一月 20

インタビュー:清水靖晃

日本を代表するサキソフォンプレイヤー・作曲家がかつて率いたバンドMariahの名盤『うたかたの日々』と当時の日本のシーンについて振り返った

By Anthony Obst

 

日本語の「うたかた」という言葉の語源は “水面に浮かぶ泡沫” であり、一時的、または束の間の出来事を説明する時に使われる。日本のバンド、Mariahが1983年にリリースしたアルバム『うたかたの日々』はおおまかに説明すれば「束の間の時間」であり、「その場限り」とも言えるだろう。バンドのラストアルバムとなったこの作品は、清水靖晃とバンドメンバーによって生み出された才能の爆発のその一瞬を捉えており、ジャンル分けが不可能なごった煮とも言えるサウンドに仕上がっている。

 

Mariahが結成された1970年代後半当時の彼らのサウンドは人気だったジャズフュージョンとシンセポップの影響が大きかったが、『うたかたの日々』はもはやジャンルが存在しない素晴らしい夢の世界への扉を開けているように聴こえる。日本語とアルメニア語で歌われているこのレコードは、東アジアと中東の調性、フォークロア的なメロディ、人工的なフューチャリズム、瞑想的なアンビエント、ダンサブルなリズム、ヘタウマなニューウェーブ、ジャズの構成、楽しげなポップスが融合されている。このように多種多様な要素や影響が見受けられる『うたかたの日々』だが、驚くほど巧妙にまとめられており、忘れ去られた幸せの日々の記憶が無意識の中に浮かび上がってくるようなイメージが保たれている。

 

 

日本人のレコードコレクターの中で高い評価を得てきたこの『うたかたの日々』は、やがてOptimoやPrins Thomasなどのヨーロッパ出身のレコードディガーたちのレコードバッグやプレイリストに入るようになり、その評価は新しい世代の音楽ファンへも伝わることになった。リリースから32年後が経ち、最近Palto Flatsによって再発されたこの『うたかたの日々』に内在するメッセージは今も色褪せていない。このアルバムにはオープンでクリエイティブな音楽交流を伝えながら、世界各地の様々な音楽文化へのリスペクトと真摯な愛情が表現されている。

 

しかし、Mariahというバンド、そして彼らが残した作品群における背景は謎に包まれており、また、この衝撃的なアルバムについての情報もほとんど英訳されていなかったため、今回はこのバンドの功績に多少の光が当たることを願い、バンドリーダーの清水靖晃にメールインタビューを試みた。

 

 

清水靖晃(1983年)

 

 

Mariahが結成された経緯を教えてください。

 

最初に出会ったメンバーはドラマーの山木秀夫さんでした。まだお互い20代半ばでしたね。初めて出会ったのは大変有名な日本人ドラマーのお宅でした。その方がいかにして素晴らしいミュージシャンになるかという話を延々として下さったんですが、2人とも馬鹿らしいと思い、飽きてしまったんです。それで2人でバーに向かって朝を迎えるまで話し込み、一緒に何かやろうという約束をしてその日は別れました。その後、山木さんとは他のミュージシャンたちを集めたグループと一緒に全国を回って定期的に演奏するようになりました。

 

キーボードの笹路正徳くんとは東京のジャズクラブで出会いました。僕はそのクラブの後ろに立って彼の演奏を聴いていたんですが、演奏直後にバックステージへ向かい、素晴らしい演奏だったと本人に伝えました。そのあと、山木さんと笹路くんと僕の3人は、大事な何かを必死に探すかのような全力のセッションを重ねていったんです。

 

 

 

"僕たちは奇妙で素晴らしい世界に生きていました"

 

 

 

村川 Jimmy 聡くんと出会ったのも丁度その頃でした。ある晩、僕がクラブで色々話し込んでいると、突然彼がやってきて「清水さん、話があるんです」と言ってきたんですね。彼は熱っぽい九州男児だったのが凄く印象的でしたが、同時にこれまで出会ったことのないようなユルさがあって、そこが面白いと思いました。彼はその後、僕たちのバンドにおけるメインの作詞家として活動し、『うたかたの日々』以外のMariahのすべてのアルバムでヴォーカリストとして参加することになりました。

 

ベーシストの渡辺モリオくんとギタリストの土方隆行くんは、僕と笹路くんが参加していた別のバンドのドラマーと一緒にバンドを組んで活動していたんです。そのドラマーが僕たちをゲストとしてライブに呼んでくれたことがきっかけで出会いました。土方くんは非常におとなしい性格の人物ですが、ギターを持たせるとその性格とは正反対の強烈な演奏をしていました。渡辺さんはクールかつミステリアスな人物で、彼が話す言葉は、深い森の中にある時空の亀裂から寿司が飛び出してくるような感じでした。毎日のように5人で一緒に行動していたので、僕がバンドを結成しようと持ちかけたのです。

 

以上がMariahの中核メンバーですが、『うたかたの日々』についてはもうひとり重要な人物がいます。生田朗くんです。彼は共同プロデューサーのような立場でした。ジャズセッションの演奏やコーディネートをしながら、関連業務のマネージメントも担当していた彼は僕の親友のひとりだったので、『うたかたの日々』に是非参加して欲しいと説得したんです。

 

僕たちが過ごした時間は文字通り『うたかたの日々』でした。当時の僕たちの会話を耳にした人は、僕たちが何を話していたのか分からなかったと思います。僕たちは奇妙で素晴らしい世界に生きていました。

 

Mariah(1981年)

 

 

当時、Mariahを聴いたジャズフュージョンファンは期待していたサウンドではなかったため失望したと言われていますが、それは本当ですか? もう少し詳しく説明してもらえますか?

 

僕は幼い頃から限界まで突き詰めたサウンドに取り憑かれていました。僕は1954年生まれですが、物心がついた頃に自分の周りには日本以外の様々な国や文化が生み出した音楽があるということに気が付いたんです。西洋のクラシック、ロック、ジャズ、シャンソン、カンツォーネ、フラメンコ、ハワイアンなど、日本は常に海外の文化を取り入れようとしてきました。そしてその結果、様々なジャンルの音楽が僕たちの日々の生活に浸透していったんですね。

 

僕がジャズシーンに関わっていたのは、1970年代中頃から1980年代初頭までの短期間でした。当時は様々なミュージシャンと演奏し、音楽に完全にのめり込んでいましたね。僕は様々な方向から音楽を探究したいと考えていたのですが、それが “Mariahサウンド” になったんだと思います。そういう意味では、他人が理解するのは難しいのかも知れませんね。

 

仰った通り、Mariahの当時の音楽シーンにおける位置づけはどっちつかずで、それが気に入らないという人たちがいました。Mariahのアルバムはレコード店ではジャズコーナーに置かれていたので、そこで僕たちのアルバムを買った人たちは「これはジャズじゃない」と言っていましたし、一方、ラジオでMariahを聴いてレコード店に買いに行った人たちは、アルバムが置かれているコーナーが分からなかったのです。

 

 

Mariahのサウンドに影響を与えた国内・海外のアーティストを教えてください。

 

『うたかたの日々』がリリースされた1983年頃は、国内における世界の音楽の流通が多少変わっていった時代でした。先ほども言いましたが、日本には昔から様々な音楽ジャンルが存在していました。ですが、その多くは西洋のフィルターを通したものでした。僕のような人たちは今まで聴いたことがないような音楽を聴くことに取り憑かれていましたし、情報や音源を手に入れるためにはあらゆる策を講じていましたが、一般社会の興味は非常に小さかったと思います。ですので、The Drummers Of Burundiのようなアフリカの音楽などを手に入れるのは非常に難しかったんです。ですが、1970年代後半から東京に小さなレコード店が数多く開店するようになり、世界各地の音楽が比較的簡単に手に入るようになりました。

 

やがて、日本のポップミュージックの方向性も変わっていきました。よりビートを強調した音楽が好まれるようになっていったんです。そしてYMOがデビューしました。彼らはテクノミュージックの広告塔だったので、クールで無機質なイメージを打ち出していましたが、リズムは熱く強烈でした。世間はビートが生み出す心地よいグルーヴにはまり、そこに身を任せて、まるで取り憑かれたかのようにダンスしていました。

 

当時の僕はアフリカや東南アジアの音楽に強く惹かれていましたが、それをそのまま真似ようとは思っていませんでした。自分の音楽表現を広げる手段として考えていたんです。そういう意味では、ニューウェーブやパンクにも大いに刺激を受けましたね。彼らのアティテュードに共感したんです。当時の僕は色々な音楽を聴いていましたが、中でも一番良く聴いていたのがThe Flying Lizardsでした。後日、David Cunnighamに出会う機会に恵まれ、それ以降、様々な音楽を共作してきました。

 

 

The Flying Lizardsの音楽のどこに惹かれたのでしょうか? 日本とUKのニューウェーブとパンクシーンの間に相互作用があったのでしょうか?

 

The Flying Lizardsの音楽に惹かれた理由は、彼らの絶えず変化し続ける姿勢や、捻れ、混乱でした。僕は子供の頃、何回か熱に浮かされて幻覚を見たことがあったのですが、その時に見た幻覚と同じものが彼らの音楽から感じられたのです。アルバム『Fourth Wall』には衝撃を受けましたね。このアルバムは今でも良く聴いていますよ。“相互作用” という言葉は良い表現だと思います。当時の日本でもニューウェーブバンドが数多く誕生しましたからね。音楽はもちろん、アートや他のジャンルにおいても “ヘタウマ” が盛り上がっていました。

 

『うたかたの日々』ではアルメニア語が用いられていますが、その理由は?

 

東京は様々な国籍を持つ人たちが複雑な関係を築きながら生活している都市です。僕は東京に住む外国人の方々と数多くの交流を持ってきましたが、幸運なことに、その中で素晴らしい人たちに出会うことができました。1980年代初頭は様々な人たちとの実験を重ねていましたが、『うたかたの日々』に関して言えば、Julie FowellのヴォーカルとSeta Evanianの歌詞が僕の感性にぴったりはまったということなんだと思います。2人とも近しい友人です。Seta Evanianはアルメニア人のアーティストで、渡辺モリオくんの妻でした。また、アルメニア語で「心臓の扉」などを歌っているJulie Fowellも、ヴィジュアルアーティストでした。プロのシンガーではありません。

 

Julie Fowell(1983年)

 

2人は毎日スタジオに来ていて、僕たちの音楽を聴いてから小さな暗い部屋に閉じこもると、断片的な詩を仕上げてくれました。それがアルメニア語だったんです! 僕はアルメニア語の響きに衝撃を受けました。彼女たちと共同作業している時に感じた閃きを憶えています。そよ風が自分の頬をなでるような感覚でした。

 

 

『うたかたの日々』のアートワークについて教えてください。このアートワークを担当した人物は? また、何を意味しているのでしょう?

 

このアートワークは気に入っていますね。奥平イラくんの作品です。彼はイラストレーターであり、漫画家でもあり、趣味で音楽もやっている僕の友人です。彼はMariahの事務所を拠点にしていました。奥平くんと、生田くん、そして僕たちは毎晩遅くに事務所に集まっては、ナンセンスなことを語り合っていました。全員が当時世に出たばかりのワープロにはまっていて、「小説だ!」なんて言いながら順番に好きなことを書いたりもしていました。どういうわけか、全員とも馬鹿げたことをするのが好きだったんですね。もちろん、奥平くんのアートワークはこのアルバムのための描き下ろしですが、彼が当時手がけていた作品の延長上にあるものだと思います。当時のMariahの事務所は小さな音楽会社のようでした。『うたかたの日々』はその小さな音楽会社から生まれた作品です。有り難いことにメジャーレーベルの日本コロンビアが制作費を負担してくれた上に、好きなことをやらせてくれる自由も与えてくれました。

 

 

 

"『うたかたの日々』は、風に舞って川面に落ち、そのまま流れていく花弁が描いた軌跡のようなひと筋の音楽でした"

 

 

 

Mariah、あるいはその小さな音楽会社が解散した理由は何だったのでしょう?

 

Mariahが4枚目のアルバム『Red Party』をレコーディングした後から、メンバーの音楽の方向性が変わってきたんだと思います。僕が『うたかたの日々』は活き活きとした、豊かなサウンドにしたいというアイディアを伝えた時、渡辺モリオくんと山木秀夫さん以外の他のメンバーは反対の意見を持っていましたし、むしろそのサウンドを嫌っていたと思います。

 

山木秀夫、Julie Fowell、渡辺モリオ(1984年)

 

 

Mariah名義では計5枚のアルバムをリリースしていますが、『うたかたの日々』のインパクトは突出しているように思えます。このアルバムがカルト的人気を誇っている理由はどこにあると思いますか?

 

Mariahは『うたかたの日々』のリリースから数年後に解散しましたし、ラストアルバムという意味で特別な意味があったと思います。他のバンドと同様、Mariahも民主主義を導入していました。作曲でも演奏でも、メンバーそれぞれの才能を最大限まで引き出しつつ、全員がやりたいことをひとつにまとめていくというスタイルでした。ですが、『うたかたの日々』の頃には、メンバー全員が個々の活動に向かうステージに到達していました。僕のケースで言えば、それまでに集めてきた様々な断片が突如としてひとつにまとまり始めたんです。頭の中の電球が消え、ひとつの作品を作りたいという欲求が生まれました。それが結果的に『うたかたの日々』になりました。あとになってから、レコーディングスタジオで何百時間過ごした経験がこのアルバムを生み出す礎になっていたのだということに気付きました。

 

また、このアルバムがカルト的人気を誇る理由についてですが、風に舞って川面に落ち、そのまま流れていく花弁が描く軌跡のようなひと筋の音楽になっているからではないかと思います。