十月 21

INTERVIEW: 石野卓球

石野卓球が語る、ニューウェイヴとユーモアとテクノ

By Yusuke Kawamura

 

その強靭なバイタリティーで、日本のテクノ・シーンを1990年代初頭の黎明期から牽引してしまった男、石野卓球。インタヴューを読んでいただければわかると思うが、望むと望まぬとに関わらずという部分で、その動きには「してしまった」という言い方のほうが良さそうなのだ。ともかく彼がどん欲に追求したテクノ・ミュージックは、日本においては彼が作り出した磁場を通して、多くの人々を引き寄せた。そしてアンダーグラウンドなテクノ・シーンにおいては、まさにアーティストとして、トップDJとして20年近くシーンを牽引している。

 

DJ、そしてソロのアーティストとしての音楽活動の、その原点にはご存知のようにピエール瀧との電気グルーヴがある。かたやいまではテレビ/ラジオのバラエティから大河ドラマ出演、そして映画賞俳優でもある。そしてかたやアンダーグラウンドのトップDJ/アーティストとして活動するという、もはや他に並ぶもののない位置を獲得している。電気グルーヴでは、石野がヴォーカル/サウンドのプロデュースを手がけ、瀧はヴォーカルと……ある種の立ち姿そのものがパートとも言える存在感(Happy MondaysのBezと比べられることもあるが、やっぱり独自だ)という2人で現在は成り立っている。電気グルーヴ自体はフジロックで海外のトップ・アクトと並び会場を沸かし、そしてJ-POP寄りのフェスであってもしっかりと会場をロックするほど、ポップ・フィールドでも音楽的に人気を誇っている。

 

現在の石野(と電気グルーヴ)の活動を字面として整理すればするほど、逆にカオスな趣になってくるのでこのへんにしておこう。さらに言えば、その背後には1980年代、地元静岡(で結成し、ピエール瀧も在籍した人生(Zin-Säy!)というニューウェイヴ・バンドの前史も存在する。ギャグ・マンガからそのまま飛び出してきたような、白塗りの顔でナンセンスな歌詞をぶちまけるその姿から果たして現在の彼らを想像できようか?

 

電気グルーヴとしての活動の初期はインタヴュー中にもあるように、音楽性そのものよりも先に、その特異稀なキャラクターが先に世に広まっていった部分が少なからずある。1990年代初頭、いわゆるDJカルチャーを主体としたテクノがシーンと呼べるような規模にはなってなかった頃、民放ラジオの人気深夜番組「オールナイトニッポン」のパーソナリティとして、そのへんの芸人にひけを取らない毒舌とユーモアを携えた話術(と少々の奇行)で若者たちを惹き付けた。そこで彼を知り、その音楽性に目覚めた人々たくさんいる。そう、もちろん、そこで人々を惹き付ける音楽性が無ければそれまでなのだが、彼らにはそれがあった。そうした電気グルーヴの活動を通しても、テクノの魅力を伝えていった。

 

これはいわゆるアンダーグラウンドのナイト・ライフの達人たち以外の動きで、テクノがより広範囲に日本で人気を集めたひとつの理由でもある。またそれはクラブ・カルチャーにおいて、他のダンス・ミュージックではなかなか実現のできなかった、ライヴではなくDJプレイを主体に、ひとつのジャンルをプレゼンするWIREという巨大屋内イヴェントを成功させる要因とも不可分な事実ではないかと思う。彼の、その音楽的才能に加えて、そのパーソナリティがいなければ、日本のテクノ・シーンは現在とは違った形、規模になっていたのではないかと思うほどだ。

 

アンダーグラウンドなテクノ・シーンに留まらず、そしてある種のサブ・カルチャーのポップ・アイコンでもある、その数奇なキャリアについて、ある夏の夕暮れ、インタヴューを行った。

 

 

まずはルーツという部分で、世代的(1967年生まれ)に、YMOが普通に歌謡曲に混じってチャートに入っているような時代で、思春期にYMOに衝撃を受けて、その後、ニューウェイヴとエレポップに進んで行くという。

 

YMOがきっかけで、その頃、海外のエレクトロ・ポップみたいなものが一緒にいろいろ紹介されてたんだよ。当時だと、Telexとか、あとはKraftwerkもそうなんだけど。「海外にはこういうのがいる」っていう感じで。そこから、あとは雑誌だよね。もちろんネットもない時代だから、その頃のニューウェイヴを扱ってる雑誌。あとはレコード屋さんに行くしかないよね。

 

レコード屋さんで入ってくる新譜をチェックすると。

 

でも、それすらできないんだよね。俺が住んでたのは田舎だったってのもあるし、雑誌になってレヴューが載っているときにはもう店頭にはないっていう。だから、そのレヴューを読んで想像だよね。架空の音をずっと。

 

いまになってやっと聴けたみたいなものもあるんですか(笑)。

 

石野:あるある。そういうのもたまにあるし、(やっと聴けた)元の曲に対して、想像が上回っちゃってるのもある(笑)。「ちゃんと聴いたら、意外につまんねぇな」っていう。

 

ダハハ。で、中学生頃にはニューウェイヴを追いかけて、エレポップもの以外にも、例えばThe Pop Groupとかも流れで聴いてたようですが、その後も含めて、やはり電子音楽にひとつ軸足があったと思います。どこにいちばん惹き付けられたましたかね?

 

やっぱりジャーマン・ニューウェイヴがきっかけになってるかな。ジャーマン・ニューウェイヴのバンドは、明らかにイギリスのシンセ・ポップものとは発想が違ってたし、エレクトロニクスの使い方が全然違ったんだよね。とってつけたようにロック・バンドにシンセサイザー奏者がいて“エレクトロニック”って言ってる感じじゃなくて。エレクトロニクスがバンドにすごく溶け込んでいるというか。

 

 

過去のインタヴューなんかを見ると、具体的にジャーマン・ニューウェイヴのバンドで言うと、Die KruppsやD.A.F.、あとはAta takレーベル周辺、Der Planとかあたりですよね。ロック・バンドのフォーマットのなかで、キーボードの人が単に電子音を弾いているというわけではなく。

 

ギター、ベース、ドラムと並列にシンセが入っているっていう、ドイツのニューウェイヴってすごい、異形な、フリーキーに聴こえたんだよね。やっぱり、イギリス、アメリカのニューウェイヴ、シンセ・ポップ・バンドはもうちょっと完成されているというか。去勢されているとも言うけど……もうちょっと商業的な部分の完成度に重きを置いている人たちが多かったんだけど、それよりももっとジャーマン・ニューウェイヴは独自の音っていうかさ。それでいて売れてることを拒絶しているわけではないないんだけど、明らかに表現の仕方が違うなっていうかさ。それがすごく新鮮だった。

 

その後、ご自身でも中学生でテープの多重録音なんかで音楽を作りはじめると。

 

そうなんだけど、Prophet-5とかが150万とかしてる時代だったから、田舎の中学生じゃ絶対どう考えても買えるものではなかったから、それ以外のところでやろうってことになって。保育園の頃にオルガン教室に通ってたから、それで家に電子オルガンがあったんだ。それとカセットで多重録音したりとか。あとは友だちから借りてたきた、カシオの電卓付きのキーボード(VL-1シリーズ)があって。和音ももちろんでないんだけど、音色が選べるキーボードで。Trioの「Da Da Da」で使ってるやつなんだけど。あれを借りてきて、多重録音したりして。

 

 

多重録音テープを量産し出すと。

 

自分でやるっていうことのきっかけは、YMOっていうよりもほぶらきん(註;1979-83年に関西で活動。荒唐無稽な歌と演奏がカルト的な人気を集めた)なんだけど。メンバーに小学生がいたりとか、ほとんど楽器ができない人間が集まってたり、そんなバンドが1分も満たない曲を次から次からやっていくっていうもので。それを知ったときに、「音楽をやるのにライセンスはいらない」って感じで勇気つけられた。

 

ジャーマン・ニューウェイヴのさっき言ったフリーキーな魅力みたいな部分と合致したというか。

 

そうそう、ジャーマン・ニーウェイヴと同一のものだとそのときは思った。

 

「自分でやる」という表現の元祖という意味ではでかいと。

 

YMOみたいなことをやろうと思ってもできないじゃん。

 

ちなみに音楽が好きになる前、小学生の頃とかに好きだったものは?

 

ガンダム(笑)。大好きだったんだよね。わりと俺がガキの頃ってさ、シンセサイザー・ミュージックが未来のものって感じで流行っててさ。それこそペリー&キングスレーがCMで使われてたりとかさ。『スターウォーズ』とかSFも好きだったし。未来的なイメージとかSF的なイメージっていうところで『スターウォーズ』とかSFも好きだったんだけど。いま考えたら、そのイメージも爆笑ものなんだけど(笑)。

 

 

その後、高校生になって、友人との2人のユニットを短期間経て、友人たちと、静岡で人生を結成するわけですが。でも人生というバンドは、音はたしかにジャーマン・ニーウェイヴのエレポップ的な部分も音にありますが、卓球さんは白塗りだったり、瀧さんも殿様やドラえもんの格好で出てくるわ、その他のメンバーも楽器を持っているわけでもなく踊っていたり、日本語の歌詞も含めて、存在自体がただただナンセンスなギャグというか。

 

いま思えば照れ隠しっていう部分がすごいあったと思うんだよね。普通に出て行くのが嫌だって言うのもあって。日常的なものを表現しようって感じはまったく無かったから。非日常なことをやるために、自分を非日常的な状態に置くしかないっていうさ。そういう装備をしなければできなかっていうかさ。

 

ピエール瀧さんとは、人生結成前後に出会うわけですけど。そっから30年前後一緒にいるわけですけど。

 

最初は人生の客だったんだよ。うちらのライヴに暴れに来るっていうかさ。たぶん、ずっと彼と続いてるのはある意味で一貫してて、ある音楽的な楽器のパートが彼には一切なかったからどうにでも対応できたってところ。音楽的じゃない部分が長続きした秘訣というか、プレイヤーじゃないっていうか。

 

人生の後期はメンバーが楽器を持って、バンド編成ぽっくなってしまって、おもしろくなくなったってインタヴューでおしゃってましたけど。

 

人生は後期にバンドになっちゃって。で、その頃はすでに個人的にリスナーとしてはヒップホップとかを知ってて、いわゆる「楽器をやらなくも音楽はできる」っていうのをすごく思いはじめた時期だったし。

 

その頃、80年代後半だと思うんですけど、ニューウェイヴから、じょじょにヒップホップなんかのダンス・ミュージックを聴きはじめていたって感じですか?

 

ダンス・ミュージックというので、いちばんでかいのはね、(Afrika)BambaataaとJohn Lydonの『World Destruction』。あそこが接点だったと思う。ニューウェイヴの方からと、ヒップホップからというところで。俺はやっぱりニューウェイヴ・サイドだったから、そこでBambaataaの存在を認識してって感じ。

 

いわゆるニューウェイヴ的なダンスものではなく、DJカルチャー的な部分でのダンス・ミュージックということで言うと、そこが最初ですか?

 

あとはRun DMCなんかも流行ってたし。その頃は、まだそんなにのめり込んではなかったかな。ヒップホップは、最終的にはPublic Enemyを聴いて衝撃を受けたんだ。「これは明らかに違うな」っていう。それまで考えてたポップ・ミュージックの概念が根底から覆されたっていうかさ。それはセカンド(1998年『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back』)だったんだけど。

 

どの部分ですかね?

 

それまで持ってたブラック・ミュージックの印象がまるっきり変わった。感覚としては、すごく実験的な音楽がダンス・ミュージックになりうるっていうのを、そこではじめて気づかされた。それは、例えばJeff MillsとかURとかにも感じるんだけど。自分のなかでは、その感覚のルーツみたいなもので。それまでボディ・ミュージックとかも聴いてたんだけど、それがバカバカしく聴こえてしまった瞬間。

 

そのあたりで、まさに価値の転換もあり、人生というバンドの体制にも違和感があって解散(1989年)。その後は明確にサンプリングであるとかダンス・ミュージックを標榜する電気グルーヴを1989年に結成するわけですが。

 

Public Enemyは好きだったんだけど、自分たちは黒人じゃないし、それはすごく衝撃を受けたけど、自分たちでやるものではないと思って。むしろ自分たちが電気グルーヴをやるというところでの決定打は、Pop Will Eat Itself。彼らはサンプリング・ソースもファンクではなくて、自分たちが聴いてたのと同じ様なAdam & the Antsとかをサンプリングしてて。「あ、この手があったんだ」っていうかさ。ヒップホップに関しては、やっぱり「ちゃんとネタを掘って、ブラック・ミュージック・マナーを経ていかないとたどり着けないもの」というふうに思ってたのがあって。そこから全く違うものとしてPop Will Eat Itselfはあって。あとはBomb The Bassとかもあって――そういうアメリカのヒップホップとかから影響を受けたイギリスの音楽というのが中心かな。そういう音ってロック的な部分がまだあったから、尚更入りやすかったんだよね。あとはボディ(ミュージック)のダミ声で歌う、マッチョな感じもなかったしさ。なおすんなりだよね。

 

時代的に聴いているものも「歌」というよりも、インストもののダンス・トラックも増えてきて、サンプリングとか、音のおもしろさみたいなところへと。

 

その頃、そのイギリスの流れでアシッド・ハウス――シカゴ・ハウスも聴きだして。「シカゴ・ハウスがイギリスに渡って、アシッド・ハウスとして騒がれたときのムーヴメント、その流れを聴くところでシカゴ・ハウスを知る」っていう感じで。音色的には、当時、サンプラーが普及してきたのもあって「打ち込みも生音に近づく」というのが流れでひとつあったんだけど、アシッド・ハウスなんかの音は、そことは全く違ってたから。なんていうのかな、アシッド・ハウスは自分たちが学生時代に使っていたすごいチープなアナログ・シンセでやっていたりで、アナログ・シンセの復権というみたいなことをすごく思ってた。その部分でも自分がすんなり入っていけた理由でもあると思う。

 

そのあたりはジャーマン・ニューウェイヴの頃のシンセの使い方みたいなものに衝撃を受けたのと共通の部分もありそうですよね。

 

直結しているなっていうのはすごく感じた。

 

それでいて画期的に新しく聴こえたっていう。

 

そうそう。最初はね、それこそいまでも憶えてるんだけど、アシッド・ハウスをはじめて聴いたときに、なんつうか「聴いてはいけないものを聴いてしまった」っていう。The Residentsを最初に聴いたときもそう思ったんだけど、なんか「ジャングルに迷いこんだら、変な部族が変な儀式をやっていたのを偶然見ちゃった」みたいな。

 

「やばいもの見ちゃった」っていう(笑)。

 

そうそう。

 

ニューウェイヴのまわりの人脈に、そうやってダンスの方に行く人っていうのはいたんですか?

 

うーんと、共有してた友だちっていうのもいたと思うんだけど、あんまり憶えてないかな。それよりも、やっぱりレコード屋さんだったよね。レコード屋さんに行けば共有できたって感じでさ。タモリ店とかさ!(シスコ・アルタ店、註:東京は新宿の商業施設ビル、アルタにあったレコード・ショップ、シスコの支店。2005年に閉店。その他の渋谷の店舗やネットショップも2008年に閉店。日本のクラブ・カルチャーの、その成り立ちにおいて重要な拠点なレコード・ショップ・チェーン)、タモリ店に良く行ってたんだよね、

 

電気グルーヴの初期って音とともに、卓球さん自身、ラップという表現ひとつあったじゃないですか?
しかも、人生の感覚にも通じるような、いわゆるこれまたナンセンスなギャグの固まりのような歌詞で。まずはラップという表現はなぜ?

 

Pop Will Eat Itselfの影響もあったし、あとヒップハウスってあったでしょ? アレの影響もやっぱりでかかったかな。そういうクラブ・ミュージック的な音があったとはいえ、DJミュージックで踊らせるっていうのがメインではなくて、まだ、自分たちが当時はライヴ・ハウスをメインにやってたから。そうなるとパフォーマーとして、なにかをするっていうことになって、でも歌を歌っている場合じゃないって感覚になってたから。そうなると、ああいう感じなった。歌詞は、もともと歌詞で「どうこうしたい」とか「なにかを伝えたい」とかは無いから。それはいまも変わらないけど、歌詞としてすばらしいんだったら、文章で渡した方が早いっていうかさ。

 

音として楽しめれば良いって言う。

 

そうそう。あとはスタイルとして、リズムがあってラップ的なヴォーカルが乗っかるっていうのがあったから、そこでジャマしないものって思って。変に説教臭くなくて。逆に余計に邪魔をすることになるんだけどさ(笑)。でも。そうは思ってなかったから。

 

 

1990年代初頭、まだこの頃はDJもやってなくて、ダンス・ミュージックの経験値ってところで言うと、いわゆるリスナーとしていろいろ追いかけていただけで、そこまでフィジカルなDJカルチャー的な部分ではないじゃないですか? 逆にいえば、DJカルチャーみたいな部分ではじめて意識したのってどういうきかっけなんですか?

 

やっぱりマンチェスターだね。インディで電気グルーヴでアルバム(1989年『662 BPM BY DG』)を出した後に、SONYと契約が決まって。電気グルーヴのファースト・アルバム(1991年『Flash Papa』)の録音をマンチェスターでやったんだけど。当時、円が強かったのもあって、海外レコーディングとかをよくやってたんだけど、最初のデビューのときに「NYかマンチェスター、どっちがいい?」って聴かれて、そのときは断然マンチェスターって感じだったから行って。最初は808 Stateの Graham(Massey)とかがプロデュースしてくれる予定だったんだけど、いきなり彼らが売れてしまって、それどころじゃなくなって。ファーストのそのレコーディングのときに間に入ってたコーディネーターの人が、808が『New Build』っていうアルバムをレコーディングした〈スピリット・スタジオ〉にコネがあって。で、レコーディングはそこを押さえて、808の周りのプロデューサー、Tony Martin(Hypnotone)とかがプロデュースすることになって。マンチェスターでは、そのときのThe
Stone Rosesのツアー・マネージャーに、スティーヴってやつがいて。Rosesのツアーで日本にきたときに、すごい日本でいい思いをしたらしくて、すごい日本に対して良い印象を持ってて「日本人が来たなら、俺にまかせとけ」って毎晩のようにいろんなところに連れて行ってくれて。

 

思わぬ最高の水先案内人が。

 

The Haçiendaとかももちろん連れていってくれてさ。当時、Happy Mondaysがツアーをやってて、マンチェスターでツアー・ファイナルとして凱旋ライヴをG-MEX――日本で言う東京ドームみたいなところで行うっていうところに遭遇して。それもど真ん中にいることができて。あとは向こうのクラブ・ミュージックっていうと、海賊放送ですごい流れてて。自分たちがそれまでやってた、Pop Will Eat Itselfみたいなライヴ・バンド的なところよりも、もうちょっとダンス・ミュージック寄りのところにシフトしていったというか。そのときの体験が大きいかな。

 

1990年代前半って、さっき出た歌詞とか、あとはラジオ、それにわりと深夜のテレビなんかも含めて、そのとんがったユーモア・センスみたいなところが、一般的な認知としてはサウンドより前に出ていってしまってた部分もあるじゃないですか?


 

でも、それはそれで名を売る手段だったからかまわないと思ってたから。むしろ、それがきっかけになれば良いかなとは思ってた。でも後に、そういう部分ばかりを求められるのが面倒臭くなるけど。その頃は使える武器は使った方が良いって感じでさ。

 

表に出ることの方が先だと。

 

そうそう。

 

そして卓球さん個人の趣向としては、本格的にダンス・ミュージック、とくにヨーロッパのテクノとかハウスのダンス・カルチャーによっていくんだと思うんですが、電気グルーヴが着実に日本で人気になっていく傍らで、個人としてはDJを93年とかにはじめられると思うんですけど、そのきっかけって?

 

えっとね、1992年に、よくロンドンに遊びにいってたんだ。そこでKnowledgeっていうクラブがあって、Colin Faverとかがやってて。マンチェスター以降だと、その頃の体験が、DJカルチャーというところでは経験としてでかいかな。衝撃を受けた。それまではDJってなにをやってるんだか正直よくわけわかってなかったんだよ。それまでのDJの概念とColin Faverがやってることが全然違って。いま考えると、BPMとかむっちゃ早かったんだけど。それがすごく衝撃だった。それで自分もやろうと思ったんだよ。選曲家だけども、選曲家だけではないっていうかさ。

 

マンチェスター体験の頃はロックの延長みたいなところがまだあって、1992年のロンドンの体験がDJカルチャーっていう意味では大きいと。

 

そうそう。まぁ、当時のマンチェスターっていう街自体がロックとダンスっていうか、バレアリックっていうかさ。もう、ロンドンで遊んでた頃にはロックとかそういう気持ちじゃなくなってた。

 

12インチをさらに追いかけると。

 

そうだね。

 

その後、DJをやりはじめるというところでは、他のインタヴューでは田中フミヤさんにも勧められたみたいなこと書いてあったんですが。

 

そうそう、「やったら?」みたいな。それに近いことはやってたんだけど。あとはその頃はYellowのK.U.D.O.さんとか、あとは、後のトランスのシーンにつながるようなパーティあったじゃん。そのあたりに行くようになってたというのもあって。

 

僕もリアルタイムではないんですが、トワイライトとかですかね?

 

ジオイドとかね。

 

時期的には東京でジャーマン・トランスの人気が出る直前って感じですよね。

 

そうだね。

 

 

その後、卓球さんのその趣向性、テクノとかジャーマン・トランスとかに傾倒する感覚は、電気グルーヴの活動にダイレクトに影響が出てきます。具体的に言えば1993年の『Vitamin』では、アシッド・リヴァヴィルをひとつポップに展開した音が主にあったと思うんですが。あの時期は、この手のカルチャーを広げたいという感覚よりも、やっぱり単純に自分がそのとき好きな音だったと。

 

そうだよね。広げたいっていうつもりはそんなになくて。でも、自分が楽しめる状況、環境にするには知られないとしょうがないっていうのはあるけどさ。そんなに責任感みたいなのはまったくないよ。逆にいうと、それだけじゃやっていけないと思う。単純に使命感みたいなものでやるととか。

 

「これがいま一番おもしろい音なんです」っていうプレゼンの手段としてひとつ電気グルーヴがあったと。

 

そうそう。

 

たぶん、1990年代初頭のテクノのクラブ・シーンというのはかなり知る人ぞ知るという感覚だったと思うんですけど、ある種のシーンとか、流れみたいなものがちゃんとできてきたという感覚になるのはいつ頃なんですか?

 

やっぱり新宿のLiquidroomができたときじゃないかな(1994年)。いわゆるクラブでもなかったし、ロックのお客さんにも敷居が低かったと思うし、あそこは存在として結構でかいんじゃないかな。ブッキングで呼ぶアーティストも、キャパシティも含めて広がったっていうか(註:キャパシティは1000人規模)。あそこのこけら落としはDrum ClubとUnderworldだったんだけど、当時東京にある、いわゆるクラブでそれができたかというと、キャパ的にできなかったとおもうし、難しいと思うんだよね。それができる状況になったのは相当でかいんじゃないかな。一部の好き者のだけじゃないっていう感じの雰囲気のシーンになったのは、その辺りからじゃないかな。あのキャパの箱って当時は無かったから。

 

で、そのあたり、電気グルーヴでは『DRAGON』(1994年)をリリースしていて、サウンド的には、『Vitamin』同様に卓球さん個人のDJ的な感性の部分っていうのがひっぱっていた時期ですよね。その後のアルバムはまたちょっと違いますが。

 

自然な流れっていうか。でも、自分のなかで分けてはいたけどね。電気グルーヴでポップ・シングルとしてリリースしたものを、自分のDJでかけるなんてことはしないしね。

 

さっきのユーモラスな部分だけが要求されたりするのが「後々、うっとおしくなる」っていうのはこのあたりですかね。

 

まぁ、若かったんだと思う。いま、思えばどちらの面があっても良かったと思うし。

 

 

その後、1995年にはSonyからソロのアルバム『Dove Loves Dub』もリリースされて、さらにDJも含めてソロ活動が活発になってきますよね。それともうひとつ『Mix-Up』のシリーズを始動して、ご自身もはじめてのミックスCDをリリースすると。このシリーズはその後、Jeff Mills、ケンイシイ、田中フミヤ、Derrick Mayと続いて、海外でも評価を受けましたが。

 

最初に、Sonyに弘石くんっていう男がいて、こっちから話をもっていった部分も多少はあるんだけど、「海外のテクノのレーベルをライセンスでやりませんか?」っていう話で。いくつかレーベルとか契約して、Sonyのなかで彼が部署を立ち上げて、全体的にテクノをプッシュしていくってことになって。『Mix-Up』はそのなかのひとつという感じ。契約したレーベルは、WarpとR&S、Riding Highか、いま思うとすごいけどね。それと同じぐらいの時期に、ドイツのMFSから電気グルーヴの「Niji」が出ることになって(1994年)。それのプロモーションでドイツはベルリンでDJをする機会があって。そのDJも自分にとっては大きいターニング・ポイントだったかも。

 

本場でも認められたというか。

 

認められたって、それはプロモーションで行ったわけだからちょっと違うと思うけど。でも、向こうの現場、単純に遊びに行ってたような現場で自分がやるように回ったというのは意識も変わるというかさ。

 

モチヴェーションと、あとは人脈的な部分もですか?

 

そうそう。

 

その後、わりと海外でのブッキングも増えて、1998年にはLove ParadeのギャザリングでDJをするわけですが。1990年代後半になると一時期、ベルリンである程度、長期で滞在して現地でソロ2作目『Berlin Trax』(1998年)以降を作り出すわけじゃないですか? 

 

なるだけベルリンにいたいなと思って(笑)。でも、DJのブッキングって週末しかないから、平日をどうすごすかっていうのもある。だったら「向こうのスタジオでレコーディングをしよう」って考えて。制作も、今だったらPC1台でできるんだけど、その頃はまだそんなんじゃなかったからスタジオを構えて。当時は、だから年に3~4ヶ月は毎年行ってたな。春と秋。いや、もっとか、春に2ヶ月、秋に3ヶ月とかあったから。

 

1年の半分はベルリンですね。ベルリンでの当時の活動で、いま生きているものってありますか?
人脈はひとつあると思いますが。

 

いっぱいあるかと思うんだけど、なんだろうな。でも、DJとかの捉え方は変わったよね。圧倒的にクラブの現場で活動する比重が増えたから。それまでDJっていうものに対して、本業っていう感覚はなかったし。それがじょじょにこのあたりから本業になっていくっていう。

 

まだ、メインに電気があって、ソロとDJがちょっとあってという。

 

その比重が逆転したのがこの頃だと思う。

 

 

2000年に入ると、『Voxxx』を出して、電気グルーヴは活動を一時休止するんですが、そのあたりのDJの活動の比重の逆転みたいなものって関係あると思いますか?

 

まぁ、それもあるし、あの『Voxxx』っていうアルバムはすごい大変なアルバムで、その前にメンバーが辞めたりとかもあったからさ。すごい転機になった。それにつれて、個人の活動っていうのがすごく増えてきた時期だよね。だから両立するのが難しくなったんだよね。その時期で言えば。

 

前後しますが1999年にWIREがはじまりますね。そのきっかけは?

 

Maydayに呼ばれるようになって、日本とドイツの圧倒的なシーンの規模の違いを見て。1990年代の末の頃には、日本でもある程度、テクノって認知されてきていたんだけど、大きなところでは、まだまだCDで聴くしかないっていうか。クラブとかはあったんだけど、屋内レイヴという形であのぐらいの規模でやるっていうのはないなと思って。野外レイヴとかがあっても、それはちょっとトランス寄りだったりとか。ドイツに比べたら、日本のそのときのシーンなんて小さいけど、お客さんの人数からいったら、ああいうものがあっても良いと思ったし、あってしかるべきものだと思ったから。そのときはもうブッキングにしてもベルリンの人脈とかもあったから「なんとかできるんじゃないか」と思ってやりはじめた。それがきっかけだね。

 

はじめてみて、難しかったことってなんですか?

 

まぁ、いくつもあるけど、圧倒的にでかいのは経済的な問題じゃないかな。ドイツと比べるのも良くないのかもしれないけど、どうしても無茶苦茶お金がかかるんだよね。で、そういうシーンに対して、スポンサーの理解もあんまり無かったから、ドイツみたいにスポンサー集めるっていうことも難しかったし。まずはいちからスポンサーにその文化を説明するところからはじめないといけなかったから。

 

あの規模をやって、良かったことは?

 

年が重なることで、さっき言ったような説明する必要がどんどん無くなってきたっていうのはあるかな。そういうカルチャーだったり、遊び方みたいなものがちゃんと認知されたっていうかさ。それは一番の収穫かな。

 

2000年代中ごろには、そうやってWIREも定着して、テクノ・シーン自体もある意味で多様性が出るくる位までに広がって。で、もともとそんなにシーンを引っ張るという気概があったわけではないと思うんですが、かなり気軽に接するようになったのかなと。

 

俺がでしょ? それはね。回数重ねてくると、俺が隅から隅まで気をくばらなくてもいいしさ。こっちの負担も減ってきて。もともとWIREもいろいろいる出演者のがいて、その中のワン・オブ・ゼムになりたいっていうのはあったから。そういう風になってきたのは良かったと思ったけど。

 

2000年代に入ると、ソロ作を2004年までにそれこそコンスタンスにリリースしてますが、ソロの作品は思いっきりポップ・ソングを作るでもなく、それでいて「モロにDJトラックを作る」とかそういう感覚でもない独自のバランス感覚の作品をリリースしていくわけですが。完全にサウンド的にはテクノなんだけど、難しい塩梅というか。それでいて電気グルーヴとは違うし。

 

それはメジャー・レーベルから出ているというのがひとつあって。だからといって、自分がやりたいことをメジャー寄りに進めるわけではなくて。メジャーからリリースされて、メジャーのプロモーションを受けられるっていうのはせっかくだからやった方が良いし、そこでしかできないことがあると思ったから。例えば、クラブ・トラックに振り切ったものであるのなら、メジャーから出す必要もないしさ。そういうものは、むしろメジャーからじゃない方が良いじゃん。いまも、それはそうなんだけど。そういうところが音楽のバランス感みたいなところに出てるんじゃないかな。そのときの気分でゴリゴリのアンダーグラウンドなトラックを出して、押しつけになっちゃうのも嫌だしさ。あとは役割分担っていうのがあるからさ。

 

 

ただ、唯一、『Berlin Trax』だけはストレートなDJツールという感じがしますが、それはやはり、ベルリンという街からのフィードバックと、DJがわりと活動の中心に移り変わり初めた時期だったからですか?

 

そうそう、そういう感覚もあったし、あれをずっと続けていくのであれば、別にメジャーに籍を置いておく必要はないというかさ。あとは、それ以外には、オレ移り気だからさ、いろんなこともやりたいしさ。なかなかアレだけを突き通すというのは難しいものがあるよね。性に合わないというか。

 

でも、そのあたりに通じることかも知れませんが、本当に知らない音楽を聴くことに対して、異常なほどにやっぱりどん欲というか。

 

うんうん、びっくりしたいよね。単純に好きなんだよね。それは責任感があってやってるわけじゃないしさ。

 

いまだに、かなり広範囲に音楽買ってますよね。再発からロック、ワールド・ミュージック的なものとかも含めて。

 

そうだね。でも、全部が全部、それがDJに反映されるわけでもないけどさ。いろんなジャンルのやつを買うけど、趣味の部分もある。それをDJでどうにかしようっていうのはなくて。ガレージ・サイケとかも好きなんだけど。

 

あと活動を通じて、ずっと変わらないものとして、ユーモアみたいなもの活動にあるじゃないですか?
例えばちょっとしたタイトルとか、もちろんジャケットとかもそうですけど、卓球さんの表現の全体の中にあるじゃないですか? 

 

ユーモアって言っても、とってつけたようなユーモアじゃないと思う。そういうのは逆に鼻につく場合もあるしさ。自分がおもしろいと思えるようなものが結果的におもしろいっていうのがあるんだけど。無理してそういうユーモアを乗せようっていうのは個人の作品とかに関してはないかな。あ、でも電気グルーヴのときは多少そういうものがあるけど。でもだまってても滲みでてきちゃうもんだから。俺、根がふざけた人間だからそういう風になってしまうっていうかさ(笑)。

 

ダハハ。昨年『アイデア』という雑誌でまるまる1冊、ジャケットなんかのデザインにフォーカスを当てた電気グルーヴの特集でしたが、中のインタヴューを読むと、ほとんど卓球さんがアイディアなんかを出している感じがあって。プロダクトを作るときにやっぱりそこは気にしますか? 

 

フェチ的な要素がないとレコードとかCDってやっぱり買わないと思うんだよね。やっぱり自分で買ったときに満足度はお客さんとしての目、それがあるから自分で作る側になったときはその目線で作ろうっていうのは欠かせないっていうのはあるよね。

 

そういうプロダクツ・デザイン的なところでをおもしろいってひっかかることってなんですか?

 

アートワーク的なところ? いっぱいあるんだけど……最近のさ、木箱入りのボックスセットとか。なかなか経済的な理由で自分がやるのは難しいんだけど、そういうのって単純に手にとったときにうれしいじゃん。あとは、型抜きがしてあるジャケットとかさ。単純にそいういうのは良いよね。せっかくフィジカルなマテリアルとして出すんだったら気を配りたいよね。

 

でも、いろんな音楽を聴いていても、でもやっぱりアウトプットとしてはずっと電子音楽じゃないですか?
なぜ、そこにどうしてもなってしまうんでしょうか? 電子音楽の魅力というか。

 

うーん、なんにでも変われるところ……受け止め方によって違ってきたりするから。「コレだ」って限定されることがないからかな。電子音楽が好きな人ってみんなそうだと思うしさ。受け止め方に自由がある、それは送り手側に自由があるっていうことだから。だから必ずしも送り手側の思った通りにはならない場合もあるんだけど。でも、それも含めて魅力というか。例えば、自分があるアーティストのことを「こう捉えている」というのがあっても、いざ作った側のアーティストは真逆の捉え方だったりするかもしれないしさ(笑)。でも、それは真逆でもこっちが楽しんだ時点、それはそれで正解というか。正しくはないかもしれないけど、それが楽しいわけで、間違ってはないよね。

 

捉え方のおもしろさ、批評に対して自由度がすごくあるという部分ですかね。

 

うーん、批評性というよりも、イマジネーションの自由度が高いっていうかさ。例えば、その楽器が奏でるメロディとかハーモニーだとかとは、違うところに良さがあるっていうか――楽音じゃないっていうかさ、楽音なんだけど、そこから最も遠いところにあるっていうか。

 

そのあたり、最初の話のジャーマン・ニューウェイヴなんかに感じてた魅力、シンセの使い方に通じるってことですかね。

 

そうそう。

 

ニューウェイヴだろうが、テクノだろうが、レフトフィールドな電子音だろうが変わらない部分だと。

 

もちろん、それは時代によって違ったりするんだけどね。まぁ、基本的には変わらないかな。だから、アシッド・ハウスをはじめに聴いたときの感じ?
「やばいもの見てしまった」っていう、まさにそうなんだけど。形が決まっていないっていう。ロック・バンドの音って、ロック・バンドが演奏している姿が目に浮かぶじゃん、でもそれがないっていうのがすごく好きだったんだと思う。あとはシカゴ・ハウスもさ、シリアスなのか、ふざけてるのかわからない(笑)。

 

だからこそ、一番怖いっていう(笑)。

 

そうそう。

 

 

こちらがイマジネーションできる自由があるのが魅力だと。で、ここ数年の話をすると、DJ活動に関しては、わりと日本では不動のテクノのトップDJといった活動を続けていて、方や、2008年には『J-POP』で電気グルーヴが休止から一転して活動を再開するわけですが。やっと2000年代初頭の、電気とソロのDJとしての活動の境を整理できて、電気グルーヴに関われるようになったのかなと。

 

それはまぁ、あるよね。あとはヨーロッパに行って、どうしても時間をすごく割かれていたときにあったんだけど、帰ってきて短い時間で電気グルーヴっていうものに向き合うのって難しいんだよね。電気グルーヴはどっぷり浸からないとできない感覚があるから。そういう時間ができたっていうのはあるんだけど。

 

で、片や、DJで忙しくしている間に、瀧さんもソロというかタレントとか俳優として、いまや公共放送の大河ドラマに出たり、映画で賞をとったりと違うフィールドで活動が増えてくわけですが。でも瀧さんは、いまだに電気グルーヴでは、ナンセンスな歌詞を歌い続けて、ふたりで電気グルーヴとして活動をしてると。ユニークすぎる存在じゃないですか。

 

やっぱり彼はミュージシャンじゃないから。

 

もともと。

 

ってか、もともとじゃなくて、いまも(笑)。だから、他の音楽ユニットとかとその部分も比べようがないっていうか。でも、その分、比べようがない部分での強みっていうのはあると思う。もう、それぞれの役割もわかっているから。そこを「音楽グループと違うじゃないか」って言われても困るっていうかさ。そうじゃないからね。

 

その定規じゃないっていう。

 

その役割分担がはっきりした上で箇々の仕事がある上で、いま電気グルーヴができるから、そこに持ち込むものも整理できてるからすごくやりやすいよね。

 

『J-POP』以降はわりとポップに振り切れてやっている感じがあって。

 

昔はさ、やっぱり自分のDJからフィードバックする場所でもあったんだけど。いまは、そういうのは無くて、自分の感じたり、体験したことって、思わなくてもにじみ出てくるもんだから、それでやれるっていうのはやりやすくなったかな。

 

 

ちなみに言葉も使い方は変わっても、ナンセンスなユーモアの部分ってずっと変わってないと思うんですが、影響を受けたものは?

 

やっぱり、赤塚(不二夫)マンガかなって、翻訳もされるのに海外じゃわかんねぇか(笑)。赤塚不二夫もそうだし、あとはホルガー・ヒラーの言葉でさ『思いつくまま陳腐なことを重ねると、言葉の裏にあるスーパー陳腐なものが浮かびあがってくる』っていう言葉が本当に大好きなんだけど。で、そこに一番伝えたい深いなにかがあるっていうわけでもないし、それがさっきの電子音の捉え方みたいな部分と同じだと思うんだけど。赤塚マンガってギャグ・マンガなんだけど、見方によってはものすごく怖かったりするじゃん。「もしこんな人が自分の近くにいたら!」って感じでしょ? それに近い感覚があると思う。それに影響を受けていると思う。小学生の頃はマンガ家になりたかったぐらいだから。

 

ソロの曲作りって思いついたときにいまでもやってるんですか?

 

最近はちょうどやってないかな(笑)。スタジオが新しくできたばっかりで。

 

DJはいまでも楽しい?

 

もちろん。でも、基本的に嫌だったらやってないと思うし。

 

飽きる日は来ると思いますか?

 

うーん、わからないな、自分じゃなんとも言えないな。

 

ソロとして、いわゆるダンス・トラックもの以外でやってみたいことってないんですか?

 

あるけど、1曲だけやってって済むわけじゃないから、パッケージとして作るのを考えたらちょっと難しいよね。3曲とか4曲とか、ダンス・トラック以外で作るって、そこまで持続するかなっていう感じもあるしさ。パンク・バンドじゃないけどさ。

 

まとめるとDJ、ソロのアーティストとしての石野卓球を考えると、90年代の頭のダンス・ミュージックとの出会い、90年代後半のDJカルチャーにどっぷりつかったときと、あとは最近、フラットにシーンとかとも関われるようになった頃が転機というか。

 

でも、最後のは転機っていうよりも、いきなりある事柄でパキっと変わったわけでもなくて、長く生きてるからだよ。年取ったらみんなそうなると思うんだよね。「中年のオヤジがいきなりなに突然変わってんだよ」ってなるでしょ。よくあるじゃん、まじめなサラリーマンが風俗憶えちゃってとか(笑)。それとは違うというか。まぁ、でも本当、最初のふたつがすごくでかいかな。確実に延長線上にいまの活動があるからね。