一月 03

森本晃司:近所と世界

数々のエポックメイキングな作品に携わり、世界的に評価されるアニメーション監督がキャリアを振り返る

By Nick Dwyer

 

1950年代後半に和歌山県で生まれたアニメーション監督森本晃司は、日本の漫画とアニメーションが一大現象になり始めていた頃、少年から大人になった。“漫画の神様” 手塚治虫に影響を受けた森本は、絵が上手くなりたいという子供の頃の夢をそのまま追い続けて大阪デザイナーズ学院(現大阪デザイナー専門学校)に入学。1980年代初頭には日本のアニメーションを代表するビッグタイトルのいくつかに関わるようになった。そして、その才能はすぐに『AKIRA』の作者大友克洋の目に留まることになり、大友に誘われる形で2本のオムニバスOVA『迷宮物語』と『ロボットカーニバル』に参加し、後者の収録作『フランケンの歯車』で監督デビューを果たした。

 

そして、これらのあとに公開されたのが、アニメーションのイメージを永遠に変えることになった映画『AKIRA』だった。森本は、日本のトップアニメーターが集結して制作されたこの映画に作画監督補として参加し、大友が描くディストピアな未来都市東京に命を吹き込んだ。ほぼ同時期に田中栄子とSTUDIO4℃を立ち上げていた森本は、その後も日本のアニメーションシーンの切っ先に立ちながら活動を続け、Ken Ishiiの「EXTRA」や大友克洋が監修したオムニバス映画『MEMORIES』収録の『彼女の想いで』などで辣腕を発揮。1990年代中頃には日本有数のトップクリエイターのひとりに数えられるようになった森本は、今も日本のアニメーションの境界線を押し広げ続けている。

 

今回のNick Dwyerとのインタビューの中で、森本はアニメーションに衝撃を受けた少年時代や『AKIRA』や「EXTRA」制作時の思い出、テクノとの関係やVRへの挑戦などについて語っている。

 

 

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和歌山県で過ごした少年時代、1960年代について少し振り返ってもらえますか?

 

僕は山の中で育ちました。隣の家が100mほど離れてポツポツと建っているような集落でしたので、都会に憧れていましたね。

 

日本のクリエイターの多くに影響を与えた一大イベントのひとつに、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)が挙げられます。当時、日本国民の多くが大阪へ向かったわけですが、和歌山県は隣接していますし、あなたも足を運んだのではないでしょうか? どのような刺激を受けましたか?

 

大阪万博は小学5年生の頃に2回行きました。岡本太郎さんの『太陽の塔』に感動しました。今も建っていますが、あれは本当に凄かったです。あとは月の石にも感動しましたね。アメリカ館の目玉として展示してありました。

 

日本の漫画には長い歴史があり、見方によってはその起源を12世紀頃まで遡ることができます。また、江戸時代に描かれた浮世絵の多くも、漫画のひとつとして考えることができますが、近代の漫画に関しては、戦後、具体的に言えば、手塚治虫の登場後、業界全体が急速に進化したと言えます。手塚治虫の漫画を初めて読んだ時のことを覚えていますか? 子供の頃、手塚治虫作品は好きでしたか?

 

もちろん、『鉄腕アトム』のような手塚治虫さんのアニメーションはいつも楽しみにしていました。誰かが描いたものが動いているということをなんとなく理解していて、そこに感動していましたね。それで、この業界に興味を持つようになったわけです。手塚さんのアニメーションを知ったことで、Disney作品も観るようになりました。アニメーションは素晴らしいと思っていましたね。

 

手塚治虫の重要性について説明してもらえますか?

 

最近のアニメーターや作家が描いている世界は10年ほど先の未来なんですが、手塚さんの描いていた未来は、100年後や1,000年後なんですよね。今はそういう未来を描く人がいません。手塚さんはそういう世界を描いていたただひとりの作家というか、最初に見せてくれた作家だったと思います。「こういう未来だったら楽しいだろうな」と思える作品を描いていました。最近はこういう世界を描く作家や小説家がいないように感じています。1,000年後の世界も描けた手塚さんは不世出の作家だと思います。彼のような作家は今後も出てこないのではないでしょうか。

 

1950年代、1960年代以降の手塚治虫や他の漫画家の作品、そして特撮などに散見されるテーマのひとつに、核の恐怖や原爆の傷跡が挙げられると思います。このようなテーマをオープンに取り上げることが難しかったこの時代の日本において、漫画やアニメーションは表現手段としていかに重要だったと思いますか?

 

『はだしのゲン』などの作品は、教育の一環として小学校などで触れることができますが、この事実は、アニメーションや漫画の普遍的なパワーを示していると思いますし、そのようなテーマやストーリーを取り上げることができるのが漫画やアニメーションの良さだと思います。『火垂るの墓』も原爆を扱っていますよね。

 

 

原爆や戦争の傷跡について初めて明確に認識したのはいつでしたか? あなたの作品にはどの程度影響を与えたと思いますか?

 

もちろん、僕はリアルタイムで戦争を経験していませんが、母親や両親から聞いて知っていましたし、そのあと『はだしのゲン』などを読んで何が起きたのかについてさらに理解していきました。リアリティはありませんが、学校で広島や長崎について学んでいきました。実際に広島を訪れて原爆ドームを見学した時に、初めて明確に認識したと思います。戦争や原爆は生まれる前の出来事でしたので、このような形で知識を積み上げていきました。

 

手塚治虫と同じく、1968年に創刊された『少年ジャンプ』(現週刊少年ジャンプ)も日本の漫画に大きな影響を与えましたが、あなたもこの雑誌に影響を受けましたか? 刺激を受けた漫画があれば教えてください。

 

1968年の創刊時、僕は9歳でした。大好きでしたね。ですが、親や周りは「まずは勉強しろ」という感じでしたので、ある意味「読んではいけない物」として扱われていました。

 

純粋にストーリーを楽しんでいたただの漫画ファンから脱却し、漫画家のテクニックに刺激を受けたり、興味を持ったりするようになった頃について少し話してもらえますか?

 

興味を持ち始めたのは、望月三起也さんの『ワイルドセブン』や桑田次郎さんの『8マン』などを読んでからですね。スタイリッシュな絵だと思っていました。あとは、関谷ひさしさんの『ストップ!にいちゃん』も好きでしたね。

 

 

 

“『ガンバの冒険』を観て、「アニメーションでもこういう表現が出来るのか、ここまで人間性を描けるのか」と初めて感動しました”

 

 

 

イラストやアニメーションの世界に進みたいと思い始めたのは何歳の時でしたか?

 

小学校5年生か6年生頃でした。ですが、絵が上手いから進みたいと思ったわけではありませんでした。当時は、周りに絵が上手い人たちが何人かいて、僕の実力は3番手か4番手くらいだったと思います。1番ではありませんでした。ですので、悔しいと思いながら描いていましたね。面白いことに、当時上手かった人たちはこの業界の仕事をしていないんですよね。上京後、仕事を通じて色々な人と出会ってきましたが、田舎でトップだった人はいません。誰も上手いと言われたことがなかったんです。悔しい思いや、他人に劣っているという事実が、僕たちを駆り立ててきたのではないかと思います。

 

小学校の頃に絵が上手かった人たちがこの業界の仕事に就いていない理由は、昔にトップを取ってしまったので、興味をなくしてしまったからではないでしょうか。一方、僕たちはトップを取った経験がなく、悔しい思いをしていました。それが今でも絵を描く原動力になっているような気がしています。どうして彼らは離れてしまったのかと不思議に思いますね。なぜ辞めたのか、彼らに質問したいですよ(笑)。僕は特別下手ではなかったですが、常に悔しい思いをしていました。今もそう感じながら仕事をしているところがあります。

 

絵を描くことを仕事にしたいと思うようになった具体的なきっかけはありますか?

 

きっかけはアニメーションです。『ガンバの冒険』を観たことがきっかけでしたね。今も手元に置いてありますが、『ガンバの冒険』は出崎統さんの作品で、彼は『あしたのジョー』や『エースをねらえ!』で有名なアニメーション監督(演出)でした。この作品を観て「アニメーションって凄いな」と思ったんですよ。『ガンバの冒険』の主人公はネズミなんですが、ストーリーが素晴らしいんです。ドラマ性に優れていて、「アニメーションでもこういう表現が出来るのか、ここまで人間性を描けるのか」と初めて感動しました。あとは宮崎駿さんの『未来少年コナン』にも影響を受けました。アニメーションの表現の可能性を知りましたね。

 

 

あなたは大阪デザイナー学院で学びましたが、進学を機に和歌山から大阪へ移ったのでしょうか?

 

当時はアニメーションを学べる学校や専門学校が少なかったんですね。また、そのような学校の多くは東京でした。ですが、上京は親が許してくれなかったので、近場で探し始めたんです。それで、大阪デザイナー学院(現・大阪デザイナー専門学校)を見つけて、2年間通いました。

 

あなたは、カッティングエッジな音楽に情熱を注いでいて、数多くの先進的なミュージシャンやアーティストと共作してきました。若い頃はどんな音楽が好きだったのでしょうか?

 

僕はテクノが大好きなんですよ。ですので、YMOが好きでしたし、そこからArt of NoiseやKraftwerkも知って、聴いていました。

 

大阪デザイナー学院卒業後、あなたはアニメーション制作会社に就職し、1980年にスタジオあんなぷるに移りました。当時について少し振り返ってもらえますか?

 

『ガンバの冒険』の出崎さんに憧れてスタジオあんなぷるへ移ったのですが、丁度『あしたのジョー2』を制作していた頃でした。『あしたのジョー2』はビッグタイトルでしたので、こんな作品を任せてもらえるのかと緊張していましたね。周りが全員先輩だったので、やらなければならないことが多かったです。描ける自信をある程度持っていたのですが、いざ始めてみると描けない自分に気が付きました。自分のレベルが低すぎて、悩むどころではありませんでした。自分に足りない部分が本当に多かったので、家に帰るのは月に1回、家賃を払う時だけでした。会社に寝泊まりする日々でしたね。寝泊まりしながら、「先輩たちはなんでまだ寝ないんだ」と思っていました。自分より上手い人たちが寝てくれないといつまでたっても追いつけないので(笑)。ですので、当時については、ひたすら泊まり込んで仕事をしていたという記憶しかありませんね。

 

この頃に関わった作品の中で、参加できて良かったと思える特別な作品はありますか?

 

やはり、『あしたのジョー2』ですね。前作の『あしたのジョー』が素晴らしい作品だったので、スタッフ全員に前作を超えようという意識がありました。全員気合いが入っていましたね。「強い気持ちで描かないとダメだ」ということをキャリア初期に学べたのは良かったです。

 

 

1980年代、日本はバブル時代を迎え、家電業界や音楽業界、エンターテインメント業界が好況でした。バブル時代のアニメーション業界について振り返ってもらえますか?

 

アニメーションは、昔は夕方6時から夜の8時くらいまで放映されていました。今はもうその時間には放映されていないですし、放映されるとしても日曜日くらいです。アニメーションの枠が用意されていた頃は、「全盛期だ」と感じていましたが、最近は、その枠ではバラエティ番組などが放送されています。ですので、近年も「日本はアニメーション大国だ」などと言われていますが、当時の方がそうだったと思います。最近は夜中に放映されているアニメーションが多いですが、個人的には「誰が観るの?」と感じています。昔のアニメは、子供がワクワクしながら観るものでした。個人的にはそういうアニメーションが復活して欲しいなと思います。朝の時間帯も、昔は学校へ行く前にアニメーションや『ポンキッキ』のような番組を観ることができたのですが、今はそういう番組は存在しません。朝起きてテレビをつければ、いきなり親が子供を殺したニュースなどが飛び込んでくるわけです。そういうニュースを観て学校へ向かう子供たちのテンションはさぞかし低いだろうなと思っています。親に「元気な1日を」と送り出されても、そんな情報を目にしていたら元気は出ないですよね。ですので、元気が出る番組をやりたいなという気持ちがありますね。

 

あなたは早くから独立してフリーランスとして活動しましたが、独立を決意した理由は?

 

アニメーターという仕事は、個性がない方が良いんです。なぜなら、指示通りに描かなければならないからです。あらゆるジャンルのアニメーションを描く必要があります。ですので、「このスタイルしか描けません」という人にはオファーが来ないんです。この仕事は自分の個性を殺すところから始まるんですよ。「他人の絵をどれだけ上手く描けるか」というのがアニメーターの仕事です。ですが、イラストなどの別の仕事などを請け始めると「自分がないな」と思うようになりました。「自分の絵って何だろう?」と疑問に思ったんです。他人の絵は描けるが、自分の絵はどこにあるんだろうと考えるようになると、危機感と言いますか、自分の絵を描きたいという気持ちが強くなり始めました。それで最終的に独立しました。言うなれば、「これしか描けません宣言」をしたんですね。「色々なジャンルを描いていましたが、もう描きたくない。でも、このジャンルなら描きますよ」と宣言したんです。通常、このような宣言はアニメーターとしては最悪と言いますか、オファーが来なくなります。ですが、「描けないものは描けないし、興味がないものには興味がないが、描けるものや興味あるものに関してはこれまで以上の仕事をするよ」という立場を取ることで、自分が徐々に見えてきました。ですので、独立して良かったなと思っています。

 

 

 

“大友さんの漫画は映画でした。音も聞こえてくるんです”

 

 

 

1987年に『フランケンの歯車』で監督デビューを果たしましたが、この作品について振り返ってもらえますか?

 

それまではアニメーターとして活動していたんですが、途中で自分の作品を作りたいと思うようになり、それで作ったのが『フランケンの歯車』でした。今振り返ると、自分が好きだったDisney作品からの影響も確認できますが、一番大きな影響を受けたのは、大友克洋さんの漫画『FIRE-BALL』でした。作中にある男が起き上がるシーンがあるのですが、そのシーンから影響を受けています。あとは、永井豪さんの漫画『デビルマン』にも影響を受けましたね。彼らのような作品を生み出したいと思って作ったのが『フランケンの歯車』です。

 

『フランケンの歯車』と『迷宮物語』が世に出た1987年は、素晴らしい1年だったのではないでしょうか?

 

楽しかったですよ。やることが沢山あったので、あっという間に過ぎ去っていきました。

 

 

この頃すでに『AKIRA』には携わっていたのでしょうか?

 

そうですね。

 

『AKIRA』の制作に関わる前から、大友克洋の漫画が好きだったのでしょうか?

 

もちろんです。学生時代、18歳くらいの頃に「この人は何者なんだ」と思いましたね。単行本がまだ出版されていなかったので、友人と一緒に切り抜きを集めていました。凄いぞと。もちろん、手塚さんや松本零士さんにも影響を受けましたが、大友さんは違うんです。説明に困りますが… 彼の作品は映画でした。漫画ではなくて、映画だったんです。読んでいると、音も聞こえてくるんですよ。その空間の匂いも感じることもできました。こういう体験をしたのは、彼の作品が初めてでした。

 

『AKIRA』への参加で得た最大の収穫は?

 

『AKIRA』はスタッフ全員が「世の中を変える」という高い意識で仕事をしていました。「世界を獲る」という共通意識がありましたね。『AKIRA』のオープニングに爆発のシーンがありますが、あれは僕たちが仕事をしていた三鷹のスタジオの位置から爆発が広がっているんです。「ここから世界を変えるぞ」というメタファーだったんですよ。「自分たちが中心となって世の中を変えるぞ」と。このように高い意識を持つ人たちばかりでしたので、仕事をしていてとても楽しかったですね。実際に世の中を変えることになりましたし。

 

 

『AKIRA』は、プレスコ(アフレコをする代わりに、声優の演技を録音したあと、それに合わせてアニメーションを制作していく手法)の採用など、制作方法が革新的でしたし、“ネオ東京” を完全再現するための莫大な予算も用意されていました。アニメーションの境界線を大きく押し広げた作品だったと思います。アニメーターにとってこの作品はどんな意味を持っていたのでしょうか?

 

一番凄いなと思ったのは、通常は、ひとつのアニメーションスタジオがひとつの作品を作り上げるわけですが、『AKIRA』の場合は、この映画のためにひとつのスタジオ(AKIRAスタジオ)が新たに作られ、そこに様々なトップスタジオの人たちが集まっていたということでした。それまで、こういう形で人が集められたことはありませんでした。他社の作品に出向くようなことはまずありませんでした。ですが、『AKIRA』の時は、この作品のためだけに人が人を呼ぶ形で混成チームが作られていきました。一方的に名前を知っていたトップアニメーターが集まっていたので本当に楽しかったですし、新しい手法でもありました。

 

完成した作品を初めて観た時の感想は?

 

約3年かけて制作し、しかもその多くが徹夜だったので、「ようやく終わった」と思いましたが、同時に「遂に完成したんだ」と感動もしましたね。

 

『AKIRA』のあと、あなたは宮崎駿の『魔女の宅急便』に原画として参加しました。スタジオジブリでの仕事はどうでしたか? 大友克洋との仕事とはどう違っていたのでしょうか?

 

先ほど、『ガンバの冒険』で出崎さんを知り、彼の元で働くためにスタジオあんなぷるへ移ったという話をしましたが、実はその頃、もうひとりの元で働くことも考えていました。それが宮崎さんでした。実は、最初に宮崎さんの元へ自分の絵を送ったのですが、採用されなかったんです。それで出崎さんの元で働き始めたのですが、いずれは宮崎さんと仕事をして、彼の仕事の進め方などを学びたいと思っていました。僕は30歳で自分の作品を作ることを目標にしていて、それまでに様々な監督の下で修行をしたいと思っていました。それで、30歳手前になった時に「宮崎さんとまだ仕事をしていないぞ」ということで、『魔女の宅急便』に参加することにしたんです。

 

 

 

“発明や発明家が好きなんです。誰もやったことがないことをやる人を尊敬していますね”

 

 

 

あなたは1986年に田中栄子とSTUDIO4℃を立ち上げています。日本のアニメーション業界に何かしらの不満や不足を感じていたのでしょうか?

 

オリジナル作品を作りたいと思っていたのですが、大手制作会社に企画を通すのが難しかったので、それなら自分で会社を作ってしまおうと思ったんです。それがSTUDIO4℃でした。

 

1995年に公開されたオムニバス映画『MEMORIES』に収録されている『彼女の想いで』は今敏と組んだ作品ですが、この作品は、彼と組んだという意味で、あなたの中で大きな意味を持っているのでしょうか?

 

もちろんです。今さんも大友さんが好きでした。僕と今さんは大友さんをリスペクトしていました。今さんは大友さんのアシスタントをしていて、その頃から「滅茶苦茶絵が上手い人がいる」と注目していました。僕たち2人はいわゆる「大友軍団」的な立ち位置だったのですが、大友さんを超えるにはどうしたら良いのかという話を2人で良くしていました。『彼女の想いで』は、僕たちが「打倒大友克洋」を目指した作品でした。

 

 

日本のアニメーションに欠けていて、自分で表現したいと思っていたテーマやアイディアをこの頃から持っていたのでしょうか?

 

僕は昔から、寺山修司をはじめとする、誰もやったことがないものをやったアーティストや小説家に憧れていました。そして、オリジナル作品なら自分の好きなように作れます。あの頃の僕は、自分が観てみたい作品、誰もやったことがない作品を作りたいという気持ちが強かったんですね。今も「こんな作品があったら面白いだろうな」と思いながら作っています。発明や発明家が好きなんです。手塚さんもそうですし、誰もやったことがないことをやる人を尊敬しています。僕も手塚さんのように、1,000年後の未来を描いてみたいですね。もちろん、簡単ではないですが、今はこういうチャレンジをする人が少なくなっていますし、自分でチャレンジしたいと思っています。

 

私は1990年代後半に、母国ニュージーランドでダンスミュージックを紹介するテレビ番組の司会をしていたのですが、R&SからKen Ishiiの「EXTRA」のミュージックビデオを手に入れたあとは、毎週のようにこの作品をオンエアしていました。「EXTRA」は当時の海外の若者に日本のテクノだけではなく、日本のアニメーションも紹介する作品でした。ミュージックビデオを担当することになった経緯を教えてください。

 

テクノが大好きだったので、Ken Ishiiの作品も聴いていたんです。それで、当時Sony Musicのスタッフだった友人が彼を紹介してくれたんですが、その時に「ミュージックビデオを一緒に作りたい」と本人から誘ってもらいました。僕もテクノの中で自分に何ができるのだろうという興味があったので、共作することにしました。高価だったコンピューターがようやく世間一般にも浸透していて、僕たちにも使えるようになっていたというのも、やろうと思った大きな理由のひとつだったと思います。

 

「EXTRA」は、元々はもっとアッパーなトラックだったんです。ですが、それではミュージックビデオがドラマティックにならないと思ったので、アンビエントのセクションを付け足してもらったんです。元々、僕はKen Ishiiのアンビエント的な側面が好きでしたし、アッパーなだけでは面白くないなと思い、最初と中間にアンビエントのブレイクを入れてもらったんです。こういう共同作業はとても楽しかったですね。

 

「EXTRA」のストーリーのアイディアはどこから得たのでしょうか? VRは、最近ようやくエンターテインメントの一部になりつつありますが、当時としては非常に先進的でした。

 

フランス人の漫画家メビウス(Mœbius / Jean Giraud)が好きで、彼の作品を良く読んでいました。ですので、彼から影響を受けていますね。あとはアンドレイ・タルコフスキーの映画『ストーカー』や『ブレードランナー』も好きでしたので、こういう作品からも影響を受けたと思います。ですが、メビウスの影響が一番大きかったと思います。

 

「EXTRA」制作時の思い出はありますか?

 

約1ヶ月で制作したんですが、ほぼ寝ないで、2~3人で作りました。時間が足りないなと思いながら、徹夜の連続で作っていましたね。ですが、初めて本当に好きなことができたので、エキサイティングでした。制約がなく、好きなように作ってくれと初めて言ってもらえた仕事でしたので、嬉しかったですね。

 

1990年代の日本のアニメーションの多くで確認できた、ディストピアな未来都市という設定とテクノの相性はパーフェクトでしたが、テクノに対してそのようなイメージを持っていましたか?

 

テクノは最先端の先進的な音楽として捉えていました。その最先端の音楽に、自分の近所と言いますか、日常を繋ぎ合わせたらもっと格好良くなるのではないかと考えたんです。「EXTRA」はこのアイディアがベースになっています。吉祥寺の北口にハモニカ横丁という通りがあるんですが、実は「EXTRA」の舞台はあそこです(笑)。自分の近所を描きたかったんです。僕はメビウスやエンキ・ビラルの自宅にお邪魔したことがあるのですが、その時に彼らが自分たちの近所を描いていることに気が付きました。実は、僕の憧れの人たちが描いていたのは、彼らのすぐ近くにある風景だったんです。ですが、その風景は僕の周りにはない。この時に、僕がいくら彼らに追いつこうと思っても無理だということに気が付きました。それで、自分の近くのもの、近所を描こうと思ったんです。それまではヨーロッパに憧れていたところがあったのですが、彼らの元を訪れたことで、自分の近くにもそういうインスピレーションの源があることを教えてもらいました。それで、路地裏などを盛り込んで、僕なりの形で未来と日常を繋ぎ合わせることにしたんです。

 

 

テクノが好きな理由について教えてください。

 

音楽は絵を描いている時にBGMとして聴いているのですが、歌詞がある音楽は聴かないんです。どうしてもその世界観に引き込まれてしまうので。ですので、クラシックやテクノのようなインストゥルメンタルだけの音楽を聴いています。僕は雨のシーンだったら、雨音を聴きながら描きますし、仕事に合わせて音楽を選んでいるのですが、歌詞がないテクノは仕事の邪魔にならないので丁度良いんです。

 

2017年に話を移しますが、Hyperdubのコンピレーションアルバム『Diggin’ In The Carts』にアートワークを提供した他、Kode9 x Kōji Morimotoとしてツアーにも映像で参加しました。Hyperdubの音楽は以前から知っていましたか?

 

今回の仕事を通じて初めて知りました。男性的な音楽を想像していたのですが、実際に聴いてみると、繊細なインストゥルメンタルトラックが多かったので驚きましたね。

 

このようなコラボレーションはあなたの中で重要な位置づけなのでしょうか? 世界各地の新しいファンと繋がれますよね。

 

もちろん、その意味でとても重要ですね。あとは単純に、予備知識を持たずに音楽を聴いて、こういう音楽ならこういう絵が合うんじゃないかと考えながら描くのが好きなんです。

 

先ほどVRについて少し触れましたが、あなたは2016年にVRプロジェクト『18 夢世界 VR』を手掛けています。あなたの中でVRはどのような位置づけなのでしょうか? 新分野への挑戦を好んでいるあなたにとって、VRの可能性に興奮を覚えていますか?

 

以前からVRのアイディアが大好きでしたので、クラブ環境で360°のVR映像を作りたいなと思っていました。どこかのタイミングでやりたいなと。没入感の高い映像が技術的に可能になっていますし、VRヘッドセットがなくても目の前に映像が広がるような作品を生み出せるのではないかと思っています。ですので、色々と研究を重ねています。これはまだ誰も実現できていませんし、VRのアイディアが一般レベルまで浸透するまではもう少し時間がかかると思いますが、VRには表現方法を劇的に変える可能性があると思います。映画というカテゴリーがなくなるかもしれません。新しい呼び名、新しいメディアが登場するのではないでしょうか。「昔、映画っていうのがあったよね」などと話すようになるかもしれません。映画は2時間程度の長さですが、VRでは、時間が関係なくなるのではないかと予想しています。作品で時間が動くのではなく、体験する人の時間で動くメディアになるのではないでしょうか。その人が2時間楽しみたいと思えば、2時間。10分で良いと思えば、10分。1日中楽しむ人も出てくるでしょう。ナラティブ主導ではなく、ユーザー主導のメディアになると思います。

 

日本のアニメーションを取り巻く環境は、あなたが業界に入った頃からどのように変わったと思いますか?

 

昔は、アニメーションを作っているということをそこまで堂々と言えませんでしたし、“オタク” という言葉も今ほど世の中に浸透していませんでした。今は “オタク” は普通に使われていますし、誰もが知っている言葉ですが、昔はもっと「変な人」を指す言葉でした。「日本=アニメ」のような表現もありますが、今は世界中でアニメーションが作られていますし、状況は大きく異なっています。凄いなと思いますね。

 

今後の予定について教えてください。

 

劇場用作品を作る予定です。SF作品になるので、楽しみにしていてください。2020年の東京オリンピックに向けて制作しています。

 

Header Photo: © Masato Yokoyama