二月 09

ロングインタビュー:John Peel

没後13年近く経った今も絶大な影響力を保ち続ける英国人ラジオDJへの貴重なインタビュー(1999年収録)

By Bill Brewster

 

John Peelのキャリアが現在まで続くポピュラーミュージックの歩みに大きな影響を与えたことは否定できない事実だ。John Robert Parker Ravenscroftという本名を持つこのラジオ界の天才は、ロックが深く根ざした米国・ダラスのラジオ局WRR AMで無給のDJとしてそのキャリアをスタートさせた。そして、1960年代中盤にダラスのKLIF、オクラホマシティのKOMA、カリフォルニア州サンバーナーディノのKMENなど米国内の複数のラジオ局を渡り歩いたあと英国へ戻ると、海賊ラジオでの仕事を通して当時のUKアンダーグラウンドシーンの重要人物のひとりとして急速な成長を遂げていった。1967年にBBC Radio Oneに加入したあとは、自身の番組『Night Ride』を介してUKのトップラジオDJとしての名声を確立し、BBC『Top of the Pops』の司会や、BBC World Serviceでの放送も担当した。

 

BBC Radio OneでPeelが担当した番組の中で最も有名だったものが、『John Peel Sessions』だった。彼はこの番組の中で、Nirvana、David Bowie、Gang of Four、The Smithsなど、様々なアーティストやバンドをいち早く紹介した。この唯一無二の番組は世代を超えて愛され、2004年に彼が死去するまで続く長寿番組となった。自分を心底興奮させる音楽を追い求め続けたPeelは、真のDJだけが備えている貪欲な探究心を体現していた存在だったと言えるだろう。今回は、Peelが自身の言葉でそのキャリアを回想し、彼がいかにして多大な影響力を持つ不世出のDJとなったのかというテーマについて議論を交わした、1999年4月収録の貴重なインタビューをDJ Historyの協力のもと紹介する。

 

米国に渡る前からすでにDJだったのですか? それとも、DJになることを目指して米国に渡ったのですか?

 

いやいや、そうじゃない。渡米した当時、DJという職業はまだほとんど存在していなかった。1960年代当時は、Radio Luxembourg(編注:ルクセンブルクから英国向けに放送されていた海賊ラジオの先駆者的存在)にPete MurrayやAlan Freemanといったごく少数のDJがいたくらいだった。あとはDavid Jacobsもいたな。彼もRadio Luxembourgに在籍していたはずではなかったかな? 渡米前、私の頭の隅に「DJになれたらいいな」という考えがあったのは確かだが、渡米した本当の理由は… 父親に行かされたからだ。実は、私も自分の息子に同じようなことをしているのだが。意趣返しというべきか、業というべきか…。私の息子は何もすることがなく、私も彼にどう接したら良いのか分からない。同じように、私の父親も当時の私にどう接したら良いのか分からなかった。それで「行く気があるなら、米国に行ってこい」と言ってきたから、渡米することにしたんだ。

 

渡米して1年ほど経つと、ダラスでR&Bをプレイしているラジオ局に出入りするようになった。というのも、私は彼らが所有していないレコードを持っていたからね。それで、DJの真似事のようなことを数ヶ月続けた。しかし、その経験を経てDJという仕事に味をしめ始めたものの、DJの仕事に戻れたのは、The Beatlesが登場して、リヴァプール近郊出身という私の経歴がもてはやされるようになった頃だった。私はダラスのKLIFでいわばThe Beatlesの専門家のような役割を担うようになり、その後、オクラホマシティのKOMAで初めてフルタイムのラジオDJとしての職を得たんだ。確か1964年の暮れだったと思うが、正確には覚えていない。ともあれ、私はKOMAに18ヶ月間在籍し、その後カリフォルニア州のサンバーナーディノのラジオ局で18ヶ月間DJとして働いたあと、1967年の春に英国へ帰国した。

 

サンバーナーディノのラジオ局では、アルバムの中から曲を選んでプレイしていたのですか?

 

ああ、実際はそうだったと言うべきかな。アルバムの収録曲もプレイしなければならなかった主な理由は、1日休みを取るために6時間の番組を週末に担当する必要があったからだ。かなりキツい仕事だった。短い番組を1本こなして、収録後にポップスターの友人たちと飲みに出かけるような日々ではなかった。ニュースの読み上げもやらなければならなかったし、ラジオ局のプロモーション関連のアナウンスもこなす必要があった。

 

当時の同僚だったJohnny Darrenという男 − 彼は最終的にロサンゼルスのKRLAで音楽ディレクターを務めることになるのだが − と2人で編成部門に出向き、より幅広い番組フォーマットの必要性を訴えた。今話題になっているシングルばかりをプレイするのではなく、アルバムの収録曲もプレイできるようにすべきだとね。その訴えは却下された。もしゴーサインを出していてくれたら、米国におけるFMラジオ局のスタイルの先駆けになっていたはずだ。

 

シングルだけではなくアルバム収録曲もプレイするという放送形式を初めて行ったDJはTom Donahueでしたね。

 

ああ、彼が最初だ。私たちの訴えが当時認められていれば、半年から9ヶ月はTomに先んじていたはずだがね。とはいえ、実際のところは、私も6時間の番組の中で架空のUKチャートをでっち上げてアルバムの収録曲もこっそりプレイしていた。自分がパイオニアだと権利を主張したいわけではないがね。

 

その “架空のUKチャート” でプレイした楽曲は覚えていますか? 第1次ブリティッシュ・インヴェイジョンのような楽曲でしょうか?

 

John Mayall & The Bluesbreakersのファーストアルバムなどだね。あとはThe Yardbirdsの「The Naz Are Blue」という曲も。これは一度もシングルとしてリリースされたことのない曲なのだが、私がでっち上げた架空のUKチャートにぴったりだった。

 

英国に戻られたのはいつですか?

 

1967年の春だね。

 

帰国後すぐにロンドンへ移って来られたんですね。英国でのDJの仕事はどうやって探したのでしょう?

 

母親がノッティングヒルに住んでいて、隣人の男性がRadio Londonと広告の仕事をしていたんだ。それで、彼から「Alan Keyに会ってみたら?」と提案されたんだ。AlanはRadio Londonの局長だった。直前までカリフォルニアで働いていたおかげで、オーディションがなかったのは幸いだった。彼らは自分たちの活動期間に限りがあることを知っていたんだろう。それで「やってもらおう」と言われた私は船に乗り込んで番組を始めたんだ(編注:Wonderful Radio LondonもしくはBig Lという愛称で親しまれたRadio Londonは、船上に放送設備を備えた海賊ラジオ)。

 

私が任されたのはデイタイムのレギュラー番組だったが、この局には夜12時から深夜2時までの番組枠もあった。私はすぐに船上にいるスタッフが誰もその深夜枠の放送を聴いていないことに気付き、その枠を使ってカリフォルニア時代にプレイしたくてもできなかった楽曲を放送し始めた。誰からも叱られなかった。ニュースも天気予報もCMも省き、フォーマットを無視して番組を進めた。ただひたすらレコードをプレイし続けた。

 

誰からも叱られなかったのは、当時のRadio Londonのリスナー数が少なかったからでしょうか?

 

いや、リスナーは放送内容を気に入ってくれていたよ。むしろ、彼らからの反響は非常に大きかった。Radio Londonを辞める直前の数ヶ月は、とんでもない数の手紙が届いていたよ。これは同僚だったKeith Skuesに確かめてもらえれば分かるだろう。局内の他のスタッフが受け取る手紙の総数と比較しても、7倍から8倍は多かった。フラワーパワー時代のロンドンでのヒッピームーブメントは、私のあるラジオ番組がきっかけだったんだ。『Perfumed Garden』という番組名だった。同名の17世紀の性愛マニュアル本が存在することは知らなかった。

 

では『Perfumed Garden』という番組名は一体どこから?

 

私の頭の中に浮かんだくだらないアイディアさ。

 

『Perfumed Garden』ではどんな楽曲をプレイしていたのでしょう?

 

カリフォルニアから持ち帰ったレコードを数多くプレイした。それから、LoveやDoorsをはじめ、Paul Butterfield Blues Band、Incredible String Band、Judy Collinsなど、当時のElektra Recordsがリリースしていた作品。あとは、Jimi Hendrix、Pink Floyd、Creamなどだ。

 

当時はJoe Boyd(編注:Pink Floyd、Vashti Bunyan、Airport Conventionなど、数多くのブリティッシュフォーク/サイケ作品を手がけた米国人プロデューサー)もロンドンに住んでいたのでは?

 

そのはずだ。ロンドンで彼と会ったことがあるからね。当時の私はとにかく単純だった。純粋という意味ではある意味今もそうあって欲しいと思っているが、いかんせん単純で、熱中できるものがあるというだけで喜んでいた。しかし、その一方で、自分がやっていることは単なるラジオ番組よりも大きな何かの一部なんだという感覚もあった。とにかくエキサイティングな時代だったよ。

 

当時はクラブでのDJも行なっていたのですか?

 

数回プレイしたよ。当時はオックスフォード・ストリートにTilesという悪名高いクラブがあって…

 

Jeff Dexterがプレイしていたクラブですね?

 

そう、その通り。Tilesが閉店する最後の夜にDJしたんだが、あれは酷かった。

 

あのクラブはドラッグの巣窟でした。

 

私のプレイに客が耳を傾けてくれる店でなかったことは確かだ。怒りに満ちた表情をした客たちが私のいるブースに大挙して、自分たちが聴きたい曲をかけろと私をドヤしつけた。彼らが聴きたいのは、Grateful DeadやJefferson Airplaneでもなければ、Country JoeやThe Fishでもなかった。私は客全員から嫌われていたよ。また、そのあとで別のクラブでも閉店する最後の夜を担当した。だからしばらくは、自分はクラブを閉店させる運命にあるのではないかと思っていたんだ(笑)。とどめの一撃を食らわせる役目を担っているんじゃないかとね。

 

UFOでプレイしたことは?

 

あるような気もするが、なかったかもしれない。通ってはいた。

 

UFOの雰囲気はどうでしたか?

 

非常に良かった。UFOは私が生涯唯一自分の意思でアシッドを摂取した場所だった。この場所ならバッドトリップすることもなく安全だろうという気持ちがあったからだ。あの頃のクラブは、現代(1999年)のクラビングとはかなり違っていてね。ダンスするというより… もちろん、中にはかなりクレイジーにダンスしている人もいたが、客の大半はフロアに座り込んでトンでいた(笑)。なかなか楽しそうだろう? 悪くない雰囲気だった。Soft MachineやArthur Brown、Pink Floydなどが演奏していてね。孤独なバックグラウンドを持っている人にとっては特にそうだが、若くても老いていても、自分と他人が同じ対象に興味を持っていると感じられる場所に出かけることは楽しいものだ。私にとって、UFOはそういう場所だった。

 

私はかなりミーハーだった。まあ、今もある意味そうだと言えるがね。周囲が「そうそう、Brian Jonesもここに来ているよ」と噂しているのを聞いて、彼と知り合いになったんだ。あのThe Rolling StonesのBrianと個人的に電話番号を交換するなんて、身震いする思いだったよ。とはいえ、私が個人的に知っている有名人は決して多くはなかった。Pink Floydのドラマーは知っていた。彼らとは何度も(Peel Sessionsのための)ギグをやったからね。Jimi Hendrixとも何度もギグを行なったし、Saville TheatreではCreamとのギグも行った。Creamのギグでは、Ginger Bakerが20分余りのドラムソロをプレイしたが、あまりに退屈すぎるので彼をステージから引きずり下ろしてやろうと思ったほどだ。Gingerはアグレッシブな男で、驚くほど打ち解けにくい男だった。

 

Middle Earthについて何か思い出はありますか? Jeff Dexterはこのクラブであなたと一緒に何度かプレイしたことがあると言っていましたが。

 

Jeffと私は交代でプレイしていたんだ。私はラジオDJで、彼はライブDJだった。彼はRoundhouseにも出演していて、Creedence Clearwater Revivalのレコードを山ほどプレイしていた。Middle Earthは数回プレイしたことがあるが、ステージの真下にある小さなブースに一晩中詰め込まれている感じだったね。あれはキツい体験だった。今じゃ到底あんな環境ではプレイできないし、当時もやっとの思いでこなしていた。とはいえ、Middle Earthは良く出来たクラブだった。UFOほどではなかったけれどね。

 

 

 

“Radio Londonでは、既存のルールを捻じ曲げることが全てだった”

 

 

 

UFOの客層はどのような感じでしたか?

 

私には判りかねるな。そもそもUFOで他の客と話した確かな記憶がないんだ。あの場所へはいつもひとりで行っては、どちらかといえばやや哀れな感じでポツンと立っているだけだったからね。だが、そのような人間は私以外にもいたはずだ。あの場所の雰囲気は、ある意味、最近のフェスティバルと似ている。あそこではコミュニティ感覚が得ることが重要だった。他人とコミュニケーションを取らなくてもそれが感じられる場所だった(笑)。他人も自分と同じ気持ちだと感じることができればそれで良かったんだ。

 

UFOではどんな音楽がプレイされていたのですか? あくまでも店内のムード作りの一部だったのでしょうか?

 

いや、BGM的なものではなかった。音楽は人々をつなぐリンクのような存在だった。音楽は店内の客が共有していた最大のものだったと思う。UFOは「面白そうだから入ってみようか」と気軽に入るような店ではなかった。軽い気持ちであの店に入ったら、すぐ出ることになる。独特の一体感があり、絆のようなものがあった。UFOで一晩を過ごして朝を迎えると、私を含め多くの人々が別人となって帰っていった。UFOにやってくる客は、ビーズやベル、高価なヒッピーアイテムを身につけて表通りを闊歩する勇気を持っていなかったんだ。私も高価なヒッピーアクセサリーは持っていなかった。ビーズで編まれた酷いデザインのカフタン(編注:長くゆったりとしたシルエットのドレス)しか持っていなかった。カーナビー・ストリートの店で大枚をはたいて購入したんだ。あとは、ヒッピーパンツも1着持っていたが、これも絶対に外では着られない強烈なデザインだったので、棚に掛けっぱなしだった。

 

海賊ラジオの話に戻りますが、Radio Londonは自由市場資本主義に基づいたビジネスとして経営されていたのでしょうか? それとも、より緩い形で経営されていたのでしょうか?

 

緩い経営は目指していなかったと思う。私が知る限り、Radio Londonはテキサス出身のビジネスマンたちが経営していた。彼らにとってはあくまでも金儲けの手段のひとつだった。Radio Caroline(編注:Radio Londonに先駆けて英国での船上ラジオ放送を開始していた海賊ラジオ)は、いくらか理想主義的な理念を掲げて経営されていたが、やはりあそこもビジネスだった。Radio Carolineで曲をプレイしてもらうために、アーティストは金を払う必要があったからね。だが、Radio Londonにはそのようなシステムはなかった。Radio Londonは、既存のルールを捻じ曲げることが全てだった。私たちの給与も、ケイマン諸島(編注:西インド洋に浮かぶ英国領のタックス・ヘイヴン)経由で支払われていて、英国に税金を納める必要がなかった。

 

Radio LondonのDJ陣はどう考えていたのでしょう? 経営側とは違う理念を持っていたのでは?

 

いや、経営陣と変わりはなかった。Radio LondonのDJ陣は、母国で仕事にあぶれたか、単純にDJが面白そうな仕事だと思っていた米国人か、あわよくばこの仕事を踏み台にしてTVなどの仕事にありつこうとしていた人たちで構成されていた。Radio Oneも開局当初にこれと似た状況に頭を悩まされることになった。ラジオDJの仕事を他のおいしい仕事を呼び込むための踏み台と考えている人間が一定数いるんだ。ラジオDJをきっかけに、クラブでのDJやTVの仕事、レーベル運営などを始めたいと考えている人たちがね。

 

Radio Oneの初期は、DJが音楽に関心を持っているのは仕事に不利だと考えられていた。本当の話だ。大げさに聞こえるかもしれないが、実際にそうだったんだ。ラジオDJが音楽に興味を持つことはかなり特殊なケースとして扱われていた。DJが音楽に関心を持っているとレコード会社の言いなりになってしまうと考えていたからだ。特定の曲のプッシュなどが起きると危惧していた。

 

多数のバンドがライブ出演していたのはそれが理由ですか?

 

いや、それはむしろニードルタイムという制限と関係があった。ニードルタイムとは、1日にレコードを放送できる時間のことだ。Radio Oneでは、開局前にミュージシャンズ・ユニオン(演奏家組合)と交わした取り決めにより、ニードルタイムが1日約7時間に設定されていた。これは演奏家の出演時間を確保するための措置だった。とはいえ、実際にはNorthern Dance Orchestra(編注:1956年から1975年まで存在したBBC専属のビッグバンド・オーケストラ)が当時のヒット曲をカバー演奏するケースも多かった。

 

 

 

“海賊ラジオ時代は、船の側面の接岸用に備えられているタイヤの上に腰掛けて海を眺めながら楽しいアイディアを考えていた”

 

 

 

Northern Dance Orchestraが「Purple Haze」(Jimi Hendrixの代表曲のひとつ)をカバー演奏していたという噂は本当ですか?

 

確かにNorthern Dance Orchestraは「Purple Haze」をカバー演奏していたよ。テープに録音しておけばよかったな。ニードルタイムは非常に奇妙なルールだったが、当時のBBCに選択の余地はなかった。

 

Radio Londonに話を戻しますが、船上生活はいかがでしたか?

 

当時は2週間船の上で生活して、1週間休みをもらうというスケジュールを繰り返していた。結構気に入っていたよ。実は、当時は最初の結婚生活が破綻を迎えようとしていた時期でね。だから、ロンドンから遠く離れて2週間を船の上で過ごす生活は実に気楽なものだった。男だけの生活だったしね。小さな船室も与えられた。最初の頃は、Mark Romanとシェアしていた記憶がある。

 

Radio Londonの船はどこに係留されていたのでしょう?

 

英国の東海岸にあるフェリックストーという港町の沖合さ。Radio Carolineの船も視界に入る距離に係留していて、Johnnie WalkerをはじめとしたRadio Carolineのスタッフたちが時折海を泳いでこちらの船に遊びに来ることもあった。思えば無謀なことをやっていたものだ。船上の私は、大抵の場合、ただ座っているか、音楽を聴いているか、ほんの少しストーンしているかだった。船上生活は比較的充足していたよ。TVを観て過ごすことも多かった。

 

船上生活で何か事件が起きたことは?

 

私がいる間は事件と呼べるほどのことは起きなかった。船上ではかなり秩序が保たれていたよ。たまに小さなボートがフェリクストーの港からやってきて、新譜のレコードを届けてくれていた。

 

Kenny Everett(編注:英国の人気ラジオDJ・TV司会者・コメディアン。大衆向けの番組司会の数々で人気を博した)をはじめとした他のスタッフとの思い出は?

 

Kennyは非常に愉快な男で、しかも頭が切れた。私は彼のTVの仕事は好みではなかったが、ラジオの仕事は非常に見事だった。実際、彼は良き同僚だったよ。Keith Skuesも私が気に入っていた同僚のひとりだ。とても気が利く親切な男だった。

 

先ほど、「Radio OneではDJが音楽に関心を持つのは仕事に不利だった」と言っていましたが、Radio Londonでも同じだったのでしょうか?

 

ああ、Radio LondonでもDJが音楽に関心を持つのはやや特殊なケースだった。

 

そのようなDJは当時あなたひとりだけだったのですか?

 

いや、KennyはかなりのThe Beatlesファンだった。『Revolver』期のいかにもなThe Beatlesが大好きだった。また、Tony BlackburnもTamlaなどのモーターシティ・ソウルに入れ込んでいたね。

 

デイタイム・プログラムは退屈な内容だったのでしょうか?

 

いや、退屈ではなかった。Radio Londonではデイタイム・プログラムもエキサイティングだった。他局のデイタイムとは全く真逆の内容を仕掛けようとしていた。私がカリフォルニア時代に手がけていたデイタイム・プログラムに比べれば退屈だったが、それまで英国のデイタイム・プログラムに比べると格段にエキサイティングだった。Radio Londonではデイタイムにも沢山のレコードをプレイしたし、良い曲も沢山あった。何かが変わりそうだという予感があった。Radio Londonでは、たとえ最も退屈な時期でもエキサイティングな何かを感じることができた。

 

正直に言えば、もっと当時のことをよく憶えておけば良かったと思っている。当時の大半をボーッと過ごしていたというわけではなく、単純に記憶に残るほど良い思い出がないというだけの話だ。船に乗っている間に天候がそこまで大崩れすることがなかったのはラッキーだった。私たちは船の側面に向かい、接岸用に備えられているタイヤの上に腰掛けていたものさ。そうして日がな海を眺めては、楽しいアイディアを考えていたんだ。船の上には私と同じ趣味を持つ人間がいた。彼らは番組スタッフではなく、エンジニアだった。どういうわけか、その中には女性の名前を持つ男性が複数いて、大男のエンジニアもハーマイオニーという名前だった。

 

当時は何人が乗船していたのですか?

 

17人から18人といったところだ。ただし、他に船員もいた。船員は皆オランダ人だったから、言葉が通じることはなかった。

 

その船はずっと同じ場所に係留されたままだったのですか?

 

少なくとも、私がRadio Londonにいる間は同じ場所だった。

 

船から陸に戻る際はどうしていたのですか?

 

小さなタグボートに乗って陸まで戻っていた。フェリックストーの港まで送ってもらうのさ。郵便物や食料などの物資、それに代わりのDJなどを運ぶためのタグボートが船と港の間を毎日往復していたんだ。

 

Radio Oneへ移籍した理由は?

 

BBCがRadio One開局の準備を進め、Radio Londonが終わりを迎えようとしている頃、私たちはBBCが開局に向けて海賊ラジオからDJを引っ張るはずだと読んでいた。(編注:BBCがRadio Oneを設立した目的は、Radio Luxemburgなど当時の若年層からの人気を獲得していた海賊ラジオ局に対抗し、これらを駆逐することだったと言われている)。だから、DJはこぞって熱のこもった履歴書を用意してBBCに送りつけていたんだ。私はそのような履歴書を用意した覚えはなかったのだが、知り合いのひとりに私が書いた履歴書を見せられた。それで、もう書いていないとは言えなくなってしまった。その結果、私はBBCと半年間だけ契約することになったが、Tommy Vance、Pete Drummondと競い合わなければならなかった。

 

任された番組は『Top Gear』ですか?(編注:『Top Gear』は1967年にBBC Radio Oneでスタートしたプログレッシブロック番組で1975年まで放送がされた。同名のTV番組とは別物)

 

そうだ。最終的に3人の中からひとりだけがプレゼンターに選ばれるというのは全員が知っていたことだが、幸いなことに、プロデューサーのBernie Andrewsがその役を私に任せたいと考えていたので有利な立場にあった。彼は反対する声もある中で推してくれた。開局当初のRadio Oneの私の仕事の大半は、Bernieと彼の右腕でエンジニアを務めるBev Phillips、そしてPete Ritsimaによってもたらされたものだ。

 

 

 

“自分が今やっていることを続ける以外、何の野心も持ち合わせていない”

 

 

 

『Top Gear』は、あなたがRadio Londonで手がけていた『Perfumed Garden』を更に発展させた番組だったのでしょうか?

 

どうだろう。ある意味『Perfumed Garden』よりも後退していたのではないかな。というのも、当時のBBC、そしてプロデューサーのBernieによって一定の制限が設けられていたからね。Bernieは5分から6分を超える楽曲を放送することについて否定的だった。当時はヒッピームーブメント全盛だったので、多くの楽曲がこの制限に引っかかった。リスナーにドラッグ的な想像力や感受性を植え付けかねないものを放送しないよう配慮する必要があったんだ。よって、ドラッグソングと見なされる可能性がある楽曲を放送する際は非常に気を使った。実際、かなりの数の曲が放送禁止になった。プレイできる音楽が限定されていた上に、BBCは全国放送だから、なおさら気を使った。

 

BBCでの自分自身の役割の変化をどう見ていますか? あなたはBBCの安全弁のような役割だったのでしょうか?

 

確かに、Radio One初期の私がそのような役割を果たしていたと考えることは可能だ。当時、番組内容が平凡だとリスナーからクレームの電話を受けるとスタッフは「でしたら、John Peelの番組をお聴きになってみたらいかがでしょう」と答えていた。今は違うと思うがね。今はDJのパーソナリティよりも音楽自体にフォーカスした番組が数多く存在している。

 

あなたはBBCでどのような変化を見てきましたか? 良い方向に変わりましたか?

 

BBCは良い方向に変わったと考えている。何よりも素晴らしいのは、彼らが常に私のやりたいようにやらせてくれていることだ。彼らは、私がちゃんと分かった上で番組をやっていること、そしてリスナーが私の番組を気に入っていることを知ってからは好きなようにやらせてくれている。そこに干渉は一切ない。この環境はかけがえのないもので、他局ではこれほどの自由は得られていなかっただろう。

 

それはBBCのパラドクスと言える部分ですよね? BBCは本質的には保守的ですが、束縛されない自由さも持ち合わせています。

 

その通りだ。Radio Oneでは、2つの相反する大きな力が働いている。Radio Oneは聴取者を多く獲得しつつ優秀なプレゼンターを起用する必要がある。古くはTony Blackburn、最近ではZoë Ballなどだ。一方、Radio Oneは公共サービスとしての役割を満たすべく、より音楽にフォーカスした番組を持つ必要もある。

 

各ジャンルに精通したスペシャリスト的なプレゼンターが増えたことで、あなたの負担は減少したと思いますか? 20年前はヒップホップや電子音楽、パンクなどが聴ける番組はあなたの番組しかありませんでした。

 

ああ。確かに私の番組はそうだったし、私自身もその状況を理解していたが、その状況を好んでいたかと言うとそうではなかった。望んでいないプレッシャーがかかっていたからね。私の番組に似た番組が増えて欲しいと願っているよ。そうすれば、自分が聴きたいより自分の個人的な興味に集中できるからね。Radio Oneには私が個人的に聴いている番組がいくつかあるが、最近はラジオ局がプレイする音楽としてはかなりリベラルだが、各ジャンルの中では考えれば当たり障りのない音楽がプレイされる傾向にある。

 

あなたがDJを始めてから随分長い月日が流れましたが、DJという職業は20年前、いや10年前と比べても考えられないほど多くの尊敬を集めるようになっています。

 

ああ、確かにそうだね。

 

過去15年間に起きたDJを取り巻く環境の変化についてはどう感じていますか?

 

それについてはあまり深く考えたことはないな。私は自己分析に多くの時間を捧げるタイプの人間ではないし、社会における自分の立場を理解しようすることもない。やるべきことが多すぎて、時間が足りないんだ。私は自分のやるべきことをやっているだけだ。これが君の求めている回答ではないことは知っているし、むしろ、私はこの質問に何の回答も持ち合わせていないが、これが真実なんだ。

 

基本的にはただレコードをかけているだけのDJが、今となってはポップスターのような扱いを受けて過大にもてはやされていると考えたことはありますか?

 

Noel Edmonds(編注:英国の大物司会者。Radio One出身)のような知名度の高さで更なる知名度を得ていった著名なDJはこれまで存在しなかった。もちろん、彼はそれを利用してキャリアを築いたわけで、私としては別に何も言うことはない。Noel Edmondsが実は何をしているのかを誰かに教えられても、「どうでもいい」と思うだろう。彼は自信家で派手な服に身を包んでいるが、ああいう人間は沢山いる。

 

ある意味、Radio One開局当時と比べると、最近のDJは微妙な存在になっていると思うね。かつて、Tony BlackburnやJimmy YoungといったDJたちは、自分たちの番組を聴いてくれる絶大な数のリスナーを抱えていた。もちろん、Zoë Ballも非常に有名だが、彼女はTVの世界からラジオに進出してきた。メディアの記事によると、英国中 − いや、世界中の誰もが彼女とデートしたいと思っているようだ。まあ、私はそうしたいとは思わないがね。彼女のようなDJは、限られた小さなコミュニティの中で有名なのだろう。

 

DJの役割は今も昔も変わっていないと思いますか?

 

分からないな。君の意見を聞かせてもらいたいね。

 

分かりました。(インタビュアーがDJは音楽をリスナーに伝えるフィルターだという論を長々と展開)

 

そういうDJとは違うDJやラジオ局の数はもっと多い。残念ことに、他のDJやラジオ局はRadio Oneの優れた部分ではなく、劣っている部分を取り入れているように思える。英国の多くのラジオ局は、ダンスミュージック以外の専門番組をなくしてしまい、多くのDJはラジオ局から言われるがままに嬉々として仕事をこなしている。馬鹿馬鹿しい企画を進行させ、音楽ではなくトークばかりしている。私の言いたいことは分かるだろう? 率直に言って、どれも簡単に予想できるし退屈だ。

 

Dave Clarke(英国のテクノプロデューサー)のようなDJやプロデューサーがあなたからの影響を公言していることについてはどう思いますか?

 

アーティストは身の回りに起きる様々なことから影響を受けるものだが、その影響のひとつになれるということは、ある意味、自分が色々と授かってきた音楽という大きなコミュニティに恩返しできているような感慨を得られる。自分は目に見えない循環運動の一部なのだということを認識する。全ては輪廻を繰り返すのさ。もし本当にDave Clarkeのようなアーティストが私の番組を聴いて影響を受けてくれたと言ってくれるのなら、非常に嬉しく思う。また、私の番組が彼らにとって良い手助けと動機付けになったのだとしたら、循環運動が上手くいっているということだろう。

 

DJとしてのあなたの役割は何だと思いますか?

 

私はそういう風に考えたことがないんだ! 「昔からずっと望んできたことは、今の仕事を続けることだ」と言っても良いのかもしれない。私は自分が今やっていることを続ける以外、何の野心も持ち合わせていないんだよ。

 

では、“今やっていること” をどう捉えていますか?

 

田舎に住み、自分の好きな音楽を聴いて、それを他人のためにプレイしているということだ。今、私は週1回のペースで自宅から番組を放送しているが、これは私にとってひとつの達成なんだ。というのも、自宅に座って好きなレコードをプレイしてそれを他者に向けて聴かせるということは私が12歳の時からやりたかったことだからね。リスナーが同じ空間にいないというのはおそらく好都合だ。私の家は決して大きくはないからね(と言って側を通り過ぎる男に手を振って応える)。今そこを通り過ぎて行った男は私に向かって手を振っていたのかな? 自分とは違う人物に手を振っているのを勘違いして手を振り返すのは、バツが悪いからね… 。

 

 

※このインタビューは1999年4月にロンドンにて収録されたものです。

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