十一月 04

INTERVIEW: 矢部直

DJとUNITED FUTURE ORGANIZATIONと、ジャズ

By Masaaki Hara

 

これから、United Future Organization(以下U.F.O.)の矢部直のストーリーを紹介する。彼のことを語るのに、筆者は自分がその適任者ではないのかもしれないと、実は当初思っていた。矢部直がDJとして活動を始めた80年代、そしてU.F.O.としてデビューした90年代の東京を、確かに僕も生きてきたが、当時、その現場で直接的に接触したことは一度もなければ、U.F.O.がパーティをやっていた青山のBlueというクラブにも数回、足を運んだことがある程度だからだ。矢部直が雑誌に時折書いていた記事を読んだことは覚えている。もちろん、リリースされた作品も必ず聴いてきたのではあるが。

 

僕が、矢部直本人と直接会って話をしたのは、90年代も終わろうかという頃だった。U.F.O.の4枚目となるアルバム『Bon Voyage』がリリースされた際に、プレス・リリースに寄せるテキストのためにオフィシャルのインタビュアーとして、矢部直に長いインタビューをした。それは、結果的にインタビューという枠を遙かに超える長い時間を共有することになった。その時のことはいまもよく覚えている。

 

楽器も弾けなければ、楽譜も読めない、しかし人一倍音楽を聴いて来た3人(矢部直、ラファエル・セバーグ、松浦俊夫)が、U.F.O.として音楽を作ることができたのは、機材の進歩ゆえの必然でもあるが、たまたまそういう時代に生まれたからでもある。そう冷静に語っていたのが強く印象に残っている。また、U.F.O.を形容する際のアシッド・ジャズやクラブ・ジャズの「ジャズ」という定義に関して、ジャズと自ら称したのは、時代の架け橋、世代の架け橋として、90年代にやらねばいけないと思ったことの自然なアティチュードから来たのだ。そういった発言から、僕は矢部直がジャズという言葉に込めた想いと共に、既存のジャズに対するほろ苦い感情も知ることになった。

 

アシッド・ジャズ/クラブ・ジャズとU.F.O.の90年代が終わろうとしていた時期にリリースされた『Bon Voyage』は、だからこそ、滋味深いアルバムであった。テーマに掲げられた“旅”とは、外国や知らない町に行くことを指していたのではなく、ふらっと町に出て何か意外な出会いを見出したり、1人でいても違うことを発見したりすることもあるという、日常の光景に変化をもたらす、ちょっとした、しかし大切な兆しのことを表していた。矢部直は、90年代後半の東京に対して、あまり面白いことがなくて寂しさを感じているということも語っていた。それは、90年代にU.F.O.として世界中を回り、再び、東京で面白いことを探そうとしていた時期でもあったのだろう。

 

あれから、15年が経った現在、矢部直はいまも東京で精力的にDJを続けている。その間、僕は矢部直のDJに接する機会が自ずと増えたように思う(時には一緒にDJをすることもあった)。そして、15年前のインタビューの記憶を辿る中で、もう一度、彼とじっくり話をするタイミングなのかもしれない。そういう気持ちを抱くことができたので、このインタビューをおこなえたことを最初に記しておきたい。

 

 

まず、DJをやる前の、そもそも音楽を聴き始めた頃の話から伺いましょうか。

 

中学、高校と野球だけしかやってない。ただ、勉強も出来ないと入れない文武両道の学校で、学帽に詰め襟で、だけど、ガキの頃からレコード聴くのがすごい好きで、ジャケット面白いってWingsの3枚組とか自腹で買ってた。自分の音楽の趣味を野球部のやつらには一回も話したことはないなあ。彼らはみんな天井に松田聖子のポスターを貼ってるような普通の野球小僧だったから。大雨で練習が中止になると、電車乗り換えて秋葉原の帝都無線に行ってたね。レコードだけで6階立てのビルがあって。

 

ありましたね。僕もビートルズのレコードを買った記憶がある。

 

実は渋谷より先に、秋葉原にすごいヴァイナルの匂いがあったよね。それだけでわくわくして、学帽被ったまま、いろいろ買ってた。その後、野球を諦めて、大学に行って、初めてバイトした、青山で皿洗いのね。その皿洗い仲間だったのが今は有名なスタイリストの小沢宏君で、すぐ仲良くなって、彼から、「西麻布にディスコでないクラブっていう、毎日違うDJが違う音楽をかける店で、30日のうち20日くらい決まってるけどあと空いてるから、矢部くん音楽詳しいんでDJしない?」って言われたのね。それでやってみようかなと。Gaz Mayallの「Gaz's Rockin' Blues」っていうクラブ・イヴェントあるでしょ。あれをパクって、「Yabe's Rockin' Jazz Night」っていうのが俺の最初のイヴェントのタイトルなんです。

 

それは何年くらいのことですか?

 

85〜6年ですかね。 20歳そこそこですよ。

 

つまり、ディスコでのDJ経験がなく、いきなりクラブでDJを始めたんですね。

 

そう。皿洗いから皿回しになっちゃった。それで、その時にファッション・ショーとかにも興味あって、霞町でトミーズ・ハウスやってた富久慧さんって、洋服ブランドのDJもやってた人の鞄持ちになったの。そんな時にそのトミー(富久慧)さんが第三倉庫っていうクラブを新宿の花園神社に作った。金、土だけやるクラブで、坂本龍一とかもいつも遊びに来てたし、すごい良いクラブだったけど、そこでもDJやるようになった。早い時間はDJして、ランキン・タクシーさんとかラファエル(・セバーグ)とか、桑原茂一さんとか来たら、グレーの詰め襟の制服を着てバーに入って酒作ってた。その時に、俺はトミーさんとこから茂一さんに貸し出されたんだよね。何やるかも知らないのに。ちょうどクラブキングの設立の時で、深夜TV番組、ラジオ番組、お店、全部が動いてた良い時で。それのアシスタントに選ばれちゃった。茂一さんは、パスポートに自分の職業として“選曲家”って書きたいけど、社会には認められてない時だったから、何とかしてそれを職業の一つくらいには覚えてもらうようにしたいっていうことで、日本選曲家協会っていうのをその頃作って、僕が担当になって、DJだけではなくて、評論家とか、いろいろ音楽を選ぶ同志を200人くらい集めてやってた。茂一さんの会社では、俺はお金を作る役で、毎週月曜にミーティングして、ライヴでこのバンドを呼んで、このスポンサー付けてこういう会場でやって、幾らになる予定です、みたいな感じで。21、2で、それをやってた。それで、西麻布に菊池武夫さんがプロデュースするボヘミアっていうクラブを作って、そこにロンドンのDJを呼ぶことになった。レギュラーで。そのお店のサウンド・エンジニアのアシスタントがトミイエ(・サトシ)くん。まだ早稲田の学生だった。

 

その当時ロンドンとはどうやって繋がっていたんですか?

 

テレ朝の深夜番組で30分、「クラブキング」って番組やってたんだけど、そこに10分くらいのロンドンで制作したコーナーもあって、メンツもColdcutとか、ロンドンの最先端の連中が参加してくれてて、そこから広がった。25で茂一さんとこ離れて独立して、株式会社ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼイションっていうのを作って、半年後くらいにU.F.O.のファースト・シングル(「I Love My Baby (My Baby Loves Jazz)」)の曲作ったの。その一発目から外国の誰に送るかっていうのは全部知ってた。僕はその時も裏方を喜んでやってたんですよ。Major Forceの最初の頃も応援してたし、茂一さんのおかげでいろんな機会に恵まれて、外国とのネットワークはニューヨーク、パリって、かなりあった。

 

 

DJからいきなり作り手になることに、困難は感じなかったんですか?

 

その時に、もう誰でもできるなって、みんな思うだろうなって感じた。だって、楽器も弾けない俺がやったんだから。(Jorge Luis) Borgesの本で、「ラテン語では見つけ出すっていう言葉と作り出すっていう言葉は同じ言葉を使う」っていう文章があって、俺、選ぶことに関しては、ガキの頃から誰よりも自信があったのね。ただ作るタイプじゃないなって思ってた。でも、その言葉を読んでからは、俺も作れるからなって実は腹の中で思ってた。やればもっと上手くできるんじゃないのって。

 

曲作りの最低限のスキルはどうしたんですか?

 

それは3人ともない。ただ、オープンリールを編集できる最後の世代なんですよ。カミソリでテープ切ってね。ちょっとしたもの出来ちゃうじゃない。リミックスってほどじゃないけど。それでロンドンの連中もテープでいろいろ作ってて、楽器じゃないけど、音楽を知ってるから良い曲は作れるんじゃないかと思ってた。まずU.F.O.の3人は、全ての始まりは、自分の考えてることを他の2人に言うんですよ。昔ビート・ジェネレーションの頃にいた女の人が本で書いてたけど、2人までは個人、3人からは群衆って言ってて、要は2人でやるのと3人でやるのとは大違いなんだよね。大変だけど出来上がりは3万人にも値する時があるんですよ。そもそも一発目は、「音楽作ってみないかって言われたんだけどどう思う?」、「いいねいいね」ってスタートした。でどうやって作るかってなったら、DJとしては分かってたから、後はプログラマーっていう人たちを当たって、小日向(歩)くんとかと手組んで、彼は最も出会いが大きかったけど、大変だったと思うね。プログラマーの後ろに3人デカい男がいて1人2台ずつターンテーブルがあって、それでひたすらネタを掘ってるわけですよ、スタジオで。

 

3人同時ってことは、計6台のターンテーブルがあると。

 

そう。それで「最初じゃあビートから行こうか」って言ってビートが出来たとして、「そのテンポはこうだ」、「じゃあネタはこれ合わせてみたら」って、ターンテーブル同時に鳴らして「合うじゃん」とか言って、「じゃあいま録ってた?」、「録ってますよ」とかね。ドラム探してる時にラファエルはパーカッション持ってくるから、ドラムとパーカッションでいろいろやったりとか、俺らも勉強になった。本当にずっとそのやり方だよ。『ミッション・インポッシブル』の映画の主題歌やるかもしれないとか言って予算が下りたときは、ロンドンのAbbey Road Studioを取って、三十何人のストリングスを相手に、俺らド素人3人がやった。豪華にしたいんじゃなくて、やりたいようにやることこそ良いわけで、ヒップホップ世代っていうのはそのままのアイディアから始まったり、コンセプトがないようであるわけでね。その辺を楽しんでできる人だったら、だから本当に今の時代はラッキーで、音楽が作れるんだと思うよ。俺が作れたんだから。

 


 

メジャー・デビューとなったアルバム『United Future Organization』は、日本だけでも相当売れましたよね?

 

日本だけで10万売れたのかな。でもそれはね、そんなになると思わなかったし、それがどういう意味を持つのか最初はわからなかったけど、変に自惚れてるんじゃなくて、どんどんやんなきゃいけないと思った。だって契約書だけでも、何年か前にソニーが作ったのをどのレコード会社でも使ってるみたいな時代で、エイベックスとやる時に音楽の弁護士さんに頼んだら、エイベックスが頼んでる弁護士さんと同じ人だったりとか。それしかいない。要はね、ヨーロッパが200年かけたことを、日本は20年でやった気になってるけど、やっぱり時間はいろんな意味で重みがあるじゃない。あと、俺らの時は好きなようにやって、どんなに洋風かぶれとか言われても、日本人っぽくなってった。あと俺は人の真似をすればするほど違うものになっていくっていうタイプで、「この曲いいねぇ、こういうの作りたいねぇ」って言ってるんだけど、どんどん変わってっちゃう。それで、俺みたいな音楽の知識、教養がない人間でも、面白いなってなるわけじゃない。ルールは知らないから、バカアイディアが出てくる可能性はあるよね。あと俺たちが作った曲をバンドのライヴでカヴァーしてくれるのはいいんだけど、全くうまく出来ないって言ってた。

 

楽理的には正しくないからですか?

 

全然ね。ミュージシャンがあれをカヴァーすること自体がナンセンスなのかもしれないし、俺らの方が優れてるって意味じゃなくて、全く方法論も考え方も違うし。あと、竹村(延和)のこと俺は凄い尊敬してて、彼がヒップホップのDJだった頃から知ってて、いろんな機会で俺は会ってるけど、ある時ね、彼と僕らを比べても変だと思ったことがある、1人で極めてやる音楽と、3人で作る音楽、あと3人だけじゃ作れないからいろんな人と作る、そうやって生まれる音楽と、どっちが良い悪いじゃなくて、それを同じ括りで言うのも変だと思って。竹村は竹村でちょっと斜に構えたとこあるから、どんどん名前変えて、俺は同じ名前でずっと違うこともやってたタイプで、ちょっと憧れてたけどね、別名でやるプロジェクトとか。ずいぶんとU.F.O.と矢部直に時間かけちゃったから、俺は1人で音楽を作ったことがないのかもしれない。

 

 

 

U.F.O.は、アシッド・ジャズやクラブ・ジャズという括りで「ジャズ」とも称されてきましたね。ジャズと呼ばれたことを、いまは改めてどう思ってますか?

 

恥ずかしい。一番楽な言い方だったんですよ。幅広い意味にもなるし、何かある、でも何でもじゃないっていう、実は他のジャンルよりももっと余白があると思ってたからだったんたけど、途中から変なやつらが、あれもジャズこれもジャズだって、あれは誰のせいなのかわからないけど、もう一緒にされたくないって思った。幼稚園からColtrane聴いてるとかじゃないし、でも初めてやったDJが「Yabe's Rockin' Jazz Night」だったし、その時はロックでもなくジャズで、変わってきてるようでいて好きなのは変わってなかったりする。要は言い方だけど、どんなジャズが好きって言われたら、ロックしてたり、ファンクしてたりっていう、ジャズじゃない世代なんですよね、俺らは。でも後々はやっぱりいろんな良いものに気付く。アフリカ音楽も俺舐めてたと思ったし。エレクトロの使い方とか、どこよりも自然に取り入れちゃってたし、あとやっぱり先入観が強かったのか、若い時アナログ買っててもアフリカ盤の音が悪すぎて、あんまり高い金を払う代物じゃないと思ってた時があるんですよ。

 

ジャズも辿っていけばアフリカに行き着くけど、ジャズという言葉自体がアメリカで定着したものですしね。

 

そう、アメリカでジャズって言われたのも、やってた人たちは名前を形容してなかったわけでしょ。それでドイツから逃げてきたドイツ人が録音技術を持ってるから、あなたたちの音楽すごいね、何ていうの?それでジャズにしちゃって録音した。例えば、浅草とかパリっていう街も、浅草生まれ、パリ生まれの人だけでああなってるんじゃない。浅草っていうものが好きな世界中の人が浅草を残してるんだと思うの。パリもそれに近いものがあると思う。だから人間でも、やっぱり光っていうものは、自分で見つけりゃいいってもんじゃなくて、誰かが、よそ者が、すごいねっていう光を見つけるわけじゃん。そういうこともすごく良いことになる。金のなる木を見つけたっていう感覚でもなく、わからないものだよね。だけどすごく良いものだと思って、じゃあ録音しようとか、みんなに聴かせようとか、そういう最初はわからないものこそ、そこで測られるわけじゃん。それに対してどれだけ情熱をかけられる人間なのか、要は金なんかより、「これをこのままにしててどうする」って言ってやって、それを極めれば極めるほど、わかんないものにこそ、本当に賜物っていうのが生まれてくるんじゃないですかね。

 

 

U.F.O.がジャズという言葉と常に共にあって、そしてMontreux Jazz Festivalなどにも出演するようになると、DJではなくて、ライヴを期待されることも当然ありましたよね?

 

そう、次はライヴを観たいっていう人が出てくるようになるんだよね。でも、俺たちはそこまでは行かなかった。何回呼ばれてもライヴっていう形は試すことはできなかったね。3人のときは自分たちが作った曲をミュージシャン使ってやったりはしたけど、DJがライヴっていうところで新しいことを何か作れたかって言うと作れてないと思う。それは作ろうとするエネルギーが少なかったんだと思うよ。やっぱりバンドじゃないし、ミュージシャンじゃないし。幼稚園の時に、兄貴のレコードでThe Beatles聴いて、兄貴はギターで「Yesterday」とか弾いてたけど、俺は良いもの見つけると自分でそれを真似しようとは思わないんだよね。この上手い人たちをもっと聴きたくなって、だからコンサート観るのも好きだし、俺は演奏できないんじゃなくて演奏しなかったタイプだとずっと思ってた。ただ、(村上)ポンタさんかな、面白いこと言うなと思ったのが、ドラム教室を子供たちの前でやって、じゃあジャム・セッションやれって、2人並べたんだけど、「相手のことをよく聴いてとか、そういうんじゃないんだよ、本当のジャズっていうのは自分のやりたいことをやっちまうんだよ、それでやったもん同士があれれれれって感じでなっていくのがジャズなんだよ」とか言ってて。それに対しては、感覚的には僕にもあると思うのね。こうきたらこうするぞみたいな、やりたいと思うこと合戦だったら誰にも負けないって。俺40過ぎてからこういうことかってわかったこともあったし、やっぱり音楽は時間かかることもある。以前、山下洋輔さんと大友良英さんと、筑波のカピオホールっていうところでライヴがあって、DJで出て、前座じゃなくて一緒にやったの。おこがましいよね。山下さんとは何回かそういう感じでぶっつけ本番に近い形で良いことやっていたんだけどね。

 

大友さんはギターですか?

 

ギター。「Loney Womanで」ってなって、「持ってる?」って言うから、俺はOrnette Colemanのやつ持ってたけど、「僕、それでどうしたら?」って言っても、「いや大丈夫だよ」って言うだけ。生まれて初めて今日自信ないなと思った。

 

今までDJでそんな気持ちになったことは?

 

DJとバンドは何回もやってるけど、別にDJの音で行く限りは、DJはそんなに大変じゃないと思う。でもその時の5分のリハーサルで、「じゃあそれで」とか、それでって言われても、俺何を足してこうかなとか思って、だけど俺が選んだ音から入ったの、始まりが。そしたら、休憩時間があるまで、ほとんど上手く行って。

 

それはどのくらいの長さだったんですか?

 

全体は2時間くらいで、40分二回、間に10分休憩タイムでトイレとかに行ったりする、ホールのコンサート。

 

 

決め事が何もない中で、いきなり、「Loney Womanで」とだけ言われたわけですね。

 

そう。かけていいとも言われてなくて、いや、「Loney Woman」で行きましたよ、最初から。だけど、もう勝手にやりだすから、そしたらじゃあ俺はもういいかなと思って、今度は違うの入れちゃう、四つ打ちとかさ。そしたら半分までは、上手くいったんですよ。しかも、休憩でタバコ吸いに裏に出たら満月で、「ありがとうございました、あと半分よろしくお願いします」とか言って、また後半行ったらさ、やっぱりすごいな音楽って思って、あの千人を前にさ、音楽を止めるっていうのも俺たち次第なんだなって感じになってきて、出来ちゃうんだ俺でもと思った、って俺1人の力じゃないけど。でも、山下さんも大友さんも楽しかったって言ってたし。

 

そうしたセッションも経てきた上で、改めて聞きますが、ジャズはいまも好きですか?

 

好き好き。だけど嫌いだった時もある。何がジャズだろうって思って。だから、ジャズとか何とかじゃないね、もう。最近DJでもジャズDJと呼びたきゃ呼んでもいいし、くらいで。もともと照れくさいし、ジャズって言われるの。俺が一番好きだったジャズはね、日本には最初あまり入ってこなかった時代のなんだ。戦争時代の、40年代のジャイヴが好きだったんだよ。もっと踊れたジャズ。だからロンドンからSlim Gaillardも呼んだし。

 

ジャイヴは、歌も踊りもあって、ユーモラスで、ジャズだけでなく、後のR&Bやロックンロールの要素も内包していて、だからこそ、Slim Gaillardもアシッド・ジャズの流れで80年代にロンドンで再評価されたのでしょうね。

 

初めて黒人たちがステージに立ったけど目の前は全部白人っていう、そのストレスを自分たちの家に帰ってからパーティをやって、警察の悪口やら麻薬のこと、スラングを作ってやってた感じの、あの音楽とあのシーンが好きだった。だから自分のジャズとはそういうのだったし、明るすぎて何が何だかわからないところを避けて、あえて暗闇に入ってく目的っていうのはさ、それこそ光を求めてる人だけであってほしいっていうか。だからこそ、「いま何か光った?」っって敏感になれるわけだから、そういうとこで暗いものも嫌だし、明るく光を見つける場所が僕は夜の世界と思ってやってきて、だからジャイヴとかもその明るさがあった、渋いジャズも好きだけどね。ジャイヴは、日本だと中村とうようさんの監修したやつしかなかったくらい。

 

スウィングとビバップの狭間で、ジャズとしての紹介よりも、むしろ、後にロックやブルース、そしてアシッド・ジャズの人達から再発掘された感じがありますね。

 

映画だってそう。日本で何でも観られる気になってるけど、香港とか行くと、コメディとかめちゃくちゃある。日本は何でも入ってくるって思ってる人が多いかもしれないけど、世界にはもっともっといろんなものがゴマンとあって、良いモノもいっぱいあるよっていう。やっぱ知ったかぶらないほうがいいですよ。音楽はだけど本当に珍しいものだよね。レコード買い続けてもキリがない。そんな商品ってあんまないし、あと、知った気になれないっていう、そこが音楽の一番好きなとこかもしれない。(William) Burrroughsは、芸術とは何ですか?っていうシンプルな質問に、「今まで見て知ってきたことがその通りなんだと確信させてくれると同時に、全く俺は知らなかったんだとか、見たことになってなかったなとか、そういうことを同時に感じさせてくれるものじゃないか」って言ったんだ。俺の感覚はそれに近いんだよね。

 

矢部さんは基本的に東京にいて長年活動を続けてきて、いまの東京や日本についてどう感じてますか?

 

さっき言った、ヨーロッパがかけてきた時間の意味もわかった上で、いろんな意味でだけど、やりがいを持てば面白い時なんだけどね。例えば人間みんな長生きしようと生きてきた。その最果てが今の日本。長生きして良いことあるよって示すのが日本人の役目になってるわけですよ。動物界では長生きの条件には役に立つっていうことがあるから、人間も、老人が生き残るような働きができるということと、若い人たちを助けられるような役に立つ、だけどこれを俺たちのDJシーンに置き換えたら誤解が生じるかもだけど、もっと音楽そのもののこととか、その力こそをわかるDJでなきゃいけない。ああだけど俺わかんない、今の東京がどうなのかは。

 

with Gilles Peterson
 

U.F.O.と矢部直の活動を振り返るこのインタビューは、「日本のジャズ」の特集の中で紹介される。U.F.O.が掲げたジャズ、そしてアシッド・ジャズとクラブ・ジャズのジャズとは、矢部直の言葉を借りるなら、「DJなりの伝え方」そのものであり、「他のジャンルよりももっと余白がある」ものだった。80年代〜90年代にクラブ経由でジャズに触れた者(かく言う自分がそうだ)は、狭義のジャズの優れた生演奏よりも、時に楽器ができない者が作り出した音楽に魅了されてきた。そして、いまはそんな音楽の影響を受けたミュージシャンが登場するような時代にもなっている。U.F.O.の曲をカヴァー出来なかったミュージシャンの次の世代が表れているのだ。今度は、ジャズがU.F.O.を再発見するかもしれない。その可能性がないと誰が言えるだろうか。