知らなかったんだ。僕たちがクラブに出向くと、「あれがMasters At Workなのか?」、「そうだぜ、あのハットの奴らさ」なんて騒がれたね。僕たちは “ハットの2人組” だったんだ。当時は、多くの人と繋がれる機会があっても、そのすべてと同時には繋がれない時代だったから、クレイジーだったね。僕たちの音楽にハマってくれている人たちみんなと繋がれるようにならないといけない。でもその頃はソーシャルメディアなんてものはなく、自分たちの音楽をプロモートしてくれるPRがいるだけだった。

 

Masters At Work名義のオリジナルトラックの制作を始めた経緯は? 

 

Louie Vega

Debbie Gibsonをはじめとするミュージシャンにリミックスを提供するとき、僕たちはいつもプラスアルファで他の曲も持っていたんだ。1991年だったと思うけど、Cutting RecordsからMasters At Work名義のファーストアルバムをリリースして、その同じ年にリミックスを始めて・・・。

 

Kenny Dope

そういうリミックスの制作過程で、レーベルに提出するにはもったいないほどカッコいいトラックがいくつか出来上がったんだ。僕たちはそれらを自分たちのためにキープしておいた。それでも他にも良い曲は作っていたし、レーベル、アーティストのために素晴らしい曲を作っていた。でも「これはまずいな、メジャーレーベルからリリースされても埋もれるだけだ」と思うトラックは手元に置いておいた(笑)。

 

Louie Vega

それで、僕たちはCutting Recordsと契約を結んで、僕たちのトラックをリリースしたんだ。僕たちはヒップホップもハウスも好きだったから、「よし、片面にヒップホップ、もう片面にはハウスを入れて、ハウス好きの人たちに送り届けよう」って感じで、他とは違う構成にした。それが「The Ha Dance」と「Blood Vibes」だ。その当時、僕はクラブでヒップホップ、レゲエ、ハウス、ディスコなど、ありとあらゆるものをかけていた。だからその影響が僕たちの音楽にも染みついていた。それがCutting Recordsからリリースしたアルバムの準備を進めていた頃さ。レーベルのためにダブを作りながら、僕たちは「ヴォーカルを入れて、自分たちのダブだってみんなが気づけるように作る必要があるんじゃないか? ひとつの小さいフックだけじゃなくてさ」と考えて、ヴォーカルも乗せるようになった。それでIndiaと「I Can’t Get No Sleep」を作ったんだ。僕たちにとっては分岐点になった。この頃から自分たちのスタイルで音楽を作り始めていったんだ。

 

「The Ha Dance」は今でも高い人気を誇っていますね。

 

Louie Vega

この曲は僕たちがスタジオを行き来して作ったレコードだ。Kennyがブロンクスに来たんだ。僕の家にはドラムマシンとキーボードがあったからさ。Korg M1とE-mu SP-1200だよ。Kennyは何だっけ、AKAIを持ってたんだよね? 

 

Kenny Dope

S-950だね。

 

Louie Vega

あとは小さいミキシングデスクもあった。そうやって作ったトラックがMasters At Workの最初期の作品群さ。これも、一室に集まって作ったそういうトラックのひとつだった。本当に大ヒットになった。クレイジーだったよ。ヒップホップファンやヴォーグダンサーなど、ありとあらゆる人が好きになってくれた。僕たちはただただ驚いたね。とてもエキサイティングなトラックだったから、ラテン系のクラウドにも受けた。僕は当時Roselandでプレイしていたんだけど、4000人近くのキッズに向けてプレイしていたよ。1985年から90年の間、僕はニューヨークのほぼすべてのメジャークラブでプレイしたよ。たとえば1978年のディスコ初期のStudio 54ではなくて、89年のStudio 54などでプレイした。当時そういうクラブでプレイするときは、金曜なら2500人、土曜なら4000人もの人が集まっていた。Public EnemyやTen City, Indiaなどがラインナップを埋めていた。フリースタイルのアーティストやハウスアーティスト、ヒップホップアーティストまでが出演していた。当時はヒップホップ好きだとかヴォーガーだとか、そう言った垣根を越えてみんながダンスミュージックを愛していたんだ。

 

Kenny Dope

クラブもオーディエンスも、ただただ良い音楽を求めていた。

 

Louie Vega

当時、このレコードはとてつもなくパワフルだった。永遠に生き残るようなパワーがあった。YouTubeで検索すると、ヴォーギングバトルの動画の中で、今でもこの曲が使われている。思わずKennyに、「おい、この動画見ろよ、俺らの曲を毎回使ってるぞ」って伝えたよ。たくさんのヴォーガーが僕たちのクラブに来るようになった。彼らは僕のところにきては「Louie、君は分かってないよ、これは私たちのアンセムなんだ」なんて言うのさ。この曲はしぶとく生き残ったね。

 

ユニークなヴォーカルサンプルがその要因でしょうか? 

 

Louie Vega

あの大きなクラップ音がね。あの音が彼らにパーフェクトにマッチしたんだ。君たちはあの音が映画『Trading Places(邦題:大逆転)』からのものだって知ってるよね? Eddie MurphyとDan Ackroydが電車に乗っているシーンで、"ビビディ、ビビディ、ビビディ、ハッ! "っていう音が使われていたんだ。あのサウンドを使うなんて、誰も考えつかないアイディアだったのさ。

 

Kenny Dope

僕たちはラッキーだ(笑)。

 

Masters At WorkはCutting Recordsと名義関係のトラブルを抱えていました。契約を交わす前に音楽専門の弁護士をつけるのは大事なことだと思いますか?

 

Louie Vega

そうだね。音楽専門の弁護士をつけたほうがいい。エンターテイメントビジネスに特化した弁護士だ。契約内容に目を通すことはとても大切なことで、簡単に人を信用しちゃいけない。必ず書類に目を通して、何について契約を交わしているのか理解しなくちゃいけない。僕たちの場合は、法律関係の問題で約10年間身動きが取れなかったからね。そして10年経ったあとは「もうまっぴらだ」って気分になったよ。Masters At Workは、Cutting Recordsに10年間閉じ込められていたんだ。僕たちはアルバムを彼らに譲らなければならなかったし、いくらかお金までも渡したよ。でも僕たちはそれ以外にもたくさん曲を持っていたから、「大丈夫、立ち直っていけるさ、僕たちには僕たちの名前がある」と考えていた。

 

その流れで、別名義を用意するアイディアを思いついたんだ。Hardrive、The Bucketheads、Sole Fusion、Nuyorican Soul、そういう名義を用意したのさ。結果的に良い方向に進んだよ。別名義を使い分けるために、自分たちの音楽の幅も広げることになったからさ。たとえば、Hardriveにはこのヴァイブス、Bucketheadsにはあのヴァイブスって感じで、Kenlouや他の名義もそうだけど、それぞれが異なるヴァイブスを備えていた。

 

今名前が挙がった別名義Hardriveのヒットトラックのひとつに「Deep Inside」があります。この曲について少し説明してください。

 

Louie Vega

「Deep Inside」はMasters At Workの曲のようなパワフルさはないんだ。なぜならMasters At Workのトラックは、もっと大きいスタジオで、良いクオリティの楽器や機材を使って作ったものだったからね。あまり精密ではないし、別に僕もそれを期待していなかった。でも、上手くヒットしたし、今でも愛され続けている。本当に感謝しているよ。君たちがこの曲を好きでいてくれて、本当に嬉しい。あと言いたいのは、君たちにもその可能性があるってことさ。大金をかけた大きなスタジオで、音楽を作る必要なんてない。自分自身が熟知していて、使い勝手のいい機材を少し持っているだけでいい。そしてあとは音、サウンドチョイスが肝心だ。君たちは僕たちが若かった頃よりも、はるかに様々な方法で曲を作ることができる。僕たちはただ曲やヴォーカルを引き伸ばすためだけに何時間も費やしたんだから。

 

Kenny Dope

昔は何日もかけて行っていた作業が、今はAbletonを使えばたった10分で済む。昔の僕たちは何曲ものヴォーカル曲のリミックスを手がけていた。オリジナルのテンポはBPM100くらいだったから、僕たちはそれらをクラブ仕様のテンポに変えないといけなかった。僕たちのエンジニアたちがそのストレッチ作業を行っていたんだけど、何時間もかかったよ。

 

当時は自分のスタジオを持っていたのですか? それとも時間で借りていたのですか? 

 

Kenny Dope

 

僕は一度お金を貯めたあとは、家にスタジオを持っていた。スタジオに行く前に無駄な時間を過ごすのが嫌だったからね。自分のスタジオでは、2人で作る予定のトラックのベーシックな部分を準備していた 。僕たちはスタジオに入る前に電話をしていたよ。僕が電話越しに彼の弾くキーボードを聞いて、彼が「今日はこれだけ進んだよ」なんて言っていた。僕はビートを作って、それをレコーディングしてディスクに書き出してはスタジオに持って行った。そして彼がそこに自分の音を乗せて曲を作っていった。90年代を通して、僕たちはBattery StudioやAxisをはじめとするたくさんのスタジオを使っていたんだけど、僕たちのマネジメント会社がスタジオを建てて、のちに自分たちでそのスタジオを買ったんだ。僕たちはクラブサウンドが出せる空間が欲しかったからね。僕たちはクラブ向けのレコードを作っていたから、スタジオ内にサブウーファーが欲しかったし、パワフルな音が聴ける環境が欲しかった。そこが僕たちのホームベースになったよ。Mood II Swing、Eric Morillo、そしてMichael Jacksonを手がけたDexter Jenkins、Rodney Jerkinなど、たくさんの人が来ていた。僕たちの仲間が制作方法をチェックしにスタジオに来ていた。あれは良い時間だったね。

 

Nuyorican Soulの名前も出ましたが、この名義をスタートさせた経緯は? 最初期のトラックに「The Nervous Track」があります。このトラックはMasters At Workとしての特徴も感じられますが、それまでとは少し違いますよね。

 

Kenny Dope

当時僕たちはUKに頻繁に通っていたんだけど、当時、Southportという名前のパーティがあったんだ。そのパーティには5つのスペースがあって、すべてで異なるジャンルの音楽がかかっていた。そのうちひとつは全員ジャズダンサーのスペースで、みんなスーツにタップシューズ、女性はみんなドレスアップして、ものすごく速いテンポのジャズレコードで踊っていたよ。フロア全体のヴァイブスはクレイジーで、まるで別の世界に入り込んだようだった。それでLouieに、「これはクレイジーだ。僕たちもただのフロア向けの4つ打ちじゃなくて、少しビートを抜いたような曲を作ってみよう」って提案したんだ。それで作ったのが、このトラックだよ。Nuyorican Soulの最初期だね。キーボードやホーンを使ったよ。これはのちに「You Can Do It」に影響を与えたね。あの全体のまばらなビートのヴァイブスはこのトラックから来ている。Nuyorican SoulはこのトラックとSouthportから生まれたんだ。

 

Louie Vega

そうだね。このトラックはすべてシンセ類で作られていて、唯一の生音はコンガだね。このトラックでKennyはジャズレコードからドラマーの音をサンプリングするという、とてもユニークな手法を試している。

 

でも、Nuyorican Soulファンももちろんいるけど、僕たちのトラック群の中で今の若い世代が好きなのは、さほど派手でも豪華でもない地味なトラックなんだ。特にテクノシーンや前衛的なタイプのクラブサウンドを好む人たちは僕たちの初期作品が好きなんだよ。僕がキーボードを弾いているシンプルなメロディラインがクラブで映えるんだと思う。でも、当時の僕たちはNuyorican Soulで次のレベルに進みたかった。だから数多くのミュージシャンたちと一緒に仕事をしたよ。それまでも、ミュージシャンたちと仕事をした経験はあったけど、Nuyorican Soulとして本当に数多くのミュージシャンと仕事をすることで、僕たちはネクストレベルに達することができた。素晴らしいミュージシャンたちに甘えるようになってしまったのさ(笑)。

 

Kenny Dope

Louieはそれ以来、自分で演奏しなくなった。今でもね。でも、また演奏したほうがいいんじゃないか? みんな生っぽい粗い音の曲を求めてるんだから再開しなよ(笑)。