十月 14

INTERVIEW: 中原昌也

暴力温泉芸者、HAIR STYLISTICSの音楽家と東京の音楽文化史を辿るインタビュー

By Masaaki Hara

 

80年代後半から活動を始めた中原昌也は、暴力温泉芸者(Violent Onsen Geisha)の名義で、日本が世界に輸出した音楽文化の1つ、ノイズ・ミュージックのジャンルで、90年代に海外でもその名を知られるようになった。Sonic YouthやBeckらから関心を集め、95年のアメリカ・ツアーを皮切りに、海外公演も重ねてきた。しかし、ノイズ・ミュージックのアーティストというのは、中原昌也のひとつの顔に過ぎない。彼は、90年代後半以降、小説家や映画評論家としても活動を始め、その分野でも有名になったからだ。それだけではない。彼は暴力温泉芸者、その後のヘア・スタイリスティックスとしての音楽活動を続けながら、80〜90年代の——それは音楽文化的に日本がバブルだった時代だ——東京の軌跡を、多様な音楽ジャンルと接しながら、1アーティストとして、見届けてきた存在でもある。このインタビューは、中原昌也の個人史と共に、東京のもう一つの音楽文化史も追ったものでもある。

 

中原昌也は、東京の一等地、青山で生まれ育った。彼が家族と住んでいたマンションからさほど離れていない六本木に、1983年WAVEという大型レコード・ショップがオープンした。六本木WAVEは、80〜90年代の日本の音楽文化の象徴と言ってよく、ビル丸ごとが巨大な音楽の図書館の様相を呈していた。最新の12インチ・シングルから現代音楽や民族音楽のレアなレコードまでが理路整然と並べられ、アートブックなども充実していた。地下にはシネ・ヴィヴァン・六本木という映画館が併設されて、そのオープニング上映は、Jean-Luc Godard監督の『パッション』だった。筆者も含めて、東京で80年代を過ごし、音楽とその周辺文化に熱心に接していた者にとって、六本木WAVEは抗いようのない魅力を醸し出していた。まずはその話から始めよう。

 

 

六本木WAVEが出来たときは?

 

中学生だったけど、いろんなものがあって、いまでもあのとき買えればよかったってものがたくさんあります。でも自分の家はバブルと全く関係なかった。そのジレンマってすごかったですね。青山に住んでてもそんなことは関係ない、むしろ逆方向にどんどん家庭は向かう。貧乏くさい、所帯染みたことばっかりになってたし。その分裂的な感じが、ちょっと精神的に堪え難かったですね。今となってはそういうことがあって今の自分がいるんでしょうけど。

 

でも、それを買えるお金持ちの友達もいたでしょ?

 

みんな興味なかったです、そういうこと。田舎にいて情報だけ得ているのと違うよね。

 

僕もずっと東京だったから、現物が行けばあるけど買えないっていう状況は同じだった。雑誌見て情報仕入れるのとは圧倒的に異なる経験だった。

 

そうですよね。でも今、逆にもう興味ないですね、そういうことに。

 

でも、機材を買い込んで、音を作り始めることはできたでしょ?

 

子供っぽい話ですけど、もともと親戚いっぱいいるのに、お小遣いもお年玉もほとんどくれない親類なんですよ。1人1000円くらいしかくれなくて。でもそれが十何年でもあって、ずっと親が隠し込んでたんで、それを大げんかして巻き上げて買ったんですね。MTRとエフェクターいくつか。そこから始めたようなものです。でも何にも出来ないわけですよ。ギターも適当なやつ買ったけど、でもギターとサンプラーだけで何かできるかって、出来ないんですよね、よっぽどすごい才能がない限りは。どうやって音楽を構築するのか、未だにわからないんですけど、才能もなく大した機材もなく出来るのは何だろうって、ノイズになっちゃうんですよね、自然と。

 

リスナーとしては、ノイズと一緒に、同時代のヒップホップとかも聴いていたよね。

 

ヒップホップっていうかUKのものがそのとき好きだったかな。Frankie Goes To HollywoodとかArt of Noiseとか、もうちょっと後になるとPump Up The Volumeだの。

 

いわゆるビッグ・ビートもの。

 

そうそう。その辺になるわけですよ。六本木が近かったからWAVEだけじゃなくてウィナーズっていうレコード屋があって、わけのわかんない12インチとか買いましたね。Rappin’ Dukeとか。結局ウィナーズ潰れるんですけど、その放出セールに行くと意外とThe Pop Groupとか、なんでこういうのあんのみたいなものが一杯あって。

 

あったね。ポスト・パンク〜インダストリアルとか混じってた。

 

あと、西武がやってたディスクポートで漁ったり。ジャニスもあった。それに原宿ラフォーレのディスク・ユニオン、新宿アルタのシスコもけっこうノイズあって、それと渋谷のCSV。CSVになるともう普通に面出しでノイズががっつりあった。

 

CSVは凄かったね。あの渋谷の公園通り沿いに大きなお店があったからね。

 

隣に行くとハンターがあって、そうやって漁ってわけわかんないもの買うのは楽しかったですよね。

 

 

WAVEはもとより、TowerやHMV等の外資系CDショップ、無数の小さなレコード・ショップが渋谷・宇田川町の小さな宇宙にひしめき合っていた時代に、「渋谷系」なる言葉が生まれ、やがて90年代の日本のポピュラー音楽を語る際に欠かすことができないキーワードとなった。そして、同時代の中原昌也の暴力温泉芸者の活動は「デス渋谷系」と称された。それは、暴力温泉芸者が95年に東芝傘下のRail Recordingsからリリースしたアルバム『Que Sera, Sera (Things Go From Bad To Worse) 』に、渋谷系を代表するフリッパーズ・ギター/コーネリアスの小山田圭吾が参加したり、中原自身がコーネリアスやスチャダラパーのリミックスを手掛けるという、ノイズ・アーティストとしては異色な活動を続けたことももちろんあるのだが、前述の、都内のレコード・ショップを掘り続けたことが、「渋谷系」と結果的に同じ風景をある程度、共有することにも繋がったのだ。

 

初めて作品を出したのは?

 

たぶん80年代の終わりのほう。

 

作品を出して変化は?

 

やっぱりデカかったのは、Sonic Youthが聴いてくれたことですね。彼らが日本来たときはバイトで手伝いしてたんですけど、その次の来日には前座をやるハメになってた。

 

いきなり?

 

そうです。不思議な話です。

 

その当時(90年代初頭)はいまみたいにシンセとかたくさん持ってないでしょ?

 

何にもなかったと思う。何か借りて持ってたりもするけど、使い方が全くよくわからなくて。そのうちリズム・マシーンとかも買ったけど、つまんなくて全然使わなかったですね。

 

いつから機材が増え始めていったの?

 

メジャーから出して、お金が回るようになってからですね。その頃はまだ制作費が出てきましたからね。その時EMSシンセ買ったりとか、無茶なことやってましたよ、経費で。MPC3000とかSP1200とかも買いましたね。音楽は中身じゃなくて機材で勝負だ、みたいなところってありましたから、ジャーマンロック的な。ジャーマンロックをバカにするかのようなことになっちゃいましたけど。でも、あの機材が並んでる光景に憧れてましたよね。今はどうでもいいけど。邪魔でしかないし。

 

邪魔だと言いながらも、機材が暴力温泉芸者とヘア・スタイリスティックスの音楽を作ってきたのも事実だよね。アイディアやコンセプト勝負ではなく、サウンドへの偏愛があるというか。

 

そうですね、その頃から無意識とは言え一貫して、自分が作ってる感じって嫌いだったんですよね。機材が音出してる感じが好きなんですよ。才気走ったことが嫌いっていうのはありました。普通の音楽は好きだけど普通の音楽みたいにメロディ考たりとか、構成したりするってことが、自分は興味が無い、つまんないと思っちゃう。だから、ヒップホップに惹かれたんじゃないんですかね。機材が見えてくるようになって、TR-808だとかそういうの使ってるんだなって。

 

これ鳴らしてるだけか、みたいな?

 

鳴らしてるだけだって思うと面白いっていうのはあったんじゃないですかね。

 

 

95年に暴力温泉芸者として手掛けたスチャダラパーのリミックス「0718 アニソロ (暴力温泉芸者Remix)」は、ループを基調としたビートとコラージュで構成された諧謔性に溢れたリミックスだが、ビートはSchoolly Dあたりを彷彿させるオールドスクールのヒップホップの本質を伝えてもいた。それ以降も、暴力温泉芸者とヘア・スタイリスティックスの音楽には時折気が抜けたブレイクビーツや貧血気味の4つ打ちが出現し、ノイズ・ミュージックとDJカルチャーがその音楽の中で、奇妙な同居を始めていくことになる。

 

ビートを作ることはどうやって覚えたの?

 

20代の頭にリズム・マシーンを買って、基本的に打ち込み方はわかった。その後MPC買って、ビートの組み方もわかったから、あとはその発展ですよね、だいたい。発展でなんとかやってます。

 

だから、ノイズだけじゃないってことだよね。

 

でもやっぱり、ファンキーな感じとか出すのがすごい嫌だったりするんですよね。昔から一貫してるのは、「ああ何とかみたいなのが好きな人ね」とか言われるのがすごい嫌で、よくわかんないことにしようと考えてたのがあります。

 

でも一方で、リスナーとしては一貫して凄くいろいろなものを聴いているよね。

 

逆にいろいろ聴いちゃったってことの恥ずかしさってありますよ。なんか不安にさせるものはあるんですよね、いろんな音楽があるってことは、結局どんだけ聴いても偉そうには語れないし、現場の人じゃないんだから語れないってのもあるという。

 

知れば知るほど語れなくなっちゃうと。

 

そうそう、そういうのはありますね、いろいろ聴いてくと、なんか偉そうにできない。誰か1人って決めたらそこを聴き込んでいけば、語れるものもあったりするんでしょうけどね。

 

そうしたら、何かの専門家にはなれるかも。

 

そういうのはつまらないし、語れば語るほどなんか薄っぺらいひどいものになりますね、今の世の中。むしろ聴いたけど忘れたとか、聴かずにいたとか、そういう感覚は大切にしたい感じが僕はするんですよね。いろいろ聴いたことを忘れたっていう。

 

自分が作った音楽に関しては?

 

作ったときこれ最高とか思ったりする瞬間はありますよ、さすがに。けど、それもすぐ忘れるなぁ。

 

ヘア・スタイリスティックスの近作であるビート・アルバム『Dynamic Hate』の制作では、最初ストレートにビートを作ることが気恥ずかしいと言ってたよね。

 

まぁ全然できたんですけどね。あの程度のことだったらできたんですけど、なんか恥ずかしい。

 

それが、なぜ作っていいと変化したの?

 

何なんでしょうね。本当にわからないなぁ。でも、クラブで何かかっててもいいんだっていうムードが、ちょっと前とは変わってきた感じがあってそういうのもあるのかな。

 

それは、中原くんも自由にDJをするから?

 

いや、それは適当ですけど、例えば、Maft Saiのタイ・ファンクのものでも、かつては聴けばダサいものだったのが、普通にカッコいい感じ、栄える感じになった。まぁそれはそういう風にマスタリングで良くしてるのかもしれないけど。そういうこともちょっと関係あるかなぁ。前からDJは何かけてもいいとはヤン(富田)さんも言ってたことなんだけど、もうほんとうに何をかけてもいいんだっていう感じになった。

 

何でもかけていい、というのがお題目じゃなくて、現実にそうなってきたってことだよね。

 

なってきてるんですよね。ちょっとくだらないのかけたりとかしたら昔は顰蹙買ったりした。でもそれがもう全然普通なことになってる。ある意味、本当に、ちょっと前までは信じてなかったけど、クラブは自由なことになってるんだなって気がちょっとする、そういうことだったのかもしれないな。

 

小さなバーでもDJやるところが増えたのもあるよね。

 

そう、近所のbonoboによく行くようになったら、さらにどうでもいい感が大きくなってきた。本当にここアングラだなって思えるところはなかなかなかったですからね、今まで。やっぱり、いわゆる風俗の一つでしかない感じがしたクラブ空間が、ああいうとこまで行ったら何でもいいっていうか、その何でもなさってのを、やっと信じられるようになったんじゃないですかね。

 

それが自分の音作りにも?

 

ちょっとは反映してるかもね。

 

 

暴力温泉芸者として活発に活動を続けていた98年に、中原昌也は『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』で小説家としてデビューを飾る。2001年には『あらゆる場所に花束が……』で第14回三島由紀夫賞を受賞するなど、小説家として、また映画評論家としても、文筆の仕事が増えていく。中原本人になぜ小説を書き始めたのか、実はこれまで面と向かって尋ねたことはなかった。ノイズ・アーティストであり、サンプリング&コラージュ・アーティストでもあった彼は、突然、文壇デビューを果たして、小説家となっていた。思えば、90年代の音楽バブルが終焉を迎えそうな時期に(少なくとも業界の内部では綻びが始まっていた時期に)、しかし、まだこのバブルは続くと多くの音楽関係者が思い込もうとしていた時期に、彼は冷静に状況を見つめて、違うアウトプットを準備していたのかもしれない。周到な用意などもちろんするわけではなく、その鋭い直観のみによって。

 

小説を書き始めたきっかけは?

 

いやまぁ、楽かなぁって思ったんですけど、最初。

 

映画批評をやってて小説も書き始めてもいいと思ったの?

 

そうですね。映画批評みたいなのが僕のは印象批評で、細かい規定とかどうでもいいと思ってたんだけど、だんだん時代がもうそういう感じじゃなくなって、やっぱりどうしても批評的な厳密さとかデータ的な厳密さの方になってきるってのもあって、やりづらいなぁって。小説だったらデタラメでいいんじゃないかと思って、小説に移ったようなものなんですけど、でもそこまで甘くなかったっていうことなんですよね、結局。

 

映画批評の話は、なんか音楽批評と一緒だね。

 

音楽と一緒ですよ。どうしたらそういうようなことから遠ざかるものが作れるかなぁっていつも考えますよね。それは別に万人ウケで大箱でかかる音楽とかは出来なくても。そうじゃなく、アンダーグラウンドなものでも、批評的なものってできるんじゃないかななんて。

 

書くのが嫌だってずっと言ってて、でも音楽を作るのは楽しいって言ってたよね?

 

まぁそうですけどね。今はちょっと逆転現象が起こってますけどね。

 

書くほうがいい?

 

いいっていうか、好きじゃないんだけど、やっぱ好きじゃないっていうことを超越しないとこの先がないなと思ったんですよね。好きとか嫌いとかでやってちゃダメなんだって。好きでやってないってことがもっと重要だってのをすごく言いたいですけど、逆に。

 

音楽でも、好きでやってるとは言えない。

 

人はいいですよ、好きでやってて。でも僕は別に好きでやってるとかそういうことは嫌だなって思うだけで。

 

でも、その気持ちが表現の原動力になってるよね。

 

まぁそうですよね。難しいですね。やりたいことやれればいいっていうもんじゃないですからね。僕の中で、信条としては、やりたいとかやりたくないっていうところの外に行かなきゃいけないと思ってるから。でも世の中は逆ですよね。

 

やりたいことをやるのが正しいっていう世の中だからね。

 

最初からそうなのかもしれないけど、そういう趣味に付き合わされるっていうんじゃなくて。

 

自分のやりたいことを実現するという話になると、趣味で続けてるのが一番良いことにもなる。

 

そういうことになっちゃいますからね、金もらわなくてもいいみたいな。見てて耐えられないですよ、そういうの。

 

世の中の流れは、普通に仕事をしてて、趣味でやってることの方がその人の生き甲斐で、というのがもうはっきりしてるのかも。

 

そんなこと言ったら俺も命がけでやってるぜとか趣味の人も言うかもしれないけど、生きていくことと寄り添ったような表現っていうのはないっていうことなんですよね。そういうことを感じない、感じるっていうことは旧時代のものと言われちゃったらそれまでかもしれないけど、そこに寂しさがあるんですよね。

 

レコードでもいいし、機材でもいいけど、ものすごいものを収集しているんだけど、それがその人の生きてることと、確かに結びついてないっていうものがあるよね。

 

そうなんですよ。僕がだから、いろんな昔の機材でやろうとか、そういうことに興味がなくなったのも、それなんですよ。確かにヴィンテージのものは、それをコピーしたものよりやっぱ音も良いし本物って感じがするんだけど、今のこの時代のこの空気の中で音出てる以上、それは偽物だと思うんですよね、不自然なものだと思ってる。で、そういうことにすごい興味なくしたんですよ。

 

それでパソコンで音作ろうとなったと。

 

それでバッて変わったんですよね。で、それがつまらないっていう人がいるのもわかるんですけど。

 

ヴィンテージの音と、パソコンでシミュレートした音と並べて聴いたら、それはヴィンテージのほうが良いものね。

 

それは良いに決まってます。

 

でも、そういう問題じゃない。それと作り手の人の納得の仕方のところもあるし、難しいよね、伝えることが。

 

いや、そりゃお金あったらまたヴィンテージの機材を買うかもしれないけど、なんかあれでやる自由って全部嘘っぱちな気がして。今の僕は全然それを欲しいと思わない。

 

 

歌謡曲とYMOが、日本の80年代の音楽文化を形成したのは事実である。マニアックでプロフェッショナルでもあった音楽の担い手たちがポップなフィールドに打って出て、J-POP以前の歌謡曲の世界にも浸食し、お茶の間を席巻し、街角から“ライディーン”のメロディが日常的に聞こえてきた時代。しかし、少なくとも、中原昌也は同時代を生きながら、そこにコミットせず、影響も受けることなく活動を続け、いまに至っている。実は、そこにあった80年代の日本の音楽文化との乖離を指摘する者は少ない。特に海外に日本の文化が紹介される際に、80年代は十把一絡げにYMOと歌謡曲とアニメ/マンガの時代とされることが多いようだが、そことは違うストーリーを書いてきた者たちは確実にいる。それは、暴力温泉芸者のようなノイズ・ミュージックだけではなく、初期の日本のテクノ(≠テクノ・ポップ)やヒップホップにもあったストーリーだ。

 

小説の世界で、下の世代とは繋がりはある?

 

多少はあるけど、いやでも、やっぱり自分とは合わないっていっつも思いますけどね。まだ音楽の人たちのほうが、自分の勝手な思いだけど、全然繋がれるものはある。

 

若い書き手で繋がれる人はいないの?

 

いないですね。もう小説に関わろうっていう時点でもダサくて話にならない。いやそれは僕なんかよりも一杯本を読んでて、頭の良い人はたくさんいるんだろうけど、全然わからないなぁ。そういう人たちってたぶん、映画とか音楽よりもマンガのほうが好きなんじゃないかなぁと思うことがある。マンガを下に見るって意味じゃないけど、自分とは合わないなぁと、そこから始まっちゃってると自分にはもうわからないセンスだなと。

 

でもそれは、海外も一緒かも。マンガやアニメからの影響を口にする人は多いから。

 

勝手になるほどとか思っちゃうんですよね。決してばかにするつもりはないけど、自分には全然わからないんですよね、そうなっちゃうと。これでも一応勉強するようになったんですよ、マンガとかアニメとか。いやアニメに関してはちゃんと世界レベルのものへの意識がすごい高いんだなぁとは思うけど。

 

マンガの影響が根底にあるか否かって、世代なのかな?

 

いや世代じゃないと思うなぁ。姉貴がマンガ読んでたから一通りのマンガは見てますけど、全然好きじゃなかったし、のめり込めないっていうか。でもそれは、日本的な何か、体育会的な何か、土着的な何かがやっぱり刷り込まれてる、そういうものが強い感じがするんですよね。みんなが好きなマンガって。あと、実は僕80年代に思い入れがないんですよ。

 

80年代の音楽?

 

80年代の日本の文化全般に全然興味がない。そこが僕、ごっそり抜け落ちてるんだよなぁ。そもそも致命的なのはYMOに思い入れがないっていうのがデカい。こういうこと言ったらちょっと問題があるけど。もちろん、リアルタイムで一通り聴いてますよ。

 

YMOの音楽はテレビはもちろん、学校でも流れたからね。

 

そうですね。むしろそこから派生して違うものに興味がいったのはありますね。クラフトワークにもそんなに思い入れないけど、でもディーヴォにはあったりとか。まぁ難しいとこですね、外国の人にはわかってもらえないんだろうな。小説も1回アメリカの文芸誌で紹介された時に……。

 

英訳されたの?

 

英訳を1回だけされた時に、向こうの人が、この小説がマンガとかのカルチャーに影響されてるって書いて本当とんでもねぇなって。

 

そういう風に受け止められるんだ。

 

すごいそれが嫌で、その後英訳の話は全部断ってたもん。他の国からもいくつかあったけど全部断ってた。

 

80年代を通過した人が、マンガやアニメの影響をみんな受けてるって思われるのはちょっと心外だと。

 

それは嫌だなぁって思って。そうじゃない人がいるっていうのは伝わらないみたいですね。

 

その80年代の東京が一括りで語れないように、いまの東京もまた違うでしょ?

 

違いますよね。東京に生まれ育った若い子と接点がないんだけど、でもやっぱり自分以上に虚しさとか、生きてるばかばかしさとかを味わってほしい気持ちはありますけどね。別に上から目線じゃないですけど。それじゃないとやってけないですよ、こんなばかばかしい世界。本当に。早いうちに気づかないと。

 

じゃないと、精神的にダメージ受けたりとか、見透かされたりとかしちゃうと。

 

しますよ。そう、そうなんですよね。いまは、何にせよロマンはないですよね。ロマンが欲しいですね。

 

でも中原くんが音楽を続けていること自体がロマンだから。

 

だといいですけどね。

 

中原くんみたいな人が音楽やってることがね。

 

そういうことになればいいですね。

 

音楽って所詮そういうもんじゃん、みたいなところもあるでしょ?

 

そうなのかなぁ。ほら前衛芸術家がよくわかんない音源を最近になってレコード化するとかさ、ああいうのは良いですよね、憧れますよね。そんなことやってたんだみたいな。とち狂ったこと。その程度のことで良いんですけどね。