五月 12

インタビュー:Lee Ranaldo

Sonic Youthのギタリストとして活躍したマルチアーティストが幼少期とかつてのニューヨークについて語った。

By Arno Raffeiner

 

ミュージシャン、作曲家、ヴィジュアルアーティスト、作家、プロデューサーとして活躍するLee Ranaldoはアンダーグランドロックシーンの重鎮として世界的な人気を誇ったバンド、Sonic Youthのメンバーとしての活動が最も良く知られている。ニューヨーク州ロングアイランドで育ったRanaldoはサイケロックと初期パンクに影響を受けたあと、1970年代後半から1980年代初期にかけてニューヨークで萌芽したアヴァンギャルドとノー・ウェーブにのめり込んで行く。その後、Glenn Brancaのギターオーケストラを含む複数のバンドやグループでの演奏を経て、Thurston Moore、Kim Gordonと共にSonic Youthを結成。30年に渡って活動したこのバンドにおけるRanaldoの貢献は見過ごされる時も多いが、その影響力は非常に大きく、豊かなテクスチャが特徴のそのサウンドは自由に動きまわるMooreとGordonのヒプノティックなサウンドのバランス役として機能していた。

 

長年に渡りSonic Youthの活動を最優先してきたRanaldoだが、1987年のソロデビューアルバム『From Here to Infinity』以降、ソロ作品を定期的にリリースしている他、Christian Marclay、Alan Licht、Jim O’Rourke、Nels Cline、William Hooker、そして妻のLeah Singerなど数多くのアーティストとのコラボレーションも積極的にこなしている。これらの作品の多くは基本的にはエクスペリメンタルだが、2011年のSonic Youth解散後は、2012年の『Between the Times and the Tides』、2013年のLee Ranaldo and the Dust名義の『Last Night on Earth』など、以前よりもポップに寄った作品をリリースしている。また、ミュージシャンとしての活動以外にも、複数のバンドのプロデュース、複数の本の執筆、そして世界各地のギャラリーや美術館でのヴィジュアルアートのエキシビションなど、その活動は多岐に渡る。

 

RBMA Radioで放送されたインタビューからの抜粋となる今回の記事は、Ranaldoが幼少期や1970年代後半から1980年代前半にかけてのニューヨーク、Sonic Youthの初期ヨーロッパツアーの様子などを振り返っている。

 

幼少期

 

僕はニューヨークのロングアイランド出身だ。1950年代から1960年代の典型的な郊外の中産階級の家庭に育った。

 

母はピアニストだったので、小さな頃から家の中は音楽で溢れていた。『エド・サリバン・ショー』(米国の音楽テレビ番組)でThe Beatlesを見たのを憶えているよ。また、父がThe Beatlesの初期の作品をよく買って帰ってきていた。米国デビュー当時の頃の作品をね。キッチンのラジオからはいつも音楽が流れていたし、僕も小さな頃からレコードプレイヤーと45回転のシングルを持っていた。

 

ギターを真剣に始めたのは13歳くらいの頃だった。ティーンの頃に、近所の友だちと一緒に演奏を始めたんだ。コンボだったり、バンドだったりね。高校時代には数多く演奏をこなした。

 

The Beatlesをはじめ、The Kinks、The Who、The Rolling Stonesなどのブリティッシュ・インベイジョンに影響を受けていた僕にとって、音楽はかなり大きな存在だった。やがて1960年代後半になると、サンフランシスコのサイケシーンから音楽が届くようになり、The Grateful Dead、Jefferson Airplane、Quicksilverなどが僕にとって大事なバンドになった。彼らの音楽は、ラジオで聴いていたロックンロールにジャズのような即興性を加えたものに思えた。決まりがないフリーフォームで、ジャムセッションの要素が感じられた。それがとても面白いと感じていた。

 

1970年代中頃、僕は大学へ進学した。当時の僕は音楽を仕事にすることは一切考えていなかったし、他人事に感じていた。僕は優秀な学生で、科学や数学の世界のキャリアを積むための勉強をしていたが、自分の将来がどのようなものになるのか、僕には良く分かっていなかった。

 

 

 

“かつてのニューヨークではみんなが音楽とアートについて話し合い、成功を収めている人がまだ誰もいなかったそのふたつの世界でラディカルな活動をしようとしていた。全員が新しい何かを目指していた”

 

 

 

大学時代はヴィジュアルアートに興味を持っていた。昔から興味を持っていたんだが、大人になってからも続けるようなものだとは思っていなかった。だが、大学に入ると、僕の周りで自分たちがやっていることに満足している人たち、要するに教科書を読みまくって、テストに備えてガリ勉するようなタイプじゃない人たちは、アート系を学んでいる友人だった。そんな彼らの姿を見て、自分の中のヴィジュアルアートに対する気持ちが再び盛り上がっていった。

 

僕はニューヨーク州立大学ビンガムトン校に通っていたんだが、途中で芸術学部に転部した。この転部で完全に新しい世界が開けて、ヴィジュアルアートを職業にしようという気持ちを持てるようになった。ヴィジュアルアートの道へ進んだのは良い判断だったと思う。沢山の可能性を授けてくれたし、この日々は自分の人生で非常に重要な時期になった。

 

パンク、ノーウェーブ、ニューヨーク

 

大学の後半、1976年から1978年にかけては、ニューヨークとUKでパンクが流行していた。すごいパワーだったし、その流れも速かった。ほぼアマチュアと呼べるような人たちが起こしたムーブメントで、Eric Claptonのような器用なミュージシャンはいなかった。それで僕はまた音楽を真剣に演奏するようになった。

 

当時は、UK産のSex PistolsやThe Clashなどをよく聴いていたが、ニューヨーク産のPatti Smith、Television、Richard Hell and the Voidoids、あとはBrian Enoがまとめた『No New York』に参加していたTeenage Jesus and the Jerks、The Contortions、DNA、Marsをはじめとするノーウェーブ系はもっと真剣に聴いていた。僕がニューヨークに出向くようになった頃に市内のライブハウスで演奏していたのが彼らだった。最初は週末だけ遊びに行っていたが、住み始めたあとは、まだ手つかずの様々なバンドをすべてチェックして回った。ノーウェーブ系のバンドはすべて短命に終わったが、消えていく前の彼らを聴くことができたのはラッキーだったし、彼らからは大きな影響を受けた。

 

 

アートの世界が一気に花開いていったのがこの頃だった。ニューヨークはアートの中心だったし、本当に面白いことが色々と起きていた。Robert LongoやCindy ShermanのようなMetro Pictures系のアーティストが台頭してきたのもこの頃だった。

 

ニューヨークへ移住した頃はすごく面白い時代だった。アートと音楽の世界が色々な形で混ざっていた。ニューヨークには多種多様な活動をしている若者たちが集まっていて、Glenn BrancaやArto Lindsayのような演劇を目指していて音楽に辿り着いたような人たちがいれば、Robert Longoのようにバンド活動をしにニューヨークへ来たのにアートの世界で成功を収めるような人たちもいた。

 

夜に外を出歩けば、バンド活動をしながら映画製作をしていたJim Jarmuschや、バンド活動をしながら俳優を目指していたVincent Galloがいたし、Jean-Michel Basquiatもいた。シーンに関わっていた全員に会うことができた。みんなが音楽とアートについて話し合い、成功を収めている人がまだ誰もいなかったそのふたつの世界でラディカルな活動をしようとしていた。全員が新しい何かを目指していたんだ。みんなが有名になり、それぞれの道へ進んでいく前だったこの頃のニューヨークはとても刺激的だった。

 

 

 

初期Sonic Youth

 

ニューヨークへは2人の友人と一緒に移り住んだ。ひとりは楽器制作者で、もうひとりは映画を学ぶ学生。僕は絵画と版画をやっていた。ニューヨークへ移ったあとにその3人でバンドを結成して、CBGBや閉店直前のMax’s Kansas Cityで数回演奏した。

 

そのバンドはFluxという名前で、僕たちなりの音楽を追究していたが、Kim GordonとThurston Mooreに出会った頃に解散した。そのあとで2人と組んでSonic Youthをスタートさせた。

 

当時はマンハッタンのシーンの情報を集められるインターネットや音楽情報誌はなく、リリースするレーベルもないに等しかった。それでGlenn BrancaがNeutral Recordsを立ち上げたんだ。彼はアートシーンに関わっていたギャラリー経営者で、ミニマリストの有名な画家を母に持っていたJosh Baerという人物から資金を獲得してレーベルをスタートさせた。Sonic Youthの最初期の演奏を見たのが彼だった。

 

その頃のSonic Youthは僕とKim、Thurstonの3人だけで、ドラマーは6ヶ月から8ヶ月ほどいなかった。アートギャラリーで数多くのギグをこなしたよ。ドラムスティックでギターを鳴らしたりしながら、初期の楽曲を演奏していた。

 

 

 

“僕たちは自分たちの音楽がどれだけ変わっているのかに気付いていなかった。観客はみんなビックリしていた”

 

 

 

それから一時的にRichard Edsonがドラマーとして加わったが、彼はのちにJim Jarmuschの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』に出演して、ミュージシャンから俳優へと転身した。Glennはドラマーが加わったあとの僕たちの初めてのギグを見て、自分のレーベルのファーストリリースにしたいと頼んできた。それが僕たちにとって初めてレコードを制作して、世に広めるチャンスになった。ディストリビューションは小規模だったが、それでも全米に知られるようになっていった。

 

Glenn Brancaとはバンド活動も共にした。Thurstonも一緒だった。1983年頃になると、Glennと僕たちはヨーロッパツアーに出るようになっていて、Sonic Youthもセカンドアルバム『Confusion Is Sex』をリリースしていた。僕たちはGlennと回ったツアー先で積極的にコネクションを作って、同じ年にSonic Youthとして戻って演奏した。だから、Sonic Youthは他のニューヨークのバンドよりも2~3年早くヨーロッパを回ることができた。自分たちで現地のプロモーターたちと話をできていたのがアドバンテージになった。

 

 

 

Glennとのツアーが終わると、Thurstonと僕はそのままヨーロッパに残り、Kimと2人目のドラマーのBob Bertが追いかけてきて、初めてのヨーロッパツアーをしたんだ。当時の僕たちの音楽は、ニューヨークで受けてきた刺激をそのまま吐き出していた。DNA、The Contortions、The Lounge Lizards、Teenage Jesus and the Jerksなどはすごくラディカルで奇妙な音楽をニューヨークから生み出していて、僕たちはそういうバンドから影響を受けていた。ミュージシャンだろうとアーティストだろうと、みんなが限界にチャレンジしていた。当時のニューヨークはそれが当たり前だった。

 

だから、僕たちは自分たちの音楽がどれだけ変わっているのかに気付いていなかった。観客はみんなビックリしていたよ。彼らにとっては初めて聴く音楽だった。特に僕たちのギターは変則チューニングだったし、ドラムスティックやスクリュードライバーも使っていたからね。

 

初期ヨーロッパツアーは観客の度肝を抜くことになった。彼らは予想していなかった音楽を体験することになった。彼らは僕たちをThe ClashやSex Pistols、Ramonesの系譜上にあるパンクバンドだと持っていたが、僕たちがやっていたのは、その手のあらゆる音楽と、アート系の作曲家だったRhys ChathamやGlenn Branca、Philip Glass、Steve Reich、Le Monte Young、John Cage、Stockhausenなどから学んだ音楽を組み合わせたものだった。

 

僕たちにとって、自分たちの音楽はニューヨークの生活そのものだったし、至ってノーマルだった。当時のニューヨークはそういう雰囲気だった。だが、ツアーに出ると、米国の他のエリアでは僕たちの音楽はノーマルではないということが分かったし、当然、ヨーロッパでもノーマルとしては扱われなかった。当時の僕たちのギグはすごくパワフルだった。当時の僕たちの音楽が素晴らしかったということもあったが、全員の想像を裏切るような音楽だったからだ。僕たちの音楽は他人にとってはただただ珍しいもので、訪れるすべての場所で観客をノックアウトしていた。本当にエキサイティングだったよ。