十月 17

ロングインタビュー:Jeff Mills in 2005 Part 1

デトロイトテクノのレジェンドがキャリア初期を振り返った2005年の貴重なロングインタビューを2回に分けて紹介する

By Frank Broughton

 

Jeff Millsはデトロイトテクノのオリジネイターのひとりではないのかもしれないが、彼が1980年代後半から1990年代初期のデトロイトテクノの発展に重要な役割を果たした人物であることに変わりはない。

 

Juan Atkins、Derrick May、Kevin Saundersonが初期作品群をリリースしていた頃、モーターシティ周辺のDJのひとりとして積極的に活動していたMillsは、“The Wizard” としてもデトロイトで最も影響力のあるラジオ番組のひとつに1990年までDJ / リエディターとして関わり続けた。

 

インダストリアルユニットFinal Cutのメンバーとしてトラック制作とヴァイナルリリースのいろはを学んだMillsは、1990年までにプロデューサーとしての活動もスタートさせ、“Mad” Mike BanksとUnderground Resistanceの創設メンバーとして制作に携わったあと、ソロアーティストとしてもリリースを重ねるようになった。やがて、Millsはエレクトロニック・ミュージック最大の成功を収めたアーティストのひとりに成長し、その活動範囲は無声映画のサウンドトラック制作やオーケストラとの共演にまで広がっていった。

 

今回は、MillsがDJを始めたきっかけやコンセプチュアルなプロダクションのルーツ、Underground Resistance誕生秘話などについて語っている2005年にロンドンで行われたFrank Broughtonとのインタビューを2回に分けて紹介する。

 

 

 

― 実家は音楽一家だったのでしょうか?

 

いや、私は大家族で育った。私を入れて兄弟姉妹が6人いる。これだけいるので、誰かが楽器を弾くようになるのは自然だったという話だ。

 

 

― あなたはコルネットでしたね?

 

トランペットとコルネットだ。デトロイトでは家の中に楽器があるのはごく普通のことだった。大半の家にギターかピアノがあった。デトロイトでは誰もが若い頃に何かしらの楽器に触れることになる。最初は小学校1年生か2年生だ。J・F・ケネディ大統領が学校教育における運動の重要性を打ち出す前は、音楽が唯一の課外活動だった。

 

 

― 幼い頃からDJをしていたのでしょうか?

 

デトロイトの中では早い方だった。ニューヨークなら遅かったはずだが、デトロイトでは早かった。

 

 

― ターンテーブルを初めて手に入れたのは何歳でしたか?

 

19歳か20歳だ。

 

 

― すぐにクラブでプレイするようになったのでしょうか?

 

いや、最初の1~2年は家で練習していた。ホームパーティでDJをする時はあったが、クラブには雇われなかった。

 

 

― 最初にプレイしていた音楽は?

 

ファンク、ダンス、ヨーロッパ産エレクトロニック・ミュージック、エレクトロ・ブギーだ。そのあとマイアミのBass Station Recordsを知り、ウエストコーストのEgyptian Loverなどを知った。インダストリアルやインダストリアル・ダンスもプレイしていた。色々織り交ぜてプレイしていた。

 

 

 

 

― そのような音楽をどうやって知っていたのでしょう?

 

ラジオだ。新しい音楽についての情報はすべてラジオから仕入れていた。Electrifying Mojoの番組だ。WLVSという別のラジオ局もあって、ここは市内の若手DJを初めて起用したラジオ局だった。私がラジオでプレイするようになる前からミックスショーは存在していたんだ。ニューヨークとイビサにもあった。当時としては非常にプログレッシブだった。私の地元の友人だった14歳、15歳くらいのキッズが番組に出ていた。Delano SmithやDaryl Shannon、Kevin Diezardなどがそうだ。彼らは色々な場所でプレイして成功を収めていた。影響力も大きく、人気も高かったので、WLVSでミックスショーを持っていた。

 

 

― では、色々な番組を聴いていたのでしょうか?

 

ミックスショーをオンエアしていたのはオルタナティブ系ラジオ局で、MojoはR&Bとファンクの専門局だった。ロック系ラジオ局はもっとロックに近い音楽やダンスパンク、Kraftwerkのようなエレクトロニック・ミュージック、B-52’s、Visage「Frequency 7」などをプレイしていた。

 

 

 

 

― Front 242やNitzer Ebbのようなインダストリアルはどこで聴いていたのでしょうか?

 

基本的にはロック系ラジオ局で聴いていた。クラシックロックはプレイされていなかった。当時はこういうラジオ局でさえグレーエリアの音楽をプレイしていた。

 

 

― 当時のあなたはニューヨークのヒップホップDJを意識していたのでしょうか?

 

音楽雑誌はなかったので、口コミで先週のGrandmaster FlashやDSTがどうだったのかなどの情報を手に入れていた。実際にどうやっていたのかは分からないが、デトロイトでは特定のパーティやDJについての情報が入ってきていた。

 

 

― 当時のあなたのDJヒーローは?

 

Grandmaster Flash、Jazzy Jeff、Cash Money、Red Alert、Marley Marl、Mr. Magicだ。

 

 

― ミックステープも聴いていたのでしょうか?

 

いや。当時はミックステープを手に入れるのは大変だった。ニューヨークやWBLSのようなテープラジオ局へ行くしかなかった。ミックステープのディストリビューションは… まだ全米レベルまで広がっていなかった。ニューヨークだけのものだった。ニューヨークにツテがある人を知っている兄や姉から聴くしかなかった。

 

 

― ラジオでミックスショーを担当していた友人たちはあなたと似たスタイルのプレイをしていたのでしょうか?

 

いや。私がラジオに出るようになった頃のデトロイトには多種多様なスタイルのDJがいた。私はヒップホップDJとして知られるようになったが、基本的にはストリート・ミュージックをプレイしていた。Bass Station Recordsやヒップホップ、インダストリアル、これらの間に位置する音楽などをプレイしていた。MC 900 Ft JesusやSection 25のようなニューウェーブやインダストリアルとして括られるような音楽もヒップホップDJがプレイしていた。当時は複数のジャンルをミックスしていた。私はデトロイトのDJの中で一番若かったので例外的存在だった。当時のミックスショーを担当していたDJの大半はハウスDJだった。

 

 

 

 

― ハウスDJはシカゴから影響を受けていたのでしょうか?

 

デトロイトの全員がシカゴから影響を受けていた。

 

 

― あなたがシカゴを初めて訪れたのはいつでしたか?

 

姉がシカゴへ引っ越していたので、定期的に姉のところを訪れてはレコードを買っていた。WBMXの番組もテープに録音していた。

 

 

― Hot Mix 5ですね?

 

そう。あとはレコードを買ってデトロイトへ持ち帰っていた。

 

 

― シカゴへ初めて行った年を覚えていますか?

 

1979年か1980年だと思う。

 

 

― シカゴはあなたが受けた音楽的影響の一部だったんですね。

 

ああ。かなり若い頃からね。

 

 

― シカゴのクラブにも行きましたか?

 

いや、私は若すぎた。

 

 

― 年齢的にクリアしたあとは?

 

何回か行ったが店名は覚えていない。Power Plantのようなクラブへは行かなかった。

 

 

― デトロイトではどうでしたか?

 

L’uomoというクラブへ通っていた。土曜深夜にKen Collierがプレイしていたからね。

 

 

― Ken Collierは当時一番人気のDJだったのでしょうか?

 

深夜のパーティシーンではナンバーワンだったが、他にも数人いた。なぜなら、当時のデトロイトは色々なシーンがあったからだ。パーティを楽しんでいるグループがいくつもあった。ゲイのグループもいた。ブラックのゲイのグループはハウスパーティを開催していて非常にプログレッシブだった。Ken Collierはそういうパーティでプレイしていた。他にもシーンはあったが、私の友人の多くは彼のパーティへ出向いていた。音楽が本当に素晴らしかったからだ。

 

また、もっとメインストリームなダンスミュージックが好きなグループもいて、私は主に彼らのパーティでDJをしていた。このグループにはシカゴハウスも部分的に含まれていた。ストリートなヒップホップグループもいた。私は彼らのパーティでもプレイしていた。

 

 

― 当時のデトロイトには “プレップ・パーティ(Prep Party)” があったという話をよく聞きます。あなたも通っていたのでしょうか?

 

少年時代、10歳から16歳くらいまで通っていた。高校生を中心にしたパーティだ。基本的にはバーシティ(※1)の集まりだった。

 

 

― 裕福そうですね。

 

高校生はできる限り背伸びしたがる。彼らは大人に憧れている。それで、そういう雰囲気のパーティを自分たちで作り出すようになったんだ。社交性も持とうとしていた。プレップ・パーティの年齢層は非常に低かったが、非常に洗練されていた。とても上品な空間だった。

 

 

― それとは完全に逆方向のパーティもあったんですよね?

 

ああ。180度逆のパーティもあったが、そういうパーティにもキッズは出入りしていた。私も通っていた。

 

 

― 両者間で “No Jits” 的な(※2)衝突はなかったのでしょうか?

 

なかった。“No Jits” はもっとあとの話で、このストーリーは大げさに伝えられている。私は当時を知っている。

 

 

― 詳しく話してもらえますか?

 

どの高校に通っているのかが問題だった。というのも、他の高校よりも優秀とされている高校がいくつか存在したからだ。この差が生徒間の衝突を生み出し、当然ながらコネクションが重要視されるようになった。特定のハウスパーティと繋がりがあるかどうか、特定のパーティに入れるかどうかが問われるようになった。この結果、そういうパーティでは非常に高い意識が生まれるようになった。

 

プレップ・パーティでは選び抜かれたDJがプレイしていて、音楽も特別だった。ニューヨークで楽しまれていた音楽、Paradise Garageのようなクラブでプレイされていた音楽がプレイされていた。私たちは13歳、14歳、15歳くらいだった。ソロリティやフラタニティ(※3)、バーシティのような仲間意識が市内に広がっていくと、もう少しラフな学生たちが通っている他の高校でもこの仲間意識が使われるようになった。そういう高校では本来の意味とは少し違う形で使われていた。

 

だが、実際に異なるグループ同士が衝突することは一度もなかった。あるグループがどこかでパーティを開催すれば、他のグループが違う場所でパーティを開催するというだけの話だった。ラフな雰囲気だったなら、何かが起きていたはずだ。グループ同士が衝突したことはなかった。

 

 

 

"私たちは音楽を貪欲に学びたいという気持ちで一杯だったし、競争心も強かった"

 

 

 

― プレップ・パーティでプレイしましたか?

 

すでにDJはしていたが、声はかからなかった。当時は家の地下で練習をしていた。DJグループにも所属していたが、そのグループに声がかかることもなかった。私たちはFrequency Sound Systemsと名乗っていた。

 

 

― では、最初に人前でプレイしたのはいつでしたか?

 

初めての本格的なギグは兄がきっかけだった。兄はDJだったが、結婚をして活動を止めていた。彼は年上のDJたちと一緒に仕事をしていたので、ある日、私を彼らに紹介してくれたんだ。当時の私はヒップホップDJのトリックは理解していたが、DJのセオリーはまったく理解していなかった。オーディエンスを読み、フロアをコントロールしていく方法を知らなかった。だが、年上のDJたちが教えてくれた。

 

毎週火曜に裏口からクラブへ入っていた。エントランスから入るには若すぎたからだ。ブースに立っていると、年上のDJたちが何回かプレイを任せてくれたので、オーディエンスのコントロール方法を学ぶことができた。学んでいくについれてプレイできる時間が長くなり、やがてひと晩任されるようになった。こうやってDJを学んでいった。The Ladyというクラブだった。ここでのプレイが評判になり、年を重ねるごとにプレイするパーティの数が増えていき、レジデントを得るようになった。そのあと、自分のラジオ番組を持つようになった。

 

 

― レジデントを担当していたクラブは?

 

一時期、3軒のクラブでレジデントを担当していた。ひとつはデトロイトのイーストサイドにあったUBQだ。ラフなクラブだったが長年レジデントを担当した。あとは火曜夜のThe Ladyと、少し外れた場所にあったCheeksだ。Cheeksは当時最もプログレッシブなクラブだった。あそこの水曜夜はプログレッシブなオーディエンスが集まっていた。

 

 

― 何でもプレイできたということですか?

 

そうではないが、最先端の音楽が好まれていた。

 

 

― デトロイト関係の記事は沢山ありますが、その多くがデトロイトには大きなクラブシーンがなかったとしています。

 

それは違う。事実と異なる。大きなクラブシーンがあった。むしろ、大きすぎて細かく分かれていた。9歳か10歳の子供から60歳の老人までがそれぞれ通えるクラブを持っていた。1軒ではなく複数軒ね。毎週クラブに通うことができた。どの年齢層も土曜夜になれば4~5軒の選択肢があった。当時のデトロイトは相当な人数がパーティに通っていた。

 

 

― 高校生のパーティの方が音楽的にはプログレッシブだったのでしょうか? だからこそ、当時を知る関係者たちは高校生たちのパーティについて頻繁に触れるのでしょうか?

 

その通りだ。私たちは音楽を貪欲に学びたいという気持ちで一杯だったし、競争心も強かった。DJは最新の音楽を用意する必要があった。私たち全員が若く、影響を受けやすかったので、DJは何をプレイしても良かった。オーディエンスはそれをひたすら自分の中に取り込んでいった。

 

 

― エクスペリメンタルだったのでしょうか?

 

当時はそんなことは考えてもいなかったが、そうだったと思う。最新のCybotronのトラックからB-52’sまでくまなく聴いていた。とにかく大量に聴いていた。

 

 

 

 

― ミックスショーを担当するようになったきっかけは?

 

ある晩、イーストサイドのUBQでプレイしていた。ちょうどPrinceウィークで、Prince & The Revolutionがデトロイトを訪れていた。『Purple Rain』の映画とアルバムのプロモーションのために7公演が組まれていた。デトロイトがPrince一色に染まっていたんだ。だから、Princeをテーマにしたパーティが数多く企画され、ラジオ局がそれらを生中継しようとしていた。

 

その流れの中でUBQでも生中継されるという話になり、たまたま私のスロットがその対象になった。それで私のプレイが生中継されると、翌日にその時間の聴取率が異常に高かったということが分かり、翌々日にインタビューとオーディションを受けてくれないかというオファーが届いた。

 

 

― さぞかし嬉しかったのでは?

 

ああ。その1年半前に兄がすべてのラジオ局に大量にデモテープを送っていたからね。難しさは十分に理解していた。

 

 

― 友人たちもプレイしていましたしね。

 

当時はもうプレイしていなかった。WLVSが終わっていたんだ。シカゴやニューヨークではそういうミックスショーが続いているのは知っていたが、デトロイトにはもう存在しなかった。だから、私たちは次から次へデモテープを送ったが、なしのつぶてだった。そういう意味で、ラジオ局からオファーをもらった時の私は準備ができていた。そして私ともうひとりのDJでオーディションを受けて私が選ばれた。落ちたDJはすぐ別のラジオ局へ出向き、オーディションの経緯を話して雇ってもらった。だから、2人同時に番組をスタートさせたんだ。

 

 

― オーディションはどんな内容だったのでしょう? ヒップホップのミックステクニックを披露したのでしょうか?

 

ただスキルを披露しただけだ。何がどう採点されたのかは分からない。おそらくスキルと選曲だろう。

 

 

 

 

 

― ラジオ番組のあなたはどのような立場だったのでしょうか?

 

匿名扱いだった。私が誰なのかはひとりとして知らなかった。The Wizardという別名を使用するように言われ、番組名も『The Wizard』だった。

 

 

― 自分で匿名を望んだのでしょうか?

 

私は望んでいなかった。ラジオ局の判断だった。だが、別に気にしていなかった。別の視点から反応を見ることができたからだ。ストリートレベルでどうやって楽しまれているのかを知ることができた。私はミックスショーを心底楽しんでいた。週6日、1日2~3回プレイしていたが、1日に4回プレイする時もあった。ミックスショーというアイディアはまだデトロイトでは非常に新しかったので、誰もその「あるべき姿」を分かっていなかった。だから、私はラジオ局でずっと待機していて、ディレクターが “ミックスをしたら面白そうだ” と判断したら、私が呼び出されるというスタイルだった。

 

 

― ラジオ局に待機していたんですか?

 

ああ。それで夜になるとクラブでDJだった。毎晩3時間プレイしていた。週末は5時間だった。

 

 

― 夢のような生活だったのでは? ハードワークだったとは思いますが。

 

私は単独行動だった。ラジオ局のサウンドライブラリに自由に出入りできた上に、ストリートで売っている新しい音楽を買うための資金も確保してくれた。シカゴやトロントへ出向いてありとあらゆる音楽を買ってはすぐにプレイしていた。MadonnaからKlein & M.B.O、無名のアーティストまでが普通に毎日ラジオでオンエアされていたわけだから、ラジオを楽しんでいたキッズには最高だったはずだ。そして私は毎晩クラブで3時間プレイしていた。仕事量としてはトゥーマッチだったが、多くの人に影響を与えたと思う。

 

 

― あなたがデトロイトに紹介した音楽はありますか?

 

色々ある。Beastie Boys「Cooky Puss」、初期Def Jam、LL Cool J、Run DMCは私が初めてプレイした。数多くのヒップホップトラックを初プレイしたよ。Man Parrish「Boogie Down Bronx」もそうだ。様々な音楽をデトロイトに持ち込んだ。

 

 

 

 

― ミックスショーの尺を埋めるのはかなり大変だったのでは?

 

レジデントを抱えていたし、学校にも通っていた。クラブでレジデントDJを務めていれば、5時間のプレイが求められる。だから、ミックスショーの3時間程度は楽だった。また、ラジオ局がライブミックスに必要なすべてを揃えてくれていた。ターンテーブル3台とテープマシン1台が備わっていた。また、アシスタントもいた。ラジオ局とはかなり密接な関係を築いていた。

 

 

― ですが、ミックスショーでは一度も話さなかったんですよね?

 

一度も話さなかったが、言いたいことはあったので、ラジオ局のサウンドライブラリを活用していた。ミックスショーでは毎回サウンドエフェクトに沿ったテーマを用意していた。ハロウィンならサウンドライブラリでハロウィン関連のサウンドエフェクトを集めてきた。これがコンセプチュアルな作品に興味を持つきっかけになった。

 

 

 

"今またJuanのトラックを聴いて、当時お互い何をしていたのかを考えると、Juanが時代を相当先取りしていたことが分かる"

 

 

 

― では、ミックスショーを通じてプロダクションスキルも身に付けたのでしょうか?

 

テープエディットなどのあらゆるスキルを身に付けた。

 

 

― 「多くの人に影響を与えたと思う」という発言がありましたが、具体的な出来事を覚えていますか?

 

ああ。たとえば、私が夕方にプレイしたトラックを他のDJが夜にプレイしていたのを聴いたことがある。私のプレイを聴いてレコードショップへ駆け込み、自分のプレイに間に合わせたんだ。そういう影響は簡単に見つけることができた。大きな影響を与えていた。すぐに自分がプレイしている音楽に対する責任が大きくなっていった。ミックスショーの私のミックスはすべて私が用意していた。選曲は私が全権を握っていた。私は若い頃からプライムタイムのラジオ局でプレイされる音楽を選んでいたんだ。やがてすぐに選曲について真剣に考える必要が出てきた。それで自分なりのメソッドを用意した。

 

 

― そのメソッドがあなたの音楽制作の基礎になったように思えます。

 

ああ。コンセプチュアルな作品には特に大きな影響を与えた。選曲のメソッドは1年目が終わる頃には確立させていた。自分の望み通りにプレイするにはどうしたら良いのかが分かるようになった。そのあと、ラジオ局同士の競争が激しくなってきたので、買ってきたレコードをプレイするだけでは不十分だと思うようになった。それで機材を購入してラジオ局へ持ち込み、自分でトラックを制作するようになった。それをレコードのようにプレイしたり、既存のトラックの別バージョンを制作したりと、他のラジオ局ではできないことをやろうとした。

 

その中でプログラミングを習得していった。最初はドラムマシンだった。小さなBossのドラムマシンを手に入れて、その上にレコードを被せてプレイして違うフィーリングを生み出そうとした。そのあとでもう少し変化を加えるためにYamaha RX15を手に入れ、MIDIの存在を知った。

 

 

― 何年の話ですか?

 

ラジオ局で働き始めて約半年後だったので、1982年か1983年だ。

 

 

― ラジオ局で何年仕事を続けたのですか?

 

約8年だ。1990年に終わった。

 

 

― 数多くのデトロイトのミュージシャンと知り合ったのでは?

 

全米レベルで知り合えた。Public Enemy、LL Cool J、Run DMC、George Clinton、Queen Latifahなどと会うことができた。また、Juan、Derrick、Kevinも音楽を持ち込んでいた。

 

 

 

 

― Juanたちとはかなり早くに知り合っていたんですね。

 

ああ。もちろん、JuanのことはCybotronの頃から知っていたが、Derrickと知り合ったのはもっとあとだ。Kevinはレコードを持ち込んでいた。彼のレーベルIncognito Recordsのレコードをね。「Big Fun」をリリースする前の話だ。また、デトロイトから車で1時間ほどのアナーバーのクラブでプレイしていると、KevinがReese & Santonio名義のレコードを持ってきたことがあった。そこでのレジデントパーティはとても上手くいっていたので、その場でそのレコードをプレイした。Kevinが反応を知りたがっていたのも分かっていたしね。彼とはそこからの付き合いだ。

 

 

― Juanの音楽を初めて聴いた時の印象は?

 

素晴らしいと思った。比較対象になるのはKraftwerkだけだった。Juanの年齢とトラック制作のテクニックを考えると、本当に凄いと思う。信じられなかった。今またJuanのトラックを聴いて、当時お互い何をしていたのかを考えると、Juanが時代を相当先取りしていたことが分かる。素晴らしいね。

 

 

― Juanの音楽を聴いて自分もレコードを作ろうと思いましたか?

 

もちろんだ。

 

 

 

Part 2へ続く>>

 

 

※1:varsity。米国の学校での各種クラブ活動・課外活動の “代表 / 1軍” を意味する。

 

※2:デトロイトテクノは比較的裕福な黒人中流階級にルーツを持つが、市内にはゲットーやギャング寄りのクラブが存在し、このようなクラブの一部が、“No Jits”(Jitはガキの意味)というメッセージで中流階級の客を締め出したと言われている。ただし、Millsが語っている通り誇張された部分も多く、そこまでシリアスではなかった可能性も考えられる。

 

※3:ソロリティ(sorority)とフラタニティ(fraternity)の元々の意味はそれぞれ女性と男性の友愛会だが、現代では主に米国・カナダの大学の社交クラブを意味する。それぞれ独自のしきたりや行事が存在する。

 

※:本記事は2005年2月に英国・ロンドンで行われたあと、Bill Brewster & Frank Broughton共著『The Record Players』に収録されたインタビューを再編したものです。© DJ History

 

 

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18. Oct. 2019