十一月 01

Manuel Göttschingが語る『E2-E4』

ドイツを代表するエレクトロニック・ミュージシャンがクラシックトラックの誕生秘話を語る

By Manuel Göttsching

 

ドイツを代表する作曲家・ミュージシャンがRed Bull Music Academy Berlin 2018のレクチャーに登場し、1981年にレコーディングしたエレクトロニック・ミュージックのマスターピースについて語った。

 

 

 

『Inventions for Electric Guitar』から『E2-E4』までの5~7年間は、色々なことが起きた。まず、『Inventions for Electric Guitar』のあと、私はギターサウンドを求めなくなった。私は常に新しい何かを求めるタイプだ。何かを1回試してみて、その結果に満足すれば、それを繰り返すことはない。なので、次はキーボードのための作曲を始めた。それがソロアルバム『New Age of Earth』になり、このアルバムがUKのVirgin Recordsとの世界契約に結びついた。

 

また、この頃は自分のスタジオをさらに作り上げていった。機材を増やし、シンセサイザーを追加した。シーケンサーとMinimoogも手に入れた。そして、Ashra名義で、他のミュージシャン2人と制作をするようになった。彼らとは『Correlations』と『Belle Alliance』の2枚を制作した。さらに、1977年には別のソロアルバム『Blackouts』をレコーディングした。そのあと、シーケンサー、シンセサイザー、キーボードを使うソリストとしてパフォーマンスをするようになった。

 

当時仲の良かった、ベルリンのファッションシーンで著名な女性が、非常に興味深いショーを展開していた。当時はまだ誰もやっていなかったマルチメディアなショーで、パフォーマンスアートとフィルム、エレクトロニック・ミュージックを組み合わせていた。エレクトロニック・ミュージックはまだ新しい音楽だった。私はそのショーでパフォーマンスをするようになった。60~80分ほどの即興だったが、これは良いトレーニングになった。

 

このトレーニングが『E2-E4』の制作に繋がった。Ash Ra Tempelで一緒だったKlaus Schulzeから、ゲストプレイヤーとして彼のツアーに参加してくれと頼まれて、そのツアーから戻ると、ライブパフォーマンスの感覚がまだ残っていた。なので、数週間後にスタジオでレコーディングすることにした。レコーディング方法は何年、何回も続けてきたものと同じだったが、この日はどこか特別だった。技術的な問題やノイズが一切起きなかった。

 

 

 

 

別にアルバムをレコーディングしようという気持ちはなかった。ただのセッションで、2トラックのテープマシンにレコーディングしただけだった。スタート直後のリズムが自分の望んでいたものではなかったので、レコーディングを止めようと思ったのだが、どういうわけか「このまま続けてみよう」と踏み止まった。今日ここにいられるのはラッキーだ。あの日はとてもリラックスしていた。実際、アルバムもそう聴こえるかもしれないが、実は、このアルバムに辿り着くまで何年も作品を重ねてきた。何年もエクスペリメンタルなトレーニングとパフォーマンスを続けてきた。その中のひとつの素晴らしい瞬間に過ぎない。

 

私はただ演奏したいと思っていただけだったので、自分のスタジオで何回もやってきた方法を繰り返した。この頃の私は、30分程度のレコーディングを何回も行っていた。たまに開始10分ほどで何かが起きてレコーディングを止めることもあったが、この日はたまたま1時間続いた。

 

レコーディング後に手を加えることはなかった。オーバーダブの類いは一切しなかった。エディットも行わなかった。何も触らなかった。EQさえ触れなかった。ただそのまま放って置いた。実は、レコーディングを終えたあと、私は少し驚いていた。「今のは何だったんだ?」とね。それで聴き返すと「ほぼパーフェクトじゃないか」と思えた。

 

 

 

“『E2-E4』をRichard Bransonに聴かせた。彼は生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱えていて、その赤ん坊は眠っていた。彼からは「ひと山築けるぞ」と言われた”

 

 

 

実は、すでに別の新しいソロアルバムの制作に着手していたのだが、そのアルバムはよりオーケストラ的で、より楽曲的だった。そんな時に突然このテープが生まれた。「どうすべきだろうか?」と思案していると、周りの友人全員から「絶対にリリースすべきだ」と言われたので、ロンドンへ向かった。Virgin Recordsとの契約がまだ残っていた。しかし、契約内容はオープンだった。契約を維持しても良かったし、破棄しても良かった。この頃のVirginは、小さなインディーレーベルから一大企業へと成長していた。なので、買い取ってくれるかもしれないが、隅に放られてそのまま忘れられてしまうかもしれないと思っていた。コード2つで1時間という内容を、どうやってヴァイナルで売れば良いのか? 私にはグッドアイディアではないように思えた。

 

ロンドンではRichard Bransonに聴かせた。聴かせたのは彼の自宅だったボートで、彼は生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱えていた。その赤ん坊は眠っていた。彼からは「君はこれでひと山築けるぞ」と言われた。

 

私は「なるほど。アドバイスありがとう」と返しただけで、それから2年放っておいた。すると、Klaus Shulzeが私のところへやってきた。彼は、近い友人と自分のためだけに小さなレーベルを立ち上げようとしていた。Inteam Recordsという名前が付けられていた。それで「このレーベルに参加しないか?」、「音源はないか?」と尋ねられた。それで「よし、それなら『E2-E4』はどうかな?」と渡した。小さなレーベルだったので、リアクションをリアルに理解できると思ったからだ。

 

1984年にリリースすると、ベルリンでは奇妙なリアクションが起きた。このアルバムについて「本人がどんな言い訳をしても受け容れられない」と書く人たちがいた。彼らは、私がエレクトロニック・ミュージックの進化を全くフォローしていないとし、Depeche Modeを聴くべきだと続けていた。

 

タイミングは良くなかった。1970年代が終わるまでに、エクスペリメンタルなエレクトロニック・ミュージックのピークは過ぎていた。機材が一気に市場に出回るようになったからだ。日本製電子楽器がひとつの大きな市場を作り上げた。Roland、Yamaha、Korgの3社が特に目立っていて、彼らはシンセサイザーやキーボードを製造していた。しかも、次から次へと製造していた。誰もが電子楽器を使うようになり、エレクトロニック・ミュージックのエクスペリメンタルな側面については話す人はいなくなった。市場が拡大し、ポップミュージックのスタンダードになっていたからだ。

 

1980年代前半は新しい世代が台頭した。ドイツ国内ではドイツ語の歌詞を用いたノイエ・ドイチェ・ヴェレがピークを迎えていた。UKではパンクからニューウェーブが生まれ、Human Leagueのようなシンセポップバンドも登場していた。チャートで成功を収めていたのは彼らのような音楽で、もう誰もTangerine Dreamを聴こうとはしていなかった。

 

この音楽がミュージシャンやプロデューサーの間で評価されるようになったのは、1980年代後半か1990年代初頭、私が呼ぶところの「テクノ・ピリオド」になってからだった。彼らがこの作品を思い出し、また興味を持ち、プレイするようになると、またコンサートが開かれるようになった。

 

 

 

“ニューヨークのクラブ、Paradise GarageではLarry Levanがフルレングスをプレイしていた。のちに、彼が自分の葬式でのプレイを望むほど気に入っていたことを知った”

 

 

 

『E2-E4』はリリースから数年は鳴かず飛ばずだった。突出した素晴らしい瞬間はなかった。ゆっくりと時間をかけながら成功を収めていった。ニューヨークでは、Paradise GarageというクラブでLarry Levanがフルレングスをプレイしていた。のちに、彼が自分の葬式でのプレイを望むほど気に入っていたことを知った。デトロイトにも『E2-E4』をプレイしているDJたちがいた。彼らはサンプリングやリミックスもしていた。そのようなレコードがUKに入ってきた1989年に私はそのような事実を知った。他にも『E2-E4』のリミックスやヴァージョンを制作したがっていたDJが何人かいた。Sueño Latinoのヴァージョンがあるが、彼らはその許可を得るためにわざわざベルリンまでやってきた。驚いた。レーベルマネージャーが、私が一切知らなかったブートレグやリミックスを色々と見せてくれた。

 

信じられなかった。「ダンスミュージックを意識して制作したわけではないし、キックドラムも強くないのになぜだ?」と思った。もちろん、このリズムと浮遊感に合わせて踊ることは可能かもしれないが、私には想像できなかった。

 

私にとっては、瞬間を反映させただけの作品だった。その時できることをやっただけだった。複数のアナログシーケンサーを使って演奏しただけだった。それらの使い方、演奏方法、ミニマリズムから受けた影響が反映されているだけだ。作曲やレコーディングをする時は、そのジャンルや届けたいオーディエンスなどについては考えない。もちろん、私には経験があるので、どういう方向に進んでいくのかは理解できるが、自分から決めることはない。だからもちろん、この時も、ただ完成した作品を受け容れ、「これは1960年代のクラシックなミニマリズムから、テクノ・ピリオド、またはモダン・エレクトロニクスへの移行のようなものだな」と思っただけだった。『E2-E4』はその2つの間に架かる橋のようなものだ。私はそう考えている。

 

 

Header Photo:© Fabian Brennecke | Red Bull Music Academy