九月 11

Nicky Sianoインタビュー

今年7月にA Tribute to Larry Levanで来日したのも記憶に新しいNicky Siano。1970年代にThe Galleryを立ち上げ、当時のニューヨークのナイトライフを先導した伝説のDJである彼が、ディスコ創成期などについて語った。

By Chairman Mao

 

Nicky Sianoを外してニューヨークのダンスミュージックの歴史は語れない。The Galleryのオーナー兼レジデントDJだったSianoは、1970年代初頭にThe Loftに衝撃を受けると、ニューヨークのクラブカルチャーに深く関わっていった。その後、Sianoはその場に適したヴァイブスを生み出すと同時に、ミックスもできるDJの最初のひとりとして台頭。ビートマッチ、EQ、ターンテーブル3台など次々と新しいテクニックを発明しながら、自分が好きだったファンキーなソウルやR&Bのレコードを中心に、ディスコのプロトタイプと呼べるサウンドを生み出していった。

 

Larry LevanFrankie Knuckles、そしてGrace JonesやLoleatta Hollowayなど数多くのレジェンドたちに道を示しながらニューヨークを代表するクラブParadise GarageやStudio 54の誕生の下地を作っていったSianoだが、その活動はクラブだけに留まらず、1977年にはArthur RussellとDinosaurを結成し、「Kiss Me Again」などの楽曲もリリース。そして一時的にDJ活動から離れた後、1998年にLarry Levanの誕生日を記念したBody and Soulで活動を再開。以降は自由きままな快楽主義だった当時のニューヨークのダンスミュージックカルチャーと、現在のレイヴ世代を結びつける役割を担っている。彼が手がけたドキュメンタリー『Love Is the Message: A Night at The Gallery 1977』には数多くのレアな映像やインタビューが盛り込まれているが、今回お届けするRBMA Radioのインタビューでも、Larry Levanと共に強盗からThe Galleryを守った話など、当時のレアなストーリーを語ってもらった。

 

音楽が好きになったきっかけは何だったのでしょう?

 

私は元々音楽マニアだった。音楽の大半はロック好きだった兄たちに教えてもらった。個人的にはLaura Nyroが大好きだった。彼女は数多くのヒット曲を生み出したアンダーグラウンドなアーティストだったが、誰も知らなかった。彼女のアルバム『Eli and the Thirteenth Confession』をレコードが擦り切れるまで聴いた。音楽は勿論のこと、サウンドにも情熱を傾けていた私は、Mantovaniもよく聴いていた。彼はオーケストラの指揮者で、私は彼が指揮した作品を買っては、新聞配達で稼いだサウンドシステムでどう聴こえるか試していた。

 

音楽を聴きに出かけ始めたのはいつですか?

 

1970年、15歳の時に音楽を聴きに外へ出掛けるようになった。やがて、兄のガールフレンドにDavid MancusoのThe Loftへ連れて行ってもらった。その時に自分の中でスイッチが入った。あそこで音楽を聴いた私はその場の情熱に心が動かされ、自分でもレコードが欲しいと思うようになった。The Loftに行ったことで、DJになりたいと思った。Davidはその場の空気を完全にコントロールしていた。ダンスしている時は部屋の隅の小さなランプが灯り、曲が少し変わるとそのランプが消えた。本当に感激したよ。

 

 

レコードをプレイしたいと思ったあなたが実際にDJを始めたきっかけを教えて下さい。

 

私のガールフレンドは私がDJをやりたがっていることを知っていた。それである日、2人でThe Round Tableというクラブへ行くと、彼女が私をDJとして雇うように店側と話をつけてくれた。そして1971年のThe Round Tableから私のDJとしてのキャリアが始まった。当時16歳だった私は、毎晩そこでプレイしていた。報酬は平日が毎晩15ドル、週末は毎晩20ドルだった。平日はガラガラだったが、週末になると毎晩1500人が集まっていた。サウンドシステムにはキューが付いていなかったので、ブースに置いてあるスピーカーを使って次にプレイするレコードを聴かなければならなかった。低く屈んでね。無我夢中だったし、自分では何をやっているのか分からなかったが、とにかく良いサウンドを出したいと思っていた。そうして1年経つと、自分が次の曲のビートをプレイしている曲と合わせていることに気がついた。ここからビートマッチが生まれていった。

 

最初DJたちが気にしていたのはブレンドだった。ミックスではなく、ブレンドだった。ブレンドはとにかく良いサウンドで聴かせることが目的で、曲ごとのテンポの変化に合わせていくのはダンサー次第だった。良いサウンドが鳴っていれば、ダンスは止まらなかった。でも今は、ビートマッチを失敗すれば、フロアのダンスが止まってしまう。これは私には奇妙に思える。

 

The Galleryのアイディアはどのようにして生まれ、どのように実行されたのでしょうか?

 

私たちはビジネスプランを立てた。自分たちが何をやっているのか理解できていなかったが、計算すると予算が10000ドルから12000ドル位になった。それで『大した金額じゃない』という話になった

The Galleryは私がDJを始めたのとほぼ同時期に立ち上げた。自分がやりたいことは自分でやるしか実現できないということが分かったからだ。私とガールフレンドは… 改めて言うが、パートナーが必要になる局面は多い。「あなたならできる。あなたのことを信じている」と言ってくれる人が必要だ。それが彼女だった。私たちは街中を調べ始め、やがてチェルシーの22nd Streetの建物に、「ロフトスペース貸します。325㎡。興味のある方は連絡を」というパネルが下がっていた。それでその建物に話を聞きに行ってみると、「2階の325㎡のスペースだ。家賃は385ドルだよ」と言われた。

 

そのスペースを内見して家へ帰ると、私たちはビジネスプランを立てた。自分たちが何をやっているのか理解できていなかったが、計算すると予算が10000ドルから12000ドル位になった。それで「大した金額じゃない」という話になり、保険料を精算したばかりの兄のところへ行った。彼もそのアイディアは素晴らしいと言ってくれた。元々は、ストレートな客層に向けたThe Loftのような空間を提供しようと思っていた。しかし、丁度DavidがLoftを休止したので、全員がThe Galleryに流れてくるようになった。

 

The Loftからはサウンドだけでなく内装にも大きな影響を受けたと言っていましたが、The Galleryにはどのような内装を施したのでしょうか?

 

The Galleryは自分の家のように感じてはいたが、自分の家のような内装をする場所だとは考えていなかった。ダンスフロアに行けばショックを受けるような場所にしたいと思っていた。ダンス用のフロアを別に設けるのは非常に重要なポイントだった。オープンした時は、3発のAltec Lansingのスピーカーを壁に埋め込んだ。そして初めて儲けが出た後に、フロアを壁で取り囲むようにして、スピーカーをもう1発足して、その四隅に置いた。

 

フロアの照明がすべて落ちると暗闇になり、その中でタペストリーが輝くような仕掛けにした

また、エリアごとに異なった雰囲気にしたいと思っていた。ひとつのスペースは赤、青、白で塗って、別のスペースはグレーや黒で塗った。照明もスペースごとに変えた。サウンドも変えた。小さいスピーカーのスペースと、大きなスピーカーのスペースにした。両方のスペースを誰かの家のラウンジのようにしたかった。

 

そして、The Galleryを移転させた時、ダンスフロアに入った人に驚いてもらえるようなデザインにした。こちら側で正しく操作すればの話だが。私たちは壁にタペストリーをかけて、小さなクリスマス用の照明をそのタペストリーの周囲に付けた。フロアの照明がすべて落ちると暗闇になり、その中でタペストリーが輝くような仕掛けにした。最初は暗いが、曲が盛り上がると共にその照明が力強く輝くようにした。私がプレイで盛り上げていくと、ガールフレンド(Robin)がその照明を操作した。スペースは白い光に照らされ、ミラーボールが回転した。すべてはダンスを楽しんでもらうためのものだった。

 

 

最初のThe Galleryは22nd Streetにありましたが、このスペースについて少し話してもらえますか?

 

最初のThe Galleryは… あそこからLarry LevanFrankie Knucklesのキャリアがスタートした。タイミングと場所が良かったこともあり、ファッション業界の溜まり場になった。当時有名なモデルだったBillie Blairをはじめ、Calvin Klein、Stephen Burrows、Willi Smith、Giorgio di Sant’ Angeloなど、ありとあらゆるデザイナーがThe Galleryへやってきた。何故なら客がファッショナブルだったからだ。デザイナーは彼らを参考にしていて、翌週にはBloomingdale’s(デパート)にその服が並んでいるという感じだった。Larry Levanもデザイナー志望だった。私が初めて彼にあった時、彼はFIT(Fashion Institute of Technology)の学生だった。

 

当時のLarryとFrankieについて今でも憶えていることはありますか? あなたは Larryと特に親しかったですよね。

 

Larryと私は長年一緒に住んでいたが、その頃The Galleryである事件があった。実は2度強盗に入られて、2度目は10000ドル相当の機材が盗まれ、殆ど閉店にまで追い込まれるという事件があった。

 

その瞬間、ドーンという音がした。Larryがショットガンを撃ち、床に5センチ程の穴を開けたんだ

そこで警報機を付けなければならないという話になったが、警備会社が設置に来るまでに1カ月から2カ月かかるということだった。兄と私は毎晩夜番につく必要が出てきたので、ひとりの兄がショットガンを手にし、もうひとりの兄が22口径を手に寝ずの番をするようになり、Larryと私も店内の照明をすべてつけて、音楽を鳴らしながらアシッドを摂って、店の壁に巨大な雲の絵などを描くようになった。

 

ある晩、いつものように絵を描いて遊んでいると、裏から誰かが入ってくる音がした。そいつが壁の裏側にいるのが分かったので、私たちはこちら側に出てくるのを待ち、出てくると同時にLarryはショットガンを手に、「そこまでだ」と言った。Larryのあそこまで男らしい声を聴いたのはあの時が初めてだった。私たちはその男を縛り上げ、Larryは兄を呼びに出て行き、廊下の公衆電話でショットガンを持ちながら、「そうなんだ。捕まえたよ。もう縛ったよ」と言ったその瞬間、ドーンという音がした。Larryがショットガンを撃ち、床に5センチ程の穴を開けたんだ。ただのブルックリンのゲイだった私たちが「強盗を捕まえた!」と騒いでいたのは本当におかしかった。

 

 

The Galleryの音楽について教えてもらえますか? かつてあなたはThe Galleryの音楽をディスコのプロトタイプだったと言っていましたが、音楽はソウルフルでファンキーな、気取らない音楽でしたよね。

 

プロトタイプと言ったのは、ディスコが当時存在しなかったからだ。ディスコという言葉自体が存在しなかった。1972年にThe Galleryをオープンした時も、誰もあそこをディスコとは呼んでいなかった。私たちもジャズ、R&B、ゴスペル、ロックなど、踊れると思う音楽をプレイしていただけだった。当時のレコードは60年代を乗り越えたという気持ちや、様々な苛立ちなどがベースに作られていた。だが、1976年、1977年頃、ディスコが盛り上がった時、音楽は「ダンスフロアでおしりを振るわ。おしりを振るのが大好きなのよ」というような内容に変わった。最悪だった。私はそういう安っぽいディスコは好きじゃなかった。「Love Hangover」は確かに名曲だし、「Bad Girl」も名曲だ。だが、死ぬまで聴きたい曲かと言うとそうではない。こういう曲は定型文のようなもので、私には響かなかった。

 

あなたの革新的なテクニック/機材について教えてもらいたいと思います。あなたはDJプレイでビートマッチングや2枚がけを生み出しましたね。

 

ビートマッチ、3台のターンテーブルは私が初めてだった。クラブ用のベースホーンも私が最初に作った

プレイ自体についてはさておき、初めてベースホーンスピーカーを作ったのは私だし、クロスオーバーも私が初めて導入した。Alex Rosnerに「ベースホーンとツイーターを別々のノブでコントロールしたい」と伝えると、「クロスオーバーが欲しいのか? それなら作るよ。誰もまだやったことがないからね」と言われた。今はどこのクラブにもある。ビートマッチ、3台のターンテーブルは私が初めてだった。クラブ用のベースホーンも私が最初に作った。クラブにEQを導入したのも私たちだ。PAスタッフがやってきて、ピンクノイズを使いながらきめ細かいEQでサウンドを整えた。これはThe Galleryが初めてだった。Rosnerは「そんな調整は必要ない。劇場だけだ」と言ったが、私は「いや、必要だ」と返した。こうしてサウンドシステムのサウンドが変わっていった。

 

Alex Rosnerとはどのように出会ったのでしょう?

 

Robinと私は色々な場所へ踊りに行っていた。それで自分たちでクラブをオープンすることを決めた後は、ありとあらゆるDJブースをチェックしていたが、必ずそこにはAlex Rosnerがいた。その後、ロックフェラーセンターのスケートリンクに行くと、そこのPAブースにもAlex Rosnerがいた。それで「ワォ! こいつはロックフェラーのスケートリンクも手がけているのか。凄い仕事をしているな」ということになった。

 

自分たちですべてをやることで、サウンドシステムの予算を確保した。私たちにとっては最高のサウンドシステムを手に入れることが 一番重要だった

それで私たちのところへも来てくれるように頼んだ。私たちの全予算は10000ドルだった。彼はぐるりと見回すと、「良いアイディアがある。この窓の穴を使って、スピーカーを入れ込む。あとはBozakのミキサーなどを足そう」と言った。結局それだけで5800ドルかかった。全予算が10000ドルだった私たちにとってはかなりの大金だったがその分を支払い、他の部分については全部自分たちでやることにした。自分たちでフロアに板を張り、釘を打った。壁も自分たちで塗った。こうやってサウンドシステムの予算を確保した。私たちにとっては最高のサウンドシステムを手に入れることが 一番重要だった。

 

その後も、何かアイディアを思い付く度にAlexに相談した。ターンテーブルをもう1台足す場合もそうだ。ターンテーブルの追加は今のように簡単ではなかった。ミキサー内部の抵抗器や回路を変えなければならなかった。だからAlexがやってきてミキサーをいじってくれた。こうして3台目がプレイできるようになった。

 

何故3台目が必要だったのでしょう?

 

「Love Is The Message」を他の曲がプレイされる中で繰り返しプレイしたかった。私はフランジャーをエフェクトとして使っていたので、エフェクトとミックスを同時に行うために、3台のターンテーブルが必要だった。素晴らしかったよ。

 

「Love It The Message」があなたの…

 

テーマソングになった理由? 忘れもしないが、David Rodriguezと私で1973年のクリスマスにCBS RecordsのLaVerne Perryに会った。彼女は「新しいレコードを聴かせてあげるわ」と言って「TSOP(The Sound of Philadelphia)」をプレイしてくれた。本当に素晴らしいレコードだったので、「これはクリスマスに使えるぞ」と言うと、彼女は「これ1枚しかないのよ」と返してきた。「でもDavidがThe Limelightでプレイして、私がThe Galleryでプレイすればいい」としつこく食い下がったが、それでも、「これしかないのよ」と言うので、私たちは引き下がったが、外へ出たDavidが、「トイレを貸してください」と言って中へ戻って、他から盗んできた。

 

それで「TSOP」をクリスマスにプレイした。The Limelightの様子を今でも憶えているよ。全員が白い服を着ていて、クリスマスツリーと白い照明、そして「TSOP」がプレイされていた。輝いていたね。洗剤のCMのようだった。

 

私は「Neilが見つけたんだ」と言ったが、Larryはよく、「上手く機能させたたのは君だ」と言っていた。

その後、2月のある晩、私はLe Jardinでプレイしていた(平日はLe Jardinでプレイしていた)。オーナーのJohn Addisonは南アフリカ出身で、彼にはNeilというボーイフレンドがいた。それで私に「Neilにプレイさせたいんだが、構わないかい?」と言うので、私が「勿論」と答えると、Neilが「Love Is The Message」をプレイした。私はその曲を聴いたことがなかったが、これは「TSOP」のB面だった。その日はDavid Mancusoが来ていて、彼もDJブースにやってきてこの曲が何かを訊ねていた。

 

家に帰って聴き直してみた私は、「素晴らしい楽曲だが、最高なのは3分21秒から後ろだな」と思った。それでもう1枚買って、ループさせようと思い立った。そしてその週末ループを続けながら、低域を強調してプレイすると、いきなり「もっとかけてくれ」と言われた。そんなことを言われたのは初めてだった。そしてフロア全体が言い始めた。それで私は訳が分からず最初からプレイした。すると全員が「この曲はなんだ?」と訊ねてきたので、「これは『Love Is The Message』だ」と教えた。私は「Neilが見つけたんだ」と言ったが、Larryはよく、「上手く機能させたのは君だ」と言っていた。

 

しかし、突如としてこの曲はLarryのテーマソングになった。ショックだった。1999年のある晩、私が「Love Is The Message」をフランジャーと共にプレイしていると、ある人がブースへやってきて、「これはLarry Levanと同じプレイだね」と言ってきたが、私は「これはNicky Sianoだ」と返した。

 

Loleatta Hollowayなどのライブについては何か覚えていますか?

 

彼女のライブの日はよく憶えている。彼女のレコードは大ヒットしていた。その晩、私はブースにいた。誰かが電話をしてきて「彼女が来ている」と教えてくれたが、ステージにいるとは思っていなかった。その時私はCeronneの「Love in C Minor」をプレイしていた。すると彼女がステージに上がるのが見えた。ステージはフロアを挟んで逆側に位置していて、彼女はその上のマイクの前に立つと、何かを言い始めた。私は彼女がステージに上がることを知らなかったので、彼女のマイクのヴォリュームを上げた。すると、プレイされていた「Love in C Minor」に合わせて彼女がスキャットを始めた。このスキャットはテープに録音しておいたので、その後何ヶ月もプレイした。とにかく、客は大盛り上がりだった。私は「Love in C Minor」をフェードアウトさせると、「皆さん、Loleatta Hollowayです」と紹介した。そして彼女は「Hit and Run」を歌った。フロアは熱狂的な盛り上がりを見せた。

 

Grace Jonesはどうでしたか?

 

クラブシーンで仕事をしているならば、自分の行動が客に影響を与えることを忘れてはいけない。

彼女がThe Galleryでライブをする週に彼女のマネージャーのオフィスで出会った。丁度ハロウィンのタイミングで、私はDiana Rossの格好をしようとしていた。世間は彼女が何者かを知らず、ドラァグクィーンだと思っていた。実はこのThe Galleryでパフォーマンスをした後で、彼女はIsland Recordsと契約した。話を戻すと、私はDiana Rossの格好をしていたが、その後で彼女が私の元へやってきて、「あなたがこんなことするなんて知らなかったわ」と言われた。ちなみにオフィスで彼女に会った時、私は完全にキマっていた。彼女はそこで歌を披露してくれたが、彼女は私の耳元で「何でキマってるか知らないけど、少しもらえないかしら」と言われたこともよく憶えている。

 

The Galleryは人々の記憶にどう残って欲しいと思いますか?

 

あるインタビューで、「The Galleryにおける友情や仲間意識はどのように形成されたのでしょう?」と訊かれたことがある。あの感覚が生まれた理由は、私たちが客に感謝していたからだ。私たちは客を愛していた。失礼に扱うことはなかった。邪魔者扱いはしなかった。問題のある行為はひとつとして起きなかった。私たちはオープンして最初の客が入ってきた瞬間から丁寧に扱っていた。

 

クラブは友情、愛、調和で成り立つものだ。多くの今のクラブのように偉そうで不快な存在になる必要はない。クラブは美しい調和を生み出せる。それはスタッフから始まり、客へと広がっていく。クラブシーンで仕事をしているならば、自分の行動が客に影響を与えるということを忘れてはいけない。その晩が生み出す感情が客に影響を与える。なので、パーティーをしている時はしっかりと考えて行動しなければならない。ベストを尽くして、ベストフレンドと一緒にいるような感覚にすれば良い。彼らが本当のベストフレンドでなくても、そういう存在になるまでそのように振る舞えば良い。