七月 17

ロングインタビュー:Juan Atkins

デトロイトテクノのオリジネイターがCybotronやテクノ黎明期などについて語る

By Ben Ferguson

 

Juan Atkinsほど大きなインパクトを残したダンスミュージック・プロデューサーはいないに等しい。子供の頃からファンクミュージシャンだったAtkinsの人生はシンセサイザーとエレクトロニック・ミュージックとの出会いによって大きく変化した。エレクトロニック・ミュージックのデモ制作をするようになったAtkinsはカレッジのクラスメートだったRik Davisと意気投合し、エレクトロユニットCybotronを1981年に結成する。

 

AtkinsがModel 500名義でソロ活動を始めた1985年、のちにテクノと呼ばれることになる新しい音楽ジャンルが姿を現し始める。“Belleville Three” の他の2人 ― Derrick MayとKevin Saunderson ― と共にAtkinsはその新しい音楽のブループリントを描き、1988年に “テクノ” という名称を与えた。そして、Atkinsの初期作品群は地元デトロイトよりもシカゴやヨーロッパで大きな話題となり、これがきっかけとなってグローバルブレイクを果たした。

 

2010年に行われたDJ Historyのインタビューを再構成した今回の記事の中で、Atkinsはファンクバンドでベースを弾いていた中学生時代から1980年代の英国での大ブレイクまでの壮大なミュージック・ジャーニーを振り返っている。

 

 

— あなたは両親の離婚でベルビル(Belleville)へ移り住んだわけですが、郊外の暮らしはどうでしたか?

 

元々はカリフォルニアへ移る予定だったんだ。でも、ギリギリのタイミングで父親の母親、つまり俺の祖母から連絡が来て「わたしの家の通り沿いに新築ができるわよ」と言って、父親を説得したんだ。インナーシティの暮らしとは完全に違っていた。引っ越す前はデトロイトに住んでいたんだ。

 

 

— 当時のあなたの年齢は?

 

14歳か15歳だね。

 

 

— すでに音楽は聴いていましたか?

 

ああ。音楽はいつも聴いていたよ。デトロイトでは近所の友人たちとファンクバンドやガレージバンドを組んでいた。俺はベースギターとリードギターを担当していた。12歳か13歳の頃にね。

 

 

— 他のバンドメンバーは?

 

Jimmy Smithって奴とChris… ファミリーネームは忘れたな。残りはKeith Jamesonとあと数人だ。全員の名前は思い出せない。

 

 

— 引っ越したあとも連絡を取り合っていたのでしょうか?

 

いや、特には。ベルビルへ移ったことで奴らとのバンドは終わったんだ。新しいバンドを組んだんだよ。

 

 

— そのバンドでもファンクを?

 

そうだね。そういう時代だった。ファンクの時代だった。ディスコも多少流行っていたね。そのあと、ファンクがディスコになり、ディスコがニューウェーブになり、ニューウェーブとディスコがハウスとテクノになった。

 

 

— とはいえ、テクノは一夜で突然誕生したわけじゃないですよね。あなたと一緒にベルビルへ移った父親はコンサートプロモーターだったとか?

 

ああ。Norman Connors、Michael Henderson、Barry Whiteのようなアーティストを担当していた。Cobo Hallで大規模なBarry Whiteのコンサートを開催したのを覚えているよ。

 

 

— アーティストに会ったことは?

 

なかった。ただコンサートを観に行っただけだ。

 

 

— コンサートはどれも素晴らしかったのでは?

 

ああ。Michael Hendersonが特に良かったな。「Wide Receiver」のファンだったからね。高校時代はこのトラックが大好きだった。思い出が詰まっているトラックなんだ。

 

 

 

 

— 彼らのようになりたいと思ったことはありませんでしたか?

 

俺たちはただ楽しんでいただけだから、スターダムを得たり、有名になったりすることは考えていなかった。好きなことをやっているだけのガキだった。少しは考えていたかもしれないが、ガレージのスター程度だった。野心は持っていなかったよ。もちろん、楽器を手にすれば、スーパースターになる自分を少しは夢見る。誰だってそうだ。でも、メンバーで集まって「なぁ、スーパースターを目指そうぜ」なんて話し合ったことはなかった。無言の約束みたいなものがあった。有名になることについての暗黙のルールさ。「儲けたいと思っている自分を認めてはいけない」みたいなルールがね。

 

 

 

“スターダムを得たり、有名になったりすることは考えていなかった。野心はなかった”

 

 

 

— ですが、そう考えていなかった人もいますよね。当時のあなたは弟と一緒に住んでいましたが、弟はDerrick Mayに大きな影響を与えたそうですね。弟がParliamentを大音量でかけながらキャデラックを走らせている姿にDerrickはかなり影響を受けたという話を聞きました。

 

(笑)。弟は俺のひとつ下で、弟とDerrickは学校で同じクラスだったんだ。Derrickも俺のひとつ下なんだ。俺と知り合う前は弟とつるんでいたんだよ。

 

 

— 弟との関係はどうだったのでしょう?

 

弟は弟さ。愛しているし、お互い似ている。でも、当時の俺は年上とつるんでいたから、弟とは交友関係が違ったんだ。

 

 

— 年上というのはかなり年上ですか?

 

ああ。大半が近所に住んでいた。

 

 

— あなたの年齢では知り得なかったことを教えてくれたのでしょうか?

 

そうだね。

 

 

— そのあと、あなたはベースを置いてシンセを弾き始めます。

 

ベルビルへ引っ越してからキーボードを弾き始めたんだ。祖母がオルガンを持っていた。古いHammond B3だった。祖母がこのオルガンについて相談するためにBrunel’sっていう楽器屋へ行った時があった。当時はちょうどMini Korg 700SとKorg MS10がリリースされた頃だった。小型で優秀なアナログモノシンセさ。それで俺はショップの奥でシンセをいじっていたんだが、祖母に相談して1台買ってもらったんだ。あとは知っての通りさ。

 

俺はシンセのサウンドに夢中だったから触りまくったよ。キックを含むドラムサウンドなど、ありとあらゆるサウンドをシンセ1台で作った。この頃にデモ制作を始めたんだ。エレクトロニック・ミュージックのデモをね。カレッジに通う頃にはかなりのクオリティのデモを作っていて、クラスメートに聴かせていた。

 

 

— シンセを手に入れたのはいつですか?

 

15歳か16歳だね。

 

 

— 父親はどう思っていたのでしょう?

 

その頃、父親はあまり家にいなかった。外を出歩いていて、家庭で何が起きているのかについてはあまり気にかけていなかった。俺はいつも自室でひとりだった。誰も入ってこなかったよ。父親はまったく入ってこなかったね。

 

 

— 親子関係が良くなかったということですか?

 

いや、仲は良かったよ。ただ父親は夜の世界の人だったから、そんなに家にいなかったのさ。

 

 

— バンドとシンセの大きな違いは、たったひとりでも音楽制作ができるところにあります。ベッドルームとシンセがあれば制作できますよね。

 

そうだね。事実を言うと、ベルビルで一緒に演奏できる最寄りの仲間は10マイル(16km)も離れたところに住んでいた。だから楽器が弾ける奴と一緒に活動するのが難しかったんだ。

 

 

 

“ガキの頃の俺はかなりイノベーティブだった”

 

 

 

— では、ベルビル周辺では部屋に籠もってひとりで音楽制作をしている人が多かったのでしょうか?

 

そんなことはなかった。音楽を作っている奴は少なかったね。ガキの頃の俺はかなりイノベーティブだった。

 

 

— 当時から自覚していたのでしょうか?

 

かなり強くね。ノーマルではないことをやっているんだろうなという自覚があった。

 

 

— 何かへのリアクションとして制作をしていたのでしょうか? ハイスクールパーティに影響を受けたのでしょうか?

 

いや、そういうわけじゃなかった。ベルビルじゃそんなパーティはなかったからね。インナーシティの学校とはかなり違った。

 

 

— インナーシティ時代はそういうパーティに通っていたのでしょうか?

 

もちろん。

 

 

— 印象は?

 

最高だったよ。かわいい女の子が揃っていたからね。

 

 

— そういうパーティで新しい音楽を知ったのでしょうか?

 

俺はElectrifying Mojoのラジオ番組でファンクを聴きながら育ったんだ。彼の番組でオンエアされていた音楽に大きな影響を受けた。レコードショップでジャケ買いする時もあったがね。

 

 

— Electrifying Mojoは多くの人に影響を与えましたが、何が違ったのでしょうか?

 

彼は自分の番組を持っていた。何をプレイするかを自分で決めていたんだ。プログラムディレクターにフォーマットを押しつけられていなかった。個人、まさにパーソナリティーだった。かなり個性的だったしね。多種多様な音楽をプレイして、デトロイト市民がそれまで聴いたことがなかった色々な音楽を紹介したんだ。

 

 

— たとえば?

 

James Brownを30分プレイしたり、Jimi Hendrixを30分プレイしたり、Peter Framptonを30分プレイしたりする時があった。あとはParliamentやFunkadelicをヘヴィプレイしていた。何でもプレイしていたよ。Princeも彼が紹介した。俺は彼の番組でKraftwerkを知った。信じられないかもしれないがAmerica「A Horse With No Name」もプレイした。

 

 

 

 

— 本当ですか?

 

本当さ(笑)。「A Horse With No Name」のようなトラックも普通にプレイしていた。

 

 

— 彼のスタイルは何がルーツなのでしょうか?

 

ベトナムを経験しているんだ。MojoはベトナムでラジオDJをしていた。エクレクティックなスタイルのルーツについての質問に対してベトナム時代がルーツだと答えていた。ベトナムの米兵のためにバラエティ豊かな選曲をする必要があったんだ。Mojoがベトナムのどこに駐在していたのかは覚えてないな。ちなみにMojoはフィリピンにもいたんだ。HendrixやFrampton、Americaが大好きな理由は、兵士を相手にDJをしていたからだと思うね。

 

 

— Rik Davis(Cybotron)もベトナム戦争経験者として有名ですよね。Rikとの出会いについて教えてください。

 

コミュニティカレッジの音楽コースに通い始めた年に出会ったんだ。俺がエレクトロニック・ミュージックのデモを学校へ持ち込んで、クラスメートに聴かせると、誰もが俺に興味を持った。なぜなら他とは完全に違ったからさ。ワイルドな音楽だった。それで、Rikも俺と一緒に音楽を作りたいと思ったのさ。彼も俺と同じでエレクトロニック・ミュージックを作っていたからね。

 

 

— 彼からも何かデモを聴かせてもらったのでしょうか?

 

いや。Rikのデモを聴いたのは彼の家に行ってからだ。Rikは俺より10歳くらい年上だったし、学校に色々持ち込んで聴かせるような年齢じゃなかった。

 

 

— ベトナム戦争時代の話を色々と聞きましたか?

 

ああ。少し聞いたよ。一個旅団で低木地帯に進軍したあと彼しか生き残らなかった話とかね。軍時代の友人は全員死んでしまったって話も聞いた。

 

 

— お互いに何か感じるところがあったのでしょうか?

 

あったと思う。2人で組んでCybotronを立ち上げたのには理由があったはずだが、それが具体的に何だったのかは分からない。でも、何かがあった。まぁでも俺はまだガキだった。17歳のね。だから、Rikは父親のような存在だった。色々教えてくれたよ。共有できる話題はそんなに多くなかった。単純に彼のことを尊敬していたんだ。当時は父親が刑務所に入っていたしね。

 

 

 

“俺は自分に自信があったが、自分たちがどうなるのかについては分かっていなかった”

 

 

 

— Cybotronはテクノという大海に落とされた最初の水滴のひとつでしたが、大きな波となってヨーロッパ、カナダ、ロシアへと広がっていきました。ホワイト層でも高い人気を獲得し、テクノを “ホワイト・ミュージック” として捉える人も出るほどでした。あなたとRikで自分たちの音楽と人種の関係について話したことはありましたか?

 

いや。人種なんて関係ないだろ? 音楽については話したが、人種については話さなかったね。俺たちは自分たちがブラックだってことは分かっていたし、俺たちが米国に住んでいることも理解していた。だから人種についてあえて話すことなんてなかったよ。ただそういう環境にいたってだけだ。大体、メンバーのひとりはホワイトだった(Jon-5)。奴はギタリストで、ギターでシンセをコントロールしていた。「The Line」、「Industrial Lies」、「Enter」のギターはすべてJon-5の演奏さ。

 

俺の音楽的信念の中心はファンクが占めている。ファンクはブラック・ミュージックと言えるが、自分たちで「俺たちはブラック・ミュージックを作ってるんだ」なんて言ったことは一度もなかった。俺たちが作っていたのはエレクトロニック・ミュージックだった。

 

 

 

 

 

— では、「Clear」がブラック・ミュージックのチャートに9週間ランクインしたことをどう受け止めましたか?

 

まぁ、俺たちはロックンロールを作っていないってことだけは分かっていた。俺たちが音楽を演奏する場所は教会だったから、ロックンロールじゃなかった。

 

 

— その考えがあなたとRikが袂を分かつ原因になったのではないでしょうか。彼はロックンロールの方向に行きたかったんですよね?

 

彼はそういう方向に進みたかったんだと思う。Jimi Hendrixから大きな影響を受けていたからね。Rikはシンセサイザーを弾くJimi Hendrixといったところだった。彼はそういう存在になりたかったんだと思う。アルバム重視のロックシーンで活動したかったんだ。

 

 

— その一方で、あなたはMetroplexを立ち上げることを考えていたんですよね。

 

そうさ。自分のサウンドを世に送り出すためにMetroplexを立ち上げた。ファンクとベースを重視したエレクトロトラックのリリースを続けるためにね。

 

 

— まだ若かったのに明確なイメージを持っていたんですか?

 

ああ。

 

 

— Cybotronの経験がMetroplexの立ち上げに影響を与えたのでしょうか?

 

もちろん。

 

 

— さて、少し話を戻しますが、Derrick Mayとの関係について少し話してもらえますか?

 

そうだな、奴は高校卒業後に俺たちと一緒に暮らし始めたんだ。「Alleys Of Your Mind」と「Cosmic Cars」のあとのタイミングでね。当時のDerrickは俺のレコードのプロモーション活動を引っ張ってくれていた。俺は祖母と一緒にデトロイトで暮らしていて、Derrickもそこで一緒に住んでいたんだ。

 

 

 

 

 

— Deep Spaceを立ち上げた経緯について教えてもらえますか?

 

元々はDeep Space Recordsとして立ち上げられたんだ。俺とRikがCybotron名義の作品をリリースするためにね。だが、そのあとでDerrickと俺でDeep Spaceという名前のサウンドカンバニーを立ち上げて、パーティを始めた。俺とDerrickには上手く機能したね。

 

 

— ベルビルからデトロイトに戻ってきたことがあなたの音楽に影響を与えたと思いますか?

 

多分なかったと思う。

 

 

— パーティを始めて、自分の音楽がどう聴かれるべきかについて考え直すことはありませんでしたか? 

 

パーティから得るところはあったが、デトロイトに戻ったことが何かを変えたとは思わないな。

 

 

— どんなパーティだったのでしょう?

 

他と同じさ。パーティに遊びに行くようになってから2年ほど経って立ち上げたからね。当時のパーティと俺たちのパーティの違いは、俺たちがブースに立つようになったってところだけだった。オーディエンスは同じだった。客層のバランスもね。ただ、俺たちがDJをするようになったってだけだ。

 

 

— オリジナルをプレイしたのでしょうか?

 

ああ。「Alleys Of Your Mind」と「Cosmic Cars」をプレイして素晴らしいリアクションをもらったよ。ビッグヒットになった。すでにMojoもプレイしてくれていたから、俺たちはデトロイトでは有名だった。

 

 

 

 

 

— Mojoはどこから手に入れたのでしょう?

 

俺たちが渡したんだ。俺たちのデモを聴いて気に入ってくれたのさ。Mojoが気に入ってくれたから俺たちはリリースすることにしたんだ。Mojoから「私は好きだね」と言ってもらったあと、すぐにプレスに回してレコードにした。それを渡したら、本当に番組でプレイしてくれたんだ。

 

 

— Mojoのサポートで状況が変わったと思いましたか?

 

そうは思わなかった。俺は音楽が大好きだったし、自分に自信があったが、自分たちがどうなるのかについては分からなかった。俺が好きだからって、他の人が好きになってくれるかどうかは分からない。だから、俺は何も予想できていなかった。状況は好転するとぼんやり思っていただけだ。

 

俺は「Alleys Of Your Mind」が相応しい評価を得たとは思っていない。なぜなら、ラジオ局とディストリビューションの政治的問題でこのレコードを米国内の他の都市に十分流通させることができなかったからさ。米国は、全国民が同時に同じトラックを聴けるBBC Radio 1のようなラジオ局を持っている英国とは事情が違うんだ。しかも、1980年代のラジオは今より細分化していた。最近は全米で情報が共有されるようになっている。ニューヨークでビッグヒットなら他の都市でもプレイされる。

 

当時のラジオDJはパーソナリティー的側面が強かったし、ラジオは都市ごとに違った。だからレコードを全米レベルで売り込むのが難しかったんだ。デトロイトで売れていても、シカゴやクリーブランドで売れるとは限らなかったし、逆もまた然りだった。シカゴへ車で向かえば、デトロイトとは違うサウンドが聴けたから「ワオ、こんなサウンド初めて聴いたぞ」なんて思っていた。単純にデトロイトへ入っていなかったんだ。

 

 

 

“「Alleys Of Your Mind」が相応しい評価を得たとは思っていない” 

 

 

 

— 別世界の話のように聞こえます。

 

だろ。インターネット誕生前というか、ここ10年でラジオはかなり中央集権化したが、当時はかなり分散していた。

 

 

— 当時のあなたはデトロイト以外の状況を知っていたのでしょうか?

 

どんな状況だったのかを説明すると、Derrickの両親はすでにシカゴに移っていたんだが、奴はまだ高校生だったから、卒業までデトロイトに残ることになった。だが、奴はタイミングを見てはシカゴを訪れていたから、現地のクラブの話を色々としてくれた。会った人物や聴いたラジオ番組なんかについてもね。俺はDerrickを通じてシカゴについて知ったんだ。

 

それで、Metroplexを立ち上げた時に、Derrickがレコードをシカゴへ運び込んだんだ。「No UFO’s」をね。DerrickがこのレコードをFarley “Jackmaster” Funkに渡すと、彼がヒットさせたんだ。シカゴ最大のヒットレコードにした。デトロイトよりもヒットさせたのさ。

 

 

 

 

 

— シカゴハウスについて知っていましたか?

 

というより、当時はハウスなんて言葉は存在しなかったし、シカゴでトラックを制作している奴はいなかった。Derrickがシカゴを訪れて、ある意味ハウスのオリジネイターと呼べるJesse SaundersやChip Eのような連中にレコードを渡すと、奴らもレコードを作り始めるようになったんだ。それでMetroplexとほぼ同時期にリリースするようになった。当時はデトロイトとシカゴの間でカルチャーの交流があったんだ。

 

 

— 当時のシカゴのクラブはディスコをプレイしていたのではないですか?

 

基本はディスコだったね。Hot Mix 5の初期番組を聴けば、ディスコの延長上に位置していたことが分かる。米国のディスコが終わりを告げた時、イタリア人はまだディスコを作っていたから、Hot Mix 5のミックスショーの大半はイタロディスコがフィーチャーされていた。1981年以降もイタリア人はディスコを作り続けていた。そういうレコードをシカゴのDJたちはプレイしていたんだ。それで最終的には自分たちで作るようになったのさ。だが、当時のHot Mix 5のミックスショーの80%はイタロディスコだった。

 

 

— ニューヨークよりもイタロディスコだったんですか?

 

ニューヨークの方が早かった。ディスコが死んだ時、ニューヨークも死んだ。ニューヨークはWest End、Prelude、SalSoulの都市だった。ディスコが死んだ時、こういうレーベルはすべて隅に追いやられた。彼らはディスコキングと呼べるレーベルだった。

 

 

— デトロイトでもイタロディスコはプレイされていたのでしょうか?

 

いや。デトロイトはシカゴよりも垢抜けていなかったからね。イタロディスコが多少プレイされるクラブパーティはあったが、ラジオではプレイされなかった。

 

 

 

“デトロイトはシカゴよりも垢抜けていなかった”

 

 

 

— 当時トラック制作をしていた人たちは、パーティでプレイされることを目標にしていたのでしょうか? トレンドセッター的な存在になりたかったのでしょうか?

 

ああ。だが、俺たちは別にパーティをオーガナイズしなくても構わなかった。DJができれば何でも良かったんだ。誰がオーガナイズしていても良かった。音楽のことだけ考えていた。音楽が何よりも大事なんだ。この考えは今も変わらない。オーガナイズしたパーティの数はそこまで多くなかったが、DJはできる限り多くやりたいと思っていた。

 

 

— 先見の明があったラジオDJ、Ken Collierのウォームアップも担当しましたよね?

 

ああ。あれは嬉しかったね。Kenはキングだったからさ。Kenからは数多くを学んだよ。

 

 

— 凄いことだったのでしょうか?

 

ああ。ディスコ時代にKen Collierはミックスショーを持っていたんだが、ディスコが死ぬと、ラジオ局はミックスショーをやりたがらなくなった。Kenはミックスショー時代のナンバーワンだった。アイコンだったんだ。だから、彼と一緒にプレイできるのは光栄だった。俺たちみたいな無名のDJたちと一緒にプレイしくれたのは嬉しかったね。

 

 

— Kenは積極的に若手にチャンスを与えるタイプだったのでしょうか?

 

分からないな。彼のことは良く知らなかったからね。単純に一緒にプレイできるのが光栄だった。

 

 

— Model 500名義での制作活動にフォーカスし始めたきっかけは?

 

俺はしばらくDJから離れることにしたんだ。DerrickはDJとしての活動を続けていった。奴はトラック制作をしていなかったからね。だが、俺はMetroplexを立ち上げたタイミングで数年DJから距離を取ることにしたんだ。そのあと、レコードが英国に輸出されてヒットしたタイミングでDJを再開させた。ヨーロッパをツアーで回れるようにね。

 

 

— Kraftwerkのようなヨーロッパの音楽に影響を受けていたあなたにとっては、ルーツを訪れたようなものだったのでは?

 

そうだが、エレクトロがヨーロッパで盛り上がっていたことは知っていたし、「Clear」と「Techno City」もエレクトロのコンピレーションアルバムに収録されていたから、何もかもがフレッシュだったわけではなかった。

 

 

 

 

 

Manuel GöttschingやKraftwerkを生んだヨーロッパにとってエレクトロは新しいものではありませんでした。その中で「Techno City」はデトロイトからの輸出品、自分たちのサウンドという意識はあったのでしょうか?

 

いや。当時は海外で売るなんて考えてもいなかった。ヨーロッパや英国であんなにヒットするなんて予想していなかった。

 

 

— ヨーロッパはエクスペリメンタルなエレクトロにオープンでした。あなたはそこにソウルを持ち込んだのではないですか?

 

そういう言い方はできるかもしれないな。

 

 

— 自分でもそう思いますか?

 

どうかな。表現としては間違っていないと思う。

 

 

— Göttschingは知っていましたか?

 

『E2-E4』は素晴らしかった。アンビエント的バイブスが強かったね。サマーブリーズ的な。

 

 

— ダンスミュージックではないと。

 

違うね。

 

 

— あなたの4つ打ち感は独特で、当時のこの手のサウンドをダンスミュージックに変えたと思います。

 

俺のスタイルは昔からダンスミュージックだった。俺は最初からダンサブルなトラックを目指していた。「Alleys Of Your Mind」もかなりダンサブルだった。

 

 

— ずっとダンスミュージックを作りたかったんですね?

 

そこが俺の強みだからね。


 

 

※:本記事は、Bill Brewther / Frank Broughton共著『The Record Players』に収録されていた2010年4月のインタビューを再編集・再構成したものです。

 


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19. July. 2019