四月 27

『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』制作秘話 Pt. 1

リリースから25年以上が過ぎた今も高い人気を誇るJanet Jacksonの歴史的アルバムについてプロデューサーが当時を振り返った。全2回で紹介する。

By Chris Williams

 

1980年代後半、Janet Jacksonはプラチナアルバムに輝いた『Control』(1986年)のリリースによって、不調に終わった過去2枚のアルバム、『Janet Jackson』(1982年)と『Dream Street』(1984年)から見事な復活を果たし、ポップミュージックにおけるトップアーティストとしての地位を確実なものにした。『Control』の成功でグローバルなブレイクへの足掛かりを得た彼女は、そのチャンスを逃すことなく次のアルバムで新たなステージへ進むことに成功したが、そのアルバムこそが、1989年9月19日にA&Mからリリースされて世界的なヒットを記録した『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』だった。このアルバムからは実に7曲がシングルカットされ、「Miss You Much」、「Rhythm Nation」、「Escapade」、「Alright」、「Black Cat」、「Love Will Never Do (Without You)」の6曲がBillboardでナンバーワンを記録。残る「Come Back to Me」も2位を記録した。

 

この『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』のプロデュースを務めたのが、前作『Control』のプロデュースも担当したJames “Jimmy Jam” Harri IIIとTerry Lewisのコンビで、彼らはJanetのキャリアをネクストレヴェルへ押し上げる後ろ盾となった。類い希なる才能と精緻なテクニックでアルバムを見事にまとめあげた2人の手腕とJanet本人の真摯な努力により、『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』はJanetの1980年代のキャリアを通じて最も売れたアルバムになった。今回はJimmy Jamにこの大ヒットアルバムの制作秘話を語ってもらった。

 

 

 

あなたとTerry LewisがJanet Jacksonと組んだのは『Control』が初めてでしたが、彼女との出会いについて教えて下さい。

 

『Control』の制作は、1985年の春から夏にかけてスタートさせたんだ。誰にも邪魔されずに仕事をするために、彼女にミネアポリスのFlyte Tymeスタジオへ来てもらった。彼女を知るにはこれがベストの方法だと思ったし、制作プロセスに慣れてもらうことで、誰かが作った曲にただ歌入れするのではなく、自分もアルバム制作に参加しているんだという意識を持ってもらえた。僕たちは彼女にも制作に参加してもらって、アルバムの方向性を一緒に考えて行きたいと思っていたんだ。スタート当時はアルバムに対するイメージは持っていなかった。彼女のアイディアを取り入れたいと思っていただけだった。当時の僕たちは他のアーティストともそういうスタイルで仕事を進めていたし、彼女自身の意見が必ずあるはずだと思っていたからね。実際に始めてみると、僕たちの考えが正しかったことが分かった。

 

かつて、John McClain(A&M のエグゼクティブ・プロデューサー)から「ウチからレコードをリリースするとしたら、君たちがプロデュースしたいのは誰だい?」と訊ねられた時に、2人同時に「Janet Jacksonだね」と回答したそうですが、なぜJanetと組めば良いアルバムが作れると思えたのでしょうか?

 

ソングライターは自分の内なる声に耳を傾けるんだ。だから僕たちも、自分たちが楽曲を提供したいのは誰なのか、自分たちの楽曲を歌ってもらうのには誰が適任なのかをいつも考えていた。Terryはそれを「コンビネーション」と呼んでいた。コンビネーションロックのようなものさ。ロックを開けるには数字の組み合わせが必要になるが、その数字のひとつが彼女だったのさ。『Control』より前にリリースされた2枚のアルバムを聴いた僕たちは、彼女は素晴らしい声を持っているという印象を持った。素晴らしいアーティストだと思っていたし、The Timeの時代から彼女が人間としても素晴らしいことを知っていた。一方で、過去2枚のアルバムは「プロデューサーが作ったアルバム」だった。彼女はただ歌っただけで、アーティスト性が全く反映されていないと感じていたんだ。

 

 

 

"Janetの歌声は素晴らしかったが、過去のアルバムはアティテュードが欠けていた"

 

 

 

昔、The Jacksonsが出演していたTV番組で、JanetはMae Westの物まねをしていた。その頃の彼女は自分の意見をしっかり持っていて、アティテュードがあるように思えたが、過去のアルバムではそれが一切感じられなかった。だが、僕たちは彼女が自分の意見を持っていることを知っていた。The Timeを離れて、Morris DayやPrinceと仕事をした経験があった僕たちは、アーティストがどうやって自分のアイディアをアルバムに反映させるのかをよく知っていた。Janetの歌声は素晴らしかったが、過去のアルバムは彼女のアティテュードが欠けていた。だから、僕たちは制作段階から彼女を加えることにしたんだ。彼女はアーティストになれる自分に喜びを感じ、アルバム制作に対して凄くやる気を出してくれたよ。彼女は僕たちと仕事を始めたことで、出演していたTV番組『Fame』とは違い、ようやく「自分」として歌えると喜んでいた。父親やレコード会社の言いなりにならず、自由に歌える自分に喜びを感じていたんだ。彼女は「このアルバムに全力で挑戦したい」と言っていた。そういう意味ではタイミングも良かったね。

 

 

 

『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』は、数百万枚を売った大ヒットアルバム『Control』から3年のブランクを経てリリースされましたが、どのようなアルバムにしようと考えていたのでしょう?

 

『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』まで3年のブランクがあったのは良かった。『Control』から頭を切り替えられたからね。このアルバムは『Control』の続編ではなく、フレッシュなニューアルバムとして取り組めたのさ。 Janetは『Control』のリリース後に大規模なツアーを行わなかった。彼女は賢いから、ツアーを回れるほど楽曲が揃っていないことを理解していたんだ。ツアーに出る時には沢山の楽曲を用意したいと思っていたのさ。だから僕たちはこのアルバムに対して強い気持ちを持って臨んだよ。『Control』は素晴らしいアルバムだったが、あくまでスタート地点でゴールではなかった。

 

ミネアポリスでレコーディングして、基本的には誰も呼ばなかった。僕たちだけでスタジオに籠り、僕たちが作りたいレコードを制作しようとした。A&Mはあまり良い顔はしなかったが、ちゃんと協力してくれた。アルバムの大半は1988年の冬にレコーディングした。凄く寒い冬だったのを憶えている。凍える寒さだったが、逆に外に出る気にならなかったので制作は捗ったよ。このアルバムには沢山の思い出があるが、Janetがスタジオに到着した時のことはよく憶えている。彼女が到着したというので、僕たちがドアを開けると、彼女は雪の中に体を投げ出してスノーエンジェル(編注:雪の上に体を投げ出して作る人型)を作ったのさ。「前からやってみたかったの!」と言っていたよ(笑)。僕たちは「早く入るんだ。風邪を引くぞ。アルバムを制作するんだから、喉を大切にしてくれよ」と返した(笑)。あれは本当に面白かったね。そのスノーエンジェルは冬の間ずっと残っていたと思う。

 

 

 

"僕たちがスタジオのドアを開けると、Janetは雪の中に体を投げ出してスノーエンジェルを作ったのさ"

 

 

 

『Control』から『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』にかけての僕たちは非常にクリエイティブだった。Herb AlpertとThe Human Leagueのアルバム、それにNew Editionの『Heart Break』も制作した。New Editionの『Heart Break』は非常に重要な作品だった。旧スタジオで仕上げた最初のアルバムだったからね。当時、僕たちは旧スタジオのガレージをセカンドスタジオに改築して作業効率を上げた。24トラックのフルアナログレコーディングだったが、僕たちはその24トラックを2台繋げて、48トラックにしていた。このような経験や変化があったから、Janetが『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』のためにミネアポリスへ戻ってきた時は、プロデューサーとして成長できていたし、サウンドを効果的に引き出すテクニックも身についていた。

 

彼女は僕たちがスタジオを拡張したのを知らなかった。彼女がスタジオに入ってきた時、僕は丁度「Miss You Much」のデモを制作していたんだ。大音量でプレイしていた僕は彼女を見て、キーボードを指差した。彼女は「私が?」という顔をしたので、「そうだよ!」と返し、鍵盤を指定して、その通りに弾くように指示した。その時に彼女が弾いたサウンドが、「Miss You Much」のサビの高音のストリングスになったんだ。曲が完成して、彼女が「ワオ! これ私の曲?」と訊いてきたから、僕が「そうさ。これは君のアルバムに入る曲だ」と答えると、「最高ね! 気に入ったわ!」と喜んでいたよ。こうやってアルバム制作がスタートした。良いスタートが切れたと思う。

 

 

 

『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』はテーマやプロダクションが非常に多角的なアルバムです。あなたとTerry Lewis、そしてJanetはどのようにコラボレーションを行っていたのでしょうか?

 

『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』のコンセプトは最初から決まっていたわけじゃなかった。それで、まずはアルバム用にとにかく楽曲を増やしていくことになった。それで新しい機材を使おうという話になり、色々なキーボードやドラムマシンを試していった。「Miss You Much」、「Love Will Never Do (Without You)」、「Escapade」の3曲ではSP-1200を使ったよ。SP-1200はヒップホップシーンで有名な機材だったが、僕は使ったことがなかった。僕はどちらかというとLinn Drumユーザーだった。『Control』もほぼ全曲Linn Drumで制作したよ。

 

 

 

"(「Escapade」のリズムを聴いて)Janetは「これってバスケットボールの試合で観客が立ち上がって盛り上がるようなビートね。こういう曲が欲しいわ」と言ったのさ"

 

 

 

「Escapade」は偶然の産物だった。僕がドラムマシンでビートを作り始めると、Janetが「これってバスケットボールの試合で観客が立ち上がって盛り上がるようなビートね。こういう曲が欲しいわ」と言ったので、そのまま作業を進めていって、最後に彼女が歌詞のアイディアを加えて、ああいうフィーリングの楽曲になった。また、僕はアルバム制作にもうひとりクリエイティブな人間を加えたいと思っていた。それがRene Elizondoだった。彼は当時のJanetの恋人で、ミュージシャンでもシンガーでもなかったが、非常にクリエイティブな人間だった。特にコンセプトに関しては非常にクリエイティブなアイディアを持っていた。『Janet Jackson’s Rhythm Nation 1814』のコンセプトは、元々はJanetのアイディアだったが、彼が膨らませたものだ。

 

 

僕たちは常に色々と話し合っていて、Reneはどういうサウンドが良いかなどについてアイディアを出していたが、彼は楽曲制作に関する知識はなかったので、「エスニックでファンキーな感じの楽曲が必要だ」など、ムードに関する意見を出していた。彼はダンサーだったので、頭の中にそういうアイディアを沢山持っていたんだ。アルバムの音楽的な方向性が決まるきっかけは、ミネアポリスのレストランでSly and The Family Stoneの「Thank You (Falettinme Be Mice Elf Again)」を聴いた時だった。僕はこの曲が大好きで、何万回と聴いていたから、その時も最初は聴き流していたんだ。

 

会話を楽しんでいた僕たちは、この曲のことをまったく意識していなかった。だが、いきなり僕の耳がブリッジの部分のギターのブレイクを捉えた。それでアイディアが生まれたのさ。「これだ! アイディアが生まれたぞ!」と僕が叫ぶと、みんなは「何だ?」という顔をしていたが、「『Rhythm Nation』のアイディアが生まれた。これだよ! 今流れているパートを聴いてくれ!』と訴えたんだ。それでみんなが「ファンキーだね」と言うと、僕は「そうだろ! スタジオに戻ったらこれを使うぞ!」と返して、すぐにスタジオに戻って、2小節のギターループを作り、Linn Drumを叩き、その上にストリングスを加えて「Rhythm Nation」を作った。この曲で全員がアルバムの方向性を把握したんだ。

 

 

スタジオに長時間籠っていると、テレビを頻繁に見るようになる。当時は50チャンネル位あったが、スタジオでは主にMTV、BET、VH1、CNNなどを流していた。それで、チャンネルを切り替えながら情報を収集していると、やがて、それらをひとかたまりとして捉えるようになった。学校での銃撃事件やギャングの抗争などのニュースが流れていたが、それがひとつのアイディアにまとまっていったんだ。それがアルバムのテーマになって、「State of the World」や「The Knowledge」などの楽曲が生まれたのさ。

 

「The Knowledge」というタイトルは、僕とTerryがロンドンに行った時の体験が元になっている。ロンドンでタクシーに乗ると、僕たちが伝えた住所が間違っていて、タクシーの運転手が正しい住所を教えてくれた。これがきっかけになってその運転手と会話を始めたんだ。僕たちが「正しい住所を知っているんだね。アメリカのタクシーの運転手なんて何も知らないよ。どう行けばいいのか、必ずあっちから訊いてくるね」と言うと、そのタクシーの運転手は「当然の知識(The Knowledge)だよ」と答えた。それで僕たちが「知識ってどういうこと?」と再び訊ねると、彼は「運転手になるためのテストのようなものを受けるんだ。通りや住所を知らないと運転手にはなれない。そのための知識さ」と教えてくれた。当時僕たちは「タイトルブック」というメモ帳を持ち歩いていて、誰かが言った単語や言い回しで気に入ったものがあれば、そこに書き留めるようにしていたから、そのタクシー運転手の「知識」という言葉も凄く良い響きだったから残しておいた。こうして「The Knowledge」が生まれた。歌詞はJanetが膨らませた。

 

 

最終的にはアルバム用に沢山の楽曲が集まったが、細かな部分が色々と不足していた。「Livin’ in a World (They Didn’t Make)」は当時起きた学校での銃撃事件にインスピレーションを得た楽曲だ。Janetの頭の中には伝えたいイメージがあったが、本人はどう言葉で表現したら良いのか分かっていなかった。すると、Terryが建設中の新スタジオ用のカーペットと壁紙の見本を見せるために僕が作業していた旧スタジオに入ってきたんだ。Terryは「なぁ、この壁紙とこのカーペットの組み合わせどう思う?」と訊いてきた。それで僕は「Terry、今はちょっと無理だよ。この曲に取り掛かっているんだ。コンセプトは決まっているけど、歌詞が思い浮かばない。なんとかしないといけないんだ」と返すと、彼が「何についての曲なんだい?」と訊いてくるので、僕たちはこの楽曲は「子供ではなく、大人が問題だ」というメッセージを伝えたいとうことを長々と説明した。それで10分位説明すると、彼は「なるほどね。じゃあ子供たちは自分たちが作らなかった世界に住んでいるってことか(Living in a world they didn’t make)」と言ったんだ。僕たちは「それだ!」と叫んだよ。

 

Terryはそれから10分で歌詞を書き上げた。「ワオ!」と思ったね。そのあとでまた「でさ、このカーペットと壁紙どうかな?」としつこかったから、「頼むからどっか行ってくれよ。相手をしている暇はないんだ」と追い払ったよ(笑)。こうしてこの曲は完成した。頭の中のイメージを形にできなかったJanetにTerryが手を貸したんだ。僕は彼のことを「リリックマスター」と呼んでいる。長大なアイディアをシンプルにまとめて表現してくれるからね。これは彼の数ある才能の中のひとつだ。

 

このアルバムのムードを担っている重要な要素のひとつがインタールードです。次の曲のテーマにリスナーを導いていますし、アルバムを上手く補完しています。

 

当時は「アルバム」を作る時代だった。1枚でひとつの作品だったのさ。1枚をいかに上手くまとめるかが流行っていて、それがクールだと思われていた。今音楽を聴いている人たちの大半はこういうアルバムを聴いたことがないだろうし、逆に新しいスタイルだと思うかもしれないが、まったく新しくない(笑)。僕たちはひとつの大きなアルバムを通じて1曲ずつ紹介していったのさ。アルバム全体を組み上げていくのが僕たちの仕事だった。当時、アルバム制作はA面・B面に分けて進めていたから、A面を「Livin’ In a World (They Didn’t Make)」で終えて、B面を祝福の歌「Alright」からスタートさせようと考えた。自分たちの狙い通りのムードを生み出して、リスナーの感情をリードすることができたと思う。最後にセクシーな楽曲を並べたのは、そういう形で終えたかったからだ。今の時代、アルバム全体をこういうスタイルでプロデュースできるチャンスは少ない。残念ながら、ブラックミュージックは特にそうだね。

 

Pt. 2へ続く