四月 23

Neneh Cherryインタビュー

ストリート視点の知性を備えたアーティストNeneh Cherryがユニークな幼少時代とFour Tetがプロデュースしたニューアルバムについて語った。

Neneh Cherryほどインターナショナルなアーティストは数少ない。ストックホルムで生まれ、民族音楽に造詣の深いジャズミュージシャンでDon Cherryを父親に持つ彼女は、ヨーロッパとアメリカを往復する生活から受けた様々な影響を自分なりにまとめて表現し続けてきたアーティストだ。80年代初期にはロンドンでポストパンクThe Slits、Rip Rig and Panic、New Age Steppersなどのメンバーとして活動し、その後ソロとしてシングル「Buffalo Stance」やアルバム『Raw Like Sushi』などをヒットさせ、世界的な評価を得た。

成功を収めたあとは、Massive Attackのデビューアルバム『Blue Lines』に参加し、それに続く形でソロ名義のアルバムでYoussou N’Dourとのデュエット「7 seconds」など数々のヒットを飛ばすと、徐々にジャズやダウンビートに傾倒し、CirKusやThe Thingに参加する。そして今年、以前から頻繁にコラボレーションを行っていたrocketnumbernineのBen PageとTom Pageの協力の元、前衛的なジャズと直感的なエレクトロニクスを盛り込んだアルバム『Blank Project』をリリースした。

今回のインタビューでは、スウェーデンとニューヨークで過ごした幼少時代、そしてRBMAのスタジオチームメンバーであるFour Tetがプロデュースを担当したソロアルバム『Blank Project』について語ってくれた。



あなたはニューヨークやスウェーデンで暮らしたことがありますが、そのような土地での生活は間違いなくあなたの考え方などに影響を与えていると思います。あなたの幼少時について話していただけますか? あなたの継父Don Cherryの精神に導かれて音楽の道に進んだのでしょうか?

生まれたのはスウェーデンよ。私の家族はスウェーデンを拠点にしていて、今でも南の田舎に家を持っているの。私の家族は世界を飛び回っていて、その関係でニューヨークは定期的に訪れていたわ。だから私はニューヨークとスウェーデンで育ったようなものね。凄く対照的な2つの国で育ったのよ。

勿論、そういう対照的な生活環境で育ったことには感謝しているわ。田舎の森の中を駆け回るだけの生活でもOKだったとは思うけれど、ロウアーイーストサイドやチェルシーホテルでの生活も面白かった。チェルシーホテルには頻繁に泊まっていたの。私は弟と一緒にTVを見たりして、アメリカのカルチャーにどっぷり浸っていたわ。ホテルの中を走り回ったり、ベルボーイと一緒に遊んだり、Tom Waitsの部屋に遊びに行ったりもしたわ。

私の母は素晴らしい人だった。アーティストだった彼女は、私の継父Don Cherryと一緒に音楽を作っていた。Donはジャズの世界にいた人だけれど、ヨーロッパに来た時にもっと幅広い音楽に興味を持ったのよ。彼はスウェーデンでトルコ人のミュージシャンと交流を持っていたし、アフリカ音楽にものめり込んでいたわ。両親は一緒に世界を飛び回っていたけれど、両親や私の周囲にいた人たちにとって、音楽はただ演奏するためだけのものじゃなかった。人生そのものだったんだと思うわ。

Credit: Kim Hiorthøy

あなたが音楽を始めた頃、様々なジャンルを組み合わせることは自然なことでしたか?

私は常々自分のことを、音楽という世界の一員だと思っているのよ。音楽は幼い頃からずっと私と一緒だったし、音楽は境界のない哲学だと思っているの。私にとって音楽とは、自分のサウンドを生み出すこと、恐れることなく自分が受けた影響やアイディアを使うことで、自分のものを生み出すというのはどちらかと言うとパンクのメンタリティに近いわね。両親はその点については非常に協力的だった。Donや彼の仲間のミュージシャンの近くにいると、よくDonが「今のは良かった。テクニックもあるね。でも自分自身の音を感じないと。その音だけをプレイし続けるんだ。複雑に考え過ぎちゃだめだ」って言っていたのを憶えているわ。

パンクとの出会いは自分の中で凄く大きかった。 私の弟Eagle-Eyeは非常に音楽的だけれど、彼と比べると私はそこまで音楽的な才能があるわけじゃなかった。どちらかというと、ダンスや音楽を聴くことで自分を表現するタイプね。パンクに出会った時、私はベースを弾きたいと思ったわ。1977年に私達家族はロングアイランドに引っ越したけれど、Talking HeadsとModern LoversのErnie Brooksが同じ建物に住んでいて、Arthur Russellもその建物で仕事をしていた。かなりクレイジーな建物だったのよ。そしてTalking HeadsのTina Weymouthがベースをくれたの。赤いFenderだったわ。当時同じ建物の中に、ドラムを叩く友人がいて、彼女と一緒に音楽活動をスタートさせたの。酷いサウンドだったけれど、関係無かったわ。自分たちで歌詞を書いて、変な曲を作っていったのよ。

パンクの自由な精神はヒップホップにも根付いていた。音楽的ではないという訳ではないけれど、自分たちが聴いて育ったサウンドやレコードを使うというアイディアは、それはそれでひとつの方法だったと思う。The Jungle BrothersのBaby Bamから音楽を始めたきっかけを聞いたことがあったけれど、外出禁止を言い渡されて家に籠っている時に、ラジオでRun DMCを聴いて、「俺でもできるぜ!この曲知ってるし、俺でもできる!」って思ったらしいのよ。それでダブルカセットデッキを使って、ラジオでプレイされている曲を録音し、それをまた別のテープに録音するというスタイルでビートを作り、リリックを書き始めたって言っていたわ。



ジャズとパンクは近いと思いますか?

個人的にはジャズとパンクとヒップホップの関係性は非常に強いと思う。ビバップはフリージャズ同様、革新的だった。Donや彼の仲間たちは反逆者で、ハードコアだった。彼らが演奏すると、お客たちは立ち上がって帰っていたわ。だから凄くパンク的な部分があると思う。

凄く深い部分で繋がっていると思うのね。The Pop GroupのGareth SagerとBruth Smith、それにSean Oliverに会えたのは凄くディープな体験になったわ。彼らは全員Sun RaとDonのアルバム『Brown Rice』にのめり込んでいた。会った時の私は、「私は彼らのファンだけれど、彼らはこういう音楽を聴いているのね!」って思ったのよ。彼らのことを再評価したのね。勿論、私もSun Raや父の作品を聴いていたけれど、自分のバックボーンなんだってことには気が付いていなかった。自分にジャズの要素があるって気が付いたのは、『The Cherry Thing』のあとね。自分を掘り下げたり、自分の音楽の本質に感謝できたりするのは凄く面白いわ。



新作についての話をしましょう。このレコードのプロデュースをKieran Hebden(Four Tet)に頼もうと思ったきっかけは何だったのでしょうか? 音楽に対する考え方が似ていたのでしょうか?

Kieranは非常にジャズな考え方をする人で、リミットがない人なのね。私は彼と出会う前から彼の音楽のファンだったの。彼の音楽や表現方法、そしてサウンドの選び方には直感を刺激する何かがあると思っていて、凄く魅力的に感じていたのよ。

Kieranのことは、Mats GustafssonがKieranとSteve Reidと以前仕事をしたことがあった関係から、The Thingを通じて知ったのよ。Kieranは「Dream Baby Dream」のリミックスをしてくれて、その後で私たちのライブを見に来てくれたんだけど、その時に何か一緒にしたいと思ってくれているのかもと思ったのね。私は勿論一緒にしたかったわ。普通にファンだったから。

誰かとの共同作業は、化学反応が重要になってくるわ。私は凄く直感的な人間で、私の歌は基本的に自分の感情や直感によって変化するの。私の声はそんなに幅広くないし、そういう綺麗に歌うタイプとは違うのよ。そういう自分にとってKieranは尊敬できて、信用できる人間に感じられた。プロデュースしてくれて本当に嬉しかった。

ウッドストックにある教会を改築したスタジオで制作をしたということですが、スタジオ自体が音楽に影響を与えた部分はありましたか?

当然あったわ。あのスタジオには普通のスタジオもあったけれど、ライブルームが元教会部分だったの。ステンドグラスの窓があって、天井も尖塔っぽくなっていたわ。Kieranの指示で私たちはそれぞれのブースに入ったの。RocketnubernineのドラマーTomはパラソルの下に座るような感じで、私はベドウィンのテントのようなものの中に入ったわ。上にはラグが張ってあって、サウンドを最大限に活かせるようになっていた。だからライブルームの雰囲気とその空間の鳴りはアルバムに大きな影響を与えたわ。Kieranは自分がどういうサウンドにしたいのか具体的なアイディアを持っていたし、その場のサウンドを上手く作ってくれたわ。

結果的に多くの友人と一緒に作ることになったこの作品は、あなたにとってカタルシスを与えるようなものになったのでしょうか?

そうだと思う。色んな意味で魂が浄化されたわ。何故なら、この作品に参加してくれた人たちが生んだ化学反応と、全員のチームワークによって生まれた作品だから。自分をさらけ出すことができたと思う。全員のサポートがあったから、今まで到達したことが無かったような場所へ行けたと思う。

Kieranは凄くシンプルな方法で制作を進めていったけれど、それがあのアルバムに求められていた方法だったのね。実はレコーディングを終えた後、あまりにもシンプルだったから逆に少し怖くなったの。自分のミスだと思えるような部分が沢山残されていたし、しばらく聴き返すことができなかった。でも、少し距離を取ってみると、ミスだと思える部分がこの作品の魅力だってことに気が付いたのよ。スタジオでKieranに「今の私のパートちょっと変だったわ。上手く歌えなかったと思う」と言って彼と一緒に聴き直しても、彼は「大丈夫だよ」と言うだけだったの。でも、彼のことは信頼していたから、「彼が大丈夫だって言うなら、それで良いんだわ。彼といちいち議論する必要なんてないわ。彼が大丈夫だって言うんだから」って思えたのよ。

Image credit: Kim Hiorthøy