七月 18

インタビュー:John Sinclair

元MC5のマネージャーがマリファナ合法化活動、John Lennon、Sun Raなどとの関わりについて語る。

John Sinclairは自身が言うところの「逸脱、反逆、そしてあらゆるくだらないもの」の申し子であり続けている。Sinclairはロックの概念を打ち破ったデトロイト出身のバンドMC5のマネージャーを務めながら、自分で立ち上げたWhite Panther(ホワイトパンサー)党で無料コンサートや政治集会を通じて公民権運動を支持していった。その後1969年に覆面捜査官にマリファナのジョイント2本を手渡した罪で刑務所に送られると、1971年にJohn Lennon、Yoko Ono、Stevie Wonderなど多くのアーティストたちがJohn Sinclair Freedom Rallyに出演。その結果、Sinclairはこのイベントの3日後に無事釈放された。そしてこの運動によってマリファナに対する州法が変わり、マリファナ合法化活動家としての彼の評価は高まることになった。

1992年、Sinclairはニューオーリンズで自身のバンドThe Blues Scholarsを結成し、彼のラディカルな詩を音楽に持ち込むと、2014年にはアルバム『Mohawk』をリリース。ヨーロッパ各国でパフォーマンスを繰り広げた。ロンドンのBarbicanで開催されたライブではSun Ra Arkestraと共演し、異世界的でぶっきらぼうだが力の籠もった詩の朗読を行った。尚、Sun Ra Arkestraは今や伝説として知られる1967年のデトロイトのCommunity Arts AuditoriumでのライブでMC5と共演している。SinclairはSun Raを長年に渡り支持している有名人のひとりだが、今回はRBMA Radioで行われた彼へのインタビューの中から、デトロイト時代、Sun Raとの関わりなどについて語ってもらった部分を抜粋して紹介する。



子供時代について教えてください。

私はミシガン州の小さな街、ダヴィソンで育った。のどかな街の白人の中流階級の家庭だった。

政治に熱心な家庭に育ったのでしょうか?

両親は共和党支持者だった。そういう意味では政治的な家庭だった。子供の頃、両親はドワイト・D・アイゼンハワーの熱狂的支持者で、民主党を嫌っていたよ。

あなたの社会的責任感はどこから来ているのでしょうか? ご両親の影響でしょうか?

いや、両親の影響じゃない。両親は私に弁護士になって欲しいと思っていて、いずれは政治の世界に進出して、最終的には上院議員か大統領にと思っていた。両親の政治的関心はそういう方向に向いていた。私は11歳か12歳の頃、ラジオで黒人の音楽を聴き始めたが、これが私のその後の人生の核となった。私は基本的に音楽家から物事を学んできた。リズム&ブルース、ロックンロール、ジャズを聴いて学んできたんだ。

10代の頃はリズム&ブルースの大ファンで、DJ志望だった。高校卒業後は大学へ進学し、そこでジャズにのめり込んだ。そしてすぐにジャズを学び始めると、色々なジャズを聴くようになり、John Coltrane、Cecil Taylor、Sun Ra、Archie Shepp、Pharoah Sandersなどを聴くようになった。1960年代の前半は彼らのようなジャズの大ファンだった。やがて私はDown Beat Magazineにデトロイトについてのコラムを書くようになった。隔週連載で報酬は8ドルだった。



いつからロックンロールを聴くようになりましたか?

Chuck Berryが1955年の秋にChess Recordsからリリースした「Maybellene」という曲があった。それまで聴いた中で最もエキサイティングな音楽だった。その「Maybellene」がリリースされた頃、学校帰りに立ち寄っていた場所があった。そこは25セントでレコードを6枚プレイできたので、25セント硬貨を入れて、「Maybellene」を6回連続で聴いた。それを2、3回繰り返したよ。他の曲は聴きたくなかった。この曲からロックンロールの世界に入っていったんだ。

デトロイトのGrande Ballroomの1960年代後半の様子を教えてもらえますか?

彼は両親に家を買うだけではなく、アメリカの経済と政治の基本構造を変えようとしていた。

60年代のモダンなロックに出会ったのは、デトロイトで聴いたMC5がきっかけだった。私は半年刑務所に入ったあと、1966年8月5日に出所したが、その翌日、デトロイトのDetroit Artists Workshopというフェスに彼らが出演した。私はヴォーカルのRoby Tynerと友人になり、私は彼の「自分のバンドを普通のバンド以上の存在にしたい」というアイディアに共感した。彼は、両親に家を買うだけではなく、アメリカの経済と政治の基本構造を変えようとしていた。私はそのアイディアを素晴らしいと思い、一緒に仕事をすることを決めてマネージャーになった。ギターの弦やドラムスティックの本数の確認や、ドライバー役などを担当したのさ。

刑務所にいたと言っていましたが、1969年のあなたの2度目の逮捕がきっかけとなって起きたあのムーブメントには驚いたのではないですか?

まったく驚かなかった。2年半かけて慎重に準備していたからだ。私はMC5と一緒に作ったホワイトパンサー党を通じてブラックパンサー党を支持しながら、自分たちの政治的理想のための活動をしていた。

ブラックパンサー党からは、「支持には感謝しているが、君たちには白人が我々の邪魔をしないようにしてもらいたい。君たちがゲットー側へ来る必要はない。君たちは白人の意識を変えてくれ。君たちの両親や仲間たちの意識を変えて欲しい。若い世代に我々が何をしようとしているのかを伝えてくれ」と頼まれた。それで私たちはその取り組みを始めた。

その途中で私は刑務所へ送られた。あの時が2度目の刑務所だった。私はマリファナをずっと吸い続けている訳だが、50年程前、私はマリファナに関する法律に立ち向かうアメリカ人グループを仲間と共に設立した。当時マリファナは麻薬として扱われていて、法律もその判断に基づいて作られていたが、ニューヨークにLEMAR(Legalize Marijuana/マリファナ合法化)という名前の団体を作っていた詩人仲間のAllen GinsbergとEd Sandersの呼びかけに応じる形で活動を開始した。

彼らから送られてきた手紙の中に、最初のイベントの告知フライヤーが入っていて、私は「これはグッドアイディアだ。デトロイトでもやろう」と思い、実行に移した。当時私たちはガリ版印刷機を持っていたので、それを使って宣伝活動や集会を開催し、戦いが始まった。残念ながら私たちは3度に渡り権威側に破れたが、戦うのをやめなかった。私が刑務所に入っていた時も、その事実を上手く利用して法律を変えようとした。そして2年半の刑務所生活のあと、最終的に自分の申し入れをミシガン州最高裁判所が受理し、ミシガン州議会でのロビー活動も成功した。

それで法改正が行われ、違憲だという判決が下された。マリファナは麻薬の括りから外され、マリファナ所持だけで懲役10年は非情で異常な処分だということになった。この活動は1964、65年頃から始まった。私は1971年に釈放され、1972年3月、ミシガン州最高裁判所によって私は無罪となった。



当時John Lennonがあなたについて歌った楽曲を発表しました。

その通り。実際彼はアナーバーにも来てくれた。私たちは支持者を増やそうとして、1971年12月にアナーバーで大集会を開いて締めくくろうと思っていた。この大集会で、麻薬法改正やマリファナの除外など、私が考えていた意見を取り入れるよう議会にプレッシャーをかけようとしていたんだ。

このイベントをオーガナイズしている時、ミシガン大学にいた仲間が15000人を収容できるバスケットボールアリーナを押さえてくれた。1971年当時、15000人というのはかなりの数だった。そしてニューヨークの友人Jerry RubinがJohn Lennon、Yoko Ono、Phil Ochsに対し、このイベントに出演してくれるよう頼み込んだ。この一連の動きが州議会の法改正に対して大きなプレッシャーをかけることになった。彼らは自分たちの敵としてJohn Lennonがやってくるという事実に対応する羽目になった。爆弾を抱えているような状況に陥ったのだ。そして15000人を集めたイベントが開催され、その3日後に私は釈放された。その数ヶ月後に、彼が私のために書いた楽曲が収録されたアルバム(『Some Time in New York City』)がリリースされた。だが、重要なのは楽曲ではなくて、彼の行動だ。彼がやってきたことが重要だった。素晴らしかったよ。



Sun Raとはどうやって知ったのでしょうか?

Sun Raを知ったのはDown Beat Magazineで名前を見かけたことがきっかけだったと思う。彼は1961年までシカゴを拠点にしていた。斬新な音楽をやっているという噂は聞いていたが、実際に彼らの作品を聴く機会はなかった。ESP-Diskからのリリースで、ようやく幅広い層に知られるようになった。私が最初にSun Raのレコードを聴いたのは、ニューヨークからRoger Blankというドラマーがやってきて、私の家に泊まった時だった。

彼を部屋に案内して、彼がスーツケースを開くと、2枚のアルバムが入っていた。その中の1枚が『Super-Sonic Jazz』だった。RogerはSun Raと音楽について、そしてSun Raが彼にとってどういう意味を持っているのかについて面白い話をしてくれたよ。

Sun RaとMC5を共演させようと思った経緯は?

Sun Raをデトロイトへ招き、ウェイン州立大学でMC5と共演させ、ライティングを使ったコンサートを開いたが、来たのは100人程だった。

Sun Raをデトロイトの人たちにどうやって紹介するベストな方法を見つけたかった 。MC5はSun Raの大ファンだった。よく一緒にSun Raの曲を聴いたものだ。だから私はSun Ra Orchestraをデトロイトへ連れてきて、集客力があるMC5と共演させるのはどうかと思った。別に大観衆という訳じゃない。1966年、1967年頃の話で、MC5はただのローカルバンドだった。ウェイン州立大学でライティングも使ったコンサートを開いたが、来たのは100人程だった。ニューヨークにSun Ra Orchestraを送る返す予算はなかったので、フォルクスワーゲンのバスに乗っていた仲間のひとりが10人から12人ほどを乗せて、ニューヨークまで送っていった。私たちはガソリン代しか提供できなかった。

当時、商業的なジャズシーンはSun Raに対してほとんど興味がなかった。彼らは相手にされていなかった。シカゴ時代の彼らは自分たちで身の回りの面倒を見て、自分たちでレコードをリリースしていた。それでニューヨークへ移ると、当時起きていたニューヨークのジャズシーンの変革において重要な役割を演じることになった。

プログレッシブでカッティングエッジなプレイヤーは全員Sun Raと共演した。Sun Raは毎日Sun Ra Orchestraのリハーサルをしていた。Pharoah Sanders、Marion Brown、Archie SheppなどがやってきてSun Raと共演し、Sun Raの音楽がどういうものなのかを確認していた。Sun Raはニューヨークに大きなインパクトをもたらした。また彼らには見事な集合意識が備わっていた。なぜならSun RaはDuke EllingtonやCount Basieのような存在で、彼の音楽を表現するには15人から16人が必要だったからだ。

だが、そういう流れとは逆に、商業的なニーズはゼロだった。彼らは自主的にコミューンを形成して活動しなければならなかった。ロウアーイーストサイドで10人から12人が3部屋しかないアパートで共同生活をしていた。それが彼らに与えられた唯一の方法だった。Sun Raは積極的なアーティストだった。彼には自分が表現したいアイディアがちゃんと持っていて、どうやってそれを実現するかを考え出して、実行に移していた。



あなたの詩は、Jack Kerouac(ジャック・ケルアック)の影響を受けていますか?

Kerouacの作品からは人生の受け止め方で影響を受けた。私は彼が言わんとしている世界を理解しようとした。私はその世界の一部になりたかった。だが、精神的な手本となったのは、Charles Olson(チャールズ・オルソン)、Robert Creeley(ロバート・クリーリー)、Amiri Baraka(アミリ・バラカ)、Irwin Allen Ginsberg(アレン・ギンズバーグ)だ。彼らの詩へのアプローチを学ぼうとした。

ジャズが詩に与えた影響は?

ジャズは私の人生の中心と言ってもいい存在だ。詩を書く時は、自分が大切に思っていること、自分の頭の中にあることを書く訳だが、私にとってそれは音楽だ。 私の詩は音楽から始まる。



1964年にニューヨークでCecil TaylorとArchie Sheppに出会ったいきさつを教えてください。

住所を手に入れて、自宅へ押しかけたのさ(笑)。Charles Mooreというトランペット奏者がデトロイトでの私のパートナーで、2人でDetroit Artists Workshopを立ち上げた。そのリサーチのためによくニューヨークへ出向いていた。色々とチェックするにはニューヨークへ行かなければならなかった。デトロイトには存在しなかったからだ。

デトロイトではColtrane(John)を聴くことはできた。Miles Davis Quintetで活躍した彼にはファンがついていたから、彼は全米のジャズクラブを回っていた。だが、Sun RaやCecil Taylor、Archie Sheppは売れていなかった。私が初めてSheppを聴いたのは誰かの家のロフトだった。場所を提供してもらってプレイしていた。彼らが演奏するにはそこしか場所がなかった。もしくはSlug’s Saloonだ。だが、あそこはひたすら怪しい場所だった。

Cecil Taylorの話は半日で大学1学期分の価値があった。

Archie Sheppは35 Cooper Squareにあった、LeRoi Jonesと同じ建物に住んでいた。ここはDiane di PrimaがPoets Pressの拠点にしていた建物でもあった。だからこの場所は私たちにとって神経中枢のような存在だった。LeRoiは私のアイドルだったので、私は以前から彼と連絡を取り合っていた。そして彼に会うためにその建物へ向かったのだが、彼が私たちを上へ連れて行き、隣人のArchie Sheppを紹介してくれた。Charles Mooreと一緒に彼らのアパートの小さなキッチンテーブルでワインを飲みながら、Sheppのプレイを聴いたのを憶えているよ。

Cecil Taylorもその近所に住んでいた。私はCecil Taylorを崇めていたので、直接会いに出向いた。自己紹介をすると、彼は私が書いた文章を知っていたようで、私たちは友人になった。Cecil TaylorはSun Raに似ていた。2人とも自分の考えを延々と話した。Sun Raはステージ、控え室、レストラン、自宅と場所を選ばず、延々と話をしてくれた。彼の話は「長説法」と呼ばれていた。話を聴いているだけでありがたかった。昔Sun Raの話を8時間ぶっ続けで聞いた時もあった。

Cecil Taylorも同じだった。Sun Raは宇宙や惑星にのめり込んでいて、宇宙の矛盾について話をした。今まで聞いたことがないような非常に鋭い分析をしていた。そしてCecil Taylorは非常に知的だった。彼は詩、演劇、アート、ダンスのあらゆる発展に寄与してきた人物だ。たとえば彼はダンスに精通していたし、自分の周囲で起きていることすべてに関与していた。彼の話は半日で大学1学期分の価値があった。本当に沢山のことを教えてくれたよ。