五月 23

ロングインタビュー: Pyrolator aka Kurt Dahlke

D.A.F.とDer PlanのメンバーやレーベルAta Takのオーナーとして活動してきたドイツを代表するエレクトロニック&エクスペリメンタルアーティストが、その長いキャリアを振り返る

By Hanna Bächer

 

ドイツ出身のエレクトロニック・ミュージシャン、Kurt Dahlkeは進化を続けてきた。

 

1970年代後半にジャーマン・エレクトロニック・ボディ・ミュージックグループ、Deutsch Amerikanische Freundschaft(D.A.F.)の初期メンバーとして活動したあと、1980年代と1990年代を通じてソロ名義Pyrolatorでアンダーグラウンドシーンから高評価を獲得したDahlkeは、ノイエ・ドイチェ・ヴェレを代表するバンド、Der Planの中心メンバーとしても知られている。

 

インダストリアルにシンセポップとメロディ重視のエレクトロニカを組み合わせたDahlkeのPyrolator名義による作品群の多くは、自身が立ち上げたレーベルAta Takからリリースされている。Ata Takは、彼が長年掲げてきたモットー「More Art in Music, More Music in Art / 音楽にアートを アートに音楽を」が今も生き残っている証明だ。

 

今回のインタビューで、Dahlkeは西ドイツ時代のヴッパータールでのキャリア初期、Der Planでのマルチメディアアートショー、Pyrolator名義での実験的な作品、Goethe Institutとの数々のコラボレーションなど、キャリア全体を振り返っている。

 

 

− 1970年代のヴッパータールと言えばフリージャズですよね。

 

そうだね。

 

 

− 当時のあなたはどんな音楽に触れていたのでしょう?

 

私の中では、私のヴッパータール時代は1977年に始まった。私はミュージシャン2人とロードトリップのようなことをしていた。持ち運べる機材と一緒にね。

 

私たちが演奏した街のひとつがヴッパータールだった。ヴッパータールには、私たちが “Tee-Stube”(茶飲み部屋)と呼んでいた小さな古いヒッピースタイルの空間があった。パチョリ(香の一種)が焚かれている中でお茶を飲むような場所さ。そこで2人の男に出会った。ひとりがMichael Kemnerで、もうひとりがWolfgang Spelmansだった。仲良くなった私たちは一緒に音楽を作るようになった。

 

ヴッパータールにはルイーゼンシュトラーセ(Luisenstraße)という有名な通りがあって、この通りではフリージャズがとても盛んだった。有名なフリージャズ・ベーシストのPeter Kowaldもこの通りに住んでいた。だから、私たちは頻繁に出向いていたんだ。フリージャズのミュージシャンたちと一緒にサマーキャンプを企画したこともあった。

 

そのサマーキャンプでは、Peter KowaldやPeter Brötzmannなど、当時ヴッパータールに住んでいたフリージャズのミュージシャンたちがインプロヴィゼーションを教えた。こういう活動がヴッパータール時代の始まりになった。

 

そのあと、当時ヒッピーだった私たちは土地で区切ったコミュニティを作ることにした。それで森の中に一軒家を見つけた。まるでサッカーグラウンドのような広さの前庭があってね。そこで夕方から飲食ができるレストランやバーのようなものをやろうじゃないかという話になった。ミューズリーやビールなどを出す感じだ。

 

当時はデュッセルドルフが人気で、あそこにはパンクで有名なヴェニューRatinger Hofがあった。このヴェニューのオーナーのひとり、Carmen Knoebelがこの空間のルックスを完全に変えた。植物やソファを全部放り投げ、すべてを白く塗り替えて、天井にネオンを飾ったんだ。

 

それで週末になると私たちはそこを訪れていた。そして色々なミュージシャンと知り合いになると、彼らが私たちのコミュニティの一軒家、Grün Inn、英語に訳すとGreen Innに来るようになった。この頃にRobert GörlやGabi Delgadoと知り合ったんだ。

 

私たちはインプロヴィゼーションのパンクジャズやロックジャズを演奏していたが、1977年、1978年頃に起きたパンクムーブメントがあまりにも強烈だったので、自分たちのスタイルも大きく影響を受けた。

 

それでRobert GörlとGabi Delgadoと一緒にDeutsch Amerikanische Freundschaftをスタートさせたんだ。それまでとは完全に異なるスピーディでパンキッシュな音楽だった。ジャズ的要素はゼロだった。

 

D.A.F.は3コードのようなシンプルな音楽ではなかったが、かなり強烈なインプロヴィゼーションだった。ギグも何本かこなした。その中で最も有名なのが「Into the Future」というタイトルを掲げたハンブルクでのギグとベルリンのSO36でのギグだった。

 

そのあとGabiが一時的に脱退した。それで「ヴォーカルがいないんだからヴォーカルなしのアルバムを作ろう」という話になり、Grün Innで暮らしていたギタリストの部屋に2本のマイクとテープレコーダーを置いて2~3週間インプロヴィゼーションを重ねた。その結果がファーストアルバム『Produkt Der Deutsch-Amerikanischen Freundschaft』だ。

 

このアルバムは2週間くらいで売り切れた。あっという間に成功した。この成功がレーベルの立ち上げに繋がった。

 

当時、ヴッパータールにArt Attackという名前の小さなギャラリーがあった。ここのオーナーがFrank Fenstermacher、Moritz Reichelt、Che Seibertの3人だった。このギャラリーでは今や多くの人が知っているコンサートやエキシビションがシリーズで開催されていた。私が覚えている最初のパンクエキシビションもここで開催された。

 

そんなこんなで、私は彼ら3人と仲良くなったんだが、Art Attackという言葉の響きを私たちはあまり気に入っていなかった。通りにいる子供たちも上手く発音できていなかった。ギャラリーの近くを通りがかると「ほら、Atatakだぜ!」なんて言っていたんだ。それで自分たちのレーベルを立ち上げる時に、その名前をAta Takにしたんだ。Art Attackを子供が発音した時のサウンドなんだよ。

 

 

 

“Joseph Beuysは「全員がアーティストだ」と言って自分の講義に500人も採用し、これが原因で大学側から解雇された。警察官が両サイドにずらりと並ぶ中、彼がKunstakademie Düsseldorfから出て行ったシーンは非常に有名で、「民主主義はお笑いだ」というコピーを加えたポストカードになった”

 

 

 

− あなたはConrad Schnitzlerの音源をリワークしましたが、SchnitzlerはJoseph Beuysの弟子でしたし、今の話にあったように、あなたもギャラリーに出入りしていました。当時のデュッセルドルフ周辺のミュージシャンたちはアートシーンと密接に繋がっていたのでしょうか?

 

繋がっていたよ。ただし、Ata Takはあくまで全員にとっての "次のステップ" として立ち上げられたものだ。まず、ヴッパータールのArt Attackはビジネスとしてほとんど成功しなかった。労働者の街にパンクギャラリーを開いたところで生活費は稼げない。

 

また、この頃の私はPyrolator名義のファーストアルバム『Inland』をレコーディングしたところだったが、Deutsch Amerikanische Freundschaftはロンドンへ移住するという意志を固めていた。それでドイツに残りたいという理由から、私はDeutsch Amerikanische Freundschaftから脱退した。初期メンバー5人の中で正式に脱退した初めてのメンバーが私だった。

 

それで、私はギャラリーのメンバー2人と一緒にデュッセルドルフへ移住することにしたんだ。そして丁度良いオフィスを見つけた私たちは、そのバックルームのひとつを小さなスタジオにすることにした。

 

それまでの私たちは2トラックレコーダーしか持っていなかったが、このタイミングで4トラックレコーダーに買い換えた。あとはKorg MS-20とリズムボックス数台を持っていた。こうしてDer Planがスタートし、ファーストアルバム『Geri Reig』を制作したんだ。

 

この頃、ギャラリー出身のMoritzとFrankは、Kunstakademie Düsseldorf(デュッセルドルフ美術アカデミー)に通ってJoseph Beuysの講義を受けることにした。元々2人はアーティストだからね。私はどちらか言えばミュージシャンだが、彼らはどちらかと言えばアーティストだ。しかし、肝心のJoseph BeuysがKunstakademie Düsseldorfから解雇された。

 

「全員がアーティストだ」と言って自分の講義に500人も採用したからだ。それで大学側から解雇された。警察官が両サイドにずらりと並ぶ中、彼がKunstakademie Düsseldorfから出て行ったシーンは非常に有名だ。また、彼はこのシーンを捉えた写真に「Demokratie ist lustig / 民主主義はお笑いだ」というコピーを加えたポストカードを制作した。私はこのポストカードが大好きだよ。

 

Kunstakademie Düsseldorfと私たちの間には常に何かしらの繋がりがあった。Kunstakademie Düsseldorfはさっきも話したRatinger Hofから200mほどの距離にあったから、かなりクロスオーバーしていた。この頃はDer Planも「More Art in Music, More Music in Art / 音楽にアートを アートに音楽を」というモットーを掲げていた。私たちはアートに傾いていた。パンクにはそこまで傾いていなかった。

 

 

− アートに傾いていたというのはどういう意味でしょうか? 音楽制作におけるひとつのアティテュードということですか?

 

Joseph Beuysが創設した自由国際大学や当時のムーブメントを振り返ってみると、アーティストやアートが政治や社会活動へ及ぼした影響が非常に大きかったことが分かるはずだ。また、当時のドイツのパンクムーブメントは様々なスタイルを試行錯誤していた。UK発のパンクとは違った。Sex Pistols、999、Sham 69のようなサウンドとは違った。もっとエクスペリメンタルだった。

 

Moritzは画家で、Frankは画家兼グラフィックアーティストだったので、彼らの表現手段は音楽よりも絵画だった。Der Planの初期コンサートの様子を捉えた写真を見てみれば、コスチュームやテクニカルな部分を強調しているのが分かるだろう。私たちはパンクではなく他のアートフォームを使って世間を挑発していた。

 

この頃の写真を見ると、ダダDie Mechanische BauhausbühneKurt Schwittersとの繋がりを強く感じる。当時の私はこのようなものに繋がりを感じていた。パンクにはそこまで繋がりを感じていなかった。

 

 

− Der Planでアルバムを制作したあと、あなたはPyrolator名義のアルバム『Ausland』を制作するために旅に出ましたよね?

 

『Geri Reig』を制作する前にMoritzがカリフォルニアを旅して、様々な人に出会って帰ってきた。この体験が彼に新しいアイディアを授けることになった。

 

あっちでLAFMS(Los Angeles Free Music Society)と知り合ったMoritzは、旅から戻ったあと「あっちには “Jerry-Rig / ジェリーリグ” というコンセプトがある。意外な物から何かを作り上げるという意味だ。マイクとテープレコーダーしかない中で、オモチャのピアノを弾いたり、床の上を跳びはねたりして音楽を作るんだよ」と話してくれた。

 

これがアルバムタイトル『Geri Reig』になったんだ。当時の私たちは少ない機材で複雑な音楽を作るというアイディアに多大な影響を受けていて、私はこのアイディアに取り憑かれていた。だから私もロサンゼルスへ向かったんだ。

 

 

− 私の中では、LAFMSはパンクよりもクラウトロックやヒッピーとの繋がりが強い印象です。Faustと仲が良かったと思います。このような音楽はあなたの音楽からは大きくかけ離れていますよね?

 

そうだね。

 

 

− 自分がやりたい音楽について具体的なアイディアを持っていたのでしょうか? そのアイディアを厳守していたのでしょうか? それともオープンに構えていたのでしょうか?

 

若い頃はドイツのバンドよりもUKのバンドを聴いていた。1982年か1983年になってからCANやConrad Schnitzlerのようなアーティストがいることに気が付いたんだ。だから、1980年の私はまだ彼らを知らなかったんだ。そんな私にとって、エレクトロニクスと実験を音楽に持ち込むことは完全新しいアイディアだった。それで、当時ロサンゼルスで生まれていたそういう音楽に大いに感銘を受けたんだ。

 

デュッセルドルフに戻った私はアルバム『Ausland』を制作したいと思っていたんだが、この頃に出会ったのがWerner Lambertzだった。ある種の天才だった彼はある機材を発明した。おそらく世界初のデジタルシーケンサーだ。彼は1970年代後半にこれを発明した。4ビットのデジタルテクノロジーが搭載されていたこの機材はBrontologikという名前が付けられていた。非常にフレキシブルな機材で、私はこれを使って『Ausland』を制作した。

 

 

 

“私たちは誇大妄想に取り憑かれていた。成功を収めていたからだ。Ata Takからビッグヒットを出し、その儲けで様々なプロジェクトを動かせた。だが、その時に起きていた悪い兆しに気付かなかった。ビッグレーベルたちがシーンを乗っ取ろうとしていたことにね”

 

 

 

− この頃からあなたは制作に力を入れていきます。プロ意識が高まり、自分のサウンドを確立できたと感じたのはいつでしたか?

 

当時の私はKorg MS-20、Korg SQ10、リズムボックス、オルガン、Logan String Orchestraを持っていたが、音楽制作の可能性を広げたいと思っていた。だから私はBrontologikを非常に気に入ったんだ。それで自分で似た機材を製作することにして、「Brontologikは完成までにどれくらいの時間が必要なんだ?」とLambertzに訊ねたあと、2人で3ヶ月かけて私専用のBrontologikを製作した。

 

Pyrolator名義のサードアルバム『Wunderland』はその自作シーケンサーBrontologik 2だけで制作した。当時はMIDIが生まれる前だったので、シーケンスを組みたい時はアナログシーケンサーを使うしかなかった。Tangerine DreamやKlaus Schulzeのようにね。だが、彼らのように高額のアナログシーケンサーを買える余裕はなかった。だから、Brontologikシリーズのようなハンドメイドのデジタルシーケンサーが必要だったんだ。予算をかけることなくフレキシブルにシーケンスを組むためにね。

 

この頃のAta Takは好調で、人が訪ねてくるようになっていた。それである日、ロンドンのDaniel Millerから連絡があり、「ある人物がドイツに行きたいと言っているんだが、泊めてやってもらえないか?」と頼んできた。その人物がBoyd Riceだった。彼は何とも奇妙な男だった。深夜にカセットテープレコーダーを抱えて墓場へ向かい、そこでレコーディングをするような男だった。

 

Boydは「君たちドイツ人は素晴らしい音楽の歴史を持っているのに、何だってナチスにそのすべてを譲ってしまったんだい? 今の君たちの音楽はどれもアングロ=アメリカンじゃないか」と言って、1950年代のシュラーガー(Schlager:ドイツの歌謡曲)を私たちに聴かせた。これが私の目を覚ますことになった。一度も聴いたことがない音楽だった。シュラーガーは親の世代の音楽だった。

 

そのあとすぐにハンブルクからAndreas Dorauと名乗る15歳の少年がスタジオにやってきて、「Fred Vom Jupiter」を聴かせてくれた。私たちは「凄いぞ! 新しいシュラーガーじゃないか! リズムボックスとキュートな女性ヴォーカルか。よし、リリースしよう」という感じだった。

 

当時はこれがノイエ・ドイチェ・ヴェレのスタートポイントになるとは思ってもいなかった。このレコードをリリースしたことで私たちはデュッセルドルフのあらゆるパンクバンドから強く批判されたが、このレコードは売れた。

 

この頃にドイツ国内のシュラーガームーブメントがスタートしたんだ。Der Planも大きな影響を受けた。非常にエクスペリメンタルだった『Geri Reig』と次のアルバム『Normalette Surprise』を聴けば、サウンドが大きく異なっているのが分かるだろう。『Normalette Surprise』はBoyd Rice本人と、1950年代のドイツの音楽についての彼の考えに大きな影響を受けた作品だった。

 

 

− では、Boyd Riceがシュラーガームーブメントの仕掛け人だったということですか?

 

私の中ではね。私はそう強く信じている。実は、Boyd Riceはノイエ・ドイチェ・ヴェレを起こした重要人物のひとりなんだ。

 

 

− それは驚きですね。知りませんでした。この頃のムーブメントにはある種の皮肉、今で言うところのヒップスター的アティテュードが見受けられます。パンクバンドはナチスのシンボルを皮肉り、あなたたちはシュラーガーを皮肉りました。そしてご存じの通り、ノイエ・ドイチェ・ヴェレは…

 

別物になった。

 

 

− そうです。その時点であなたたちは「こりゃクソだ。やめよう」と思ったんですよね?

 

「クソだ」とは思わなかった。というのもノイエ・ドイチェ・ヴェレが一大ブームになった段階で、私たちはすでにそこから離れていたからだ。私たちはもう興味を持っていなかった。

 

「クソ」ではなくてただの「よくできたシュラーガー」で、それ以上ではなかった。音楽にアートを持ち込んでいたわけではなかったし、アートに音楽を持ち込んでいたわけでもなかった。ただのコマーシャルな音楽だった。私たちはそういう音楽に興味がなかった。

 

 

− では、あなたたちは何をしていたのですか?

 

レーベルを成長させようとしていた。Andreas Dorauのアルバムがヒットしたのでかなり儲かっていたので、他のアーティストと契約しようとしていた。

 

それでHolger HillerとWirtschaftswunder、そしてベルリンのDie Tödliche Dorisのレコードをリリースすることにしたんだ。私たちは「アートにフォーカスしたいなら、アートプロジェクトを用意する必要がある」と感じていた。

 

また、Mike HentzとKarel Dudesekというオーストリアの奇妙なパフォーマンスムーブメント “Nitsch Klasse” 出身の2人組のアーティストがいた。彼らは非常にタフで危険なグループパフォーマンスを展開していた。Minus Delta Tだ。

 

Minus Delta Tのパフォーマンスを初めて見たのはRatinger Hofだった。彼らは大柄な男たちをドアの前を立たせて、客が帰れないようにしたあと、足首が浸かるまでフロアに水を入れて、さらに石膏を流し込んだ。だから、客は白い泥の中に立っているような感じになった。そのあと、彼らは大音量のエレクトロニック・ミュージックを演奏しながら、死んだ魚をフロアに投げ込んだ。嫌な臭いが立ちこめたので客は苛立ち、外へ出ようとしたが、大男がドアの前に立っていたのでできなかった。超強烈なパフォーマンスだったよ。Minus Delta Tは完全に他とは違う存在だった。

 

私は彼らのパフォーマンスを数回見たが、見るたびに「彼らは自分たちには危険すぎるんじゃないか?」と自問することになった。彼らは自分たちのパフォーマンスを “ボディ・パフォーマンス” と呼んでいた。自分の体ひとつで客と向かい合っていたからだ。

 

Minus Delta Tは “The Bangkok Project - Das Bangkok Projektt” というプロジェクトを立ち上げることにした。ストーンヘンジから石を運んでくるという内容だった。ヨーロッパ最古の宗教の石というか、精霊信仰の石というか…。何て言ったかな。

 

 

− ペイガンですか?

 

そうだ。ペイガンの石だ。それをひとつ取り、世界各地の宗教指導者たちのところへ持っていったあと、ヒマラヤへ運ぶというプロジェクトだった。彼らは株式会社から資金を調達した。アートマーケットやギャラリーを通じてこのプロジェクトを実現した彼らは、私たちのところにやってきて、「俺たちの旅の記録をレコードでリリースしないか?」と話を持ちかけてきたんだ。

 

彼らは大型バンに乗ってストーンヘンジへ向かったが、もちろん石を持ち帰ることはできなかった。だが、その代わりに石が作られた場所に関する情報を手に入れた。そこに作りかけの石がひとつ残っていたんだ。それを彼らは持ち帰ってヨーロッパを回り、ローマ教皇に見せて祝福してもらった。

 

そのあと、彼らはイスラム教圏内にこの石を運ぼうとしたんだが許可が下りず、ジッダで立ち往生してしまった。そこから先へ行かせてもらえなかったんだ。元々はイスラム教最高指導者の前でパフォーマンスをして祝福してもらう予定だったが、結局、ジッダのイスラム教指導者から祝福してもらうだけで終わった。

 

 

ヨハネ・パウロ2世とMinus Delta T © Lerak Kesedud

 

 

また、当時のダライ・ラマがどこにいたのかは覚えていないが、彼らはダライ・ラマに会うためにインドへ出向き、仏教からも祝福してもらった。そのあとでその石を持ってインドにあるヒンドゥー教最大の寺院へ向かい、そこでも祝福してもらった。

 

だが、最終的に石はガンジス川で止まってしまった。予定していた旅程を完了させることはできなかった。資金や燃料が尽きてしまったんだ。だが、レコード制作は進めることができた。テープに記録したフィールドレコーディングをレコードにした。実は旅の間、彼らは牢屋に2回放り込まれた。トルコからシリアへ入ろうとした時に国境警備隊に石と自分たちの目的を信じてもらうことができなかったんだ。

 

だが、彼らは常にテープレコーダーを持ち歩いていたのですべてが音として記録されていた。そこから私たちがリリースしたい部分を選んでリリースしたんだ。“The Bangkok Project - Das Bangkok Projekt” は、Ata Takにおけるアートと音楽の接点を確認するためのプロジェクトのひとつだった。

 

 

− もっと稼げると感じた瞬間はありましたか? 当時はアートマーケットが潤い始めた時代で、パンクにルーツを持つMartin Kippenbergerのようなアーティストがかなりの収入を得ていましたよね。あなたたちはアンダーグラウンドだったのでしょうか?

 

いや、私たちは誇大妄想に取り憑かれていた。成功を収めていたからだ。レーベルからビッグヒットを出し、その儲けで様々なプロジェクトを動かせた。だが、その時に起きていた悪い兆しに気付かなかった。ビッグレーベルたちがシーンを乗っ取ろうとしていたことにね。

 

当時、ドイツにはディストリビューターが3社あった。ベルリンのZensor、ハンブルクのRip Off、ケルンのEigelsteinだ。Ata Takは自分たちでディストリビューション機能を持っていたが、全員と組むことにした。

 

しかし、ハンブルクでは「多いに越したことはない」という考えの持ち主だったAlfred HilsbergがZickzackで次から次へとレコードをリリースしていて、Rip Offがついていけなくなっていた。また、ケルンでは地元出身の有名なグループBAPがEigelsteinを離れてEMIへ移り、これがEigelsteinに大きなダメージを与えていた。

 

それで、ハンブルクのRip OffとケルンのEigelsteinが破産した。また私たちを含むインディーディストリビューターはGmbH(有限会社)として登録していなかったので、借金をしたいだけできたのも問題だった。こうして、Ata Takのディストリビューション機能が破綻した。レーベル機能は残っていたが、私たちは巨額の借金を抱えることになった。10万9,000ドイツマルクという大金をね。

 

 

− 今に置き換えると約50万ユーロ(約6,135万円)です。

 

だが、私たちはラッキーだった。アートと繋がっていたからね。友人たちがアートシーンで大きな成功を収めていた。そのひとりがKatharina Fritschだった。彼女は高く評価されているアーティストで、著名な美術館に作品を何点も売っていた。

 

その彼女が私たちのところへやって来て、「大きな仕事があるわ。中世のテクニックを使う限定プロジェクトのオファーがいくつか届いているの。石膏で処女像を造るんだけど、わたしのところに10万マルク以上入るから、やってくれるなら3万マルク払うわ」と言ってくれた。

 

それで私たちは3ヶ月働き、3万マルクを手にした。そのあと、彼女から同じ仕事を請けたが、その時は処女ではなくて脳を造った。こんな感じで、1年半から2年後には借金を全額返済できた。というわけで、Ata Takの歴史には多少のブランクがあるんだ。1986年から1988年までの期間だったと思う。

 

 

− そのブランクはあなたの音楽性にどのような影響を与えましたか? どんな作品をリリースしていたのでしょう? Der Planは1990年代前半まで活動していましたよね。

 

そうだ。ブランクの影響について話せば、私たちのベストギグはブランク前の1985年か1986年ということになる。その中のひとつに数えられるのが日本でのギグだった。 “Evolutionary Striptease” というタイトルで、これはパフォーマンスが大変だった。何しろ、ひとり何着もコスチュームを用意していたからね。石から植物、ロボット、ミュータント、人間と姿を変えていった。ギグのたびに汗で2kgほど体重を落としていたから苦労したよ。5種類のマスクと6種類のコスチュームを着込んでいたんだ。

 

 

− 1980年代はドイツ国内のダンスミュージック人気が高まっていった時代で、DJなどが登場しました。あなたもDer Planのあと、Frankとトランスプロジェクトを立ち上げましたよね? エレクトロニック・ミュージックが突如としてそれまでとは違うカルチャー、つまり、エクスタシーを摂取するようなカルチャーと繋がっていった当時をどう受け止めていましたか?

 

ハンブルクから帰ってきたAndreas DorauとMoritzに「ハンブルクで起きていることをチェックしてみろよ」と言われたあと、ダンスミュージックを作ろうという話になった。それで別名義を用意してレコードを作ったんだ。

 

初期テクノは大好きだったが、シーン自体にはそこまで興味を持っていなかった。それで1990年代前半にわたしは音楽のフォーカスを完全に変えてオランダでバレエのための作品を制作した。不思議なプロジェクトだった。「Target II」というタイトルで、重さ1.2tの巨大なロボットアームが天井から吊り下げられていた。私はそのための音楽を作ったんだ。

 

このプロジェクトが数人の目に留まった。そのひとりがGoethe Institutで働いていた。そして1988年にソウルオリンピックが開催される予定だった。それで、彼から「オリンピック用の音楽を作ってみないか? ソウルにKunstDisco(Art Disco)という名前のドイツパビリオンを出すんだ」と言われたんだ。

 

私たちはアートとテクノのクロスオーバーを試みた。まだ若かったWestbamにも参加してもらった。当時の彼はDJとしてはまったく有名じゃなかった。結局、このプロジェクトには26組のアーティストが楽曲提供で参加して、私たちはソウルのKunstDiscoでパフォーマンスを披露した。ドイツ政府が用意したオリンピック予算としては史上最高額だったから楽しかったね。すべてをいちからデザインした。音楽や照明を含むすべてを自分たちで用意することができた。数百万マルクをつぎ込んだはずだ。

 

当時の韓国では、ディスコは売春宿のような扱いだった。男性が女性を選んで連れ帰るような場所だった。ソウルには私たちのようなテクノディスコはひとつもなかったんだ。だからKunstDiscoが毎晩8時頃にオープンすると、テクノで踊りたい数千人のティーンエイジャーですぐに溢れかえった。

 

 

KunstDisco © Ströer Bros

 

 

KunstDiscoに並ぶ列 © Ströer Bros

 

 

誰もが楽しめるテクノパーティは2週間以上続いた。これが私とGoethe Institutとの初仕事だったが、彼らからは「他のプロジェクトもどうだい? ディスコの未来を表現するプロジェクトを進めたいんだ。ドイツ生まれのテクノカルチャーを世界に広めたいんだよ」と言われた。

 

それで1991年にアルゼンチン・ブエノスアイレスでFicción Discoを開催した。複数のロケーションでワークショップやコンサートを開催し、ハイライトとしてまたディスコを用意した。テーマは “2010年のディスコ” だった。20年後のディスコをイメージしたんだ。

 

クレイジーなプロジェクトだったよ。たとえば、アルコールが買えたバーカウンターまでは迷路のようなルートを通らなければならなかった。酔っていたらそこには辿り着けなかった。行き方が分からなくなってしまうんだ。だが、こういう仕掛けが私は気に入っていた。

 

また、ディスコ内には防音処理が施されていたスペースもいくつか用意されていて、占い師がいるスペースがあれば、弁護士がいるスペースもあった。ディスコへ行って弁護士に法的問題について相談することができたんだ。美容師がいるスペースがあれば、図書館になっているスペースもあった。

 

実は、このプロジェクト実現のために、Michael Fahresがオランダ人の女性霊媒師の元を訪ねて、2010年のディスコがどうなっているかを訊ねたんだ。75歳くらいだったその女性霊媒師はトランス状態になったあと、「ディスコカルチャーは一度大きく減退し、そのあとシベリアで素晴らしい発明が生まれます。Frozen Laserという名前で、誰もがその光に触れることができます。踊りながら光に触れるようになるでしょう」と彼に伝えた。

 

私たちはこれを含めたありとあらゆる2010年のディスコのイメージを実現しようとした。アルゼンチンのグループによる強烈で奇妙なパフォーマンスも用意した。La Organisation Negraという名前で彼らは裸で火を扱っていた。また、ディスコは巨大な水族館のようで、女性ダンサーたちがタンクを背負って水中で踊っていた。私のキャリア最大のプロジェクトのひとつだった。

 

 

 

“何でも可能で、何でも受け容れてくれる。ベルリンの人たちは非常にオープンマインドだ。他の都市と比べものにならないレベルでね。これが私にとってのベルリンの魅力だ”

 

 

 

− Fehlfarbenのインタビューで、彼らは「Goethe Institutから年金を受け取るなんてゴメンだった」と言っていましたが、それこそあなたがやっていたことなのでしょうか?

 

そうだね。FehlfarbenはGoethe Institutとは一度も仕事をしなかったが、私は数多くのプロジェクトを担当した。Ficción Discoの次は、Sun Wheelというタイトルが付けられた16時間のコンサートだった。

 

太陽がテーマに据えられていて、オランダ・フレヴォラント州に置かれたRobert Morrisの巨大な地上アートプロジェクトの一部だった。広大な草地に8組のPAシステムを250m間隔で設置して、スパーシャル・サウンドシステムを採用した。広大なスペースでも音楽が16時間問題なく鳴り続けるようにしたんだ。そのあと、Goethe Institutの担当から「これはこれで素晴らしいが、もっと大きいのも見たいな」と言われた。

 

それでそれから2年後にその担当がイスラエルにパートナーを見つけたので、ネゲヴの砂漠に設置することになった。ドイツ人映画監督のWerner Herzogが『問いかける焦土』を砂漠の岩を使ってプレミア上映した。

 

これはクウェートの大規模油田火災の消火活動を追ったドキュメンタリー作品で、Wagnerのクラシック音楽を起用していた。結果的に、イスラエルに初めてWagnerの音楽が流れた日になった。また、この映像は突出して政治的だったが、私たちはショー全体のバランスを重視していたので問題に思わなかった。

 

 

− この頃から2011年に『Neuland』をリリースするまで、レコードは1枚もリリースしなかったのでしょうか?

 

しなかった。インスタレーションやライブプロジェクトに専念していた。

 

 

− またレコードをリリースしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか? 巨大なプロジェクトを手がけてきたあなたにとって、レコードは随分小さくてシンプルに思えたのではないですか?

 

理由は簡単だ。1998年から2005年くらいまで、私はスタジオで他のグループのためのエレクトロニック・ミュージックを数多く手がけていた。そしてインターネットが共にMP3が登場すると、ミュージシャンたちはテクノをベッドルームで制作するようになった。だから私もスタジオに残っているトラックを自分でリリースしようと思ったんだ。それで『Neuland』を制作した。

 

今振り返ると、このアルバムはアルバムというよりは、他人のために制作したトラックを2~3年分集めたコレクションに近い。私は今でもミニマルテクノを多数作っているし、このアルバムはひとつの区切りというところだね。

 

 

− 『Neuland』のあと、あなたはベルリンへ移住し、Conrad Schnitzler & Pyrolator名義のアルバム『Con-Struct』をリリースしました。このアルバムのリリース経緯について教えてもらえますか?

 

Conrad Schnitzlerの作品の権利はWolfgang SeidelとJens Strüverが管理しているんだが、Conrad Schnitzlerが2011年に亡くなったあと、2人は彼のスタジオ内に大量のテープを見つけた。それで『Con-Struct』と名付けたシリーズを展開することにして、彼の作品を再構築してもらうオファーを他のアーティストに出したんだ。

 

1980年代のConradは8チャンネル・インスタレーションのためのレコーディングを重ねていたので、8チャンネル以上、最多で13チャンネル分が収録されているテープがいくつも残っていた。彼はインスタレーションではそれらをミックスして鳴らしていた。

 

つまり、ひとつの曲にまとめられていなかったんだ。彼は各チャンネルから異なるサウンドを出力してそのバランスを取っていたんだ。だから楽しいアドベンチャーになったよ。Conradのテープから好きなサウンドを取って使うのは面白かった。完全に自由だったからね。

 

そういう意味で、この作品はリミックスではない。曲として構成されていないわけだからリミックスはできない。いちからシーケンスを組んでいくんだ。シンセサウンドだけを使って好きなように音楽を作っていった。

 

 

− ロサンゼルスやその他の都市で暮らしているあなたのファンは、ベルリンに集まっているあなたとかつての仲間が今も一緒に行動しているのではないかと想像しているはずです。Holger Hillerも今はベルリン在住ですよね。実際に集まって何か一緒にやっているのでしょうか?

 

もちろんだ。実は1年前にみんなでPOPという小さなクラブを立ち上げて、週1回ペースでコンサートを開催している。私に言わせれば、これこそがベルリンの魅力だよ。何でも可能で、何でも受け容れてくれる。ベルリンの人たちは非常にオープンマインドだ。他の都市と比べものにならないレベルでね。

 

 

Header Image:© David Oliveira

 

24. May. 2019