五月 09

インタビュー:Steve Bicknell

ロンドンで開催されていた伝説のアンダーグラウンドパーティ “LOST” 不動のレジデントDJとしてひとつの時代を築き上げたUKテクノの重鎮がキャリアを振り返った2005年の貴重なインタビューを紹介する

By Frank Broughton

 

Steve BicknellはUKのテクノシーンの発展に大きく寄与したDJ / プロデューサーだ。

 

ロンドン・バタシーで10代を過ごしたBicknellは、1980年代後半のエレクトロニック・ミュージック黎明期にDJのキャリアをスタートさせると、Carl CoxやPaul Oakenfoldなどと屋外のビッグレイブでプレイを重ねていった。しかし、Bicknellはやがて当時のUKを席巻していたハードコアサウンドへの興味を失い、ベルリンやデトロイトで生まれ始めていた音数を削ぎ落としたダークなサウンド ― テクノ ― へ傾倒していった。

 

1990年代に入ると、BicknellはSheree Rashitと組んでパーティLOSTを立ち上げる。LOSTはLuke SlaterやPlaidのような当時若手だったUKアンダーグラウンドテクノアーティスト、Jeff MillsのようなUSテクノヘヴィヒッター、Basic Channelのようなヨーロッパ系パイオニアを組み合わせた独自のラインアップと、人目につかない奥まった鉄道駅やウェアハウスなどをヴェニューに用意した徹底的なDIYアンダーグラウンドスタイルで20年以上に渡り開催された。

 

Ben Simsはこのパーティのレガシーについて、2015年のRed Bull Music Academyの『新世代のディスコへ:ロンドンテクノ1989-1997』内で「LOSTはUKの次世代のプロデューサーたちが集まる場所になると同時に、彼らが育っていく場所になった。ウェアハウス、メンバーオンリーとゲストだけのポリシー、スモークマシーンとストロボだけのシンプルなフロア、そしてリアルな音楽のLOSTは、ルーツに戻った感じだった」と振り返っている。

 

今回紹介する2005年に行われたDJ History.comのインタビュー内で、Bicknellはレイブ時代からUKアンダーグラウンドテクノをリードする存在になるまでの道のりを振り返っている。

 

 

 

 

— 簡単な自己紹介から始めましょうか。

 

12歳くらいからバタシーで暮らすようになって、17歳くらいから音楽に興味を持つようになった。色々と面白い音楽があったからね。当時はヒップホップや1970年代のファンクにかなりのめり込んでいた。そのあと、1987年、1988年頃にハウスが爆発的なブームになったんだ。

 

ハウスは衝撃的ではなかったけど、ある場所で知ることになった。当時、フルハム・ロード沿いにJazzy Mが働いていたSpin Offsという名前のレコードショップがあって、そこでそれまで聴いたことがなかった音楽と出会ったんだ。

 

 

— それがハウスだった。

 

そう。Liz Torres「What You Make Me Feel」だった。Spin Offsは当時のパイレーツラジオで紹介されていたはずだ。それで知った僕は通い詰めてレコードを買い漁っていた。

 

僕はDJを本気で目指していたわけじゃなかった。ちょこちょこやってはいたけどね。仲間うちでウェアハウスパーティをやるくらいだった。でも僕はまだ若かったし、スピーカーは自分たちで組み上げていたし、完全なボロパーティだった。バタシーでタウンホール(公会堂)なんかを借りて開催していた。

 

 

— 結構大きいじゃないですか。

 

80人くらいだったかな。取るに足らないパーティだった。大昔の話だよ。僕はまだ16歳か17歳だった。

 

 

— 他のウェアハウスパーティにも通っていましたか?

 

当時はNorman Jayのウェアハウスパーティ、Shake & Fingerpopが大人気だったから当然通っていたよ。そのあとで、Soul II SoulがプレイしていたAfrica Centreにも通った。あとは、Jasper The Vinyl Junkieがプレイしていたチャーツィーのクラブにも顔を出していた。あそこにはバックルームがあってね。どれも良い思い出だよ。単純に音楽が面白かった。

 

僕はヒップホップと1970年代ファンクにのめり込んでいて、そのあとでハウスが入ってきた。当時はとにかく色々なことが起きた。ヒップホップと1970年代ファンクをプレイしていた僕は、やがてEnergy(編注:非合法のビッグパーティ)でFabioやGrooveriderと一緒にレジデントを務めるようになった。なぜそうなったのか良く覚えていないけど、友人が僕のミックステープをTinTin(Chambers。Energyオーガナイザー)に渡したんだと思う。

 

初めてEnergyでプレイしたのは、シェパーズ・ブッシュのWestway Studiosだったはずだ。あそこからすべてが始まった。すべてが自然な流れだったし、自分がやりたいことをやっていただけだった。

 

 

 

"古き良き時代だよ。2万人の前でプレイして100ポンドくらいしかもらってないのに、何も考えていなかったんだから"

 

 

 

— レイブでも遊んでいたのでしょうか?

 

いや。DJとして活動していたからね。だからもちろん、レイブでプレイしたこともあったけど、ウォームアップだった。だから誰もいない時間にプレイしていた。そのあと人が集まってくる感じだった。僕の中では特別感はなかった。

 

 

— 普段よりも人が多いくらいにしか思っていなかった?

 

今から5年くらい前に、誰かからEnergyの様子を収めたビデオを受け取ったんだけど、ビデオを見て、自分が何に参加していたのかを初めて理解した。テレビ画面に映っている当時を見て、レコードバッグを抱えながら農地を走り回って、翌日そのレコードバッグを拾い直していた自分を思い出した。

 

古き良き時代だよ。2万人の前でプレイして100ポンドくらいしかもらってないのに、何も考えていなかったんだから。今は色々と考えるようになっているけど、当時は何も疑問に思っていなかった。「こんなに人が集まっているなら、オーガナイザーはこれくらい儲けているはずだから…」なんて一度も考えることなく100ポンドを受け取っていた。ただ参加していただけだった。

 

 

— 「これが自分の将来だ」と思いましたか?

 

いや。なぜなら、元々DJじゃなかったのに突如として数万人の前でDJするようになったからさ。あまりにも急すぎて、何が起きているのか全然俯瞰できていなかった。すべてが自然だったんだ。土曜日の晩に地元のパブに行くような感じだった。言いたいことが伝わってるかな?

 

 

— いや、ちょっと分かりにくいですね。気の合う仲間と一緒だったので特に何も考えていなかったってことですか?

 

そう。開催前日まで開催地が明かされない時もあったのに、ゆるかったね。開催日は前日に分かれば良い方だった。

 

 

— DJも開催地を知らなかったんですか?

 

そうだよ。Westway Studiosの場合は事前に分かっていたけど、M25(環状高速道路)沿いの場合は、ギリギリまで分からなかった。

 

 

  

 

 

— 稼いでいるDJがいることを理解し始めたのはいつですか?

 

Energyでプレイしていた頃だと思う。僕のあとPaul Oakenfoldがプレイしたんだ。でも、彼のあとのDJが遅刻したかなにかで来なかった。すると、Paulが携帯電話を取り出して何やら話し始めたんだよ。プレイを止めるか続けるかについて色々と話し合っているようだった。実際の会話は聞こえなかった。僕は彼がいない方のステージ袖に座っていたからね。Paulは腕時計をチラチラと見ていた。終わる時間なのに次のDJはまだ来ていなかった。

 

 

— 続けるならその分のギャランティが欲しいと。

 

その様子を見て色々と理解し始めたんだ。DJはただのライフスタイルじゃなくて、それ以上なんだってね。でも、僕にとってはただのライフスタイルだった。すべてが自然だった。ただそこに参加していただけだった。

 

 

— ハウスが流行り始めた頃、ウェアハウスシーンとレアグルーヴシーンの中で分裂は起きませんでしたか?

 

ああ、起きたよ。かなりはっきり分かれていた時があったと思う。

 

 

— ハウスをプレイするDJとしないDJに分かれたんですね?

 

その通り。Energyが開催されていた頃、僕はハウスしかプレイしていなかった。当時はハウスしかないって感じだった。Soul II Soulが自分たちのサウンドを打ち出し続けていたけど、他の扉が開こうとしていた。それで僕はそっちへ進んだのさ。

 

 

— ハウスをレコードショップで初めて聴いた時の印象は?

 

「ワオ!」よりも「興味深い」って感じだった。それでハウスを買い漁るようになった。当時のJazzy Mはほぼハウスだった。ヒップホップも多少プレイしていたけど、基本はハウスだった。そのあと、Jazzy MはLWR(ロンドンのパイレーツラジオ局)で番組を持つようになったんだ。

 

 

— あなたが最初に買ったハウスレコードは?

 

「Music Is The Key」だね。あとは当然だけど、Steve “Silk” Hurley「Jack Your Body」だ。あれは大ヒットだった。

 

 

 

 

— その頃にハウスが一気に広まったんですね。

 

奇妙な話なんだけど、さっき話したビデオを見るまで、どれだけ多くの人が集まっていたのか全然分かっていなかったんだ。DJする時はそんなにフロアを見ないし、第一、自分のことをDJだと思っていない。マクドナルド化したここ最近のダンスミュージックシーンの中では特にそう思うね。

 

LOSTは音楽を包括的に扱ってきた。他の国や都市でDJする時やテクノDJとして呼ばれている時、僕はテクノをプレイする。でも、自分が影響を受けた他の音楽も常にプレイしようとしている。テクノとは違うスタイルの音楽をね。

 

LOSTを始めたのは、僕がその時に興味を持っている音楽を紹介したかったからだ。だから、LOSTをカテゴライズすることはできなかった。奇妙な時代だった。なぜなら、すべてが細かくジャンル分けされるようになったからさ。ハウスが出てきて、ドラムンベースやハッピーハードコアもあって。そのあとは覚えていないな。

 

 

— ハードコアですね。

 

そう、その頃からブッキングが増え始めたんだ。でも、ハードコアシーンに僕の居場所はなかった。だからLOSTを立ち上げた。自分たちが好きな音楽をやっている人たちだけを集めて、自分たちのやりたい形で表現することが僕たちのミッションになった。

 

LOSTは、僕とSheree(Rashit)の2人で始めたんだ。彼女はセントラル・セント・マーチンズでファッションとジャーナリズムを学んでいたから、彼女がグラフィックス関係をすべて担当した。フライヤーのアートワークやウェブサイトのイメージをね。LOSTのヴェニューコンセプトの大半も彼女が手がけた。

 

少し奇妙に思えるかも知れないけど、LOSTはインスタレーションの中に入るような感じなんだ。ヴェニューの内部を常に変えるんだよ。ライトやレーザーは少なくする。気が削がれるからね。みんなをサウンドの中へ引き込み、極力彼らの邪魔をしない。これがLOSTのコンセプトだよ。

 

 

— Troll(※1)のようなパーティでもプレイしましたよね?

 

ああ。でも、LOSTを始める前か、始めた直後くらいの話だと思う。Energyでプレイしていた頃、オーガナイザーたちがBrixton Academyのようなヴェニューでもパーティを開催するようになって、僕はVIPルームを任されたんだ。VIPルームは、何て言うか、落ち着きのないドラッグディーラーたちの集まりで、僕がいたいと思える空間ではなかった。それでもうこれ以上関わりたくないと思った。Energyは違う方向に進んでいた。一部の人たちがそれまでとは違う方法で稼ぐようになっていた。もう音楽は関係なくなっていた。最初とは別物になっていたんだ。

 

※1:Heavenに隣接していたクラブSoundshaftで開催されていたミックスパーティ。

 

 

— レイブが合法化を模索し始めた頃の話ですか?

 

そうだね。合法化をするかしないかのタイミングだった。それで、僕はそれまでとは全く違う音楽を聴くようになり、パディントンのホテルの地下でKazooという名前のパーティをスタートさせた。Andrew WeatherallやTerry Farley、Steve Lee、Rocky &Dieselなんかがプレイしたよ。そのあとで、Boy GeorgeやMC Kinkyと一緒に『i-D』主催のワールドツアーに出た。色々な場所へ行ったよ。バルセロナとかね。

 

こうやって話すと時系列に沿って振り返ることができるね。そのあと、LOSTを始めたんだ。オルタナティブな音楽をやめたのは、十分なエナジーを感じられなくなったからだ。

 

 

 

"Carl Coxと共演したレイヴはセキュリティと警察が入り乱れたカオス状態になっていて、バンが横倒しにされていた"

 

 

 

— オルタナティブというのは?

 

Weatherallがプレイしていた音楽だよ。そのあと僕はハウスに戻ったのさ。当時のテクノはハウスとそこまで違う音楽じゃなかった。「Strings Of Life」を聴けば分かると思う。あれはハウスと何も変わらない。

 

 

— テクノをひとつの異なるジャンルとして捉えるようになったきっかけは?

 

R&Sの初期リリース群だと思う。決定的瞬間だったね。「Energy Flash」がターニングポイントだった。

 

 

— 1990年でしたよね?

 

そうだね。当時、僕はPaul “Trouble” AndersonとThe Wag Clubの金曜日を任されていた。奇妙な話なんだけど、この頃にテクノが明確に違うサウンドになっていたんだ。R&SやDjaxのようなレーベルが出てきてね。

 

 

— ヨーロッパのレーベルがテクノを取り入れて、独自の解釈を加えるようになったタイミングでテクノを意識するようになったと。

 

あくまで僕の話だけどね。僕の中ではこの頃がターニングポイントだ。実際、The Wag Clubでレジデントを務め始めた頃はテクノをプレイしていなかった。レコードバッグに入っている色々なレコードをプレイしていただけだった。でも、The Wag Clubの後期になると、テクノをメインにプレイしていた。

 

 

— デトロイトのアーティストたちと密接な関係を築き始めたのはそれよりもあとの話ですか?

 

確か4回目のLOSTでJuan Atkinsがプレイしたんだ。Colin Faverと僕が一緒だった。他のルームではRoy The RoachとPhil Asherがプレイしたと思う。LOSTはいつも最低3ルーム用意していた。テクノとハウス、そしてこの2つとは違う音楽のためにね。

 

単純に僕たちが「良い」と思っている音楽を集めていた。2回目のLOSTは、Richie Hawtinを呼んでいたんだけど、深夜12時に警察に踏み込まれて中止になってしまった。カムデン・タウンにあったフォトグラファーのスタジオを借りていたんだ。だから、朝5時まで待って彼に中止になったことを伝えなければならなかった。

 

それでヴェニューを変えたんだ。ゲストアーティストを呼べばフライト代やホテル代がかかるから中止は避けないとならないからね。僕たちはブリクストンのVoxに移った。旧警察博物館だよ。Juan Atkinsがプレイして、Derrick Mayがプレイした。本人たっての希望だったし、僕が当時気に入っていたサウンドだった。

 

あとはRobert Leiner、CJ Bolland、Dimitriたちがプレイした。最初はデトロイトだけにするつもりはなかった。そうなっていくのはもう少しあとの話だ。ただ自分たちが好きなアーティストを呼んでいただけだった。

 

 

 

 

— 音楽が細分化されていることに気付いたのはいつですか?

 

The Wag Clubでプレイしていた1990年だ。この頃になると、みんなが色々な音楽を聴いているのがあらゆるタイミングで確認できるようになった。当時、僕はPhil Asherと暮らしていたんだけど、彼もヒップホップをプレイしていた。

 

 

— 当時のレイブにインスパイアされた人は本当に多かったですよね。

 

レイブが終わったことを僕が理解した決定的瞬間は、Carl Coxと共演したパーティだった。彼がプレイする頃にはセキュリティと警察が入り乱れたカオス状態になっていて、バンが横倒しにされていた。

 

 

— どこの話ですか?

 

どこかの農地だった。とにかく、あの光景を見た時にもう終わりだと思ったんだ。同じようなパーティが開催されることはないだろうと確信したよ。そしてその通りになった。あの日以来、ああいうレイブは二度と開催されなかった。ニュースで取り上げられていたのを覚えているよ。『The Sun』が一面で大きく報じていた。合法化するしかなかった。

 

 

— トラック制作を始めたきっかけは?

 

実はPhil Asherなんだ。彼の友人がスタジオにいるから、行ってみようという話になった。自分が使っているレコードをバッグに入れてスタジオへ向かうと、あとで僕のリリースをすべて担当してくれることになるエンジニアを紹介してもらった。それでその日に「The Gonzo」を作って、Perfectoからリリースしたんだ。

 

 

 

 

 

— スムーズに始まったんですね。

 

さっきの話と同じで、ライフスタイルの一部だった。僕はレコードプロデューサーになってやろうという強い気持ちでトラックを制作していたわけじゃなかった。何となくそうなっただけなんだ。Dave DorrellとPaul Oakenfoldでこのトラックを奪い合ったのは面白かったね。

 

両方からオファーをもらった僕たちは最終的にPaul OakenfoldのPerfectoと契約した。結果オーライだったと思う。とにかく、Paul Oakenfoldはいつもこういうポジションにいた。DJをしていたけど、Perfectoも動かしていた。実際に彼が何をやっていたのかは分からないけど、おそらくPeferctoはBMGからバックアップされていたはずだ。かなり昔のことだから良く覚えていないけどね。

 

Paul Oakenfoldは常にそういう感じだった。正式に契約を交わしたのも彼のオフィスだった。彼はビジネスマンだった。ここが僕との違いだね。僕なら何も考えずにプレイを続ける状況で、彼は携帯電話を取り出して交渉するのさ。

 

 

— テクノの面白さはどこにあると思いますか?

 

多くの人が理解できるサウンドではないところだね。特定のタイミングでしか理解できない。ダンスフロアで聴けば理解できる音楽だ。ハウスはもっと理解しやすい。「La-da-dee La-da-da」のようなキャッチーさがある。テクノが理解できるのはダンスフロアにいる時だ。

 

 

 

※このインタビューは2005年に行われたものです。© DJ History

 

Header Image © Courtesy of Steve Bicknell

 

 

10 May. 2019