十一月 03

Interview: 鈴木勲

日本が誇るジャズ・ジャイアント、その冒険に満ちたキャリアを振り返る

By Masaaki Hara

 

鈴木勲は、1933年東京生まれ。今年81歳になる現役のジャズ・ベーシスト/作曲家である。渡辺貞夫と同い年で、戦後の日本のジャズの発展に多大な貢献を果たしてきた存在だ。しかし、鈴木勲を偉大なミュージシャンであったと過去形で讃えることは、正しくはない。いま現在も精力的に活動を続け、しかも、それは老舗のジャズ・クラブだけではなく、DJらと共に夜中のクラブでもセッションを繰り広げているからだ。白髪の長髪を束ね、スカートを履いた、その性を超越したようなスタイルは、見る者に強烈な印象を残す。もちろんスタイルだけではない。芯のあるベースの音と、滑らかに弦を押さえ、移動していく指の動きが何よりも人を魅了する。そして、どんなに若いミュージシャンと演奏しても、最後まで凛とした姿勢を崩すことなく、ステージに誰よりも長く立ち続けている。そんな鈴木勲のことを、人々は親しみを込めて、OMA(オマ)さんと呼んできた(このインタビューでもそれ故、その愛称で呼ばせてもらった)。

 

1952年、鈴木勲がベースを手に入れるちょうど前の年に、アメリカを始めとする連合国と日本国との間で、平和条約(サンフランシスコ条約)が発効され、既に第二次世界大戦は終結していたが、日本は晴れて正式に国家として主権を取り戻すことになった。と同時に、日本とアメリカとの間で安全保障条約が結ばれ、米軍が安全保障の名の下に日本各地に軍事基地を設けた。この在日米軍の基地、いわゆる米軍キャンプが、日本に軍備と共にジャズを送り込んだ。鈴木勲はその米軍キャンプにいきなり乗り込み、ジャズを吸収した第一人者でもある。まずはその希有な経歴から話してもらおう。 

 

 

1953年にLouis Armstrongの来日公演を見に行った際、ベースのMilt Hintonに影響されてベースを始めたと、OMAさんのプロフィールでは書かれてありますね。

 

そうそう。本当にそうなの。東劇っていう劇場でやってて、隣が東劇バーレスクっていうストリップ劇場で、そこでベース募集って書いてあって、あ、これはちょうどいいなと思ってさ、さっそくオフクロに頼み込んでベース買ってもらって、それで持って行ったのよ。それが初めて。

 

それまで楽器を演奏したことは?

 

全然。

 

凄いですね。当時ジャズは聴かれてたんですか?

 

いや、聴いてない。あの時が初めて。僕はこれだと思って。なんだあいつすげえ速ええなって思ってさ。

 

いきなりベースを手に入れて、どう習ったのですか?

 

ストリップ劇場行って、「募集って書いてあるんですけど、ベース募集してるんですか?」って言ったら、バンマスが「してるよ、坊や出来るのかい?」って。「いや全く知らないんですけど、募集って書いてあったから昨日楽器買ったんです。どうにかベースをやりたいんです、僕は昨日Armstrongを観たんで」って言ったら、「面白いからじゃあお前ちょっと弾いてごらん」って。弾いてごらんって言ったってさ、音も出ないんだから、マメ作っちゃって、ひどかったんだよ。「それじゃあ教えてやるよ」って、ストリップするところだから、「白いドレス着て女の子が来たらこの白いのを貼っとくから交互に弾け」とかね。そこに一年くらいいたんですよ。

 

その間に弾けるようになったんですね。

 

だいぶ弾けるようになった。そしたらね、必ず1週間に2回くらい来る米兵がいるんだよ、二人。で、「僕たちはミュージシャンで、陸、空軍の軍楽隊だけど、来るか?」って。それで米軍の軍楽隊に行ったのよ。そしたらもう凄いの。ピアノいっぱいあるし、楽器は全部そろってるし、みんなジャズやってるわけ。軍楽隊だから国旗掲揚したら、あとはもう好きなことやっていい。

 

OMAさん以外に日本人のミュージシャンは出入りしてたんですか?

 

いない。僕がそこに2年か3年いて、かなり弾けるようになって、そのバンドを聴きに日本のミュージシャンたちも来るようになったの。そうし たら、「あの二世はうめえ」とか言ってたらしんだけど、二世だと思ったんだよ僕のこと

 

いきなり本場の人たちに鍛えられたんですね。結局どのくらいの期間いたんですか?

 

4年くらいはいましたね。それで彼らがアメリカに帰るんで、今度はドラムの清水潤のバンド、日本でも超一流のバンドなんですよ、そこへ入って、それが初めての日本のバンド。

 

その当時、演奏してた場所は?

 

キャバレーとかそういうのですよ。

 

基本的には踊らせるんですか?

 

そう、仕事場ったらキャバレーだから、みんな踊らせなきゃいけない。だから、難しいジャズはできない。でタンゴが入ったりするわけよ。ジャズ・バンドなのにタンゴがやんなきゃ首になっちゃう。だけどジャズだけ専門にやってる場所がないし、後からはだんだん出てくるけど。

 

お店が終わってから夜中にセッションとかは?

 

セッションはありましたよ。それもだいぶ経ってから。有楽町のビデオ・ホールとかね、あの辺で。

 

それは、60年代になってからですか?

 

そうでしょうね。いや、60年ちょっと前かな。僕が松本(英彦)さんのとこに入ったのが60年ちょい。

 

銀巴里セッションの頃ですか?

 

そうそう。銀巴里はね、もうあそこのセッションはね、みんな来てましたよね。で、僕はああいうとこあんまり行かなかったんですよ。変な風に凝っちゃってて、僕がやってるジャズとは違うなって思って。高柳(昌行)だとかね、みんな知ってることは知ってるけど、一緒にやってもしょうがないかなって。

 

ちょっと頭でっかちな感じがしたんですか?

 

そうですね。それと、みんな薬やってたしね。僕は薬嫌いだから。銀巴里は時たま行っても、ちょっと1曲くらい弾いてばっと帰っちゃう。

 


 

 

 東京・銀座にあった銀巴里は、シャンソン喫茶と称され、当初はシャンソンの演奏が中心だったが、次第にジャズを志す若いミュージシャンのセッションの場となっていた。『銀巴里セッション』としてレコードも残されており、ギターの高柳昌行、ドラムの富樫雅彦、ピアノの菊地雅章と山下洋輔、トランペットの日野晧正ら、その後の日本のジャズを代表する蒼々たる面々が参加しているが、鈴木勲の名はそこにはない。しかし、銀巴里セッションの中心メンバーであった高柳と富樫(共にその後の日本のフリー・ジャズを切り開くことになるキー・ミュージシャン)をはじめとするこれらの面々と、鈴木勲はその後も幾たびも重要な局面で演奏を共にしてきた。そうやって繋がるべきときには繋がるのが、鈴木勲のスタンスなのだろう。

 

OMAさんは結果的にいろんなところ、いろんな人と繋がってますよね。

 

そうですね。顔も広かったからね。

 

だからこそ、幅広く見られてるんじゃないですか?

 

そうですね。やっぱり外人みたいな考え方してたから、外人とずっとやってたから、だからどうしても日本人と何か話がこう……。

 

合わない?

 

合わないっていうか、こっちが嫌だなって思ったらすぐバンドを辞めちゃうじゃない。

 

一つのシーンだけに入るのが嫌だったのですか?

 

そうなんですよ。そう、良いシーンならね。だから富樫と僕みたいにデュエットでやるとか。彼と僕とはずっと一緒に付き合ったけど、本当に彼の考えと僕の考えとは似てるんだよ。

 

富樫さんと知り合ったのは銀巴里の頃からですか?

 

そう、その頃からだね。反応がやっぱり違うなって思った、他のドラムとは。渡辺貞夫と僕と菊地雅章と富樫と、その4人のカルテットは最高に面白かった。

 

凄い組み合わせですね。

 

もう渡辺貞夫そっちのけで3人で文句言いながらやってたから、入ってこれないんだよね、貞夫ちゃんは。「もうやめなよケンカするのは」とか。

 

それは渡辺貞夫さんがアメリカに行く前の話ですか?

 

帰ってきてから。そうしたら、かなり良くなったからね。

 

OMAさん自身は、早い時期にアメリカに行こうとは思わなかったんですか?

 

全然思ってないんだよ。外人とやってたわりには。何しろ日本でやってたじゃないですか、いそのてるおのファイブスポットで。

 

いそのてるおさんは、ジャズ評論家で来日コンサートで司会もやられてましたね。その方がやっていた自由が丘のファイブスポットというお店がOMAさんの活動拠点になっていたんですよね?

 

そう。必ず司会した後に、メンバー全部連れてくるわけ。その中にArt Blakeyもいたのよ。それでBlakeyと一緒にやったんですよ。そしたら、いきなり「お前、家にこないか」って言うから。それが69年のこと。

 

with Elvin Jones and Duke Pearson

 

すぐ決心してニューヨークに行ったんですか?

 

すぐ決心した。すぐ来いって言うから。それで「お前の資料を送れ」って言うわけ。もう何から何までいろんな資料、記事とかを全部切り取って束にして、Blakeyの家に送ったの。そして、向こう行ってから1年くらい経って、あいつの車でほら、旅に行くじゃない。今日はシカゴ、明日はボストンだってさ。それで後ろに座ったらさ、なんか紙切れがあると思って、見たら僕が送ったやつが束になって置いてあって、全然見てねぇって、嫌になっちゃったよほんと。一生懸命切ったのにさ。

 

車でアメリカ全土を回ったんですか?

 

回りましたね。カナダも回ってね、トロントも。昔の古いキャデラックで、後ろにね、四角い車輪がふたつついてて、そこ開けてベース突っ込んで、はみ出したよね、柄が。雨振ったら大変よ。

 

どんな編成だったんですか?

 

George Cables、Woody Shaw、Ramon Morris、それと僕。

 

ニューヨークに行って、当時はまだ日本人だと奇異な目で見られることも多々あったのではないですか?

 

あるんですよね。あるんだけど、僕はもう全然そういう目では見られなかった。こいつは上手いっていう、ちょっと違うと。だから、Elvin Jonesともそうだし、Philly Joe(Jones)もやっぱりベースがうるさいじゃない。ベースが上手くないとやれないでしょ。だからElvinなんか僕と一緒に組んで2人でやってたからね。Art Blakeyもやってたけど、あちこちでやってたんですよ。

 

ニューヨークでの日々の活動は実際どういう感じだったのでしょうか?

 

ギターっていう店があって、毎日いろんなギターが出るわけ。そこで、Jim HallとかKenny Burrelと、トリオやデュエットでやった。でそこのギターのオーナーがね、僕のことが大好きなわけ。それで「お前やりたかったらいろんなギターとやれ」って次から次にやった。それでずいぶん顔広くなった。だからギターはだいぶいろんな人とやった。あとバンドとして、Elvinと、Duke Pearsonともやってたし、それかPhilly Joeのバンド、あとLee Morganのバンドにもいたしね。だから繋がりがあってね、「勲ってのは良いよ」ってなるとばーっとすぐに広がるの。

 

その時のお客さんは黒人が多かったんですか?

 

黒人、そういうとこはもう黒人ばっかり。だってArt Blakeyはそういうとこしか出られない。白人のクラブは出られない。

 


with Art Blakey 

 

鈴木勲は、1969年から70年の2年間をニューヨークで過ごした。その間、ニューヨークで精力的にセッションを続け、Art Blakeyのバンドで全米各地やカナダを回るツアーの演奏もこなした。常に音楽と楽器に囲まれた暮らしで、Ella Fitzgeraldのバックでベースを弾いてテレビに登場することもあれば、Jim Hallとギターを一緒に部屋でつま弾くこともあった。僅か2年間の内に共演したミュージシャンの数は数知れず、それが濃密な日々であったことは想像に難くない。音楽学校に通うのではなく、いきなりニューヨークのジャズ・サーキットの中に飛び込み、受け入れられたのが鈴木勲だった。

 

なぜ日本に、東京に戻ってこようと思ったんですか?

 

まだいるつもりだったのよ。それが、コンサートでカナダ行く飛行場で、Art Blakeyがコケインで真っ白けにして寝てて捕まっちゃったのよ。それでね、Blakeyはいつ出てこられるかもうわからないって。Woody Shawやみんなお金ないのよ。それでニューヨーク帰るのに、僕が全部お金だしてやってさ。もうすごかった。それで僕はさ、ニューヨーク行ってもしょうがないから、じゃあもうこっから帰っちゃえと思って、カナダから帰っちゃったの、東京に。パスポートも切れそうだったからね。

 

日本に戻ってきてどうでしたか?

 

ある程度ぽけっとしてたのかな、2、3ヶ月はね。

 

周りの状況は行く前と違って感じましたか?

 

全然さみしいって感じ。人間性も全部違うしさ。向こうは楽しかったからねぇ。凄い勉強になった。

 

改めて音楽活動するまでちょっと時間かかったですか?

 

そうですね、それでまたファイブスポット入ったんです。そこでしばらくはやってて、それから、あちこち活動するようになってね。

 

またバンドを組み始めたんですか?

 

そうですね。もう何回も組みましたけどね。いろんなバンドにも入ったし。それで、ジョージ川口さんのバンドとか、いろいろいたんだけど。あと、ヴォーカルね、ヴォーカルはみんな下手だったから、だってElla(Fitzgerald)なんかとやってたからさ、マジ教えてやろうと思って、そしたら習いにみんな来ましたよ。美空ひばりまで来た。ひばりちゃんは凄かったな。英語もバリバリ。頭がいいよね。いや、英語なんか知らないんだけど。

 

でも、英語で歌えるんですよね?

 

発音がね、全部サウンドで取っちゃうんだよね。英語のサウンド。だからね、凄い発音がいいの。日本人の英語で歌ってる歌手よりも、ひばりちゃんの方がかなり発音がいい。やっぱり凄いなと思った。

 

 

『Blow Up』などご自身のソロ作品の制作はどうだったんですか?

 

あれはね、帰ってきてからで73年でしょ。僕が向こうで(Rudy)Van Gelderの友達と知り合って、もう名前忘れちゃったけど、ドイツ人風の名前がだからすごく覚えにくくて、それで彼が全部、マイクのセッティングとか、音のトラックダウンとかやってたんだよ。もう毎日のように遊びに行ってた。仕事ない時。

 

Rudy Van Gelderといえば、ジャズのレコーディング・エンジニアの第一人者ですね。

 

そう。ニューヨークのすぐ隣、ニュージャージーにあったの。ニュージャージーにはSam Jonesもいるし、ラッパのThad Jonesとかみんないるのよ。そこで、Duke Pearsonと知り合って、彼の家にもずっと泊ってて。その時にVan Gelderのスタジオ、近くだったから、しょっちゅう行って、いろいろチェックしてたの。マイクどこ置いたらいいとかさ。

 

Van Gelderは教えてはくれなかったんですか?

 

いや、教えてくれた。 ドラムのバスドラはね、表にマイクをみんな置くと思ってたんだけどね、大間違いで中に置くの。サックスからピアノから何から、セッティング全部チェックして、それで作ったのが『Blow Up』。

 

では、あれはOMAさんがエンジニアですね。

 

もう全部そうよ。今でもそう、全部僕だもん。

 

『Blow Up』を作る時は、どんなことを考えてたんですか?

 

何しろ、今までにない音を作りたい。だから、Van Gelderから教わったやつ、それ誰にも言わなかった。Three Blind Miceの藤井(武)にも言わなかった。何しろ良いレコードを作りたいから僕にやらしてくれってさ。

 

『Blow Up』は、当時のジャズのレコードとしては異例なほど売れましたね。これは作ってる時にもう売れるなという実感はあったんですか?

 

ありましたね。もう全然他の音と違う。盤作る前に、今まであったジャズのレコードを聴いて、僕のを聴いて、どっちがいい音するか、どこがいいか、もっと重みがついた方がいいとかね、もっとシャッて切れた方がいいかとか、聴き比べて、もう少し針が飛ぶ寸前、赤いのが上の方まで行くくらい入れる。それでもトラックダウンしたら落ちるんですよ。それをVan Gelderに教わったのね。

 

録音の入力メーターを見て、オーバーしていても入れると。

 

それでも針が飛ばない。トラックダウンしたら落ちちゃうから。だからそこをよく考えてレコードを作った。凄いいろんなことを全部教わった。

 

『Blow Up』はだからサウンド的にレンジも広いし音も太いんですね。

 

でスピード感もあるしね。普通はマイクがかなり浮いちゃってるんですよ。だから全体の音を拾っちゃう。じゃなくてピンポイントで3つくらい。そのへん難しいんですけどね。でも、そこまでやらないと良い音は出ない。

 

作曲から演奏、最後のミックスまで、全部責任持つということですね。

 

『Self-Portrait/ 自画像』なんて演奏まで全部一人ですよ。あれは大変だったねぇ。

 

全部の楽器を自分で演奏して多重録音をした人は当時日本のジャズで他にいましたか?

 

いない。絶対いないと思う。

 

ジャズ・ミュージシャンはスタジオに入って録音してお終い、というのが普通ですよね。

 

パッてやって、聴いてさ、中身が良ければいいや、要するに音じゃないんですよ。

 

自分がやってるソロが良ければいいと。

 

でしょ、そうじゃないんだよね。そうやってレコード作んなきゃ。

 

OMAさんはいろんなミュージシャンとやってきましたが、心底感銘を受けたのは誰ですか?

 

やっぱり、何だかんだいっても、Philly Joeだね。Art Blakeyも凄いけど。Blakeyはピアノから全部教えてたね。だから、それでよく聴いてる、周りを。今僕もそうなんだけど、全部聴いてます。周り聴いてないで自分のことで精一杯だと、いいグループができない。全体を見ながら演奏してる人いないもんね、日本だと。未だにいない。

 

日本人はバランスを取るのに長けているようにも思うんですが。

 

いや、自分のことしかできない。4人でやるんだったら4人が全部さ、そういう気持ちじゃないと。

 

逆に日本人でないとできないものはあると思いますか?

 

もちろん。日本人には日本人のソウルがあるじゃない。それを出してけば、外人の真似するんじゃなくてね。でも、その出す場所とか出す曲とか、そういうのがなかなか考えられない。向こうだと、日本人の形を出したらば下手になっちゃう。最初から、あいつダメって。とにかく向こうはジャズっていうのはそんなもんじゃないんだ、こういうのだってあるからね。その向こうのジャズに対して、日本の形で持ってってもなかなか入れない。だから、日本は別のジャンルを作らないとダメだと思わない? リズムは変わっててね、それでジャズっぽくやれば面白いね。それはオリジナリティ。

 

『Self-Portrait / 自画像』を作った時はそういう気持ちは強かったんですか?

 

そうですね、やっぱり今まで誰もやってないようなことをやりたい。全てね。自分一人で全部やりたかった。

 

 

 

 『Self-Portrait / 自画像』は、1980年にリリースされた、鈴木勲自身もその膨大な自身のディスコグラフィの中でフェイヴァリットに挙げる特別のアルバムだ。このアルバムはベース以外の楽器、ドラムからキーボード、ヴォーカルに至るまで、全てを鈴木勲一人で操り、録音し、編集してミックスをした作品だ。ジャズとしては確かに異色の作品だが、少し同時代の周りを見回してみてほしい。70年代末から80年代初頭はヒップホップの黎明期であり、ハービー・ハンコックの諸作のように、ジャズにエレクトロの要素が入り込む気配があった時期でもある。多重録音に向かった鈴木勲が同時代の空気を敏感に感じ取っていたことは確かだろう。しかし、単に時代を追っていたわけでもないことは、『Self-Portrait / 自画像』の独自の世界観が示している。ミュージシャンであり、プロデューサーであり、作曲家であり、エンジニアでもある鈴木勲のトータルの音楽性を顧みると、なぜジャズがDJやトラックメイカーのような非楽器演奏家の世界にも影響やインスピレーションを与えることがあるのかという問いへの、大切な答えを与えてくれるように思う。エゴイスティックではなく、オープンに全体を見る(聴ける)、鈴木勲の音楽と演奏への対し方は、現在に於いてこそ、一層にその価値を輝かせるのだと。

 

『Self-Portrait / 自画像』の録音は、当時だからマルチ・トラックのテープですよね?

 

そう。もうダビング、ダビングですから。

 

テープの編集も全部自分でやったんですか?

 

それも大変。よくあんなの作ったなって、もう絶対できない。1曲作るのに1週間だからね。1ヶ月はほとんど毎日のように泊まり込みだもん。

 

そこまでしてやりたかったのは何故ですか?

 

やっぱり自分の気持ちを表したい。

 

他のミュージシャンを使うのではなくて?

 

じゃなくて、自分の気持ちを音にしたい。そういう気持ちね。その中にジャズも入ってれば、童謡みたいのも入ってれば、いろいろ。中国に想いを寄せてってのもあるんだけど、胡弓も入ってるしね。

 

楽器が凄い数ですもんね。

 

20種類くらいあったね。

 

他の楽器を習得するのは苦にはならないのですか?

 

苦にならないですね。指で全部押さえるとこ、わかっちゃうのね。楽器をマスターするのは早い。ベースを弾くには、いろんな楽器を知ってなきゃダメだなって思った。ベースを弾いてる時にピアノが入って来たら、どういうとこで来たのか知らなきゃと思った。もう最初からそういう頭だったから。変わってるんだよ、変わり者。

 

ジャズのミュージシャンでは確かに特殊かもしれませんが、それはユニークですし、極めて現代的な姿勢だと思います。

 

まぁユニークにしようと思ったわけじゃないんだけど、そこまでしないといいことはできないかなって。最前線に行くにはそこまでしてなきゃダメだなって。凄い大変なことですけどね。それをみんなやってきたんです。

 

 

でも、だから今も活動を続けてるし、DJ Kensei、Mitsu The Beats、Killer Bongらジャズの外にいる才能ある人達とも新たなことができるのだと思います。踊らせることはOMAさんがかつてキャバレーのハウスバンドでやってたことで、DJと同じですよね?

 

それはね、そういう場面ではそうやらなきゃダメよね。真剣に聴くのは聴くのでさ、またそういう場面もなきゃダメでさ。どちらもつまんないなって、飽きるまでやっちゃダメ。飽きさせちゃダメ。凄いな凄いなってずーっと最後までいかなきゃいけない。そこが難しい。

 

そこの塩梅ですよね。ジャズの魅力を尋ねると多くのミュージシャンは即興だと答えると思います。OMAさんにとって即興とは何ですか?

 

瞬間に、如何にいいことができるか。手から先だから。頭の中じゃなくて、脳は後で、耳から入ってきたので返していく。自然に手が行かなきゃ。それを自分で聴き取って、自分でまた、もう次の手が行ってなきゃね。出来てまたやるってのは遅いからさ。瞬間に如何にこう変えていけるかだね。

 

 

Photos: Repeat Pattern