十二月 20

大貫妙子:長い旅

1970年代から東京の音楽シーンを切り拓き続けてきたアーティストがキャリアを振り返る

By Patrick St. Michel

 

2017年夏、日本の人気テレビ番組『YOUは何しに日本へ?』 - 日本の空港の国際便到着出口に待ち構えているカメラクルーが、そこから出てくる外国人観光客に番組名通りの質問をする番組 - は、8月8日放送分で日本の古い音楽を探しに来た米国人スティーブンを取り上げたが、具体的に言えば、彼が探していたのは、大貫妙子が1977年にリリースしたアルバム『SUNSHOWER』だった。

 

「このアルバムは史上最高のアルバムのひとつだ」とカメラに向かって興奮気味に語ったスティーブンは、スマートフォンでサムネイルサイズのそのカバーアートをカメラクルーに見せながら、「日本、米国、世界で、まだこのアルバムを聴いていない人がいるなら、是非聴いて欲しい」と続けていた。そして彼は、このアルバムを約100ドル(13,000円)で手に入れて帰路へついた。この価格は、オンラインの取引価格と比較すれば破格の安さだった。

 

「信じられませんね」- 自分の音楽が世界から注目されていることについてどう思うか尋ねられた大貫はこう答えている。東京生まれのこのシンガーソングライターは、山下達郎と共にシュガー・ベイブを生み出した。シュガー・ベイブは、初めて日本語の歌詞と欧米のポップミュージックのスタイルを組み合わせたバンドのひとつだったことから、現在では日本の音楽シーンに最も大きな影響を与えたバンドのひとつに数えられている。しかし、3年の活動期間中に注目されることはほとんどなく解散。大貫はソロに転向し、1976年にファーストアルバム『Grey Skies』を、1977年にセカンドアルバム『SUNSHOWER』をリリースした。後者は、柔軟なジャズフュージョンサウンドとイージーなグルーヴ、そして薬物の過剰摂取を取り上げた歌詞などによって、日本の “ニューミュージック” 時代を代表する1枚となった。また、参加ミュージシャンもその高評価を後押しすることになった。このアルバムには、YMO結成前の坂本龍一と細野晴臣が参加している他、山下達郎もバッキングヴォーカルとして参加している。

 

しかし、大貫のキャリアをアルバム1枚 - またはDiscogsの取引価格 - だけにまとめてしまうことは、彼女のキャリア全体を正確に理解するチャンスを逃してしまうことになる。1980年代、彼女はパリ的なポップスにヌーヴェルバーグ映画とテクノポップを組み合わせたサウンドを模索している。また、彼女はYMOをバックバンドとして定期的に起用してきた他、坂本龍一とは何十年にも渡ってコンビを組んでおり、ユラユラと揺れるポップソング群を生み出してきた。しかし、大貫はコラボレーションする相手が誰であっても、その音楽に自分のヴィジョンをしっかりと反映させてきた。また、大貫は映画音楽やビデオゲームのサウンドトラックを手掛けている他、チャールズ・ダーウィンが得意とする国や地域についての旅行記も執筆している。大貫は1970年代の日本の音楽シーンの要であり、忙しなかった日本のバブル期を煌びやかに表現していたシティポップに大きな影響を与えた。

 

しかし、キャリア初期の大貫の音楽は、シティポップ的な視点を否定しており、自分の住む街が目の前で醜い姿に変わっていく様子について歌っていた。東京は逃げ出すべき街だと。

 

Patrick St. Michelが大貫をキャッチし、様々な経験を積んできた長いキャリア、1970年代、そして日本の裏側で自分の音楽を聴いている人たちに抱いている不思議な気持ちなどについて話を聞いた。

 

あなたは東京都杉並区に生まれ育ちました。若い頃のあなたにとって東京はどのような存在だったのでしょうか?

 

わたしは1953年に井の頭線沿線で育ちました。NHKがテレビ放送を開始した年だということを憶えています。終戦後、日本の経済が上向きになり始めた頃と言いますか、テレビや洗濯機、冷蔵庫などを一般家庭が買えるようになり始めた頃でしたね。井の頭線の久我山、わたしが育った近所は当時、畑と一面の野原ばかり。緑色の井の頭線がレンゲ畑の中を走っているのを、小高い丘に座って眺めるのが好きでしたね。川でも泳げましたし、自然が溢れていました。ザリガニを捕まえることもできました。

 

そのような東京で育ったことは、アーティストとしてのあなたにどんな影響を与えたと思いますか?

 

東京で生まれ育ったわたしにとって、東京は当たり前の環境でしたから。具体的に東京の何がわたしに影響を与えたのかを答えるのは難しいですね。昔の東京も杉並あたりはのびのびしていて、隣との垣根もなくて、毎朝起きると隣の家に上がり込んで、ご飯まで一緒に食べていました。洗濯機がない頃は、隣のお母さんが、たらいと洗濯板でシャツを洗っているのを側で見ているのが好きだったし。そういった幼少期の風景をいちばんよく覚えています。1964年に東京オリンピックを迎えて、環境が劇的に変わりました。インフラの整備が進み、高速道路が建設され、家も増え、空が小さくなった印象でした。井の頭線も、それまでは吉祥寺から渋谷まで各駅停車しか走っていなかったのですが、ステンレスカーとか呼ばれていた新型車両にデザインも変わり(笑)。急行が走るようになりました。とても不思議でしたね。「なんでそんなに急ぐのだろう?」と思っていました(笑)。なんだか全てが忙しくなった。1980年代に入ってからCMやドラマの主題歌の仕事もあり、自身のアルバム制作もバブルの恩恵を受けて今思えば贅沢な内容、つまりやりたいことが制作費で悩まずにやれた時期でした。1980年〜1990年まで毎年1枚アルバムを出していましたから。でも、作詞作曲をしレコーディングをしプロモーションをし、ツアーをし、ただただ忙しかった。その後もほぼ年いちのペースで出し続けるのですが。

 

時代や出会い、色々な意味で私は恵まれていたと思います。ところが反面、バブルによって街が壊れ始めました。発展と捉えるか否かは別として、気がつけば私の好きな住みやすい東京ではなくなっていました。

 

東京にも地域に必ず小さな商店街がありました。そこで買い物をし、よもやま話などして。そこには地域のつながりがありました。魚屋さん、肉屋さん、八百屋さん、豆腐屋さん、お蕎麦屋さん。それらがなくなりコンビニと駐車場とスーパーマーケットが建てられました。わたしたちの日常に必要だった文化が壊されコンクートの色気のない姿に変わってしまった。毎日どこかで工事をしていて、自分の育った街が壊れていく様子は、見るに堪えないと思い、30年前に東京を離れました。

 

 

 

“山下くんにも、わたしにも理想とする音楽があったのですが、その理想が高すぎて、下手だった当時のわたしたちは、そこにはとうてい手が届きませんでした”

 

 

 

自分で音楽を作るようになった経緯を教えてください。

 

幼い頃、1960年当時、家にステレオがあって音楽を聴くことができたので、小学生の低学年くらいから、それにかじりついていました。一日中ステレオの前から離れない子どもでした。クラシック、歌謡曲、童謡種を集めたソノラマとかもありましたが、一番のお気に入りはThe Plattersの4曲入りEP盤で、定価450円。「You’ll Never Know」、「Only You」、「Smoke Gets in Your Eyes」、「Twilight Time」、全部いい曲! そればかりを一日中(笑)。まだ英語も分からないのに歌詞も覚えていました。まだ持っています。お宝(笑)。

 

小学4年生くらいから、米軍のラジオ局FEN(Far East Network)を聴くようになって。ピアノも習っていましたが、家にあったウクレレばかり弾いていました。中学生になりギターを買ってもらい、中学〜高校とアマチュアバンドを作り文化祭などに出ていました。

 

その頃はどんな洋楽を聴いていたのでしょうか?

 

FENは自宅では聴けなかったので友人の家に行き、そこのお姉さんが部屋でFENを聴いているのを障子越しに聴いてました(笑)。なので誰とか曲名とかわかりませんが、ワクワクしたり、格好いいと思ったりしていました。

 

中学の時は、確か毎週土曜日にやっていた『大橋巨泉のビートポップス』を見るために学校から飛んで帰ってTVにかじりつき。当時の洋楽ベスト10みたいな番組ですね。だから、体感としては1960年代が埋め込まれてしまっている(笑)。

 

アマチュアバンドを組んでいた頃は、The Fifth Dimensionなど、洋楽のコピーばかりでしたね。ですので、自分では音楽を作っていませんでした。オリジナルを作り始めたのは、シュガー・ベイブを結成する2~3年前だったと思います。シュガー・ベイブを結成する前にフォークバンドにいたんです。18歳か19歳の頃で、初めて参加した本格的なバンドでした。ですが、そのバンドのためにわたしが書いた曲は、難しかったのか採用されませんでした(笑)。その当時はフォークブームだったので、Warner Pioneer(現Warner Music Japan)からわたしたちのグループをデビューさせるために、プロデューサーとして矢野さん(矢野誠)が送り込まれたのです。矢野さんはわたしたちのグループをデビューさせるために来たはずなのに、なんと! わたしに「君が書く曲や詞はバンドに合っていないから、このバンドは辞めたら?」とおっしゃったのです(笑)。

 

その頃のわたしには、一緒にやれる音楽仲間がいませんでした。それで誘われるままにフォークバンドに参加したのですが、わたしが好きな音楽を彼らと共有できなかった。それで、矢野さんに「君に合う仲間がいるから」と言われて、 「じゃあ、やめちゃおう!」と。当時、四谷の音楽喫茶で夜中にセッションしている人たちがいるからと紹介していただいて。そこで出会った方たちと意気投合して、わたしの書いた曲のデモテープを録ってみたりするようになり、山下くと出会い、それがシュガー・ベイブの結成に繋がりました。

 

シュガー・ベイブの活動期間は約3年でしたが、その期間で学んだ一番大切なことは何だったのでしょうか?

 

山下くん(山下達郎)にも、わたしにも、大げさではあるけれど、理想とする音楽、というより音楽の傾向がそれぞれにあったんですね。それに対するフラストレーションはあったかもしれません。そのかわりバンドのリハーサルはすごくしていました。仕事もなくて時間があったということですけど、きっと(笑)。シュガー・ベイブは全員東京出身ですから、例えば東京に出て来て頑張るというような感覚は最初からないわけで。ずっと音楽で食べて行こうなどとは全く考えていなかったと思います。近年も山下くんと会う度に「お互いこんなに長くやるとは思わなかったね」と話してます。ライブをすると確かにお客さんは来てくれましたが、仕事もお金もなかったですし、逆に苦しかった思い出の方が多いですね。

 

シュガー・ベイブのライブを観た評論家からの評価も低いことが多く、あの頃はいつも傷ついていました。バンマスだった山下くんは、きっと特に。1970年代初頭は、わたしたちのようなバンドが少なかったんです。ブルーズロックやハードロックが全盛期でした。わたしたちはポップバンドだったので、受けなかったんです。軟弱バンドだと。

 

フェスティバルに出演した時も、当時のフェスは細分化されていなくて、様々なジャンルのバンドが出演していたのですが、演奏しているとお客さんから瓶を投げられたこともありました。「ミンミンミンミン、蝉みたいにうるさい」などとヤジを飛ばされたこともありました(笑)。また、ロック系のバンドはメジャー7thなどをコードに組み込んでいませんでしたが、わたしたちはメジャー7thやテンション系のコードを沢山使っていたんですね。それも気に入られなくて、「帰れ!」などと言われていました。当時の海外のバンドはこういうコードを沢山使っていたのですが、そういうフェスでは受けませんでした。The Fifth Avenue Bandをご存知ですか? シュガー・ベイブもああいうバンドにしたいと思っていました。ですが、日本では全く受け容れられませんでした。応援してくださった一部の方々には感謝です!

 

つまり、物を投げつけられたと(笑)?

 

当時の野外フェスではみんなお酒とか飲んでいたのが普通で。酔っていたのでしょう(笑)。それでそんなことがあった時、演奏中に突然ドラムの音がしなくなって。シュガー・ベイブは後期、ドラムが野口さんから上原さんに変わったので。上原さんは大阪出身なので。それと関係ないかもしれませんが、そのドラムの上原さんを振り向くと姿が無い! そしたら、瓶を投げつけた人に向かって「文句あるなら、上がってこいや!!」と、バスドラムのマイクに頭を突っ込んで叫んでいたと(笑)! だから姿が消えていてみんなびっくりした。という、ホントか嘘かわからない話を山下くんがしていました(笑)。今思うと、そういう笑える話ばかりです。苦しかったなりに。

 

シュガー・ベイブ時代は苦しかったようですが、このバンドのあと、1976年にソロデビューを果たします。バンドからソロへ移行する際に苦労したことはありましたか?

 

シュガー・ベイブは2枚目のアルバムの制作に入る前に解散しました。山下くんとわたしはそれぞれある程度曲を書き溜めていたのですが、2人の音楽の方向性が違ったので、それならそれぞれソロでやった方が良いのではないかという話になったんです。当時、わたしがやりたい音楽に近い音楽をやっている方は日本にはあまりいませんでしたが、はっぴいえんどやTin Pan Alleyなどの先輩バンドがありましたので、彼らが助けてくれました。

 

 

 

“当時の日本は音楽的に埋められていない隙間もまだ多かったので、色々と面白いアイディアを試せたんですね。ですが、今は最初から何か結果を求められる。新しい感覚とか、刺激の強いものとか”

 

 

 

1970年代のあなたの作品群には様々なアーティストが参加していて、コミュニティ感があります。お互いの作品にゲスト参加していました。当時のシーンはどのような雰囲気だったのでしょうか? 「今からスタジオに来ない?」などと気楽に誘い合っていたのでしょうか?

 

先ほども触れましたが、1970年代初頭はハードなロックやブルーズが主体で、わたしたちのような音楽をやっている人は少なかったです。ですから同じ傾向を共にする方たちが集まるというは、自然なことでした。当時そのような活動をしていたミュージシャンやアーティストが今も現役で活躍していることを考えると、大きな何かが生まれつつあったのかなと思います。

 

ただ、誤解のないように付け加えるならば、ロックやブルーズのミュージシャンとわたしたちは傾向は違っても仲が悪かったなどということは全くなく、楽屋を共にしていても音楽に関しての共通の尊敬があったし。今でもジョイントコンサートをしたりするほど、垣根は全くありません。

 

ファーストアルバム『Grey Skies』とセカンドアルバム『SUNSHOWER』の間にどのような変化があったのでしょう?

 

ファーストアルバムは、基本的にはシュガー・ベイブでやっていたことの延長でした。そこに自分がやりたかった都会的なサウンドを少し加えた内容です。ですが、『SUNSHOWER』の頃は、海外でフュージョンが人気を獲得するようになっていて。わたし達のまわりのミュージシャンもそういった音楽をみんな聴いていました。その中のほんの一部ですが、Weather Report、McCoy Tyner、Joe Sample。とくにBrecker BrothersやStuffが好きでした。StuffのドラマーのChristopher Parkerは『SUNSHOWER』に参加していただきましたが、素晴らしい人物です。それで『SUNSHOWER』も自然にそういうサウンドになったんです。

 

当時のわたしたちは「好き!」と思った音楽をひたすらコピーしていました。今聴き直すと、全員20歳代とは思えないほど上手いなと思いますね。歌は別ですが(笑)。そういうわけで、1曲を除いて『SUNSHOWER』も自分で曲を書いているのですが、サウンドを生み出していく作業がとにかく楽しかったので、アウトロ、歌が終わった後の後奏が必要以上に長い曲もあります。本当はそこまで必要ないんです(笑)。歌はおまけみたいな感じでした。当時の日本にはまだシンガーソングライターが少なかったですし、やりたいことができる時代でした。洋楽のコピーみたいなアルバムでも、作らせてもらえる時代でした。でも、オリジナルではあるんです。実際に作ってみてそこから学ぶことはとても多いです。

 

当時の日本は音楽的に埋められていない隙間もまだ多かったので、色々と面白いアイディアを試せたんですね。ですが、今は最初から何か結果を求められる。新しい感覚とか、刺激の強いものとか。でも、もう新しいものなんて出ようがないんです。例えばビートルズがで出てきた時みたいな。

 

『SUNSHOWER』制作時のスタジオセッションはどのような雰囲気だったのでしょうか? 当時の様子を教えてもらえますか? 欧米のファンの多くはこのアルバムに参加したアーティスト陣の豪華さに驚いています。

 

そうなんですか? でも、当時は豪華メンバーというよりみな一般的に無名に近い人たちです。その後有名になった方たちですが。通常は3ヶ月ほどかけてアルバムを制作するんですが、あのアルバムの時は、Christopher Parkerを呼び寄せた関係で、短期間で仕上げなければならなかったんです。長く滞在してもらえば、その分だけ費用がかさみますから。ですので、Christopherは約2週間しか滞在できなかったので、その間にレコーディングを終わらせるために楽曲、歌詞、アレンジを全て譜面に起こして用意しておく必要があったのですが、坂本さん(坂本龍一)が頑張ってやってくれました。ですので、『SUNSHOWER』の制作期間はキャリア最短です。やればできる(笑)。

 

あなたはキャリアを通じて、「街」や「都会」、「Carnaval」など、シティライフをテーマにした楽曲を数多く生み出してきました。1970年代から1980年代初頭にかけて、あなたにとって東京はどのような存在だったのでしょうか?

 

わたしが生まれ育った街なので、上手く説明できませんね。わたしが育つ時代と共に街も育っているので。空気のように当たり前の存在として捉えていたので、東京は特別な場所ではありませんでした。ただ、人が多くなればなるほど光と影の部分がくっきりしてきます。人が孤独を感じる時って、大自然の中にひとりいる時ではないんです。人波に揉まれている時に感じる焦燥と孤独。それはわかります。だから都会をテーマにするとそういう歌詞になってしまいます。他の街から東京へ来た方の思いはわからなくはありませんが、音楽で言えば、例えばアメリカの地域におけるその場所ならではの音楽があり、人種によるスタイルがあり宗教があり。それぞれ素晴らしい文化であると思うので。日本は東京一極集中的な傾向があって、逆に面白くないと思います。東京にお金も人も集まりすぎる。霞が関のビルの中でだけ考えることをやめて、参勤交代で公務員は全員地方を回るべき。

 

海外の『SUNSHOWER』人気は意外ですか?

 

嬉しく思っていますが、なぜ好きなのかが分からないですね。どこを気に入っているのでしょう?

 

人気の理由のひとつは、参加ミュージシャンの豪華さだと思います。Discogsなどでクレジットをチェックして、山下達郎、細野晴臣、坂本龍一、清水靖晃など、クールなアーティストが軒並み参加していることを知って、「凄い」と思っているわけです。

 

わたしも、1970年代の頃に中古レコードショップでアルバムを買う時は、中身を聴く前にクレジットを確認していました。それと同じような感覚に近いのかもしれませんね。

 

あなたのサウンドは1980年代、ヨーロピアン3部作(『ROMANTIQUE』・『AVENTURE』・『Cliché』)から大きく変わりました。方向転換した理由を教えてください。

 

元々、ヌーヴェルバーグの作品群を含めてヨーロッパの映画が大好きだったんです。音楽に関しては国に関係なく聴いていましたが。話を戻すと、『SUNSHOWER』の次のアルバム『MIGNONNE』が方向転換のきっかけになりました。『MIGNONNE』ではプロデューサー(小倉エージ)がつきました。それまでは、好きに作っていたので。初めて曲も歌詞もダメだしを随分されて。『MIGNONNE』はレコード会社移籍の第一弾でしたので、「売れるアルバムを!」と契約時に言われまして。「そんなのわかるなら苦労しないぜ!」と思いましたが。その前のアルバム『SUNSHOWER』までは全く自由にやっていたので。曲も歌詞も分かりにくいと言われ、嫌になってしまったんです(笑)。でもプロデューサーのアドバイス通りに書き直しましたが。

 

『Grey Skies』と『SUNSHOWER』を通じて、ファンの数は順調に伸びていたのですが、『MIGNONNE』の制作中にこのアルバムはそういうファンの気持ちを裏切るものではないのかと思い、発表できないと思うようになりました。ファンはわたしが好きにやってきた2枚のアルバムを聴いて応援してくれているのに、そのファンに対して、売れるために作ったアルバムを発表するわけにはいかないと思ったんです。結局、『MIGNONNE』はリリースしましたが、やはり、セールスは急落しました。それで「見たことか」と思い、しばらく音楽を離れようと思いました。

 

ですが、そう思った「MIGNONNE」の中の曲、「横顔」「海と少年」「突然の贈りもの」は好きな方が多く、今でもプログラムの常連となっています。客観的な意見にも耳を傾けるべきだと、今は思っています。

 

 

 

“長く仕事を続けていると、7年に1回追い風が吹いて自分を前に進めてくれるんです”

 

 

 

それで2年間離れたんですね?

 

そうですね。レコード会社としては、売れるか売れないかなので。それが分かれば誰も困りませんが。ですが、それ以前に、自分が納得できるものを作れない環境にいても意味がないと思ったんです。それで2年間休んだんです。その頃、また別のプロデューサーから「本当に辞めるの?」と訊かれたんです。それで、「分からない」と答えると、「ター坊(大貫の愛称)の声には、米国人のような強さはないけど、ヨーロッパというか、フランスというか、囁くような歌の方が合っているんじゃない? トライしてみたらどう?」と言われました。それで、「どうせ辞めるなら、1枚くらいそういうアルバムを作ってもいいかな」と思い(笑)、投げやりではなく、消極的な気持ちでトライすることにしたんです。

 

それが『ROMANTIQUE』なんですが、実は、YMOのメンバーや加藤和彦さんたちもみんなヌーベルバーグ期のフランス映画やサウンドトラックが大好きだったんです。ハードロックやブルーズロックが人気で、「男子がフランス映画なんて」という風潮があったのか、それを隠していたのか分かりませんが(笑)。それで、わたしがそういう音楽をやりたいという話をすると、喜んで参加してくれました。それで、皆様の情熱とお力添えでアルバムが完成し、セールスがまたぐんと(笑)。当時、このような音楽を作っている人はいませんでした。ヨーロピアンなスタイルをベースにしつつ、当時出始めていたコンピューターミュージックも取り入れていきました。坂本さんもそういうテクノロジーを使いたがっていましたし。その後ヨーロッパ三部作となり、『Cliché』ではパリ録音もしています。

 

あなたはYMOのメンバーと定期的に仕事をしてきました。ですが、彼らの人気がピークに達している時も、あなたは彼らのサウンドそのものとは違うサウンドを生み出していました。どうやってYMOサウンドに偏りすぎないようにしていたのでしょうか?

 

YMOはそのバンドの音楽ですが、ひとりひとりは別々な個性の持ち主ですから、YMOの方たちがテクノしか興味がないわけではないですし。むしろ逆ですね。YOMが特別な存在なのです。

 

アルバムを作るごとに、客観的に違う耳を持って全体を聴き直し、試してみたけれどやっぱりうまくいっていないと思うところは自分のジャンル(領域)からゆるやかに外すということでしょうか。でも頑なにやらないというわけでもなく。例えばファッションで言えば、生地とデザインで新しい空気が生まれることはあるので。全ての可能性はやってみないと分からない、ということですかね。

 

「SUNSHOWER」では、サウンドは素晴らしかったですが、自分の声には合わないなということを学びました。沢山のことを学んでいくうちに、自分にできることとできないことの判断がつくようになってきますし。流行っていても似合わない服があるのと同じで、流行っている音楽が自分に合うか合わないが分かるようにです。

 

そのような学びは歌い方の変化にも活かされたのでしょうか?

 

1980年代に関して言えば、ビートに乗せることを意識していました、歌も楽曲の一部なので歌い方は大きな要素です。また当時はビートに乗ることが気持ち良かったし、それもアレンジの要素ですから。同時に1988年から弦カルテットとのツアーもするようになり。歌をビートに合わせることとは真逆の、間とか、息とか全員でリットする時のタイミングとか。そうするともっと歌に対して丁寧に向かい合うということが出来るし、それがまた新たな学びでした。

 

若い頃は自分の中に情報量の蓄積も少ないので、コンピューターミュージックのような情報量の少ない電子音楽に声がフィットしやすいんですね。分かります? 電子音って倍音がないんです。逆に言えばアコースティック楽器の情報量は単体でも比べものにならないほど豊かなんですね。歳を重ねると自分の中に情報量が蓄積されていくので、声そのものの中に。誰でもそうです。そうすると声が電子音楽にフィットしなくなってくるんですね。自分の声が浮いてしまうんです。

 

80歳のおじいさんが「それは駄目だ!」という一言と、20歳の青年が「それは駄目だ!」という言葉の重みの違いはなんだろう、と思いません? 人の声って、それまで生きた情報が集約されるんですよね。歌も同じです。ファンの方に「昔みたいなのもやって!」と言われますが、試したけど混ざらないんですよね。サウンドと声が(笑)。加工すれば別ですが。

 

長く仕事を続けていると、7年に1回追い風が吹くんですよ(笑)。その追い風が吹くと、何もしていなくても前に進めるんです。「いいの? いいの?」みたいな(笑)。ですが、その追い風は、その前の4~5年、凪の中を自力で漕ぎまくっていないと吹かないんです。そういうことが出来るかどうかですね。一見辛い努力のように思えますが、本当に好きなことだったらできます。

 

凪の間に漕げるかどうかが大事だと思いますね。その間に、世間から忘れ去られているような時に「今だ!」と、色々とトライするわけです。注目されている時は出来ないことを。わたしもブラジル録音したり、スペイン録音したり、アフリカに行ったり南極に行ったり。アフリカには延べ1年いました(笑)。

 

歌詞についてですが、1980年代以降、あなたの楽曲には、タンタンや『不思議の国のアリス』のアリスや、ピーターラビットなど、子供たちに人気のキャラクターが数多く登場しています。また、『Comin’ Soon』は子供たちのために作られたアルバムのように聴こえますし、「メトロポリタン美術館」はNHKの番組『みんなのうた』に提供した楽曲でした。このようなキャラクターやテーマを取り上げてきたのはなぜでしょう?

 

子供のために作ったわけではありません。たとえば、ピーターラビットですが、ストーリー自体はリアルで怖いですよね。沢山曲を書いていると、人間しか出てこないラブソングに飽きてしまう。それでキャラクターを取り上げているわけですが、大人もOKなものだけですね。絵本もたくさん持っていますが、いちばん好きなのは「ぼうぼうあたま」です。日本の傾向かもしれませんが、子供に “分かりやすい子供らしいモノ” を与える大人が多いようですが、子供向けのものなんて、はっきり言って必要ないんじゃないかな。自分が子供の頃のことを思えば、大人の世界はまだ遠くても、怖いものは怖くドキドキしたことをよく覚えているし。わからないことをそのままずーっとどこかにしまっておいて、ある日それがわかった時の喜び「そういうことだったのか!」と理解できた時の気持ちが、私は忘れられないです。なんか自分が成長した証みたいで。

 

「怖かった」など、ぼんやりとした印象を持つだけで良いんです。「メトロポリタン美術館」のアニメーションにはミイラが出てきますし、歌詞も主人公が最後には絵の中に閉じ込められてしまうという内容です。これを子供の頃に観たわたしのファンからは「怖いけど、観たくなってしまうアニメーションでした」と言われました。子供はそういうものだと思います。『星の王子さま』のサンテグジュペリは「大人は子供だった時のことを忘れているだけだ」と言ってますし。

 

1990年代と2000年代は、歌詞のテーマとして何に興味を持っていたのでしょう?

 

1990年代前半はネイチャーマガジン(『Mother Nature’s』)に連載を頼まれていたので、ほとんど日本にいませんでした。ガラパゴス、南極、ダンザニアに行っていました。ですので、音楽よりはそういう大自然の空気を吸いまくりな日々を送っていました。でも、日本に戻るとアルバム制作は続けていました。

 

あとは、ある日、車の運転中にJ-Waveを聴いていたんですが、フランスのバンド、Lilicubの楽曲が流れてきたんです。とても衝撃的だったので、そのあとすぐに連絡を取って、フランスへ向かって一緒に仕事をしたこともありました。彼らは「なんでいきなり日本からやってきたんだ? 僕たちの楽曲が流れたのかい?」と驚いていましたね(笑)。アルバムを作るためには強い思いが必要なんです。「この人とやりたい!」と。その思いがないと自分にとって良いアルバムになる自信がないです。「この人と作りたい」という思いが全てなんです。

 

これまでのアルバム群の中で、あなたにとって一番重要なアルバムはどれでしょう?

 

『LUCY』ですね。坂本さんと一緒に仕事をしたことは、わたしの中でとても大事な宝物です。学んだこともとても多かった。ものをつくるというのは先へ進むために、100あるうちの1しか選べない、その選択の繰り返しです。

 

アレンジをしていただいている時も、いくつか提案がある中で例えば「どっちがいいと思う?」というようなことには絶対答えてくれない。「自分で決めろ!」というのが坂本さんです。そういう中で一緒に仕事をしてきたので逞しくならざるを得なかったですね(笑)。

 

彼がニューヨークへ移住したあと、彼が忙しくなりすぎて、しばらく一緒に仕事ができなかったし、それまで一緒に仕事をしすぎてお互いに疲れたというのがあったかもしれないし。ですが、またその機会が巡って1997年に『LUCY』のアルバムを作った時、音楽も人も熟成することに気づいたんです。お味噌とかワインのように(笑)。1980年代に2人で積み重ねてきた音楽が、1997年の互いに相応しいオトナのポップスになったなって思いました。『LUCY』はそういうアルバムですね。坂本さん自身はその後もコンピューターミュージックを取り入れたポップスを何枚か制作しましたが、わたしにとって『LUCY』のような作品はもう二度とないと思います。とても貴重なアルバムです。その後、坂本さんと作ったアルバムは、2010年の『UTAU』です。しかもそれはピアノと歌だけです。もう究極です。今後も心身元気に続けて行けるといいですね。