二月 22

Loleatta Holloway:Queen of the Night

数々のヒットを生み出したダンスミュージックのディーヴァがキャリアを振り返った2005年のインタビューを紹介

By Bill Brewster

 

Loleatta Hollowayほどキャリアを通じてダンスミュージックに貢献したヴォーカリストは少ない。R&Bからの影響が色濃い、太くて伸びやかな彼女の歌声は、ディスコクラシックや誰もが知っているハウストラックなど、歴史に残る数々のクラブヒットにフィーチャーされてきた。

 

Hollowayは、地元シカゴのゴスペルグループで音楽のキャリアをスタートさせたあと、将来の伴侶となるプロデューサー / マネージャーのFloyd Smithと出会った。SmithはHollowayをアトランタのソウルレーベルAwareに紹介し、彼女のファーストアルバムとセカンドアルバムをプロデュースしたが、まもなくAwareは消失した。Hollowayのキャリアが起動に乗り始めたのは、プロデューサーNorman Harrisと出会った1976年からだった。このコンビはSalsoul RecordsのオフシュートレーベルGold Mindから立て続けにディスコヒットを生み出し、Hollowayは「Hit And Run」、「Love Sensation」(プロデューサーは「Relight My Fire」で組んだDan Hartman)、「Dreamin’」などのクラシックにその美声を吹き込んだ。

 

Hollowayの唯一無二の歌声は、いくつかの12インチにアカペラとして収録されていたこともあり、数多くのダンスミュージックにサンプルとして使用されてきた。その中で最も有名なトラックが、Black Boxのスマッシュヒット「Ride On Time」だ(Hollowayはこのイタリア人グループを相手に著作権侵害の訴訟を起こして勝訴した)。2011年にこの世を去るまで、Hollowayはパフォーマーとして積極的にライブ活動を展開しつつ、ゲストヴォーカリストとしても高い人気を誇った。

 

今回紹介する2005年1月に行われたジャーナリスト / 作家のBill Brewsterとのインタビューでは、Salsoul Records時代、Tom Moultonなどをはじめとするディスコプロデューサーとの仕事、Black Boxが与えた影響などについて振り返っている。

 

 

 

 

Salsoul Recordsと契約した経緯について教えてください。

 

最初はジョージア州アトランタのGRC傘下のレーベルAwareと契約したのよ。でも、オーナーが刑務所に入ってしまったの。

 

何の罪を問われたのでしょう?

 

彼はポルノビジネスの大物で、映画『グリーンドア』の製作に関わっていたのよ。当時あの映画は違法だったから罪に問われたわけ。映画は彼が刑務所に入ったあとに合法になったんだけど、彼は刑務所から出されなかった。それでAwareを離れて、Salsoul Recordsへ移籍したのよ。

 

Ken Cayre(Salsoul Records創設者)と出会ったきっかけは?

 

わたしの夫でマネージャーのFloyd Smithを通じて知り合ったわ。

 

Ken Cayreとの関係はどうでしたか?

 

わたしは好感を持っていたし、Kenもそうだった。Salsoul Recordsに対するわたしの意見がどうであれ、彼がわたしたち夫婦の良き友人だったことに変わりはないわ。家族のような存在だった。所属アーティスト全員にとって彼は家族だったのよ。わたしたちだけだったかも知れないけれど、Kennyの家に良く泊まっていたわ。あらかじめ連絡が取れなかった時も、彼のマンションへ向かえばドアマンが入れてくれたし、そのあとでKennyが帰ってくれば、わたしの子供たちは大喜びで家の中を駆け回ったわ。兄弟みたいな存在だったのよ。

 

Salsoul Records移籍後の初仕事について教えてください。僕の記憶が正しければ、最初は「Hit And Run」でしたよね?

 

「Hit And Run」が最初の曲だったわ。最悪の曲だと思ったの。「わたしは流行遅れの田舎娘(I may be an old-fashioned country girl)」なんて歌いたくなかった。わたしは都会のシカゴ出身だったから、馬鹿にされた気分だったわ。でも、実際に曲のグルーヴを感じたあとは…。

 

 

Norman Harrisの印象について教えてください。ナイスガイだったらしいですね?

 

ええ、本当にナイスガイだったわ。NormaとKenは兄弟みたいに仲が良かった。

 

当時、あなたのバックを務めていたバンドには他に誰がいましたか? Earl Young?

 

ええ、Earl Youngもそうよ。当時、わたしのチームはちょっともめていたの。Floydはわたしにバラードを歌わせたかったんだけど、Normanはアップテンポの曲だけを歌わせるつもりだった。それで議論になったのよ。Normanはわたしの歌声を聴いたことがなかった。彼の中で、わたしはKenが連れてきたただのヴォーカリストで、フィリーサウンドをやるために来たと思っていたの。でも、Floydは「いや、彼女にはバラードを歌わせたい。優秀なR&Bシンガーなんだ」と言ったのよ。

 

2人がそんな議論を続けていることをわたしは知らなかった。いつでも歌えるように何時間も待っていたのよ! そのあとで、Floydがわたしに「Loleatta、演奏と歌を聴かせるんだ」と言ってきたから、ピアノを弾きながら歌った。すると、その場にいたEarlがわたしに合わせてドラムを叩き始めたの。でも、すぐに叩くのを止めて、Normanに「なぁ、くだらない言い争いは止めて演奏しようぜ。彼女はちゃんと歌えるじゃないか」と言ったのよ。それでようやく始まったの。

 

バンプで聴けるアドリブは?

 

「アルバムバージョンも録ろう」と言われて、それがそのまま使われたの。

 

なるほど。

 

チームが用意する曲の尺が長かったから、バンドはバンプで何をしたら良いのか分からなかった。だから、「Loleattaに任せよう」という話になることが多かったの。わたしはいつも楽曲の世界に身を置いて「この状況に置かれたらどんなことを言うかしら?」と想像して、頭に浮かんできた順に、ただ感じるままに歌っていた。たとえば、「Dreamin’」のバンプは他の女性に話しかける自分をイメージしながら歌ったわ。

 

 

Dan Hartmanとの「Relight My Fire」が生まれたきっかけは?

 

Fun HouseというクラブでやったライブをDanが聴いていたのがきっかけね。それで、後日「この曲を歌ってもらいたいんだ」と頼まれたのよ。元々、彼はBette MidlerかPatti Labelleに歌ってもらうことを考えていたんだけど、わたしの歌を聴いて、「イエス!」と思ったのよ。それで、この曲をわたしが手伝ったあと、わたしのチームがわたしのために曲を書いてもらう契約を彼と交わしたの。その曲が「Love Sensation」よ。「Relight My Fire」を歌ったことで「Love Sensation」が生まれたの。

 

Dan Hartmanは作曲だけではなくプロデュースも担当しましたよね? バンドメンバーは覚えていますか?

 

覚えていないわ。Danがほとんど全てを自分でやったんじゃなかったかしら。歌入れは彼の家だったし。歌入れの段階で、バッキングヴォーカルのパート以外はほぼ完成していたけれど、その1ヶ月前からラフミックスをもらっていたから、曲は頭にちゃんと入っていた。大きな違いを生んだわ。スタジオに入った段階でわたしは曲を深く理解できていたのは大きかった。ヴォーカリストの才能を最大限まで引き出して曲に意味やフィーリングを与えたいなら事前に曲を渡さないと。

 

 

Dan Hartmanからの要求はかなり多かったのでは?

 

30回も歌わされたわ! スタジオに入った直後はクリアに歌ったの。1回目はパーフェクトだと思えたし、2回目もそうだった。でも、彼から「綺麗すぎるな。ハードでディープな声が欲しい!」と指示された。それで、2人で一緒に色々と試していったんだけど、歌い終わると「今のは良かった! もう1回やろう!」と言われるわけ。最後には喉が完全に疲れてしまって何もできない状況になったわ。彼からは「今の音程をキープして!」と言われたけれど、喉がボロボロで話もできない状態だった。

 

それで、Danに「何かできることはない?」と言われたから、「Vicks(のど飴)をなめると効果があるかも!」と返したの。それで彼が買ってきたVicksをなめて、コーヒーを飲んで休んだあと、その音程をキープしたわ。でも、彼はもっと長くキープするように言ってきた。心の中で彼のことを呪ったわ! 結局、その日はそこまでで、翌日にまた戻ってその通りに歌ったのよ。でも、あの曲は大きな結果に繋がったわね!

 

 

「You Light Up My Life」のTom Moultonとの仕事を振り返ってもらえますか?

 

最高だった。1発録りだったわ。当時、Normanとわたしの関係がちょっと微妙になっていたの。Normanは、わたしがFloydや自分以外と仕事をするのを良く思っていなかったんだと思う。だから、これは内緒で進めたのよ。忍び込むようにスタジオの上階に上がったの。下ではNormanがぶっ飛んでたから。上のみんなで(囁くような声で)「OK! 今のでバッチリだ!」なんて言ってたわ(笑)。揉め事を避けたかったら、歌入れはあっという間に終わった。曲自体もシンプルだったし。

 

 

Paradise Garageのようなクラブでのライブはどうでしたか?

 

グレイトだったわ。ロンドンにもParadise Garageのようなクラブがいくつかあった。ひとつはHeavenという店で… もうひとつはロンドンじゃなかったわね。車で向かったんだけど、海岸沿いの街だったわ。

 

サウスポートですかね?

 

そこだわ。あそこにもParadise Garageを思い出すクラブがあった。いつも混み合っていて、客層も良かった。ロンドンの客層もニューヨークと同じぐらい良かったわ。エンターテイナーとして扱ってくれた。みんなに感謝されていると感じられたわ。

 

クラブでは数え切れないほどライブをしたから、何回も見た人がいると思う。ある年のクリスマスに、ひと晩でクラブ4軒を回ったの。だから、最後のクラブでは話すことさえできなかった。朝の6時だった。サンタクロースの衣装を着込んでステージに上がったんだけど、声が出なかった。悲しくて涙が出てきたわ。すると突然、フロアの全員が大声で励ましてくれたのよ。それで一気に声が出るようになって、フロアと一緒に歌ったの。あれは最高の体験だったわね。フロアがわたしを高めてくれたのよ。

 

Johnny Dynellは、Paradise Garageで素晴らしいパフォーマンスをしたアーティストを「Loleattaの加護を受けていた」と表現していました。

 

わたしはその状態をGarageにかけて “Gay-Rage” (ゲイの情熱)と呼んでいたわ。あそこはわたしのホームだった。いつも自分がやりたいようにできた。もちろん、Larry(Levan)があそこの “The Man” だったけれど、わたしはあそこの “Bitch” だったのよ(笑)。

 

Better Daysでもライブをしましたよね?

 

ブラッククラブでしょ? とても洗練された客層の素晴らしいクラブだった。客層が好きだったわ。

 

自分の音楽がここまで長く愛されてきた理由はどこにあると思いますか?

 

そうね…。ミュージックビデオがあれば、もっと長く愛されたかもしれないわ。わたしにライブをやってもらいたいヴェニューは他にもあったと思うけれど、こちらから探さなければならなかった。本当に素晴らしいミュージックビデオがあれば状況はもっと良くなっていたと思う。たとえば、「Love Sensation」は曲だけで本当に長く愛されてきたし。

 

自分の歌声が今もサンプルとして使用されているのは気に障りますか? それとも誇りに思いますか?

 

Black Boxに関しては気が狂うかと思ったわ。真面目な話、精神崩壊の一歩手前だった。Black Boxの話になるたびに泣き出していたのよ。わたしはエンターテイナーになるために多大な時間と労力を費やしてきたのに、わたしの声を使った1曲がロンドンでリリースされて一瞬で世界的な大ヒットになったんだから。しかも、わたしの名前はクレジットされていなかったのよ!

 

「なんでこんなことを平気でやれるのかしら?」と思ったわ。自分の作品を目の前で盗まれたようなものだった。長年苦しんだし、自分がなりたくない自分になってしまった。わたしは悪人じゃないのにね。でも、ああいう行いには必ず報いが来るのよ。テレビ番組でMarky Mark(現Mark Wahlberg)があの曲について話していた時も、わたしの名前は一度も出てこなかった。こういうことが本当に多かったから、慣れてしまってもう何も感じないわ。今は「傷ついた時期もあった」ってだけ。もう平気よ!

 

 

 

※ このインタビューは2005年1月に行われたものです。©DJ History