十月 23

ロングインタビュー:Jeff Mills in 2005 Part 2  

デトロイトテクノのレジェンドが誕生した背景は? プログレッシブな思考とスキルで世界をリードし続けるDJ / プロデューサーのキャリア初期を振り返る

By Frank Broughton

 

音楽制作の現場がビッグスタジオからベッドルームへと移行していった時代、1998年にドイツ・ベルリンでスタートしたRed Bull Music Academyの記念すべき第1回レクチャーを担当したのが、この時代の寵児のひとり、Jeff Millsだった。

 

すべてを客観的に捉える姿勢と未来思考、異常に高いDJスキルから "宇宙人" と呼ばれることも多いMillsだが、本人を支えてきたのはクラブ&ラジオDJ、Final CutやURでのトラックメイク&レーベルなどのデトロイト時代の人間的で地道な活動だ。

 

今回は、2005年にロンドンで行われたFrank Broughtonによるインタビューの後半は、Final Cut時代、Underground Resistanceを始めたきっかけ、Movementの印象などについて語られている。

 

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― 初めてレコードを制作したのはいつでしたか? ミックスショーでのサウンドスケープ的な音楽ではなく本格的なトラックを制作したのはいつでしょう?

 

ラジオ局時代だ。機材のプログラミングに興味を持ったので、自分のトラックを作り、ミックスに取り入れてみようと思うようになった。別にリリースするつもりはなかったが、これがきっかけでトラックを制作するようになった。以前、Final Cutというインダストリアルテクノユニットに所属していたが、ラジオ局時代に学んだプログラミングの知識だけでこのユニットのアルバムを制作できた。

 

 

― Final Cutのアルバムがキャリア初リリースだったのでしょうか?

 

ファーストアルバムだった。このアルバムの前に、他のアーティストのリリースに関わっていた。リミックスなどでね。

 

 

― Final Cutについて話してもらえますか? 当時はインダストリアルが自分に一番近い音楽だったのでしょうか?

 

当時のデトロイトではテクノとインダストリアルがブレイクしていた。Front 242やNitzer Ebb、ShriekbackやLove And Rocketsだ。私よりもインダストリアルに興味を持っている人物と出会い、2枚のレコードをリリースした。パフォーマンスをしたのは1回だけだ。Tresorの前身レーベル、Interfischに招かれてベルリンでライブをした。出演したのは彼らが企画したフェスティバルで、Baby FordやClock DVAなども出演していた。

 

 

 

― デトロイトがヨーロッパの音楽だったインダストリアルを積極的に受け入れた理由はどこにあったのでしょうか?

 

ラジオ局とMojoの存在が大きかった。デトロイトの地理的条件も理由のひとつだったと思う。デトロイトはカナダからほど近い。市民は気付いていないが、デトロイトはカナダが隣という地理的条件から何かしらの影響を受けている。川を越えれば完全に違う国というのは非常に面白い。

 

デトロイトの歴史も理由のひとつだと思う。デトロイトは1920年代から1930年代にかけて非常に裕福だった。自動車産業と軍需産業が栄えていたからだ。デトロイトでは自動車だけではなく飛行機も製造されていた。それで市民は裕福になり、より洗練されていて先進的な思考をするようになっていった。これが世代から世代へと受け継がれていったんだ。

 

私の家系は南部から北部へ移り、工場で働いた。他の多くのブラックファミリーと同じで、デトロイトへ辿り着いた彼らはフューチャリスティックな新世界に出会ったんだ。アイオワからニューヨークへ出て行くのと同じだ。

 

その未来へ向かって移動するというメンタリティが世代から世代へ引き継がれていき、私たちもデトロイトの外へ飛び出したいという気持ちを持ちながら育っていった。その気持ちは常にあった。常に何かユニークなもの、自分たちを表現するものを探していた。音楽はそのひとつだったんだ。ファッションもそうだ。音楽やファッションに大きな影響を受けているキッズたちの小さなグループができていたんだ。

 

 

― テクノという言葉を初めて聞いたのはいつですか?

 

Kraftwerk「Musique Non Stop」だと思う。

 

 

 

― デトロイトの文脈の中で使われていたテクノを初めて知ったのは?

 

Juan、Derrick、Kevinのレコード経由だったと思う。

 

 

― インダストリアルから自然にテクノへと流れていったのでしょうか?

 

デトロイトでは両方が混じり合っている時期があった。テクノシーンとインダストリアルシーンが一緒にパーティをしていたんだ。デトロイトは非常に細かくすみ分けされている都市なので、長くは続かなかった。何か悪いことが起きるぞとクラブ側も散々言われていたんだろう。

 

 

― 人種的に大きく違ったということですか?

 

インダストリアルシーンは郊外のホワイトが多かった。テクノシーンは大半がブラックだった。しばらく一緒にパーティを楽しんでいて、その期間は交流があった。だが、一部の人、クラブオーナーやクラブはその交流を良く思っていなかった。それでパーティがキャンセルになったんだ。ブラックの男性がホワイトの女性と一緒にクラブから出てきたり、ホワイトの男性がブラックの女性と一緒にいたりするのを好まない人たちがいたんだ。

 

 

― 人種への偏見ということですか?

 

そうだ。Richie Hawtinが証言してくれるだろう。昔、彼はホワイトの客が多いクラブでプレイしていたんだが、ブラックの客が増えてきたので、ブラックミュージックを積極的にプレイするようにした。するとクラブオーナーからブラックを店に入れたくないからブラックミュージックをプレイするなと言われたんだ。

 

一時期的にこういうミックス状態だったが、長く続かず、すぐに完全に2分化した。2つのシーンがミックスしていた頃に興味深い出来事がいくつか起きたんだ。

 

 

― いつ頃の話ですか?

 

1983年だ。

 

 

― Richie Hawtinはすでにカナダからデトロイトへ通っていたんですか?

 

彼はまだとても若かったが、デトロイトのDJグループと一緒に行動していた。彼が本格的にブレイクするのはそれからかなり経ってからだ。

 

 

― すでに活発なシーンがあったんですね。

 

ああ。

 

 

― Final Cutが終わったあとは何が起きたのでしょう?

 

アルバム『Deep Into the Cut』の制作時にキーボードが足りないことに気が付いた。レコーディング用機材は揃っていたが、このアルバムに必要なキーボードがなかったんだ。だが、色々な種類のキーボードを持っている人物を知っていた。リミックスやエディットの制作時にその人物から借りていたんだ。それがMike Banksだった。

 

リミックスやエディットで使いたい時に電話をして借りていた。だから、この時もMikeがキーボードを持って私のところへやってきた。それでTonyと私のアルバムを聴いたんだ。そしてこれがきっかけで連絡を取り合うようになり、Final Cutが終わったあとも関係は続いていた。

 

当時、MikeはMembers of the Houseというバンドのメンバーだったが、バンドメンバーのひとりがスタジオミュージシャンを目指すためにロサンゼルスへ去ってしまうと、バンドは彼だけになってしまった。だから2人でUnderground Resistanceをスタートさせることにしたんだ。

 

 

― Underground Resistanceの結成経緯を教えてください。

 

私たちは音楽業界に不満を抱えていた。2人ともメジャーレーベルと組もうとして失敗した経験を持っていたんだ。私はFinal Cutでかなり辛い経験をしていた。酷い契約内容を破棄するために自分たちの音楽をレーベル側に譲らなければならなくなった。馬鹿げた話だった。それで「音楽業界でキャリアを築くつもりなら、自分ですべてをやる必要があるぞ」と思ったんだが、Mikeも同じことを考えていたんだ。

 

 

― 参考にできるレーベルとしてすでにTransmatとMetroplexがありました。

 

どちらもすでに軌道に乗っていた。Kevinも「Big Fun」と「Good Life」をビッグヒットさせていて、「Strings of Life」もすでにリリースされていたので、私たちが参考にできるものは沢山あった。アドバイスをもらえる人たちもいた。

 

URの作品はいくつかのレーベルに送ったが、反応がほとんどなかった。それでますます自分たちでやろうという気持ちが強くなった。それでJuanのMetroplexに持ち込み、DerrickのTransmatに持ち込んだあと、自分たちでやることに決めた。

 

 

― Mikeは好戦的な人物に思えます。色々なマニフェストや政治的メッセージも持っていますし…

 

Mikeはナイスガイだよ。

 

 

― ですが、URには反体制的な要素がありますよね。Underground Resistanceという名前だけである程度反体制的だということが伝わってきます。

 

ミニマルなストラクチャーを維持し、個人的な意見やオーディエンスから距離を取り、音楽だけにフォーカスしようとした。音楽だけを通じてオーディエンスと接することで、音楽の中に込められているメッセージやアイディアをより強調できると思ったんだ。そしてその通りに実行した。

 

 

 

 

― ヴォーカルなし・歌詞なしの音楽にどうやって政治的なメッセージを持たせるのでしょうか? メッセージを届けることはできるのでしょうか?

 

特定の方法でしかイデオロギーを打ち出せないことに気が付いた。まず、レーベルデザイン、トラックタイトル、EPタイトルを上手く組み合わせる。そしてレコードの内容を補完するための短い文章やイメージをディストリビューターに渡して、自分たちのアイディアを説明する。あとは勝手に広まっていく。

 

 

― “アーティスト神話” からの離脱を狙っていたのでしょうか?

 

Underground Resistanceという存在を知ってもらいたかっただけだ。私が去ったあと、Mikeはこのアイディアをさらに強く押し出した。“アーティストは神” という考えは重要ではないと思っていた。JuanとDerrick、Kevinに起きたことから学んでいたし、自分たちは別の方向へ進むべきじゃないかと感じていた。KevinはVirginと契約していたが、残念な結果に終わったはずだ。

 

 

― それよりも前はどうでしょう? デトロイトのアーティストたちが自分たちのトラックを『Techno: The New Dance Sound of Detroit』にライセンスしてブレイクした頃、デトロイトはどんな雰囲気だったのでしょう?

 

デトロイト市民は何が起きていたのか分かっていなかったが、DJたちはスペシャルな何かが起きたことを理解していた。私たちが雑誌などを見ることはなかったので、世界がどう思っているのかについては分からなかったが、新しい音楽がデトロイトから生まれているということは分かっていた。非常に先進的な音楽だった。

 

 

― デトロイトテクノをユニークな音楽、ひとつの独立したジャンルだと感じたのはいつですか?

 

かなり前からユニークだと思っていた。なぜなら、私は常に新しい音楽に触れていたからね。ニューヨーク、ヨーロッパ、シカゴ、マイアミ、サンディエゴなど色々な国や都市の音楽を聴いていたから、ユニークかどうかを判断できるだけの知見が備わっていたんだ。

 

デトロイトテクノの特徴はドラムマシンのプログラミングとドラムマシンの種類にあった。また、メロディアスなシーケンスとベースラインもシカゴとは大きく異なっていた。私が思い描いていた音楽はシカゴハウスよりもプログレッシブだった。複雑なので頭を使って聴く必要があった。シカゴよりデトロイトの方がヨーロッパへ憧れていたこともこの特徴に繋がったと思う。

 

 

― DerrickやJuanが自分たちの音楽を説明するために使用していたセオリーはある程度 “後付け” だったのでしょうか?

 

ある程度はそうだったと思う。最初の頃の彼らは自分たちが何をやっているかまったく分かっていなかったはずだ。自然にあの音楽になっていったんだろう。世間の反応を見る、つまり、レコードをリリースして周りの発言や考えを知れば、自分の中でそれらとの摺り合わせが行われ、ある種の “合意” が生み出される時がある。

 

Mikeと私のUnderground Resistanceはその真逆だったと言える。私たちは自分たちの音楽がプレス工場から出荷される前の段階から自分たちが何をやっているのか分かっていた。自分たちがそのレコードで何を狙っているのか、そのレコードが誰に向けられているのか、コンセプトは何なのかをすべて理解していた。自分たちの音楽がどう呼ばれるのかも分かっていた。私たちは自分の音楽に関するすべてをリリース前から知っていた。

 

 

― 誰に向けられた音楽だったのでしょうか?

 

質問する相手によって答えが変わってくる。私からはあまり話すことはない。Mikeに訊ねるべきだ。私が言えるのは、私たちは何が起きているのか分かっていたということだ。ヨーロッパに人脈もあったので、必要な情報を集めて自分たちの方程式に入れ込むことができた。私たちは知っていた。多くを理解していたんだ。

 

 

― すぐにあなたは頻繁にUKを訪れるようになります。

 

ああ。高頻度でヨーロッパを訪れるようになった。ドイツ、スイス、オーストリア、ベルギーで多くの時間を過ごした。

 

 

― あなたの音楽が非常に優秀な輸出品になったことをどう感じましたか?

 

素晴らしい気分だった。最高だったよ。

 

 

― では、自分の音楽が世界中で称賛された一方、地元ではそこまで評価されなかったことをどう感じましたか?

 

その通りだ。デトロイトの歴史を踏まえると地元での人気の低さがひときわ目立つ。Motownが成功を収める前からデトロイトはボードビル的な音楽で有名だった。音楽が生まれる街として知られていたんだ。

 

デトロイトの歴史を振り返りつつデトロイトでテクノがそこまで受け入れられなかったことを考えると悲しくなってくる。自分を重ねてしまう。だが、単純にそういう都市だというだけの話なんだ。音楽を制作・製造・輸出するだけの都市なんだ。デトロイトはそういう都市なんだよ。

 

 

― デトロイトで企画されているテクノフェスティバル(※1)には関わっていますか?

 

いや。

 

 

― テクノの “ホームカミング” という位置づけなのでしょうか?

 

私には分からない。Derrickに訊ねるべきだ。色々なやり方があったと思うが、デトロイトの音楽を好んでいる人たちの多くはあそこまで大がかりにする必要はないと思っている。多くの人はシンプルにDJとアーティストの音楽を楽しみたいと思っているだけだ。ビッグステージや派手な照明は必要ない。

 

 

― 多くの人がデトロイトを訪れるでしょうね。

 

当然だ。無料だからね。ただ私はもっと良いやり方があったはずだと思っているだけだ。

 

 

 

※1:Movement

 

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※:本記事は2005年2月に英国・ロンドンで行われたあと、Bill Brewster & Frank Broughton共著『The Record Players』に収録されたインタビューを再編したものです。© DJ History

 

 

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25. Oct. 2019