十月 27

インタビュー:川島基宏

古代祐三と共に『ベア・ナックル』シリーズの音楽を手掛けた作曲家がキャリアを振り返る

By Nick Dwyer

 

川島基宏は、1992年に古代祐三の会社エインシャントへ入社し、ビデオゲーム・ミュージックの作曲をスタートさせた。2人は、当時の東京で爆発的な人気を獲得していた新しい音楽、クラブミュージックへの愛を共有しながら友情を深め、良き友人となっていった。東京を代表するダンスフロアで数多くの夜を過ごしていた2人は、ハウスとテクノのサウンドを全身に浴びたあとスタジオへ戻り、クラブで得たインスピレーションをビデオゲーム・ミュージックにフィードバックさせることを繰り返した。

 

川島は『The GG 忍 II』や『バットマンリターンズ』のようなゲームギア用タイトルの作曲からキャリアをスタートさせ、その後、『ベア・ナックルII 死闘への鎮魂歌』(以下『ベア・ナックルII』)にいくつかの楽曲を提供した。しかし、彼がより自分らしいサウンドを披露したのは続編『ベア・ナックルIII』で、ハードなジャーマンテクノとデトロイトサウンドをビデオゲーム・ミュージックとして表現することで、20年以上経った今もフレッシュに聴こえる革新的な音楽を生み出すことに成功した。

 

※『ベア・ナックル』シリーズは海外では『Streets of Rage』シリーズとしてリリースされた。

 

 

1990年代初頭のエインシャントチーム ©Yuzo Koshiro

 

 

あなたの出身地について教えてください。幼少時代を少し振り返ってもらえますか?

 

僕は愛知県名古屋市の生まれです。国立音楽大学に進学するタイミングで上京しました。名古屋時代については、今はほとんど思い出せませんが、友だちと良く外で遊んでいましたね。東京へ移ったあとは、大都市での生活が気に入りました。名古屋に住んでいた頃から、東京に強い憧れを持っていました。緑豊かな感じよりも都会的な感じの方が好きですね。僕の中では、音楽は都市と強く結びついているんです。

 

子供の頃はクラシック音楽を良く聴いていました。僕が好きだったのはGeorge Gershwinで、「Rhapsody In Blue」が特に気に入っていました。作曲家兼指揮者だった父もGershwinファンで、彼の曲をいくつか指揮していたので、昔は良く舞台裏でオーケストラの演奏を聴いていました。舞台裏から聴くとティンパニの音がうるさく、リスニングバランスは良くなかったのですが、楽しかったので、父に良くついて行ってオーケストラの演奏を聴いていました。

 

「Rhapsody In Blue」はレコードも良く聴いていたんですが、そのジャケットにマンハッタンの夜景が描かれていたんです。それを見ながら「Rhapsody In Blue」やGershwinの他の作品を聴いていたことが、音楽と都市を結びつけたのかもしれません。クラシック音楽でも、都市を想起させるような楽曲が好きでした。ですので、上京後は都市的な音楽を作りたいと思っていました。最初は、日本では “ブラックミュージック” と呼ばれているアフリカ系アメリカ人の音楽が好きになり、そのあとでテクノが好きになりました。とにかく、都市とダイレクトに結びついている音楽が好きでしたね。

 

東京・国立市に移住したのは何歳の時ですか?

 

実は、大学に進学するまで少し回り道をしたんです。最初は声楽家志望だったので、声楽を専攻するための受験勉強をしていたのですが、受験勉強中に気胸を患ってしまい、両肺をつぶしてしまいました。

 

それで、昔から作曲もやってみたいという気持ちを持っていたこともあり、作曲を専攻するための勉強を進めていたのですが、作曲家だった父から、作曲家では生計を立てるのが難しいので、滑り止めになるような方向も考えろと諭されまして。それで、国立音楽大学の楽理科に進学することにしました。楽理科は音楽学者になるための学科です。そのための受験勉強をし直したので多少時間がかかりましたが、最終的に合格しました。ですので、上京したのは22歳でした。それまでは名古屋にいました。

 

22歳のあなたが東京に出てきた1980年代はバブル期で、シンセサイザーやビデオゲームなどのテクノロジーが全盛期を迎えていました。22歳の若者にとって東京の日々は刺激的でしたか?

 

もちろん刺激的でした。当時の僕は、音楽以外にも好きなことがありました。高校時代にダンスもしていたんです。ですので、音楽とダンスは僕の中で強く繋がっていましたし、ダンスミュージックがとても好きでした。高校時代からディスコに良く通っていましたし、東京のディスコにも行きました。ですので、上京したらディスコに通いたいと思っていたんです。バブル期全盛の東京のディスコに通いたいと。

 

高校時代は名古屋から東京に遊びに行くが好きでしたし、名古屋のディスコにも散々通っていました。ですが、実は、大学に進学して上京したあとは、ディスコにほとんど行かなくなりました。ディスコブームもほとんど終わっていたと思います。ブームは高校時代がピークでした。最近はまた少しディスコが盛り上がっているようにも感じていますが、いわゆるディスコブームは高校時代がピークで、大学に進学した頃は、自分の中のディスコ熱は少し冷めていたと思います。それから少し経ち、23歳頃の話なんですが、当時吉祥寺に33というCDレンタルショップがありまして、そこにテクノとハウスが大量に置かれていました。そして、それらを聴いた時に「これだ!」と思いました。

 

 

 

“『ベア・ナックル』シリーズの頃は、仕事と遊びの境がなかったです”

 

 

 

ディスコで踊っていたあなたが、DJカルチャーやハウス&テクノを好きになり、情熱を注ぐようになったきっかけは何だったのでしょうか?

 

実は、ディスコに夢中になっていた名古屋時代から吉祥寺でテクノと出会うまでの間に、僕は坂本龍一の音楽にのめり込んでいたんです。彼の音楽のクラシックとロックの組み合わせ方に魅了されました。YMOは特に好きではなかったのですが、クラシック、ポップス、ロックを引き寄せるような、ボーダーレスな音楽に夢中になりました。彼の存在は、音楽大学を目指すという意志決定にも多大な影響を与えたと思います。実はその前に芸術大学への進学を考えていた時期があったんです。受験は失敗に終わりましたが。

 

僕が彼に夢中になるきっかけとなった楽曲は「Perspective」でした。この曲は、YMOの “散開” 記念に制作されたアルバム『SERVICE』に収録されていました。「Perspective」を気に入った理由は、Debussyのフィーリングが感じられたからです。Debussy的なクラシック音楽にビートが乗っていました。今でもこの曲を聴いた時の自分の気持ちを思い出すことができます。この1曲で完全にやられましたね。

 

そのあと、僕は坂本龍一という人間そのものに興味を持つようになりました。彼は民族音楽にビートを加えるなど、あらゆる音楽を組み合わせたハイブリッドな音楽を生み出していました。多種多様な音楽を取り入れようとしていた彼の音楽を通じて、僕はそれまで知らなかった音楽、一度も聴いたことがなかった音楽を沢山知ることができました。また、当時は細野晴臣の音楽も好きでしたね。彼に関しても、民族音楽にビートを組み合わせているところが気に入っていました。この頃、僕もシンセサイザーの演奏を始めていたので、彼らのような音楽のデモを作ろうとしていました。

 

当時の音楽制作のテクノロジー、Roland、Korg、Akaiなどの機材のほとんどは日本製でしたが、新しくて未来的な音楽を生み出していたこのようなテクノロジーが自分の国で作られていたという事実は、あなたにインスピレーションを与えていたのでしょうか?

 

僕の場合は、両親を通じて沢山の音楽に触れていました。その中のひとりが、冨田勲でした。彼はシンセサイザーアレンジャーで著名な作曲家で、父親が彼のレコードを良く買ってきてくれたんです。彼のシンセサイザーとクラシック音楽のミックスは非常に魅力的に思えました。僕がピアノで演奏していたDebussyの「月の光」などを、冨田勲はシンセサイザーで表現していたんです。ピアノの音色はひとつですが、シンセサイザーはバラエティに富んだ音色が生み出せます。その色彩の豊かさを魅力に感じていました。また、映画『時計じかけのオレンジ』の音楽を担当したWendy Carlosも好きでした。彼女のアルバム『Switched-On Bach』の楽曲が好きだったんです。当時の僕は、クラシック音楽とシンセサイザーミュージックのボーダーライン上に位置する音楽が好きでした。僕がこの手の音楽を何回も繰り返し聴いていたので、ある日、父がシンセサイザーの置かれているとある場所に僕を連れて行ってくれたのですが、そこにはARP 2600が置かれていました。とても古く、ちゃんとした音程が出せませんでした。鍵盤もおかしく、チューニングも狂っていました。

 

今のシンセサイザーはかなり簡単に発音させることができますが、そのARP 2600に触れたあとの僕は、しばらくの間、シンセサイザーは「ドレミファソラシド」をきちんと発音できない楽器なのかなと思っていました。安定した音程で演奏できるシンセサイザーがあることを知ったのはそれから何年も経ってからです。そのきっかけになったのがYamaha DX7… いや、その前にRolandのJuno-106がありましたね。Juno-106は僕が初めて買ったシンセサイザーでした。DX7を買ったのはそのあとです。両親がピアノを教えていた関係で、実は僕の実家にはグランドピアノが5台置かれていたんですが、その関係でYamahaの人たちが良く出入りしていたんです。それである日、そのひとりがシンセサイザーを持ってきてくれまして。それがDX7でした。DX7は僕のお気に入りになりました。日本製だったというのもその理由のひとつだったのかもしれませんが、DX7に触れて以来、Yamaha製のシンセサイザーが好きになりましたね。

 

あなたが通っていた国立音楽大学は古代さんが住んでいた日野市の隣ですが、知り合ったきっかけは?

 

国立音楽大学の4年生の時ですね。自分が立ち上げたビデオゲーム・ミュージック制作会社のスタッフを探している人がいて、一緒に音楽を作れる人を探しているらしいよと、クラスメートから聞いたんです。それで、当時テクノを作っていた僕は、そのクラスメートにデモを渡しました。

 

そのあとで、古代さんのお母様が国立音楽大学附属高校でピアノを教えているということが分かりました。僕のデモはクラスメートからお母様経由で古代さんに渡ったんです。それで、僕の音楽を聴いて興味を持った古代さんが僕に連絡をくれました。当時の僕は “古代祐三” が何者なのか一切知りませんでした。初めて会った時に「これはまた随分とイケメンだな」と思ったのを良く覚えています(笑)。第1作の『ベア・ナックル 怒りの鉄拳』(以下『ベア・ナックルI』)はすでにリリースされていたので、いきなり彼から『ベア・ナックルI』の音楽を聴かされました。僕はゲームをプレイした経験があまりなかったので、ゲームでこんなサウンドが出せるのかと驚きました。もちろん、のちに『ベア・ナックルII』を手伝うことになるとは全く思っていませんでした。『ベア・ナックルII』の制作に誘われたのはそれから約1年後のことですね。

 

古代さんの第一印象は? 若くして自分で会社を立ち上げていた彼は、当時としては珍しい存在だったのでしょうか?

 

古代さんとは初対面で意気投合しました。沢山話したことを良く覚えています。「ダンスミュージックの低音が最高だ」という意見が一致して、低音の話で盛り上がりました。当時の日本で、あそこまで腹の底に響くような低音が楽しめる音楽は、ポップスを含めてあまり多くありませんでした。ですが、古代さんはビデオゲーム・ミュージックで素晴らしい低音を出していました。また、僕もテクノの低音にうるさかったので、同じ部分に拘っているということで話が弾みました。僕は古代さんと話しながら、彼と音楽が作れたら最高だろうなと思っていました。古代さんもそんなことを言ってくれましたね。

 

入社当時のエインシャントについて教えてください。社員は何人いたのでしょうか? どのような環境だったのでしょう?

 

多分、僕が初めての社員だったと思います。それから、プログラマーもいましたね。当時のエインシャントは古代さんと彼の妹の古代彩乃さんの他に、フリーランスの方が数人出入りしていましたが、正社員は僕とプログラマーの2人だけでした。ですので、ほんの数人からスタートしたんですが、すぐに社員が増えていきました。

 

立ち上げ当初から参加していたわけですね。当時のビデオゲームはナムコやコナミ、任天堂などの大企業が開発していました。エインシャントのような小さな会社がビデオゲームを開発に携わるのは珍しかったのでしょうか?

 

小さな会社は結構多かったと思います。業界についてそこまで詳しいわけではないですが、兄弟会社のような小規模なスケールの会社と仕事をしたのを覚えていますし、当時のビデオゲームは成長中の業界だったので、小さな会社は沢山あったはずです。

 

エインシャントでの初仕事は? 初仕事の内容とその時の経験を振り返ってもらえますか?

 

最初はゲームギア用の音楽を制作しました。『The GG忍 II』でした。その次が『Batman Returns』ですね。今思うと、この2つのプロジェクトは僕の能力を確認するためのテストだったんだと思います。入社1年目にこの2タイトルの音楽を制作しました。使用した音源は、ゲームギアの内蔵サウンドチップ、PSG(Programmable Sound Generator)だけでした。8ビットのコンピューターでプログラミングして音楽を生み出す作業にかなり苦労しましたね。

 

 

PSGはかなり機能が制限されています。制限がある中での楽曲制作はどうでしたか?

 

制作を始める前は、自分の音楽的才能がかなり求められるだろうと思っていたのですが、実際に始めてみると、意外と自由があるなと思うようになりました。つまり、 - これはほとんど全て古代さんから学んだことですが - エフェクティブなサウンドの出し方など、制限がある中でも色々なやり方があるということです。より音楽的であると同時に、よりエフェクティブなアプローチをすることで、優れた音楽を生み出せるということを学びました。

 

古代さんの教え方は上手でしたか? 入社直後から数多くのことを彼から教わったのでしょうか?

 

古代さんからは沢山学びましたね。彼からプログラミングのエフェクトについて細かく書かれているマニュアルを受け取ったことを覚えています。『The GG忍 II』と『Batman Returns』の音楽は僕が作りましたが、エフェクティブな部分に関しては、古代さんから学んだものです。

 

仕事として音楽を作るのは楽しかったですか? 当時は、音楽制作をしたいと思っていても、生計を立てるのは難しかったと思いますし、ミュージシャンの生活は不安定だったのではないかと思います。その中で、企業の後ろ盾の中で音楽を作れるというビデオゲーム・ミュージックの世界は理想的だったのではないでしょうか?

 

自由に音楽を作るのが難しい時代でした。僕もいくつかのメジャーレーベルにデモを送りましたが、大抵の場合、ヴォーカルを足してくれ、ポップスをやってくれと言われることが多かったです。ですが、当時の僕はシンセサイザーにのめり込んでいたので、まだ歌物は作りたくないと思っていました。インストゥルメンタルだけでどこまで音楽を広げられるのかを試したいと思っていました。その意味で、ビデオゲーム・ミュージックはパーフェクトだったと思います。

 

古代さんから『ベア・ナックルII』に誘われた時のことを覚えていますか?

 

『ベア・ナックルII』の制作を手伝わせてもらえると知った瞬間は、古代さんが僕の音楽のクオリティを認めてくれたんだと思えた瞬間でもありました。『ベア・ナックルII』のようなビッグプロジェクトは絶対に任せてもらえないだろうと思っていたので。僕はそれまでに『The GG忍 II』や『Batman Returns』をはじめ、いくつかのタイトルの音楽を担当していたのですが、これらの努力が認められて、『ベア・ナックル II』に誘ってもらえたんだと思いましたね。

 

 

古代さんは、あなたからクラブミュージックを教わり、2人で良くYellowで遊んでいたと言っていました。2人でクラブへ通い、クールなハウスやテクノを聴き込んでいた頃を少し振り返ってもらえますか?

 

当時の僕はテクノに完全にはまっていましたが、大学時代に古代さんへ渡したデモはハウスでした。その頃の僕は、ハウスかテクノしかありえませんでした。先ほどもお話した通り、高校時代はディスコに夢中でしたが、それからクラブミュージックが好きになりました。クラブの暗いフロアはミステリアスで魅力的でしたね。

 

当時は西麻布のようなエリアで遊ぶのが好きでした。古代さんを誘って良く繰り出していました。ジュリアナ東京にも2人で行きましたね(笑)。ジュリアナ東京は、僕よりも古代さんの方が気に入っていたと思います(笑)。古代さんはとてもユニークな視点で捉えていて、退廃的なところが好きだと言っていました。僕は「ジュリアナ東京が退廃的…? ある意味正しいかも」と思っていました。古代さんの目にはそう映っていたんですね。2人で夜中に良く遊びに出掛けていました。当時のエインシャントは、仕事と遊びの境がなかったですね(笑)。

 

エインシャントに出社しても、僕は自宅で仕上げていた楽曲を渡すだけでしたし、古代さんは古代さんで「良い曲じゃないか! よし、今からクラブに行こう!」という感じでした(笑)。ですので、正直に言うと、仕事をしているのか遊んでいるのか良く分からなかったです。

 

ジュリアナ東京の雰囲気はバブル期そのものでしたが、Yellowではどんな音楽を聴いていましたか? 『ベア・ナックルII』はデトロイトテクノの影響が強く感じられます。当時特に気に入っていたデトロイトやヨーロッパのプロデューサーはいましたか?

 

今はどう呼ばれているのかは分かりませんが、当時はジャーマントランスというジャンルがありまして。このジャンルに一番大きな影響を受けましたね。ジャーマントランスを積極的にプレイしていた日本人DJのDJ K.U.D.O.のプレイを良く聴きに行っていました。僕の記憶が正しければ、Yellowの金曜日にプレイしていたと思います。あとは、デトロイトテクノにも大きな影響を受けたと思います。Underground Resistanceには特に大きな影響を受けました。ライブにも行きました。彼らの存在は『ベア・ナックルII』のサウンドに大きな影響を与えましたね。とてもソリッドなサウンドで、一体何を表現しようとしているのか分からない、得体の知れない感じがありました。その得たいの知れない感じに惹かれていましたね。

 

僕もそういうサウンドを作りたいと思っていました。その衝動をビデオゲーム・ミュージックで素直に表現したんです。『ベア・ナックルI』では、古代さんがブラックミュージック的な柔らかいサウンドを出していたので、最初はテクノを作っても大丈夫なのかと不安でした。『ベア・ナックルII』に、Underground Resistanceのようなゴリゴリしたサウンドを用意しても良いのだろうかと思っていたんです。ですが、僕が好き勝手に作った音楽に古代さんが強い興味を示してくれました。それで「川島くんがそういうサウンドを作るなら、僕はこういうサウンドを作りたいな」というような感じで、『ベア・ナックルII』のサウンドトラックは2人の連鎖反応のようなスタイルで進んでいきました。『ベア・ナックルII』の制作後期の話ですね。僕を誘う前の段階で、古代さんが大半を仕上げていたので。

 

後半に入って間に合わないと思ったからなのか - これは冗談ですが(笑)- 、とにかく僕にも任せてくれたんです。僕の『ベア・ナックル』サウンドを聴いてみたいというのもあったと思います。いざ始めてみると、最初は結構ダメ出しされましたね。実は『ベア・ナックルII』のサウンドトラックには、古代さんと僕の共作としてクレジットされているトラックがあります。ですが、これは話して良いのか分かりませんが(笑)、クレジットされている理由は、僕がミスをして古代さんが手直ししてくれたからなんです。最終バージョンを聴いた時は心の底から「古代さんは凄いな」と驚きました。ですが、「Expander」という曲で、逆に古代さんから「凄いな!」と言ってもらえたので、ミスを帳消しにできましたね。

 

 

Underground Resistanceからはどの程度影響を受けたのでしょう? Underground Resistanceのライブは、当時の日本人アーティストにかなり大きな影響を与えたのではないでしょうか? Underground Resistanceのライブを観た時の感想は? あなたの音楽にどの程度影響を与えたのでしょう?

 

Underground Resistanceのライブを観た時は、たしかサックス奏者が一緒だったんですが、サックスはあまりピンときませんでした(笑)。僕はシンセサイザーだけでどれだけソリッドなサウンドが出せるのか、そこだけに興味を持っていたので。もちろん、デトロイトテクノは人間くさい音楽だということを徐々に知っていくわけですが、当時の僕は、人間味がない、ひたすらソリッドなシンセサウンドに惹かれていました。とはいえ、ブラックミュージックの文脈上に位置するテクノには独特の熱さも感じていました。ですので、実際はソリッドで熱いテクノが好きだったんだと思います。昔から、ブラックミュージックやディスコが好きでしたし、純粋にソリッドなテクノよりも、ブラックミュージックの文脈上に位置するテクノの方が肌に合っていたんだと思います。デトロイトテクノはソリッドで熱いところが魅力ですね。

 

 

 

“自分たちの音楽でビデオゲーム・ミュージックのイメージを変えようという意識はもの凄く高かったです”

 

 

 

『ベア・ナックルII』の楽曲を制作していた1990年代初頭、あなたと古代さんはまだ若者でした。当時制作されていた他の様々なビデオゲーム・ミュージックと比較して、あなたたちの作品はとても革新的でした。他とは違うことをやっているという意識はありましたか? 他の誰もやっていないことをやっていると自負していましたか?

 

古代さんから最初に言われたのは、好き放題やって欲しいということでした。また、元々僕はビデオゲーム・ミュージックについて詳しくなかったのですが、他のゲームの音楽は聴かないようにとも言われました。ですが、ビデオゲーム自体をさほどプレイしたことがありませんでしたし、聴くことにあまり興味を持っていなかったというのが正直なところです。むしろ、ビデオゲーム・ミュージックは実験として捉えていました。自分の音楽を追求してみたいと。自分が好きな音楽のことだけを考えていました。ですので、『ベア・ナックルII』では、自分が気になる音楽を探究していました。

 

ですが、古代さんからはいつも「大丈夫。全然問題ない。川島くんは好きなようにやってくれて構わない。心配するな」と声をかけてもらっていました。ただし、上音に関しては、しっかり盛り込むように指示されました。「出すぎない程度に前に出してくれ」と。『ベア・ナックルII』では、その「前に出す」のが音程なのか、メロディなのか、それともエフェクトなのかを判断するのが難しかったです。今回のツアーのために『ベア・ナックルII』の音楽を聴き直していますが、今でも何が前に出ているのか明確に判断するのが難しいですね。ですが、その独特の解釈が面白いなと改めて思っています。僕たち2人がこのサウンドトラックを制作している時に共有していたのは、全力を尽くして他のビデオゲーム・ミュージックとは違うサウンドを作ろうという意識でした。自分たちの音楽でビデオゲーム・ミュージックのイメージを変えようという意識はもの凄く高かったですね。

 

 

 

“当時の僕は、自分たちの音楽が正しいのかどうか判断できていませんでした。やりすぎではないかと心配したこともありました”

 

 

 

知らない人も多いと思いますが、エインシャントは『ベア・ナックルII』の開発自体にも大きく関わっていました。エインシャントがどの程度関わっていたのか教えてください。古代さんの妹さんがキャラクターデザインを担当しましたよね?

 

キャラクターデザインは古代彩乃さんと、彼女の旦那さんが担当しました。2人で大半を仕上げていました。開発に関わっていたメンバーは他にもいました。エインシャントでは毎冬スキー旅行に出掛けていたのですが、僕はみんなの仕事ぶりよりもこの旅行の方を良く覚えています(笑)。というのも、会社にいる時のみんなは、ビデオゲームをプレイしているだけのようにしか見えなかったからです(笑)。もちろん、仕事はしていたはずですが、エインシャントに週1回顔を出すと、いつも全員がビデオゲームをプレイしていて、僕は「この人たちはいつ仕事をするんだろう?」と思っていました。当時は『ストリートファイターII』をプレイしていましたね。

 

当時の制作プロセスを教えてもらえますか? あなたのスタジオはどのような環境だったのでしょうか? 『ベア・ナックルII』ではどのような機材を使ったのでしょうか?

 

『ベア・ナックルII』はメガドライブ用タイトルでしたので、プログラミングで内蔵音源を鳴らしていました。キックやスネアのチャンネルはPCM音源でしたので、自分たちでサンプリングしたサウンドを使用していました。ですので、ビートは全てサンプルですね。残りはFM音源です。優秀なFM音源が内蔵されているので、チャンネル数は少なかったですが、十分なサウンドが生み出せました。全てプログラミングです。

 

『ベア・ナックルII』がヒットしたあと、SEGAの上層部からフィードバックはありましたか? あなたや古代さんは、北米やヨーロッパ、英国やニュージーランドの若者たちが自分たちの作った音楽を気に入っているということを知っていましたか?

 

自分たちの音楽がどう受け止められているのかについては知りませんでしたね。リリース当時にインタビューを何回も受けましたので、ゲーム自体の人気があることは知っていましたが、自分が手掛けた音楽について直接感想を言われたことはほとんどありませんでした。ビデオゲーム・ミュージックについてはそこまで重視されておらず、ゲームが売れたかどうかだけが重視されているように感じていました。ビデオゲーム・ミュージックの評価や妥当性について話をしますと、音楽を作る前の段階で、それがゲームに合うかどうかを慎重に判断することはありましたが、そのあとの外から評価に関しては、正直言って、興味がほとんどありませんでした。やりっぱなしと言いますか(笑)、その部分は古代さんに任せていたと思います。古代さんが問題ないなら良いだろうと。僕は社員でしたし、古代さんからOKが出たあとは、他人がどう思うかは気にしていませんでした。

 

次は『ベア・ナックルIII』ですが、この作品であなたは古代さんよりも多くの楽曲に関わりましたね。関わる比重が増えたことについてどう感じていましたか?

 

元々は半分ずつ担当しようという話でした。当時の僕は、いつも古代さんに自分の好きな音楽を色々紹介していました。僕の中で古代さんは仕事仲間というよりは一緒に音楽を楽しむ友人でしたし、古代さんはとにかく忙しかったので、僕がいつも音楽を紹介していたんです。その流れで、「今世に出すなら、こういう音楽が良いと思う」などと古代さんにアドバイスしていました。それで、『ベア・ナックルII』の仕事を通じて古代さんからある程度信頼を得ていたこともあり、『ベア・ナックルIII』は半分担当するという話になったんです。

 

『ベア・ナックルIII』の制作がスタートしてからしばらく経ったある日、古代さんが、凄いプログラミングシステムを生み出したと興奮気味に言ってきました。自動作曲ができるぞと。彼は、入力した数値をランダムに変えるシステムを当時のプログラミング言語で組んだんです。それで、僕にもそのシステムを使って欲しいと言ってきました。『ベア・ナックルIII』の「Fuze」でこのシステムを使っていますが、僕が担当した全ての楽曲にこのシステムを使ったわけではありません。たとえば、「The Poets」は通常のプログラミングで作りましたし、使った曲は少ないと思います。使っているかどうかは聴くとすぐに分かると思います。ランダム効果が加えられている楽曲がそうですね。『ベア・ナックルIII』では、さらに人間味をなくした音楽を作ろうとしていました。メーターが振り切れているような音楽を作ろうと。その流れで古代さんも自動作曲のシステムを組んだんだと思います。『ベア・ナックルIII』では、より退廃的な世界観を目指して音楽を制作していました。

 

 

古代さんがFM音源の性能をさらに引き出す新しいプログラミング方法を生み出したということですか?

 

はい。ですが、彼がどうやって組んだのかは分かりません。今振り返ると、ひとつの素材を作ろうとしていたんだと思います。作曲は僕たちがコントロールする必要がありますが、素材がFM音源しかないので、そこから先への冒険ができないわけです。古代さんのランダムな自動作曲システムは、「ドレミファソラシド」の7音を全て異なる楽器で鳴らすことができました。楽器がランダムに変われば、音色もランダムに変わるので、奇妙なサウンドを作り出すことができます。このような方法で制作したのが、『ベア・ナックルIII』のサウンドトラックです。サンプリングしたサウンドをデフォルメするような感覚で使っていました。

 

あまり気付かれていませんが、古代さんや坂本龍一のような作曲家の強みのひとつは、サウンドチップの性能を最大限引き出すために自分でプログラムを組めてしまうことにあると思います。古代さんが組んだそのプログラムは、他の人たちは持っていませんでした。『ベア・ナックル』シリーズのサウンドトラックが非常に素晴らしいクオリティを誇っているのは、古代さんが誰も持っていないプログラムを開発して、サウンドチップの性能を最大限まで引き出したのが理由なのでしょうか? 

 

そうですね。サウンドのクオリティに関しては、当時の他のビデオゲーム・ミュージックにはないレベルだったと思います。音楽の方向性に関しては、当時僕が興味を持っていた音楽に古代さんが合わせてくれたんだと思います。ですので、古代さんファンにとっては納得できない音楽だったと思うんですが(笑)、彼はとても職人的な音楽家ですので、簡単に他人に合わせることができるんです。僕に関しては、今でこそ自分のスタイルはかなり広がりましたが、以前はかなり狭く、テクノしか作らないくらいの勢いでしたので、古代さんはそのような僕の狭くてマニアックなスタイルに合わせるために、そのシステムを組んだんだと思います。

 

僕も彼がシステムを組んでくれたことをとても嬉しく思ったのですが、正直に言うと、彼の音楽を聴いて「ちょっとやり過ぎなのでは」と思いました(笑)。僕はフレーズを入れたいと思っていたので、最初は彼の音楽に対して少し複雑な気持ちでした。ですが、彼の音楽がどんどん進化して、面白くなっていったので、僕も負けないように、彼が組んだシステムをマスターしようと努力しました。

 

 

 

“僕たちはビデオゲーム・ミュージックの限界に挑もうとしていました。ビデオゲーム・ミュージックの中で何ができるのかということを考えていました”

 

 

 

当時のビデオゲーム・ミュージックの中で最もヘヴィな作品だったと思います。ビデオゲーム・ミュージック全史を通じてかもしれません。当時は何を聴いていたのでしょうか? Inner CityやKevin Saunderson、Underground Resistanceのようなデトロイトハウス&テクノから、Jeff MillsやRobert Hoodのようなハードテクノに興味が移っていたのではないかという印象です。どのような音楽から影響を受けていたのでしょうか?

 

僕たちはビデオゲーム・ミュージックの限界に挑もうとしていました。2人とも、ビデオゲーム・ミュージックの中で何ができるのかということを考えていました。一番やりにくいことをあえてやってみようという意識があったと思います。普通の音楽としても、果たしてこれは音楽なのかと思うような音楽を作ろうと。Underground ResistanceやJeff Millsの音楽はそういう音楽でした。同じフレーズを繰り返したり、サウンドを歪ませたりしていました。彼らは、果たして音楽として成立しているのかとリスナーが疑問に思うような音楽を作っていました。1990年代のクラブミュージックは非常に実験的で、実験がひとつの大きなテーマだったわけですが、その実験は音楽全体に向けてのものでもありました。その実験をビデオゲーム・ミュージックに持ち込んだらどうなるのか試してみようというのが、僕たち2人が共有していたテーマだったのではないかと思います。

 

当時は、自由な制作が許されていたのでしょうか? SEGAから「ヘヴィすぎる」と言われることはなかったですか? どんな音楽を制作しても何も言われなかったのでしょうか?

 

実は、エインシャントの中でさえも、僕たちのサウンドを不安に感じている社員がいました。ですが、古代さんは「これで大丈夫だ」と言っていましたね。この辺りが古代さんの凄いところだと思います。僕は全く分かっていませんでした。自分たちの音楽が正しいのかどうか判断できていませんでした。やりすぎではないかと心配したこともありました。

 

良く覚えているのは、古代さんが自動作曲システムを使って作ったゲイのキャラクターのテーマです。たしか曲名は「KAMADECOCO」だったと思いますが、その音楽があまりにも酷かったので、さすがに心配になったんです。それで「これで大丈夫ですか?」と古代さんに訊ねたんですが、彼は嬉しそうな顔で「大丈夫」と言っていました(笑)。このような判断は、古代さんがビデオゲーム・ミュージックの制作で培ってきた独自の感覚によるものだと思います。

 

『ベア・ナックルIII』がリリースされて23年が経過した2017年、あなたと古代さんは初ライブを披露します。23年前に自分たちが生み出した音楽を世界各地で演奏するチャンスが来ると思っていましたか? また、その音楽がヴァイナルとして世界中でリリースされることを予想していましたか?

 

予想していなかったです。まさかの展開です。こんなことになるとは思ってもいませんでした。

 

 

楽しみですか?

 

ライブについてはこれから積極的に展開していきたいと思っていたところでしたので楽しみですが、『ベア・ナックル』シリーズのファンのことが少し心配です。僕たちの “今の” パフォーマンスをファンがどう受け止めてくれるのかが不安ですね。どこまでアレンジをして良いのか分かりませんし、むしろ、アレンジバージョンを聴きたくないと思っている可能性さえあると思っています(笑)。ですが、昔の音楽をそのままライブで披露する気にはどうしてもなれないんです。

 

それは、僕が音楽を追究し続けているからです。ずっと音楽を作り続けている僕の中で、20年以上前の音楽をそのまま演奏するのは不自然なんです。ですので、今の自分の解釈を加えつつ、自然な形で昔の音楽を演奏できればと思っています。その音楽を『ベア・ナックル』シリーズのファンがどう受け止めるのかが心配ですね(笑)。ですが、僕は自分の中で自然に生まれてくるものを披露したいと思っているので、彼らのリアクションが楽しみでもあります。

 

1990年代初頭に制限の中で音楽を生み出しながら、ビデオゲーム・ミュージックの限界を押し広げようとしていた当時と今を比べて、音楽制作から失われてしまったと思う部分はありますか? 当時は制限の中で何ができるのかを見極めていく楽しさがあったと思いますが、自由にどんな音楽でも制作できる最近は、そのマジックが多少失われてしまったと思いますか?

 

個人的には、クラブミュージックが最も面白かったのは1990年代だったと思っています。今はその面白さが少し失われているかなと感じています。その理由は、音楽が自由すぎるように感じられるからです。また、コンピューターだけで制作できてしまうという点も挙げられますね。もちろん、『ベア・ナックル』シリーズは内蔵音源を使っていたので、制作はコンピューターで完結していましたが、当時のクラブミュージックとしてのテクノは、ハードウェアがなければ制作できませんでした。僕はハードウェアで作られたそういう音楽にインスピレーションを受けて、試行錯誤しながらビデオゲーム・ミュージックに落とし込んでいたんです。ですが、今はプラグインがあれば何でも作れてしまいますし、使えるサンプルもとにかく多い。また、誰でもハイクオリティな作品が作れます。こういう側面が面白さを減らしているのかなと思います。

 

ですが、逆を言えば、プラグインが揃っていて、コンピューターで完結できる今は、以前よりも楽に制作できますし、アイディアの具現化における精度とスピードも高まっています。ですので、昔とは違った面白さがあると思っています。こんな曲が作りたい、あんな曲が作りたいという妄想をコンピューターと上手くリンクさせることができれば、その妄想の鮮度が保たれた、ダイレクトなサウンドが生み出せます。ですので、どちらの時代が良いという話ではなく、失われたものもあれば、新たに得たものもあると考えています。両方の時代を経験してきたアドバンテージを活かして、その両方の良さを組み合わせたようなサウンドを作りたいと思っています。