十一月 27

菊地成孔:Jazz In Japan

日本におけるユース・カルチャーとしてのジャズとフュージョン・リヴァイヴァル

By Naruyoshi Kikuchi

 

私の私感/史観では、「日本のジャズ」の中の「クロスオーヴァー/フュージョン」が(それが「ジャズ」なのかどうか、連日ジャズ・マガジンで激烈な議論が繰り返されながらも)が「ユース・カルチャーと結びつき」「それなりに(以下詳述するが「それなり」どころではない)セールスしていた」のは70年代前半から始まって1980年代いっぱいまでである。

 

しかし、何せあの、飛ぶ取り落とす勢いのYMO期の細野晴臣に「大学生はGrover Washington Jr.の『Winelight』ばっかり買う(からバカだ)。自分はこれから小学生に期待する」と言わせしめたのだ。80年代という時代は。

 

フュージョンは簡単に言うと「大2病」で、マーケットの半分以上は大学のジャズ研大学生もしくはただの大学生だったと思われるので、充分ユース・カルチャーの範疇に入る。

 

80年代の日本の大学生は、バブル経済という未曾有のアッパー系ドラッグの合法化を背景に、基本的には未熟で貧乏な大学生でありながら、リュクスな遊び人でもあるという、「クリスタル族」的な擬似貴族階級をマジョリティとし(この点も、例え翻訳出来たとしても理解される事は困難だと思う。ワタシは最近、ソヴィエト連邦が40年代後半にジャズを禁止した際、モスクワにアメリカよりも尖ったビーバップ愛好家が大勢いて、「スタイリアジ」と呼ばれた彼等が、服装やライフスタイルを、むしろロックンローラーに似せてアメリカにかぶれまくっていた。という事実をしり、しかもソチ五輪の開会式に彼等の描写が出て来た時には、ショックのあまり立ち上がって踊り出しそうに成った)、Grover Washington Jr.は、そしてカシオペアは、大学の汚い練習室でメトロノームを鳴らしながらダサいデニムとダサいTシャツで練習に没頭する用にも、DCブランドを着たデートのドライヴ中、そして締めにバーで夜景を見ながら聴く用のどちらにも使え、アメリカのフュージョン・バンドも、日本のフュージョン・バンドも、分け隔てなく、飛ぶ様に売れた。

 

 

後にも先にも、こうした「80年代大2病」的な状況も、それを象徴するキメラ音楽(私は個人的に「フュージョン」という後を聞くと、「さまざまな音楽の複合体」ではなく、前述の通り「さまざまな用途の複合体」とイメージする)も、戦後の日本には現れていない。前者はキメキメのハードコアなフュージョンや、いつの世も変わらず難易度の高いビーバップやビッグバンド・ジャズに、後者はスムース・ジャズや所謂クラブ・ジャズ、R&Bに役割を分離/専門化した。

 

そして、こんな異形なユース・カルチャーとジャズ・カルチャーが結びついた1980年代が、ワタシの青春期、「大2病」患者の罹患最大ゾーンである20代という「ユース」だったのである。言うまでもなく「ユース」の感受性は未熟だが情熱的で、「フュージョン」には断固たる否定派も多かったが、それはロックンロールの黎明期にも、おそらくビーバップの黎明期にもあった事だ。私は、デジタルで奇麗に録音された4ビート・スタンダードの新譜などクソだと思い、カシオペアの『MINT JAMS』や渡辺貞夫の『オレンジエクスプレス』や、Weather Reportの『Heavy Weather』や、Stepsの『Smokin’ In The Pit』、Pat Methenyの『Offramp』等を包含した「フュージョン」をジャズのニューチャプターだと疑わなかった(Lounge Lizardsに代表される、ノーニューヨーク的なフェイク/パンク・ジャズも、別のドアから入るニューチャプターだと思っていた)。

 

重要事だと思われるので一瞬大きく横道に逸れるが、現在もっともホットと(少なくとも日本とアメリカでは)看做されているであろう「Robert Glasper以後の状況」は、巷間指摘される「ヒップホップ〜R&Bとジャズの融合」という側面以外にも、「ドラムンベースのリサイクリング(「マンドライブのドラムンベース」の事ではない)」そして「フュージョン・リヴァイヴァル」の側面を強く含んでいる。

 

 

音楽史を俯瞰すると、どのジャンルにも周回性、反復性が含まれている事が分かる。しかし、自分が生きているうちにそれに出くわすのには最低でも40歳を過ぎないといけない。

 

ワタシは1963年生まれの現在51歳なので、何度か「リヴァイヴァル」現象を経験しているが、中でも最も強烈な物が、「Glasper以降」という名のフュージョン・リヴァイヴァル、つまり現在である。

 

80年代に戻す。ワタシは高校入学から大学入学に失敗し、1983年から専門学校でジャズの勉強(音楽理論、サキソフォンの奏法、バンド・アンサンブルによる実習、副科のピアノ)を始めた。

 

第一にそれは70年代初期を過ぎているし、第二にそれはリアルタイムでは圧倒的にフュージョン(既に「クロスオーヴァー」という用語は「AOR」と癒着して「ジャズ」からは切断されていた)の時代だった(80年代ECM、Wynton Marsalisの新古典主義等々、反フュージョン、アコースティック4ビート保守派の動きもあったが)。

 

「日本ジャズ史」の決定的かつ典型的な一冊があったらならば、こう書いてあるだろう。敵性音楽として放送も演奏も禁じられていた40年代、敗戦後、米国産ミュージカル映画(オーヴァーグラウンド/以下OG)からモガンボセッション(アンダーグラウンド/以下UG。因に発掘/発売は74年)までを大きく包括する50年代、高度成長期という、世界的にも稀であろう敗戦からの経済的復興の動きをバックにしたダンモ・ブーム、ジャズコン・ブーム、「テレビ黄金期」のハナ肇とクレージーキャッツを代表とするナベプロ帝国下の芸能界(OG)から、学生運動と臍帯的な連結性を保ったジャズ喫茶カルチャー(UG)までを大きく包括する60年代、そして、アメリカの実質的な属国として、ベトナムでの抑鬱感をそのまま喰らうような形で、高度成長のアッパーからのバックラッシュとして、シラケというソフト厭世観を通奏低音に、60年代のOGとUGが癒着的にUOG化し、山下洋輔トリオ等を代表とする「ポップ・フリージャズ」を極左、伝説のソウル歌手Sammyのバックバンドであったフリーダム・ユニティ(村岡健、鈴木弘、鈴木昌宏、稲葉国光、石川晶)等を代表とする(クラブ・ジャズの先駆としての)「ジャズメンによるソウル・バンド」を極右に、学生運動沈静化以降のパロディ/ナンセンス/ラディカルな遊戯性の時代としての70年代、そして、前述のファンダンゴ、80年代がやって来る、と。

 

 

そしてそれはこう続くだろう。70年代中盤からは、ヒップホップ、ニューウエーヴ、テクノ、パンク等の「新しい音楽」の台頭、そしてそれらが総て、「手仕事」としてのジャズと大きく離れていた事から、「ジャズ」は、ユースとの繋がりを失い、オトナがバーで聴くBGMという、ある意味での先祖帰りをした、と。

 

しかしこれは、ここまで書いて来た通り、歴史書としてはイージーウエイもしくはフュージョン否定派による史観だ。実際にワタシが成年としてストリートとラジオ放送とテレビジョンを旺盛に移動しながら見た「80年代」は、前述の通り、若年寄りとして、バブル経済の中で、まるで欧米50年代の消費メジャーの様に立ち振る舞った学生と、グローバル・スタンダードな姿、つまり可処分所得の低く、恋愛にもセックスにも飢え切っていながら実現出来なかった、怒りと苦悶と不安に満ちた生物が、まるで階級制度の様に併存し、「フュージョン」は、彼等をアウフヘーベンする奇妙なシティ・ミュージック/ジャズの不肖の子供が売れまくったのである。

 

そして、90年代以降になると、ジャズの既定よりも「ユース・カルチャー」それ自体の既定が、そして00年代以降は「音産に於けるセールス」つまり「売れる/売れない」という現象の既定さえもが多様化的に分裂してしまい、それは、それらが一本化していた牧歌的な時代から見れば単に弱体化に見えるという一種の錯視もしくは、単なる統一的な文脈化不能の状態、つまりネット/SNSによる混沌の現在なのである。

 

MIDIとウォークマンとCDとバブル経済によって幕を開ける「80年代」が、それまでの総ての、和製のジャンル・ミュージックのリアリティを、旧態として一気に押し流してしまい、新たなジャンル・ミュージック(ヒップホップ、ハウス、テクノ等々)以外の総てを、後の「J-POP」というフォルダに詰め込む準備をしてしまったという事、私が、一個人の生涯には基本的には一度しか来ない「身も心もユース」の状態を、この時代に過ごした事、を、もしこの稿が「個人的なエッセイ」だとしたら、何よりも先ず読者に強く認識してもらわねばならないだろう。私は古いジャズと新しいフュージョン、最新のヒット・チャート、UGのヒップホップ、ニューウェーヴ、テクノ、ソウル・クラシック、普通のクラシック(Wagner等)を雑食するために、東京のありとあらゆる街の、ありとあらゆるクラブに行くカメレオンだった(髪型も服装もその都度変えていた)。

 

そして、その脳内にあったノスタルジーを素材とするグロテスクなまでのファンタジーは、30年代のSavoy Ballroom、40年代のニューヨーク52丁目、50年代の世界的なハードバップの覇権、60年代(ここから原理的にはリアリティと結びつき始めるが、それでもファンタジーである)の、日本のジャズコン・ブーム、と、70年代を欠いた(今より無知無学で、感受性の狭い私は、当時70年代というのはクソ以外の何者でもないと思っていた)。結局は前後ジャズ史のレイヤーであって、レイヤーから70年代が除外されたのは、ジャズが終わり、フュージョンというニューチャプターが開始されるまでの暗黒の時代だという判断に基づいていた。暗黒の理由、そのいくつかは明確で、ひとつはジャズ奏者がクラシック奏者と同様、高い演奏技術を持つお陰で、ロックやポップスのように、音楽のテクノロジー導入やマシーナライズに対して忌避的だったからだ。彼等はリズムボックスを玩具以上には看做せなかったろう。ジャズとクラシックの20世紀末までの発達史は「手仕事」による自己更新の連続である(また「ジャジー・ヒップホップ」という言葉はトートロジカルである。ヒップホップ自体がジャズの孫なのだから)。

 

私は、この国をThe Beatlesの『Meet The Beatles』の売り上げが同年John Coltraneの『Duke Ellington & John Coltrane』にとうとう追いつかず、『Help!』の売り上げが同年Miles Davis Quintetの『Sorcerer』に遥かに追いつかなかった国でもあるかの様に思い込み、ほとんど毎晩踊り狂っていた(「ジャズ喫茶」という、日本に独特な奇形的禅寺文化には中学生の頃から触れていたが、当時は圧倒的にダンスフロアだった。ユースは踊るものだ)。

 

 

言うまでもないが、80年代に、まるで70年代の学生の様に暮らしていた物達も居た。彼等は「クリスタル族」的な享楽を蛇蝎のごとく忌み嫌い、呪っていたが、それは兎も角、私が80年代の図式的な特異点と全く摩擦なく乗り切ったのは、生まれながらの躁病質だという事もあるが、私のプロフィールの特殊性も大いに関わっていると断ずるに吝かでない。

 

私は父親が50近くになってからの鬼っ子で、兄とは14歳離れていた(間に生まれた数人の兄弟達は皆、亡くなった)。親族が集まると、彼等は最初から最後まで全員太平洋戦争の話しかしなかった。私が生まれ育った千葉県の銚子市は極東日本の中でも最極東に位置し、歴史に名を残す、米軍による東京大空襲の際には、爆撃機が落とし残した爆弾の余りを、関東の突端である銚子市にまとめて落とし、便秘解消のごときスッキリした気分で本国への帰路についたので、つまり親族の女達はみな大空襲を経験したし、男達はほとんど戦場に赴いていた(父親は満州鉄道の警備員として配属された)。後に私は「戦争はアメリカ合衆国の維持に欠く事の出来ぬ経済行為であるという白書」の態をとったブラック・ユーモアの書『アイアンマウンテン報告』をアルバム・タイトルにし、「戦場の混乱」をMiles Davisの70年代の音楽にトレースする事で、ポリリズムを「戦争で起きる事/平和で起きる事」の退避として描こうとした作品を作ったが(その続編は米国Impulse!からリリースされ、私はアジア人のImpulse!アーティストの1人目にカウントされる事になったが)、そのフロイト的な意味での起源はここにあると思う。

 

そして私は、1.5ディケイド離れた兄の部屋の、クレージーキャッツのジャズ・コミックソングや、園まりの、ジャズバンドをバックに従えたムード歌謡のレコードによって日本のジャズに初めて触れた。その時の興奮は、天才を持たないMorzartが、生まれて初めて教会でミサ曲を聴いた時との物と大差ないと思われる。私は何度か実際に失神した。余りのサウンドのクールさとセクシーさ、ありとあらゆる、ジャズ・ミュージックのエッセンスにである。

 

 

更に、飲食店だった実家の両脇は映画館であり、幼少期の私が泣くと、母親は映画館に逃げ込んだ。この事は、私が兄の部屋のレコードに触れる以前から、日活の無国籍アクション映画や東映のサラリーマン喜劇等によって、日本のジャズの英才教育を受けていた可能性を示している。

 

ザ・ドリフターズや仮面ライダーという私の世代のヒーローは、私のヒーローではなく、ハナ肇とクレージーキャッツ、ウルトラQ、そして初期ジェームズ・ボンド、深夜番組「11PM」にたまに出演して、ビーバップの熱い演奏を繰り広げる中村八大、その司会者であるジャズ評論家上がりの大橋巨泉等等が私のヒーローだった。

 

そしてワタシはユースになり、ユースである事を終え、しばらく日本の音楽界でスタジオ・ミュージシャンやアレンジャーとして禄を食みながら中年期の初期を暮らし、後に、ドンキホーテにも似た、狂気のジャズ・レコンキスタドールになる下地は全部揃っており、それらは過不足なく総て発芽した。2005年、私は自分のウエブサイトも含むマスコミを使って「ジャズ回帰宣言」行った。実際に「回帰宣言」というダッサいフレーズをキーパンチした訳ではないが、実質上ははっきりとそうであり、具体的には「サキソフォンを演奏し、アコースティック・ジャズのアルバムをリリースする」という事を意味すると同時に、「ジャズがずっとさぼって来たテクノロジーの導入(特にコンピュータライズ)」を全面的に行う。というディレイド・オフェンジヴな条項が組み込まれていた。

 

「回帰」というのは、一次的に離れていたからだ。85年に米軍基地でデビューして以来、サキソフォン奏者として自己のトリオや大友良英等のバンドに入って演奏活動しつつ、金稼ぎにタレントのバックバンドやスタジオ・ミュージシャンもする、という状況から、98年デビューの第二期スパンクハッピー、99年デビューのデートコースペンタゴン・ロイヤルガーデンという、どちらもアコースティック・ジャズではないバンドを結成し、これがどちらも00年代に入ると相次いでサブカル誌『クイックジャパン』に特集され、03年には第一エッセイ集である『スペインの宇宙食』が出版される事で、UGでの小さなブレイクスルーのような事になった。

 

 

それよりもはっきりとキーパンチをしたのは「レコンキスタ(再支配)」で、勿論これは、55年(Elvis Presley)、64年(The Beatles)のワンツーパンチ以前はアメリカのポップス界がジャズにコンキスタ(支配)されていた事に対応した発言だったが、これは一般的には全く浸透しなかったが、我が国の歴史的ヴォキャブラリーの上限として、仕方が無い。しかし今でも私は、自分をジャズ・ミュージックのレコンキスタドールだと思っている。つまり、ジャズ村という過疎の一地方に人口が増えて行く事ではなく、他の地域を含めた国土全域を再支配しないといけない。道は遠い。

 

90年代のジャズは総て、私にとってヒップでもクールというには決定的な物が欠けていた。私はクラブ・ジャズやフューチャー・ジャズも大雑把にジャズだと規定するので、当時、西麻布でブイブイ言わせていたクラブ・ジャズやフューチャー・ジャズのDJ達を否定する格好に成ってしまって申し訳ない。何故なら彼等自身はおしなべてヒップでクールであり、センスから身なり、マーケットの客筋まで含め、文句の付けようが無かった。

 

しかし彼等は、第一には演奏力というよりも、プレイヤビリティに欠けており、ジャズDJプロデュースによる、リアル・ジャズメンの生演奏レコーディングの現場の多くは、彼等がどんなにプレイヤー達をリスペクトしようと、それとは関係なく、搾取の場である上に、人間がオモチャ扱いされる陵辱の場だった。

 

私は友人のジャズ・プレイヤーから「今日、ジャズDJ仕切りのレコーディング行ったら超面白くてさあ、すんげえ刺激受けたよ。行って良かった」という声を、一度も聴いた事が無い。聴いたことがあるのは「あいつらぶっ殺す」の一点張りである。彼等「ジャズDJ」は単に、呼称の問題(「ジャズ」という言葉は、現在、カンザスシティから続く「ジャズ史」と別に、クラブ・ミュージックの一部、ダンスの一部の名称としても平然と使われ、コンフリクトさえ生じえない隔絶を定常としている)によって評価が動くという、言語の下にある状況だと言えるだろう。

 

そして第二には、彼等はクロスオーヴァー/フュージョンの様に、ユース・カルチャーという大きな票田から、当選に至る得票数を得ておらず、ヒップなUGとして、票田の外から、リスペクトというネグレクトを受けていたからだ。

 

一方、同じ90年代に新宿や西荻窪や高円寺のジャズ・クラブでブイブイ言わせていたリアル・ジャズメン達も否定する格好に成ってしまうので、こちらも申し訳ない。彼等には惚れ惚れする様な技術力と、70年代までの「日本のジャズ」の文化的堆積に忠実だったが、ユース・カルチャーという選挙区には立候補すら出来ないほど、センスから身なり、マーケットの客筋まで含め、問題があった。特に、マーケットの賢者であるべき<大向こうのうるさ型>に聴く耳が無く、熱演と、エンディングがバシっとばかりに揃いさえすればイエーイエーと言って喜ぶという、赤子の手をひねるしか無い様な状況(学生運動とジャズ喫茶の呪い。もっと古くは、歌舞伎等に顕著な、日本の伝統的な娯楽による呪い)は悲痛とすら言えるものがあった。マーケットと批評が未熟である事は構造的に最悪である。この悲痛さは、基本的には現在でも続いている。

 

 

そして翌年04年にプレ・マニュフェストとしてのファースト・ソロアルバム『デギュスタシオン・ア・ジャズ』をリリース、更に翌年の05年にはセカンド・ソロアルバム『南米のエリザベステーラー』のリリースに併せ「情熱大陸」というテレビ番組に出演する事で一般的な知名度が上がり、UGでの小さなブレイクスルーはOBでの小さなブレイクスルーに地点を移動した。

 

前述の通り、「アコースティック・ジャズ回帰」にはコンピュータライズ、具体的に言うと当時まだ最新テクノロジーであったPro Toolsの導入による(私はこのアイデアを、現在は閉店している伝説のレストラン「エルブリ」の料理からインスパイアされた)、アコースティック・ジャズのクリエイトという戦略と興奮に加え、それまで所属していたティポグラフィカというバンドで培った、ポリリズムを中心とした新しいリズミックアプローチという先端技術があった。私はベース、ドラム、ピアノを各々違う日に1人ずつスタジオに入れ、キーもテンポも別々のまま演奏させ、編集によって擬似合奏を作り上げた。

 

リビドーの放出による熱演性の構造的拒否、「バシっと合う」という陳腐な剰余価値の構造的否定、そして、全く新しい音質とリズム感、「同時に演奏していない」という、Lennie Tristanoが挫折した、新しいジャズ録音空間の今日的展開。

 

また、世界中のダンス・ミュージック史の中でも、ほとんど構造として使用されない、4拍子と5拍子のクロスリズム、4拍子と7拍子のクロスリズム、更に、10人を超えるメンバー全員が各々別のBPMで演奏するマルチポリリズムをクラブのフロアにプレゼンテーションし、クラウドのダンスを獲得した。前者は当時まだ魔術の範疇にあったMiles Davisのアルバムにおける、Teo Maceroの編集行程を継承した物で、後者は(Pierre) Boulez以降のセリー音楽が律動をセリー化した事を希釈し、ダンス・ミュージックとしての使用可能性を実体化させた物である。

 

 

しかし、私のジャズ・レコンキスタドールとしての任務遂行の日々は、こうした側面への無理解をキープしたまま現在も続いている。日本のジャズ、というより、日本のジャズのマーケットも批評も、基本的にはリズムは消費しない。リズムを媒介者としたエネルギー(リビドー)の放出は非常に良く消費するし、音像が見せる視覚的なイマジネーションの換気、そして最も優れているのは情緒的な側面、特にジャズメンの伝記やエッセイ集といったテキスト咀嚼力は欧米以上の物があるかもしれない。私は、主に著作の叙情性によって支持され、眩いばかりの不全感に満たされたジャズ・レコンキスタを果たした。

 

しかし、全く問題はない。15年遅れの鬼っ子が15年先走ってしまうという事は、精神分析学的にも仏教的にも当たり前であると言える。クレージーキャッツとムード歌謡と映画音楽という神々を胸中に抱きつつ、それまで抑圧されていた新しいリズミックアプローチを兵器とするジャズ・レコンキスタ運動を開始してから来年でまだ10周年である。

 

やがてリズムは完全に消費される日が来るだろう。クラブ・ジャズの「余裕のオトナぶり」ではない、「大二病」的な、ユースが背伸びした、擬態としての「オトナごっこ」という、ユースと結びついたヒップとクールも帰って来る波を感じる。「Glasper以降」の状況が、クラブ・ミュージックという豊穣を通過した上で、フュージョン・リヴァイヴァルとしての属性を持ったままシーンをザワつかせているからだ。つまり、この文章の文脈で言えばGlasperは「大二病発症」の巨大なエンジンとして機能しており、こうしたテーゼには音楽理論的、構造的に、平明すぎるほどの説明がつくのだが、既に規定文字数を大きく逸脱しているので総て稿を改める。クレージーキャッツは、ブレーンや関係者も含め、ベーシスト以外全員が鬼籍に入り、ノスタルジーから象徴、つまり無欠の神格へと順調に移動を開始している。人間のイマジネーションが最も活性化させられるのは、過去と現在が奇麗に分離されたまま、共に強く輝く時だ。私のレコンキスタ運動は続く。それは、リアル・ポリティクスとは別のファンタジック・ポリティクスとして、極めて政治的にアクションするだろう。

 

 

Title Image: From Date Course Pentagon Royal Garden "Musical From Chaos"