八月 22

インタビュー: Lubomyr Melnyk

「コンティニュアス・ミュージック」(Continuous Music)への誘い:ウクライナ出身のピアニスト/作曲家が、自身の追求する高速で多層な音楽を解説する。

By Julian Brimmers

大半の人にとって、ピアノのような複雑な楽器を極めるまでは一生がかかる。しかし、作曲家Lubomyr Melnyk(ルボミール・メルニク)はピアノ音楽における完全に新しい言語と言える新たなテクニックとスタイルを開発し、その更に先を行っている。史上最速のピアニストのひとりと称されることが多いMelnykが生み出した「コンティニュアス・ミュージック」(または「持続奏法」)にはスピードだけではなく、深みとスキルも求められる。

ハンガリー人の両親の元、ミュンヘンで生まれたMelnykは幼少期をカナダ・ウィニペグで過ごし、その後オンタリオの大学に進学した。自称「ヒッピー系作曲家」であるMelnykは、その大学で哲学を修めた後、カナダを後にして自由奔放だった1970年代のパリへと移住。HaydnやTerry Rileyの作品をモダンダンスグループのために演奏しながら、自身のスタイルを確立させていった。最速で毎秒19音(片手)を叩き出す彼の卓越した奏法と、スピーディーな反復進行はサウンドタペストリーを編み出しながら、単純な音波を身体的体験に昇華させていく。その活動の多くがヴェールに包まれているLubomyr Melnikは、ここ最近になって新世代の音楽ファンによって再評価されており、その功績にふさわしいワールドツアーやErased TapesやHinterzimmerといったレーベルからの作品のリリースが行われている。

※以下のインタビューはRBMA Radioで行われたインタビューを編集したものです。


あなたはピアノを「人工的な楽器」と表現していましたが、何を人工的と捉えているのでしょうか?

他の楽器は自然に基づいているという事実からそう言っている。例えばヴァイオリンは、元々洞のある木に自然の糸を張ったもので、フルートやクラリネットも洞のある木にいくつか穴を開けたものだ。オルガンはある意味中間的な楽器で、チューブに空気を送り込むという意味ではどちらかというと巨大なフルートやクラリネットに近いが、人が組み立てないといけないという意味では人工的だ。そしてピアノだが、この形状は自然界には存在しない。ヴァイオリンやギター、フルートとは違う。ピアノあらゆる部分には人が手を加えている楽器で、人間が発明したものだ。奇跡の存在と言っても良いだろう。

ピアノに魅力を感じ始めたのはいつですか?

ピアノに対する情熱が生まれたのはそれなりに年齢を重ねてからだったが、音楽とピアノに対する純粋な興味は5歳位からあった。家にピアノがあり、母親が私の演奏を聴いて、レッスンを受けさせてくれた。そこからだ。

ですが、あなたは大学で音楽系ではなく哲学を専攻しました。

私は大学で音楽は一度も学ばなかった。演奏を通じて自分のテクニックを磨いていった。有名な音楽学校などでは学んだ経験がない。音楽学校で学ぶには、自分の楽器と先生に対して本当に情熱的になれなければいけない。自分の心と霊を注がなければならないが、私は自分がそうしている姿が想像できなかった。また、哲学は自分の音楽において非常に重要な要素だと考えている。

それは何故ですか?

哲学は自分の精神の地平線を広げてくれるからだ。コンティニュアス・ミュージックを学ぶ場合、自分の精神状態は通常よりも拡大していなければならない。狭い考え方では見えてこない、大きな何かが存在する。哲学には「超越」というコンセプトが内包されている。



あなたはかつて、自分はクラシック音楽を作曲している訳ではない、また現代においてクラシック音楽を作曲している人が存在するかどうかも分からないとし、またその理由として、クラシック音楽には現代社会においてもはや存在しない天才や精神が必要とされるからだと言っていました。

その通り。残念ながら、クラシック音楽を作曲できる人がもはや存在しないというのは事実だ。Sergei Prokofiev(セルゲイ・プロコフィエフ)で終わった。約60年前の話だ。彼以降60年間に渡り、この世界にはクラシック音楽の作曲家は存在していない。無名の誰かがいるのかも知れないし、地球上に全く存在しないと言っている訳ではないが、ノイジーでアグレッシヴな作曲家が台頭し、新しい音楽によってクラシック音楽の世界は乗っ取られてしまった。

私の音楽にはクラシック音楽的な響きや個性が感じられるが、私自身もクラシック音楽の作曲はできない。クラシック音楽はロック、ポップ、ジャズなどとは完全に異なる音楽で、クラシック音楽自体にルーツを持っている。私はどうあがいてもそこへ到達できないのが分かっているので、クラシック音楽を聴くたびに自分の魂が悲しみに覆われる。あの美しさは自分では手に入れることができない…。世間がこれを理解しているか分からない。私はクラシック音楽のファンの多くは、この音楽が何なのかさえも理解できていないと思っている。

Mozart(モーツァルト)やBeethoven(ベートーベン)、Bach(バッハ)を聴く時、私は彼らの音楽を聴いている訳ではない。私はそこにヴェルヴェットの次元を感じている。それが4次元目として表出してくる。これは音符同士が組み合わさって生まれるものだ。Chopin(ショパン)の曲で音符を入れ替えることはできない。Chopinはふたつの音符の組み合わせによって 巨大な宇宙への入り口を作っているのだ。しかし、私にそれはできないし、他に出来る人がいるのかも分からない。



あなたはコンティニュアス・ミュージックについて、HaydnとTerry Rileyを組み合わせようとした結果として生まれた音楽だと説明しています。その体験を初めてしたのはいつのことですか?

当時私はパリに住んでいた。あれは新たな生命が生まれるような感覚だった。非常に奥深いものだ。この音楽を生み出すには本当に多くの要素が必要だった。そのひとつが、パリのオペラ座で開催されていたCarolyn Carlsonのダンスの授業でピアノを弾いたことだった。彼女は「自然現象」と言うべき存在で、もはや人間を超越していた。彼女が歩けば、彼女の肉体と精神を通じて、その時空に変化が生まれた。

そのような雰囲気の中、私はピアノを演奏した。彼らには音楽が必要で、私は私で作曲がしたいと思っていた。モダンダンスでChopinを演奏することはない。それでは上手くいかない。毎日フレッシュな音楽を提供しなければならなかった。私はHaydnのことを最も純粋なクラシック作曲家だと感じていた。何故なら彼はクラシック音楽を最もシンプルな形に削ぎ落としたからだ。

MozartやBeethoven、Bachを聴く時、私は彼らの音楽を聴いている訳ではない。私はそこにヴェルヴェットの次元を感じている。またTerry Rileyの「In C」にも多大な影響を受けていた。当時のヒッピーは誰もがこの作品を聴いていた。理解してもらえるかは分からないが、もし私がヒッピーを経験していなければ、この音楽は生まれていなかったという訳だ。これも数多の要素のひとつだ。ヒッピー文学の大きな流れの中で、音楽と哲学はその中心に位置していた。これらについて書かれていた本が何冊も存在した。このカルチャーに生きる人たち全体が、カルチャー自体の視点作り、押し広げようとしていた。

Terry Rileyの「In C」が発表された時、世間は驚いた。この曲は私だけではなく、ヒッピーカルチャー全体に多大な影響を及ぼした。そして私はあの美しい静寂とあの持続性を超越した音楽を手に入れたいと思った。Terry Rileyが私にとっての初めての「コンティニュアス・ミュージック」だったからだ。あのすべてが自然に組み合わさった状態や純粋な何かを生み出したかった。この瞬間だけではなく、明日も、そして数年後も美しいと思える音楽を生み出したかった。



あなたはコンティニュアス・ミュージックの演奏を通じて自分の肉体を超越できると言っていましたが、この点についてもう少し詳しく説明してもらえますか?

確かに超越できるが、「超越」という言葉は適切ではない。超越というよりは、コンティニュアス・ミュージックを演奏しているピアニストの肉体は「変化」する。私たちは基本的に同じ肉体を持っているが、実はかなりの差がある。コンティニュアス・ミュージックのピアニストの肉体は、別次元、つまり音楽とピアノのサウンドによって生まれるエナジーによって変えられているので、他の人とは違う。肉体は非常に高速に、流動的に、柔軟に動くようになる。私の肉体は普通の人よりも速く動くことができる。これはピアノ演奏に限った話ではない。何においてもだ。肉体がこの美しい変化を経ることなくこの音楽を演奏することはできないという意味で、これはピアノが生む直接的な結果と言える。

それはピアノ演奏から得るトランス状態のようなものなのでしょうか?

君は今「トランス」と言ったが、トランスとは全く違う。トランスは関係ない。この状態をどう言葉で西欧社会に説明すれば分からない…。私は人間で、地球の上を歩く。食事や水分も摂らなければならない。そういう意味では普通の肉体だが、その内部は他人と違う。ピアノを演奏する時に変化する訳ではない。常日頃からその状態にある。自分の肉体がひとつの巨大なエナジーの塊のようになっており、美しく快適な状態になっている。この状態が永遠に続いていく。

息を吸い、ピアノの上に吐き出せば、ピアノが自分の代わりに歌ってくれる。これもBeethovenの代わりにコンティニュアス・ミュージックを演奏することで得られる喜びのひとつだ。Beethovenを演奏するのは喜びではない。Beethovenの作品は美しいが、演奏そのものは美しくない。これは不可避で、個人的には厄介だと感じている。私は演奏せずに彼の音楽の美しさを感じていたい。一方で、コンティニュアス・ミュージックは身体的な喜びを得るものだ。この喜びはどんな大金を積まれても譲れないものだ。体験すれば、この意味が分かるだろう。息を吸い、ピアノの上に吐き出せば、ピアノが自分の代わりに歌ってくれる – こんな感覚だ。端からは私がピアノに向かい、指を動かして演奏している姿に見えるだろうが、実際は何も起きていない。

何故神がこれを生み出し、私にこの音楽を見出させ、演奏させたのかは分からないが、誰にでも演奏可能に思える。私はそう思っている。ただ精神にちょっとした刺激を与えるだけだ。そこまで特殊なことではない。到達不可能なものではない。この音楽と、それに付随するテクニックについて語る際に一番厄介なのは、非常に奇妙で現実離れしているように思われてしまう点だ。



コンティニュアス・ミュージックを作曲する際、即興演奏はどの程度組み込まれているのでしょうか?

楽曲によりけりだ。即興演奏が全く含まれない楽曲もある。「Windmills」のような楽曲は即興演奏をするスペースがない。「即興演奏」という言葉に対し、世間は「楽器に向かい、頭に浮かんだものをただ演奏する」という狭義で考えているが、これはどの音楽家もできなければならない。これは音楽家になるため、そして楽器をマスターするための条件のひとつだ。

クラシック音楽では、即興演奏は存在しない。協奏曲の中には存在するが、クラシックの世界では誤解もされている。彼らは即興演奏が何かを理解していない、または理解することを恐れている。ピアノ協奏曲には即興演奏を行うべきスペースが用意されているのに、誰もやらない。

何が彼らを即興演奏から遠ざけているのでしょうか?

私の音楽が存在しない世界は想像できない。我慢できない。存在しなければならない。それは演奏者たちが兵隊のように正確に速く楽曲を演奏するように訓練されているからだ。彼らのミュージシャンシップはそこに集約されている。しかし、私の考えるミュージシャンシップはそれでは不十分だ。音楽家はそれより先に向かわなければならない。権威など存在しないが、彼らは即興演奏によって判断されることを怖がっている。Beethovenの「ピアノ協奏曲第3番ハ単調」を演奏するには、テーマに沿った長いカデンツァを弾かなければならない。このパートで即興演奏をしないのは間違いだ。即興演奏は教えることができないのに、音楽家を育て、楽器を演奏できるように育てなければならない − これが音楽教育の欠点だ。

私の書いた「Butterfly」のような楽曲には即興演奏が殆ど存在しないが、セカンドピアノはファーストピアノの周囲を自由に動き回ることが可能だ。よって、この楽曲は演奏する度に見事に違うバージョンになる。これがコンティニュアス・ミュージックの素晴らしいところだ。ピアニストがBeethovenやChopinを演奏する際、彼は常に同じ楽曲を繰り返すことになる。非常に美しい音楽だが、タッチやタイミングのちょっとしたニュアンスの差以外は全く同じというソナタを繰り返し演奏することに彼らが何故耐えられるのか私には理解できない。人生においては両方が重要だ。即興もできるようにならなければならない一方で、楽曲としての構造も持っていなければならない。



コンティニュアス・ミュージックは演奏するホールによっては演奏が難しくなると言っていましたが。

演奏する場所は確実に影響する。大きなコンサートホールは、ピアニストと聴衆の間に距離がある。これが問題だ。これは適切な距離とは言えない。昨晩のケルンの聴衆は非常に近く、床に座っていた。演奏家と聴衆の距離が非常に近く、全員がピアノの美しいサウンドを得られた。これは私にとっては非常に価値があることだ。しかし、大きなホールであっても、小さなホールであってもこの音楽を聴くことはできる。コンサートホールでクラシック音楽を非常に熱のこもった形で聴いた経験がある。それもケルンだった。最高に熱のこもった体験のひとつだった。だが何故ケルンがそこまで重要な場所なのか、その理由は分からない。

教会の存在でしょうか?

ピアノが自分の音楽を奏で、自分の肉体の動きを感じた時、他の惑星に到達したような感覚を得た。私には分からないが、ケルンは素晴らしい。確かに教会、そして鐘の存在は影響しているかも知れない。鐘は重要だ。教会の鐘がない街は死んでいるのも同然だ。今ここでも聴こえるので、ケルンは生きている。とにかくコンサートホールに話を戻そう。私の音楽はChopinやBeethovenのようなクオリティではない。私の音楽には近い距離感が必要で、彼らの音楽とは違う要素が存在する。Chopinのクオリティではないと言ったのは、私は彼と向かい合うのさえも恥ずかしいと思っているからだ。しかし、自分の音楽の存在は非常に重要だと考えている。

私の音楽が存在しない世界は想像できない。我慢できない。存在しなければならない。必ずだ。何故ならこの音楽は今まで誰にも知られなかったピアノの生命であり声だからだ。言ってしまえば、他のピアノ協奏曲はアコーディオンでも再現できる。別にピアノでなくても構わない。しかし、コンティニュアス・ミュージックはピアノでしか存在できない。生演奏でのみ存在する。録音では存在できない。これは私にとって大きな悩みの種だ。日々の恐怖だ。この音楽を再現できるピアニストが私しかいないということを考えると気が滅入る。馬鹿げている。私が消えた後、この音楽は生き残れるかというと、生き残れない。

自分の音楽を誰かに教えようとしていますか?

教えるのは特に問題ではない。長年取り組み続けている。シンプルな内容からスタートして、生徒たちを育てている。しかし、今はどの生徒も忙しい。ピアノは片手間にやるようなもの、いわば趣味になっている。それはそれで良いが、上達したいのであれば、食事をする余裕はない。コンティニュアス・ミュージックと共に生き、その中で呼吸をしなければならない。

私がコンティニュアス・ミュージックを始めた時は、この音楽が一番大切だった。食事をする必要すらなかった。実際は貧乏だったので、食べられなかった訳だが、とにかく、この音楽が一番大切だった。他には何もいらなかった。ピアノが自分の音楽を奏で、自分の肉体の動きを感じた時、他の惑星に到達したような感覚を得た。コンティニュアス・ミュージックを演奏する時の身体的、精神的、そして感情的な喜びは地球上のどのピアニストも理解できないだろう。魂が飛翔するような感覚だ。