四月 11

インタビュー:Questlove

D’AngeloやErykah Baduとの仕事で知られるThe Rootsのドラマーが、幼少時代やAl Greenのプロデュースを含むこれまでのキャリア全体を振り返った

By J-Zone

 

積極的で多岐にわたる活動と類い希なテクニックで世界中にファンを抱えるAhmir “Questlove” Thompsonは、同世代のドラマーを代表するひとりとして高く評価されている。

 

フィラデルフィア出身のQuestloveは、The RootsD’AngeloErykah Badu、そして米国人気テレビ番組『The Tonight Show Starring Jimmy Fallon』(以下、『The Tonight Show』)のハウスバンドとしての活動が最も良く知られているが、Red Bull Radio『Give The Drummer Some』(ホストJ-Zone)からの抜粋となる今回のインタビューで確認できる通り、気さくで豪快な性格の持ち主としても有名だ。

 

今回の記事の中で、Questloveは12歳で父親のバックバンドを支え始めた幼少期やお気に入りのヒップホップビートなど、人生を形作ってきたリズミカルなエピソードの数々を、ユーモアとウィットを交えながら語っている。

 

 

Questlove & J-Zone © Charles Ludeke 

 

 

 

音楽一家というのは特に珍しくないけれど、君の場合は、かなり小さな頃からかなりディープな音楽体験をしたよね。「おい、お前も一緒にツアーに出るぞ!」って感じで。

 

騙されたのさ。超長い話を超短くまとめると、俺の親父はフィラデルフィアのドゥワップレジェンドで、俺が生まれた1970年代前半はドゥワップの第1次リバイバルブームが起きていた。

 

テレビドラマの『ハッピーデイズ』や『ラバーン&シャーリー』、映画の『アメリカン・グラフィティ』なんかが流行っていて、Dick Clarkのようなタレントがアーティストを16組ほど集めて、Madison Square Gardenのようなビッグヴェニューで大がかりなオールディーズ・ドゥワップイベントを開催していたんだ。俺はそういうイベントのバックステージで育ったのさ。

 

俺のキャリアは家族の “GPS担当” からスタートした。親父から地図の読み方を教わってナビをしていたんだ。俺たち一家は『パトリッジ・ファミリー』みたいなものだったのさ。学校がない時もある時も一緒だった。

 

学校がある間は、2週間ほど休みを取って、親父がレギュラーでライブをしていたポコノス、キャッツキル、アトランティック・シティ、ラスベガス、マイアミを一緒に回っていた。親父はオールディーズドゥワップのツアーサーキットから、徐々にナイトクラブを回るようになっていった。7歳になる頃には、親父の衣装係を担当するようになっていた。衣装のアイロンがけをしたり、アクセサリーを用意したりしていたよ。

 

そのあと、9歳になるとステージマネージャーを務めるようになった。ナイトクラブのオーナーが、夕方店にやってくる9歳のガキに何をやらせていたと思う? スポットライト用のフィルムをカットしていたんだよ。そのあとショー本番の時間にまた顔を出して、今度はそのライトを自分で操作していた。

 

ショーは午前1時まで続いた。だから、1980年代後半から1990年代のパパラッチカルチャーが台頭する前から、俺はブルック・シールズの「13歳でStudio 54に出入りしてたわ」って発言をガチで信じられる立場にいたんだよ。「分かるぜ! 俺も8歳からナイトクラブに出入りしてたからな!」ってね。大人たちは俺から目を離したくなかったのさ。見ず知らずの大人に目を付けられるのを心配していたんだよ。

 

で、12歳の時に、親父のバンドのドラマーがオートバイ事故で腕を骨折したんだ。親父はRadio City Music Hallに出演する予定で、そのドラマーはただの雇われだったから、親父から「ショーを理解しているんだから、お前が叩け」と言われたのさ。で、親父のバンドのバンドリーダーになったんだ。

 

 

 

“自分がヒップホップマニアだということに気付く前から、ヒップホップマニアだった”

 

 

 

いつからドラムを叩き始めたんだい?

 

大人と同じようなリズムを叩くようになったのは2歳の時だ。7歳の頃にはかなり上手く叩けるようになっていた。1978年12月に新品のドラムセットをもらったんだ。あれは人生最高のクリスマスだったね。でも、同時に練習が鬼になった。寄り道しないでまっすぐ帰宅する生活になったのさ。俺には放課後の他の思い出が何もないんだよ。学校から帰ってきて5時間ぶっ続けでドラムを叩いていた以外の思い出は何もね。

 

最初はラジオに合わせて叩いていた。確か当時は、Parliamentの「Aqua Boogie」がヒットしていたと思う。あと、実家には3,000枚以上のレコードがあった。だから、当時の俺はまだヒップホップが何かを全く分かっていなかったけど、すでにそのど真ん中にいたのさ。ヘッドフォンをはめて、ライナーノーツを読みながら色々と学んでいた。自分がヒップホップマニアだということに気付く前から、ヒップホップマニアだったのさ。

 

 

君の中でのブレイクビーツ・ドラミングの定義を教えてくれる?

 

俺に言わせると、ブレイクビーツ・ドラミングってのは、全ての要素を削ぎ落としてベーシックな部分だけ残したドラミングのことだ。俺は自分のことをロックの殿堂入りを果たすドラマーや超有名なドラマーの系譜上にはいないと思っている。

 

もちろん、Bernard Purdieは素晴らしい評価を受けているし、あらゆるセッションドラマーもそうだと思う。Steve Ferroneも評価されているし、Clyde StubblefieldとJohn Jabo Starksも最高だ。

 

でも、ほんの小さなインディーレーベルで活動しているドラマーたちも山ほどいる。俺はそいつらの代表なんだ。俺が若い頃に好きだったヒップホップブレイクは、Pumpkinの叩いたブレイクだったしね。当時は彼のビートを参考にしていたよ。

 

 

君はかなり早くから父親のバンドで叩いていたけれど、世代的にはジェネレーションXだよね。君は、ヒップホップがアートフォームに変化した時代に独自のシーンを持つフィラデルフィアで生まれ育った。

 

フィリー(フィラデルフィア)のヒップホップシーンは少し変わってるんだ。フィリーの連中にとって、“クール” ってのは地元のドラッグディーラーのことを意味していた。だから、Cool CやSteady Bのような連中は、ドラッグディーラーのルックスを真似していたんだ。

 

Tariq(Trotter aka Black Thought)と俺は、そういうフィリーの連中とは違う “クール” を追求しようとしていた。俺たちは、フィリーのPerforming Arts High Schoolで出会ったんだ。2人ともまだ高校生でさ。でも、奴の頭の回転はとにかく速かったよ。怖いくらいね。ダズンズが滅茶苦茶上手かった。「お前のママは…」って感じでライムするあれさ。俺はクソ真面目なミュージシャンだったけど、1988年に流行っていたブレイクビーツを全て知っていたから、クールなキッズたちの仲間に入れてもらえたんだ。

 

Tariqが俺に興味を持った理由は、俺がアクリルペイントをつけたジーンズを履いていたからなんだ。俺が変わり者に見えたのさ。そういうファッションをしているブラックのガキを一度も見たことがなかったんだよ。

 

そのファッションでトラブルにも巻き込まれたこともあったけど、De La Soulがデビューしたあとは、学校で一切いじめに遭わなくなったね。近所の悪ガキたちが突如として「お前の格好、De La Soulみたいじゃん!」とか言うようになったのさ。いきなりクールな奴として扱われるようになったんだよ。

 

 

 

“The Rootsは世間の考えているリアル・ヒップホップとアンリアル・ヒップホップのどちらにも当てはまらなかった”

 

 

 

The Rootsにとってアルバム『Illadelph Halflife』は大きなターニングポイントになったと思うんだけど。

 

俺たちはニューヨーク出身じゃないことですでに偏見を持たれていたし、サウンド的にも “赤鼻のトナカイ” だった。分かるだろ? 世間の考えているリアル・ヒップホップとアンリアル・ヒップホップのどちらにも当てはまらなかったんだ。

 

その中で、大きな変化がいくつか起きた。ひとつが、Tariqのフリースタイルへの拘りが薄れたことだった。少なくとも半分くらいになったのさ。奴は「ちゃんとナラティブを用意してリリックにまとめないとな。俺をリスペクトしてくれている人たちのために、本格派のMCにならないと」って考えるようになったんだ。

 

で、俺は俺で、メンバーから「お前ももっとヒップホップなサウンドにしないとダメだ」と言われるようになった。「どういうこった? バンド内で俺の評価が下がってるのか?」と思った俺は、このアルバムのレコーディングを始める5週間ほど前から、Tribe Called QuestとWu-Tangの全作品を聴き込んで、エンジニア(Bob Power)に自分が目指しているサウンドのイメージを伝えたんだ。Bobと一緒に仕事をしていく中で、俺もエンジニアの勉強をすれば、自分で自分のドラムサウンドを好きなように変えられるようになることを理解したよ。

 

『Illadelph Halflife』をレコーディング中の俺は怒りに駆られていた。自分を証明してやるという強い気持ちがあった。だから、Sigma Studiosのオーナーで、Philadelphia International Recordsのクラシックを全て手がけたエンジニアのJoe Tarsiaから「そんなに激しく叩くな」と何回も言われたよ。

 

激しく叩いていた理由は、そうする必要があると思っていたからさ。でも、Joeからは「おい、マイクが壊れちまうだろ。リボンマイクってのはお前みたいな激しいドラミングをレコーディングするための機材じゃないんだ」と言われた。それで叩き直してからコントロールルームに戻ると、Joeが俺のドラムサウンドをラウドに持ち上げて、コンプレッションとゲートを追加したのさ。俺は彼からゲートの使い方を学んだんだよ。

 

ゲートは邪魔なノイズを取り除けるから、人工っぽいタイトなサウンドが得られる。たとえば、このアルバムなら「Push Up Ya Lighter」のドラムがそうだね。あれはDJ Premierのドラムサウンドを意識して作り込んだんだ。

 

Joe Tarsiaからはドラムにテープを貼ることも教えてもらった。だから、取り憑かれたように絶縁テープをドラムセットに貼ってノイズを減らしたよ。ダイレクトで聴いている分には何の違いも見出せないけど、レコーディング後のエディットで大きな違いを生み出せる。自分の好きな方向にサウンドを変えられる選択肢が得られるのさ。だから、Yamahaのフィルターを通したり、ピッチを上げたりと、DJたちにリアル・ヒップホップだと思ってもらえるためにできることを何でもやったよ。

 

それを2年くらい続けていたら、DillaとD’Angeloが現れて、全てを用なしにしちまったのさ。

 

 

 

 

Dillaのサウンドとプロダクションは、君のドラミングにどのような影響を与えたのかな?

 

1995年後半にThe RootsでThe Pharcydeのオープニングを担当したんだ。その晩は、俺たちの出番が終わったあと、誰かが俺をピックアップしてカレッジラジオの放送局でインタビューを受けるっていうスケジュールだった。それでクラブから出て車に乗り込むと、The Pharcydeがライブを始めたのが聞こえた。

 

その瞬間、俺は「ちょっと待ってくれ」と言って車から降りて、クラブの入り口まで戻って中を覗いた。奴らがオープニングに用意していたのは、アルバム『Labcabincalifornia』の「Bullshit」だった。凍りついたね。3歳児が打ち込んだようなヨレヨレのキックだったからさ。あのサウンドが全てを変えた。それしか言いようがない瞬間だった。

 

翌日、俺たちのツアーバスに偶然Skillzが同乗していたから、奴に「Bullshit」のことを話したんだ。3歳児のようなキックについてね。Skillzは「ああ、あれか。前から教えようと思ってたんだけどさ、あのサウンドはJ Dillaって奴が作ったんだ」と教えてくれた。当時はJay Dee名義だったんだけど、SkillzはDillaが手がけたビートを全部教えてくれた。その中で、俺にとってもはや宗教とも言える存在になったのが、A Tribe Called Quest「Wordplay」だった。あれは何て言うか…

 

 

 

 

ブレイクビーツ版Black Sabbathみたいだよね。

 

おっしゃる通り。あのブレイクを自分のドラムに正式に取り入れたのはThe Fugeesとのツアーだったんだけど、実はその前の段階で、俺はD’Angeloのアルバム『Brown Sugar』で叩いてくれというオファーを断っていたんだ。

 

『Do You Want More?!!!??!』のレコーディング中にBob Powerから、D’Angeloはソウルの未来を背負う男だし絶対に一緒にやっておくべきだと言われ続けていた。Al Greenみたいな美しい歌声をしているからってね。でも、俺は「垢抜けないR&B野郎だな。俺は別にいいや」って断ったんだよ。

 

そのあと、1996年4月1日に一緒にツアーをしていたGoodie Mob、The Fugees、The Rootsの3組がSoul Train Awardに呼ばれたんだ。パフォーマンスの順番はGoodie Mobが最初で、俺たちが2番目だった。

 

The Fugeesとはいがみ合っていたわけじゃないが、お互い自分たちにプライドを持っていた。だから、俺たちはこの日を白黒つけるチャンスだと捉えていたんだ。それに、会場のロサンゼルスに向かう頃の俺たちは、バンドとしての練度がかなり高まっていた。それで会場に着くと、葉巻をくゆらせているコーンローの男が客席にいることに気が付いたのさ。

 

奴との面会と『Brown Sugar』参加の両方を断ってチャンスを棒に振っていた俺は、この頃には、奴がソウルの未来を担う存在だということを理解できていた。だから、セカンドチャンスだと考えたのさ。それで、奴に好印象を与えるために、本番直前で自分の演奏をがらりと変えることにしたんだ。

 

あの晩の俺は、The Rootsでやるべきことを何もしなかった。メンバーたちを無視したのさ。「Proceed」の演奏にはルーティンがあった。でも俺は、D’AngeloはPrinceが好きなはずだから、奴とコミュニケーションを取るために同じ言語を話そうと思ったんだ。それでMadhouseのブレイクをプレイして奴の反応を見ることにしたのさ。

 

で、俺がそのブレイクを演奏した瞬間、客席から奴が立ち上がるのが見えた。あとで「あの瞬間、俺たちがブラザーだってことが分かったぜ」って言われたよ。それで2ヶ月後に『Voodoo』のレコーディングを始めたのさ。

 

 

 

 

 

 

 

高精度なドラミングを一度捨てるのはかなり辛かったんじゃない? ドラマーっていうのは、メトロノームに合わせた練習を重ねながら一流になっていくものだよね。タイミングに合わせるドラミングを捨てるのは、想像以上に難しかったんじゃないかな?

 

D’Angeloの狙い通りのサウンドにするためによれたドラミングをしなければならなかったのはもちろん難しかったけど、奴と一緒に演奏するのも難しかった。なぜなら、こっちが後ろにずれれば、奴はさらに後ろにずらして弾くからさ。俺はそこに何とか対応する必要があった。

 

俺はこのままだと周りから「こいつはまともに叩けない」と言われるぞと感じていた。ドラムマシンのように正確に叩けるからリスペクトされてきたのに、奴ときたら俺が積み上げてきたそのジェンガを崩した上に、これまで以上に下手に叩けって頼んできやがった。だから、俺はただクリックから外れて叩くんじゃなくて、“ずれたドラミング” を自分の中にプログラムしなければならなかったのさ。

 

 

『Voodoo』は世界中から高く評価されたアルバムで、次のアルバムは長い間リリースされず、その長いブランクがD’Angeloと『Voodoo』の伝説化に貢献したわけだけど、君は『Voodoo』と久々の新作『Black Messiah』での自分の仕事をそれぞれどう評価しているの?

 

『Black Messiah』は15年ぶりのアルバムだったし、俺と奴との間で意見が一致する部分があれば、そうじゃない部分もあった。例を話すと、まず、奴は『Voodoo』が世間に与えた影響の大きさをちゃんと理解していなかった。だから、ブルックリンにこのアルバムを神聖視しているヒップスターたちがいることを知って驚いていたよ。そのあと奴がニューアルバム用のトラックだと言って「Sugar Daddy」を聴かせてくれたんだけど、ドラムはJames Gadsonだった。

 

この時の俺と奴は、微妙になっていた友人関係というかブラザーフッドを修復できるかどうかの瀬戸際にいた。奴は、テレビ番組のハウスバンドという安定した仕事を得ている俺を自分の好きなタイミングで呼び出せないことや、『Voodoo』の時みたいに俺が奴のコ・パイロット的立場になれないことを受け容れられずにいた。でも俺は、お前が俺を必要とするならタイミングが合う限りいつでも駆けつけるぜって気持ちだったんだ。

 

だから俺は、他のドラマーが叩いている「Sugar Daddy」を聴いた時にこう思った。「何だよ。次のアルバムのリズムセクションの主役は俺じゃないのかよ」ってね。何て言うか、車のトランクに押し込まれたような感じだった。だから「OK。パニクるな。Quincy Jonesのように考えるんだ」と自分に言い聞かせた。

 

Quincy Jonesは「 “Billie Jean” は単体でも最高のトラックだが、その前の “Beat It” とそのあとの “Human Nature” と一緒に聴けば、その良さがさらに際立つぞ(※1)」と考えたんだ。だから、俺も「 “Sugar Daddy” の前に収録されるトラックを考えよう。どんなトラックがいいんだ?」と考えたんだ。

 

「Sugar Daddy」を聴いたのは午前2時頃で、テレビには『ベルエアのフレッシュプリンス』(※2)が流れていた。カールトン(※3)のシーンだった。だから、「全員にカールトンダンスをさせるにはどんなトラックを作ればいいいんだ?」と考えた。プレッピーなブラックが踊り出すようなトラック、「Sugar Daddy」の前にぴったりのトラックを作りたかった。でも、Tom Jones(※4)じゃなくて、テンポをスローダウンさせようと思った。

 

※1:Quincy JonesがプロデュースしたMichael Jacksonのアルバム『Thriller』の曲順

※2:米シットコム。俳優ウィル・スミスの出世作として有名。

※3:メインキャラクターのひとり。

※3:カールトンダンスのBGMはTom Jones「It’s not unusual

 

 

 

 

『Voodoo』とは全く違うことをする必要があった。ポスト “Dilla” のようなサウンドはやるつもりはなかった。それでトライバルなドラミングをすることにして、スネアを外した。他に『Voodoo』とは違う方向性は他にはないかと考えながらね。

 

まず、ドラムのチューニングを下げた。スネアを外した。外したというか、スネアのチューニングをタムみたいに下げたんだ。この時の俺は論理的に音楽を作ろうと思っていた。でも何かがおかしかった。

 

俺と奴のリズム感、俺と奴の間のケミストリーがあれば、普通なら叩き始めて3分でグルーヴが生まれる。でもあの時は、俺が奴にリズムを押し売りしているような感じだった。俺たちの友情が危機を迎えていると思ったよ。奴の顔を見ながらビートを叩いていた俺は、自分のアイディアを奴に売り込もうとしていた。今までそんなことはしたことがなかった。

 

 

 

“『Voodoo』の方がアイコニックなアルバムだけど、自分じゃない自分になれたという意味では『Black Messiah』の方が楽しかったね”

 

 

 

Pharrell(Williams)は、パフォーマンスを通じて自分のビートを他人に売りつけるのが上手なことで世界的に有名だ。Kanye(West)も、ミュージックビデオで自分のビートを売りつけてくる。リスナーを興奮させて、「ああ、このビートが自分には必要なんだ」って思わせるのさ。

 

だから、俺もD’Angeloを見ながらビートを叩き続けた。3分が過ぎた。俺は内心「何とか言えよ、この野郎」と思っていたけど、同時に「OK、分かったよ。変えりゃいいんだろ。スネアを入れれば、気持ち良くなってもらえるかもな」とも思っていた。だから、まずテンポを上げることにしたんだ。それでリズムがスピードアップすると… 奴が少しずつ歌い始めた。

 

俺は「ようやくアイディアが出てきたじゃないか」って澄ました顔をしていたが、内心は「友情を保てて良かったぜ」って感じだった。そのくらい緊迫していた。「Charade」はこんな感じでゆっくり出来上がっていったんだ。『Voodoo』の方がアイコニックなアルバムだけど、自分じゃない自分になれたという意味では『Black Messiah』の方が楽しかったね。

 

 

 

 

 

Al Green、Booker T、「Everything is Everything」などでの君の仕事はまさにメガファンクって感じだけど、自分のキャリアがぐるっとひと周りしたことをどう感じているの? ヒップホップシーンでありとあらゆる仕事をしたあと、自分の親の世代を代表するミュージシャンたちと仕事をしたのはどんな感じだった?

 

The Tonight Show』が最高だったのは、長年の夢を叶えるチャンスが得られるところにあった。だから俺はその恩恵に与って、年に1回アーティスト1組とじっくり仕事をしていた。それで『The Tonight Show』の仕事を始めた年は、Al Greenのアルバム『Lay It Down』に参加したんだ。

 

当時、Al GreenはBlue Note Recordsと契約していた。で、俺はBlue Note Recordsの連中に「Al Greenのここ最近のアルバムを聴いたよ。Willie(Mitchell:プロデューサー)を酷く言うつもりはない。でも俺ならAl GreenをAl Greenらしくできる。ここ最近のアルバムよりもAl Greenらしさを引き出したアルバムを作れると思う。任せてもらえないか」と頼んだんだ。

 

それで、Electric Lady StudiosにAl Greenを連れて行ってCスタジオでジャムしているうちにタイトルトラックが完成したのさ。俺がAl Greenに寄せていく感じだった。スネアのチューニングも相当下げたしね。

 

 

Howard GrimesやAl Jacksonみたいだね。

 

そう、Howard GrimesやAl Jacksonのドラミングさ。かなり近かったからAl Greenも少し驚いたんじゃないかな。ジャムの最初の1時間、俺はAl Greenと何も話さなかった。コンセプトも何も説明しなかった。ただひたすらジャムを繰り返したんだ。彼がスタジオに慣れるのを待ったんだ。すると突然、彼が歌い始めたのさ。フリースタイルでね。

 

俺の目標は彼にソウル部門で初のグラミーを獲らせることだった。彼が獲得していたのはゴスペル部門とポップ部門だけだったからね。で、俺たちはAl Greenにグラミーを獲らせて目標を達成した。そのあと色々なアルバムの話が勝手に転がり込んでくるようになったのさ。

 

Booker Tも俺のところにやってきて、彼のマネージャーから「The Rootsとして一緒にアルバムを作るのはどうですか?」と言われたんだ。「それならグラミーは楽勝だぜ」と思ったよ。で、実際そうなった。次はElvis Costelloだった。これは俺たちと長年一緒に仕事をしてきたエンジニアSteve Mandellのドリームプロジェクトだった。だから俺のためだけじゃなくて、彼のためにも実現させたかった。

 

 

過去からインスピレーションを得ながら、そこに囚われ続けないようにするにはどうしたらいいと思う? 君は過去を参考にしながら常に成長して新しい音楽を作っているよね。

 

Dillaがいなくなったあと、俺たちのムーブメントが終わったように思えた時期があった。得られるインスピレーションがないと思っていた時期がね。D’Angeloは何もやりたがらなかった。Erykahを動かすのも難しかった。中道左派的なサウンドをやっている連中が隅に追いやられたような雰囲気があった。俺たちのムーブメント、かつては勢いがあって常に前進していたムーブメントが、突然翼をもぎ取られたみたいだった。

 

それで俺も2014年頃から尻込みするようになった。プロデューサーのRichard Nicholsが亡くなって、俺はかなり荒れた。「もう終わりだ」って自暴自棄になった。それで活動を止めたんだ。相当辛かったね。自分が心の底から愛しているものから距離を取るのはさ。グラミーにノミネートされるようなアルバムに参加しないで、ツアーもしないで、新しいトラックも作らないっていうのは、内側から殺されていくような感じだった。

 

でも興味が持てる何かを見つけなければならなかった。他からインスピレーションを得なければならなかった。そしてそれから4~5年経った今、俺はまたインスピレーションを得られている。この先が楽しみだよ。

 

 

 

Header Image:© David Cabrera / Red Bull Content Pool

 

11 Apr. 2019