十月 13

Interview: 中西俊夫

Plastics、Melon、MAJOR FORCE、Skylabなどで知られるキーパーソンに迫る

By Hiroshi Egaitsu

 

日本のロック/ポップ・ミュージックの歴史で最も重要なミュージシャンとして中西俊夫の名前がいつでも挙げられるべきだ。彼は、日本国内で活動していた他の多くのミュージシャンが海外での成功を目指していた70年代後半〜80年代初頭に、プラスチックスのフロントマンとして現れた。日本では「テクノ・ポップ」と呼ばれるジャンルで名声を獲得し、プラスチックスはまたたくまにポストBob Marleyの戦略を模索していたIsland Recordsに目をつけられた。彼らは1981年に1枚のアルバムをリリースしワールド・ツアーも行ったが、メンバーの方向性の違いで解散してしまう。

 

それ以前の彼はイラストレーターで、プラスチックスの他のメンバーもグラフィック・デザイナー(立花ハジメ)、スタイリスト(佐藤千賀)、作詞家(島武美)、そして唯一プラスチックスに参加したプロのミュージシャンであった佐久間正英は日本のプログレッシヴ・ロック・グループ、四人囃子のメンバーであり、その後はGlayなど数多くの日本のバンドのプロデューサーとして名を馳せた。

 

プラスチックスの解散後、中西はニューヨークで佐藤千賀子と2人を中心としたメロンというバンドを結成し、それはニューウェイヴ・ファンク・バンドからエレクトロ・ユニットへと変化していく。プラスチックス時代からTalking Headsのレコードのアート・ワークを作っていた中西は、この時代からピテカントロプス・エレクトスという幼年期の東京のクラブ・シーンに大きな影響を与えた場所をプロデュースしたり、「Melon Private Collection」という服のコレクションを発表したり、多岐に渡る活動を開始する。

 

メロンの解散前後、タイクーン・トッシュという名でヒップホップ・ユニットを始めた中西は、日本初のダンス・ミュージック専門レーベル、Major Forceの立ち上げに、メロンのメンバーでもあった屋敷豪太、工藤昌之ら、そして藤原ヒロシ、高木完と参加した後、ロンドンに拠点を移し、ミュージシャン/プロデューサーとして90年代のほとんどをロンドンで過ごす。

 

このインタヴューは東京の中心の高級住宅地区、広尾で生まれて育った彼の少年時代から、ロンドンに移る以前の話が中心である。ちなみに、彼の半生は著書『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力』に詳しいが、同書が、日本のロック/ポップの分野において、気取りのない、英語への翻訳の待たれる素晴らしい出来であることをつけくわえておく。

 

 

音楽を始めたきっかけについて

 

最初はイラストレーターを目指してた。子供の頃はZeppelinが大好きだったけど、Roxy Musicがでて、Velvet Underground、Deaf School、それにModern Loversとかを聴いてから、こういうのだったら自分にもできるかも、と思うようになったんだ。Velvetは1967年ぐらいからいるわけだけど、日本に入ってきたのは全然遅くて70年代だから。その頃のファッション雑誌『an-an』にすごくいいと書いてあって、聴きたいと思っていたんだけど、まず輸入盤屋さんに彼らのレコードがなかった。実物見たのは渋谷区子供の城の近くに昔スキャンダルっていうお店があって、そこにたまたまバナナのジャケットのレコードが置いてあって、それは私物だったんだけど、貸してもらって聴いたんだ。Velvetはすごく大きな影響を受けた。最初は全然いいと思わなかったし、「Heroin」とか猫がかけずり回っているような音が聴こえるし、何だかよく判らなかった。もう少し録音状態をよくしてほしいと思った。雑誌にも「Velvetが良く聴こえてくると、他のすべてが古臭く聴こえる」と書いてあったけど、中毒みたいになるのはよく判る。もし、まだ聴いてない人がいたら「Sunday Morning」とかから聴いてみるといいと思う。すっと入っていける。あの曲を聞くと原宿の早朝を思い浮かべる。ばっちり合ってるよね。

ニューウェイヴっていうのは、そういうVelvetを聴いていた人たちで始まってると思う。Brian Enoは、当時2000枚しかイギリスに入ってないけど、その聞いた2000人が何かを始めていると言ってたけどね。バンド組むなり、アートやるなりね。だから影響力はすごかったんじゃないかな。Velvetとか、Roxyとか、Pistolsとかが出てこなかったら、僕らはできなかっただろうね。

 

プラスチックスとKraftwerk

 

プラスチックスはパンク・バンドとして始まったけど、その後の方向性で影響を受けたのはKraftwerkがほんとうに大きかった。なんともいっても大きかった。『Radioactivity』ぐらいから聴いているのかな?で、『Trans-Europe Express』ではもう自分のなかでは彼らが重要だって確定的になっている。BowieとかIggyとかが歌詞に出てくるじゃない?その頃僕はBowieとIggyの『Berlin』とかも気になってたしね。ハジメ(立花ハジメ、プラスチックスのギタリスト)もKraftwerkが重要だっていうことに気がついていた。まだプラスチックス始めた頃で、パンクよりこっちの方向にいったほうがいいよね、とは話していた。僕はロンドンでSeditionariesとかハイ・ファッションのパンクを知ってて、ハジメはLAに行っててThe ScreamersとかThe Germsとか見ていて、で、一番すごいのは工業的で無機質な感じのDevoだって言ってた。ハジメと話していたのはセックス・ピストルズとKraftwerkを混ぜたようなバンドをやればいいのではないか、ということだった。たぶんCANみたいなものだよね。Johnny RottenとかもCAN好きだってあとから判ったけど、その頃誰もやってなかったからそのアイデアは自分たちでも新鮮だった。じゃ、やってみようって。

 

 

プラスチックスの歌詞の書き方

 

その頃は、僕は朝から普通にイラストレーターとしてペーター佐藤(エアーブラシの絵で一世を風靡した日本のイラストレーター)のスタジオで仕事しているから、プラスチックスの自分たちを客観的にみるような歌詞なんかも含めて、プラスチックスのバンドの方向性やアイデアとかを自然に言ってくれるブレーンは、ペーター佐藤だったりそこによく出入りしていた(フォトグラファーの)小暮徹ちゃんだったりした。その頃、彼らが言ってたのは、プラスチックスは英語でやるのはいいけど、サムハウ(どこかで、原文ママ)ドメスティックじゃないとダメだ、と。彼とペーターは近田春夫とかも仲がいいし、近田春夫は歌謡曲とか大好きなロック・ミュージシャンでしょう?彼らも歌謡曲とか演歌も大好きで、スタジオとか50年代のネオン管とかが壁に飾ってあって、そのなかで流れているのはド演歌だから、シュールレアリスティックというか、キャンプ、キッチュな環境だった。キャンプであるというのは客観的である、ということ。ペーターのNYのロフトを訪ねても、彼はTalking Headsと演歌と交互にかけながら制作していた。それもあって歌詞を英語で書くか日本語で書くかもハジメと2人で話しあったとき、日本語で書いた方がいい、とハジメは言ってたんだけど、最終的には「英語でBowieやBryan Ferryを越えられないのだから、日本語英語で歌詞を書く」というところに落ち着いた。

 

プラスチックスの歌詞は、曲によって違うけど、あらかじめ書いておくっていうのはなかった。書くのはホテルの部屋かスタジオで、セカンド・アルバムの曲は全部スタジオで書いた。ハジメに「よくお前何も事前に用意しないで歌詞書けるな」って言われたけど、曲はできててトラックを聞きながら書いていたこともある。Talking HeadsのDavid (Byrne)の歌詞の書き方にも影響されてるね。彼が書いているのを見てたら、普通(モノを紙に書く時)時空列って決まってるでしょ?上から書くでしょ。でも、彼の場合は紙の下やいろいろなところに島みたいに書いていって、つまり断片としてアイデアを書いていって、それを組み合わせるんだよね。そういう意味で、一行ごとのカット・アップではないんだけど、カット・アップなんだ。だから起承転結があるわけではない。何が書いてあるのか判らないといえば判らない。ダダの書き方でもあって、ダダの詩とか『I Zimbra』とかでも使ってるもんね。彼にどうして下から書くの?って聞いたら『あとで都合がいいから』って言ってた。ちょっとそれにも影響を受けたけど、その方が、『さぁ歌詞の一番書くぞ、二番書くぞ』というよりも自分の予想しなかった要素とかが入り込みやすくて面白い。

 

 

グルーヴについて: ニューヨークとダンス・ミュージック

 

Kraftwerkがどうやってリズムを作ってるか全然判らなかった、彼らはリズム・ボックスをばらしてそれを叩いていたよね。僕たちはそれは思いつかなかった。でも、Kraftwerkを研究していていって、シンセとかシーケンサーをハジメが買って、最初にできた曲が「Delicious」の原型だったんだけど、それはBIGIのファッション・ショウでやった20分間ぐらいの電子音的なものだった。そのときはハジメがマーちゃん(佐久間正英)に頼んでいろいろやってもらった。

 

B-52’sもTalking Headsも自分の音楽をディスクライブするとき、「どんな音楽をやってるんですか?」って聞かれたときには「ダンス・ミュージック」って答えていた。そう答えるともう何も聞かれないから面倒臭くなくていいんだよね。でも、僕たちもグルーヴを意識せざるえなかった。僕たちはプラスチックスでリズム・ボックスを使っていたけど、それに合わせて演奏するのはほんとうに大変で、「俺たちこんなにリズムとれないのか」というのはあった。なかなか大変なことなんだって。1曲最初から演奏して最後までリズム・ボックスについていくのは大変だった。

 

プラスチックスのIslandからの最初のアルバムが出たあと、ツアーでセントラル・パークのTalking Headsの前に出たんだけど、Talking Headsはアフロ・バンドになっていた。前からアルバム『Remain in Light』のカセット・テープはもらっていたから聴いてたけど、ライヴで見て判ったことがいっぱいあった。Adrian Belewが入っていたのにびっくりした。Davidがよく言っていたのは、「トランス」ということ。4ピース・バンドではなく、メンバーもいっぱいいて、グルーヴという観点から、そこで何かが降りてくる、トランス状態になるということ。ChrisとTinaが言ってたけど、Davidのあの独特の踊りもある日突如始まったと言っていた。『My Life in the Bush of Ghosts』も目に見えない何か、呪術的な要素を持ち込もうということだと思う。最初僕はブラック・ミュージックは判らなかった。「Sex Machine」とかも繰り返しだけだとはじめて聴いたきとは思っていた。でもハジメはR&B、ソウル、James BrownとかMarvin Gayeとかああいう音楽、彼は大好きだ。そして、ニューヨークに滞在しているときに僕はファンクネスに触れることになった。NYに行ってなかったらダンスの方向にはいってないと思う。

 

 

ヒップホップとの出会いとMAJOR FORCEの設立

 

MAJOR FORCEの設立に参加するのは1988年だけど、81年にメロンのレコーディングのときにヒップホップを体験していて、それは茂一がラジオで「Planet Rock」を聴いて2人ともびっくりしてペパーミント・ラウンジにAfrika Bambaataaを聴きに行くんだ。そのときブレイク・ダンスをまったく予備知識なくて見たんだから、ほんとうにショックを受けた。すべてを含めてこのシーンは一体なんだろう?と思った。それでそのダンサーたちをメロンのプロモーション・ヴィデオに起用するんだ。その頃、日本でヒップホップを気にしていたのは僕と藤原ヒロシぐらいだったと思う。あと、世界でもMalcolm McLaren、Jean Michel Basquiat・・・それからFab 5 Freddyが映画『ワイルド・スタイル』のプロモーションで来たのが1983年だけど、みんなが判るようになるのはBeastie BoysとかRun D.M.C.とかニュースクールになってからでしょう?僕はその間ヒップホップは知っていたけど、メロンというバンドでファンクネスを追求していたし、でもニューウェイヴあがりだというので、少し困っていたかもしれない。でも、そういうバンド当時いっぱいあったよね?A Certain Ratioだったり、Blue Rondo A La Turkだったり、Pigbagだったり。Level 42、ABCとかね。

 

メロンのコンセプトとその後のヒップホップへの影響は、『ブレードランナー』が大きかった。それとWilliam Burroughsだ。『ブレードランナー』は最初ニューヨークの映画館で見たんだけど、外に出ても同じ光景があってすごかった。知人も出演しているというのもあるが、未来がこんな風に歌舞伎町化するのかって思った。同時に僕はビートニクに影響を受けていて、BurroughsとBryon Gysinのカット・アップにはすごく影響を受けた。Davidはアフロのあとにラテンにはまって10年ぐらいやっていたけど、僕がラテンに夢中にならずにヒップホップにいったのは、コラージュやカット・アップとしてヒップホップを捉えていたからかもしれない。みんなラテンにはまるんだけど、僕は退屈になってしまうんだ。バイーアに行こうが何をしようが、僕はあまり魅力を感じなかった。Davidでも(桑原)茂一(プロデューサー、プラスチックスの初期のマネージャー)にせよ、バイーアにもうアフリカでも見つけるのが難しい祭祀的なものが残っているというので掘っていたけど、バチュカダとかにも僕は興味がなかった。コラージュで、自分の意図したところではない何かが、意識しないところで降りてくる、そんなBurroughsのカット・アップには祭祀よりもっとどろどろした可能性を感じる。そちらの方に興味があった。

 

 

90年代のロンドン

 

MAJOR FORCE WESTとしてロンドンにいた90年代は、60年代ぽいサイケデリックな雰囲気はあったと思う。細野(晴臣、イエロー・マジック・オーケストラで有名な)さんもそう言っていた。それはマンチェスターのバンドみたいなエクスタシーのアシッドではなくて、ほんとうのアシッドのサイケデリックだ。それもあってサイケデリック・ヒップホップみたいのをやろうとしていた。レコードに関していえば、イギリスはサイケデリック・ロックの本場だから掘るといっぱいあった。それはトリップ・ホップと言われてしまうけどね。で、一方で世間的にはOasisだったりVerveだったりするわけさ・・・90年代はなんかクソみたいな時代だったね。音楽も非常にダメになったと思う。Primal Screamとかさ、なんかよく判らないよ。Liamとか声も嫌いだし、自分に酔いすぎていて、客観的じゃないんだ。Roxy Musicとかは自分の立ち位置、自分がどこにいるのかをきちんと判っていた。それはThe BeatlesとかThe (Rolling) Stonesとかがいて、それをきちんと見ていたからだと思う。進歩がない。Beckとかも大変な才能があるのは判るんだけど、こちらが驚くようなことはない。それはLenny Kravitzのサイケデリック解釈から始まったんだろうと思う。彼はもちろん、判っていてやったんだと思うけど。そういう意味では、みんなKeith Richardsに殴られればいいんだ。

 

日本人ミュージシャンのアイデンティティと「ポップ・ライフ」

 

東京人の特徴は案外ノン・ポリティックスだったりするよね。左や右のイデオロギーでものを見ない。それと関連しているが、日本の美は判るし、身近にあったものだけど、僕たちはそれを売り物にしようとは思わなかった。日本のミュージシャンが海外で活動するということについてなら、布袋(寅泰)君とかイギリス行って2年目でしょう?で、70年代に(Facesのメンバーになった)山内テツから何十年も住んでた土屋昌巳クンまでいるし、行けばなんとかなってしまう(註:行く人があまりいない、の意)。で、行くとね、そこで自分のアイデンティティを考えざるえなくなってしまう。例えば、ギタリストだったりベーシストだったら海外のバンドに入るということもあるんだろうけど、僕みたいなタイプだと、吐き気がするほどアイデンティティを考えざるえない。一体、メロンで何について歌えばいいのだろう、起きたらもうすぐにそのことだ。そのことばかり考えていた。僕はニューヨークにもいたし、いろいろ見ていた、ロンドンにもいるし、でもアメリカ人でもない、イギリス人でもない、と。

 

そこで、ポップ・ミュージックの世界にいると、自分が何者であるかを判りやすく説明することをものすごくレコード会社に求められる。非常に判りやすいオリエンタリズムが求められる。しかも、僕は当時日本人でヒップホップに触発された音楽をやっていた。メロンの『Deep Cut』のレヴューでは、イギリスの音楽新聞に(日本人がヒップホップに触発された音楽をやるのは)ファンダメンタルに方向が間違ってるって書かれたよ。でも、僕がファンダメンタルに正しいんだよ。プラスチックスのときだって歌舞伎みたいな判りやすい日本を求められたんだ。でも、それはやらなかった。僕たちは普段からキモノ着て生活していたんじゃないだから。だから、音楽的にもあえて無責任な東洋フレーズみたいなものを僕たちは打ち出さなかった。それをハジメと僕は「ポップ・ライフ」って形容していた。だって、それでDavid ByrneやB-52’sは日本にはニューウェイヴがあるって発見してくれたんだ。