七月 02

Large Professor インタビュー

ニューヨーク・ヒップホップの立役者のひとりがキャリア初期を振り返る

By Chairman Mao

 

「Out in Queens, Flushing to be exact」(クイーンズ、正確に言えばフラッシングさ) − ハーレム出身のユニークなヒップホッププロデューサー/リリシストの中のひとり、Large Professorのような形でニューヨークのラップに貢献してきた人物はそういない。Large ProfessorはUltramagnetic MCsのプロデューサー、Paul Cの元で修行を積むと、カセットテープを使ったベッドルームでの制作から本格的なプロスタジオでの制作へ一気にステップアップした。

 

その後もMain SourceのメンバーとしてWild Pitch Recordsと契約を果たし、クラシックアルバム『Breaking Atoms』をリリース。また、映画『ハード・プレイ』のサウンドトラックにMain Sourceの「Fakin’ the Funk」が収録された1992年、Large Professorは長年のディグ仲間Pete RockにTom Scottのレコードを紹介すると、これがクラシックトラック「T.R.O.Y」となった。

 

また、ソロワークやSlick RickRakim、Akinyeleなどの数多くのリミックスを手がけてきたLarge Professorは、Nasのキャリアにおいても重要な役割を果たした。Main Sourceの「Live At The BBQ」で共演を果たしていたNasとLarge ProfessorはNasのアルバム『Illmatic』でもコンビを組み、その後もお互いのキャリアを通じてコラボレーションを重ねていった。RBMA Radioのインタビューからの抜粋となる今回のインタビュー記事では、当時の思い出が語られている。

 

プロデューサーとしてのあなたの師匠は?

 

Paul C. McKastyだね。俺が当時所属していたグループ、Main Sourceがデモ制作をしようとしていた時、アーチャー・アベニューの12/12というスタジオで話題になっていた人物がPaul Cだった。「デモ制作ならPaul Cだ」って周りじゃ噂になっていたし、みんな彼に頼んでいたから、彼は忙しくしていたよ。

 

その彼が俺のデモを数曲耳にしたのさ。当時のヒップホップシーンは競争が激しかったから、俺は「みんながJames Brownをサンプリングしているなら、俺は別のサンプリングをしよう」と思っていた。それがPaul Cには刺さったみたいだった。俺はYoung Holt Unlimitedの曲やジャズファンクのレコードを使っていたが、Paul Cはそういう音楽をあまり知らなかったんだろうな。だから俺に、「いい感じだな。こういうレコードを少し借りてもいいかい?」と言ってきて、俺は「構わないですよ。是非聴いてください」と答えた。こうやって俺たちの関係は始まったんだ。

 

 

 

当時の一流のプロデューサーのレコードをプレイすると、Paul Cは居心地の悪そうな顔をした

 

 

 

テープデッキ以外を使った制作のやり方を教えてくれたのが彼だった。彼は自宅にSP-1200を1台所有していて、「これがSP-1200だ。これを使うといい」と教えてくれたのさ。ある日、彼の家へ行くと、座ってくれと言われて、「お前は何をしたいんだ?」と訊かれた。だから俺は、「このレコードを使って、この機材とあの機材を使いたい」と答えた。すると彼は、「じゃあそうしてみるといい。俺は寝るからやってみろ」と言われた。俺はSP-1200を使い倒しながら、「Paul Cにはこのまま起きないで欲しいな。他のビートを入れたり、色々試してみたい」と思っていた。彼のSP-1200がすべての始まりだった。

 

Paul Cからは色々なテクニックも教わった。彼はSP-1200の上級者だったからさ。彼はテンポを倍にするテクニックを知っていて、それを使ってビートをタイトにしていた。ここでは名前を挙げないが、当時の一流のプロデューサーのレコードをプレイすると、彼は居心地の悪そうな顔をした。俺が気付かないようなことも彼は気付いていて、「あそこがタイトじゃないな。ここはクールだが、俺ならもっと良く出来たな」なんて指摘していた。俺も学ぶにつれ、そういう違いが理解できるようになっていった。

 

Paul Cが亡くなった時は辛かったでしょうね。

 

信じられなかった。ガキだった俺は、誰かが死ぬということに慣れていなかった。Jamalという奴を交通事故で亡くしていたが、奴以外はみんな元気だったからね。

 

俺もPaulもMetersの大ファンだった。PaulはMetersのすべてのアルバムを持っていたが、俺は持っていなかった。だから彼は、「Metersが好きならこのCDを聴けよ。全曲入っているから。良く聴いてオリジナルを手に入れればいい」と言って俺にCDを1枚くれた。Paul Cはとにかくオリジナル盤が好きだった。「これは再発盤だぜ」なんて言って、再発盤からのサンプリングは許してくれなかったね。

 

 

Paulは本当にクールで、賢くて面白い人物だった。だから彼が亡くなった時、俺は何も出来なくなった。人生は良いことばかりじゃない、みんなが自分を応援してくれている訳じゃない、みんなが自分と一緒にいてくれる訳じゃないって思ったね。彼のような人物があんな目にあうなんて、世の中には悪い奴がいるに違いないって思ったよ。「誰がこんなことを」ってさ。本当にショックだった。

 

Large Professorと名乗るようになった経緯は? 元々は違う名義(Paul Juice)で活動していましたよね?

 

当時はありきたりな名前じゃ勝負できなかった。何か目立つ名前にしないとダメだったのさ。あと、俺はネーション・オブ・イスラムにいたから、常に自分たちを高尚な名前で呼び合っていたというのも影響している。例えば「Supreme」とか「Wonderful」なんて名乗っていた。

 

 

 

Large Professorという名前にした瞬間、ミッションが与えられたような気持ちになった。今もそのミッションの途中なのさ

 

 

 

Large Professorという名前にした時、父親には、「パワフルな名前じゃないか。まだ名前負けしているが、お前には才能があるし、やりたいという気持ちもある。自分のやりたいことをやればいい」と言ってもらった。両親から許しを得たら不安が消えたよ。父親からはスピリチュアルなことも言われた。彼は凄くスピリチュアルな人だったからね。「良い名前だ。その名前に負けないようにしないといけない。だが、簡単じゃないぞ。頑張らないとな」と言われた。Large Professorという名前にした瞬間、ミッションが与えられたような気持ちになった。今もそのミッションの途中なのさ。

 

『Breaking Atoms』は今でもヒップホップ史上最も洗練されたプロダクションのアルバムのひとつとして評価されています。このアルバムの制作方法は?

 

デカい機材をスタジオに持ち込んでいた。当時人気だったSynclavierを使ったんだ。Quincy Jonesなどが使っていた奴さ。「Snake Eyes」でJesse Andersonの「Mighty, Mighty」をサンプリングしたが、あれもSynclavierさ。俺たちがレコードをプレイして録音したサンプルじゃないんだ。Tony P(Libra Digital)に、「このフレーズを全部使いたい」と頼んだら、「じゃあSynclavierでやればいい」と言われた。それで彼がいくつかボタンを押したらすべてがピッタリ合った。魔法のようだったね。タイムストレッチなんかがない時代の話さ。『Breaking Atoms』の制作にはSynclavierがかなり大きな役割を果たしたよ。

 

「Looking at the Front Door」について何か思い出はありますか?

 

あれは上手く形になって良かった。若さというか、高校生のパワーに溢れるトラックさ。人間関係について色々と悩んでいる高校生の話だ。俺は当時高校生だったが音楽にはシリアスに取り組んでいた。父親には、「レコードをリリースしたのか。じゃあ世界に向かってメッセージを伝えているってことだな」と言われた。父親はいつもそういう広い視野で俺を見て、アドバイスをくれていた。具体的に何をしろとは言わなかったが、常に俺を正しい姿勢にしてくれた。だから俺はなんであろうとシリアスに取り組むってことを理解していた。

 

 

「Just Hanging Out」はGwen McCraeのサンプルを使用していますね。オリジナルを知っていますが、使い方が非常にスムースで今でも素晴らしいトラックだと思います。

 

これには面白い話があるんだ。学生時代の俺は悪い癖があった。宿題に関することさ。俺は大抵家に帰ってくるとすぐに外へ出掛けていた。外が楽しそうだったから、すぐに外へ出て夜も昼も遊んで、途中で「あ、宿題があるんだった」と思い出していた。だから宿題は毎朝、学校へ行く前に片付けていた。

 

ずっとそんな感じだった。だからスタジオへ行くのも学校の前だった。(サンプルで使用した)「90% of Me Is You」は、ある日この曲をプレイした時に、「ループに使おう。スタジオまで30分で行けるし」とひらめいたんだ。それでスタジオへ向かった。当然学校には遅刻さ。それでスタジオで、「このループを聴いてくれよ。これを使おうぜ」と言って、CDをプレイしてループを作った。それで決まりだった。「誰もこの曲からループを作ろうなんて思わないだろうけど、俺たちはこれを使うんだ」ってね。そういうエナジーが当時の俺たちにはあった。

 

 

そこからはあっという間だった。お菓子を眺めている子供のように、トラックが完成するのをワクワクしながら待つ感じだった。K Cutがレゲエのレコードを沢山持っていた。奴はカナダ出身で、両親のレコードを沢山持っていたんだ。それで奴が「これを使ってみろよ」と言ってサウンドを加えた。それが化学反応のように上手くいった。

 

Nasとの仕事で思い出に残っていることは?

 

俺は俺でやりたいことがはっきり見えていて、奴は奴でやりたいことが見えていた。奴は自分がどうしたいか分かっていたんだ。さぼった時もあったが、俺たちは自分たちが何をやりたいかがはっきり見えていた。スタジオの廊下でふざけていても、「ミックスが終わったぞ」とスタジオから声をかけられれば、その瞬間から奴は目の色を変えて集中した。あのシリアスな姿勢と責任感が俺は好きだったね。Eric B & Rakimと一緒にスタジオに入るって話をもらった時も、Nasに頼ればいいって思っていた。奴は本当に音楽に対しては真面目だった。

 

 

あなたは『Illmatic』を裏で支えていました。その貢献度の高さに気が付いている人の数は今でこそ増えましたが、本当に数多くの部分で貢献していますよね。

 

プロデューサーとして関わったし、ビートやフィーリングにも手を貸した。

 

『Illmatic』の制作について少し振り返ってもらえますか? NasをPete RockやQ-Tipに紹介しましたよね。

 

それは俺とNasが似ていたからさ。本当に同じタイプだった。だから紹介するのが厄介じゃなかったんだ。簡単だったよ。俺たちは既に「Live At The BBQ」で一緒に仕事をしていたし、わざわざ売り込む必要はなかった。「俺の仲間で凄い奴がいるんだ。テープをプレイしてもらえないか?」なんて言う必要はなかったのさ。Funkmaster FlexやRed Alertがすでにラジオでプレイしていたから、奴の存在は知られていた。あの頃は俺たちに流れが来ていた。だから上手く話をまとめられて良かったと思うよ。何よりも存在を世界に示せたことがね。流れが来ている時はそれに乗ればいい。本当に素晴らしい瞬間だった。

 

Main Sourceが解散してから、あなたはソロとしてGeffenと契約しました。ソロではどんな問題に直面しましたか? また、どんな変化が求められたのでしょう?

 

Main Source時代にWild Pitch Recordsと契約していたし、トラックもある程度用意出来ていた。そんな俺にある日、「もっと大きなフィールドにお前を送り込もうと思っている」と連絡が入ったのさ。

 

俺は自分の仕事をするだけだし、相手がMonopoly Recordsでもどこでも構わなかった。俺と仕事をしていれば俺がそういう奴だってことは分かるはずさ。だから俺はGeffen Recordsと契約した。「The Mad Scientist」も「Ijuswannachill」もクレイジーだったね。予算は多かったし、当時は儲かっていたから、「これからはやり方を変えた方がいい」と色々な人から言われたよ。俺は、「いやいや、それはちょっと」と思っていた。悩んだね。だが、そういう悩みは乗り越えなければならなかった。作品はリリースしたかったからさ。

 

 

 

 

 

「The Mad Scientist」がリリースされた時、沢山の人がこのトラックを高尚なものとして受け取った。「あの苦しい時代を忘れるな」って言われているようだってね

 

 

 

ある日、オフィスで「The Mad Scientist」をプレイしていると、レコード会社の役員のひとりが、「これは一体どういうことだ…? 君を取り巻く状況は以前より良くなっているのに何故この曲をリリースするんだ?」と言ってきた。そしてもうひとりの役員が、「彼は昔を振り返っているんですよ」と説明した。俺は「なんか妙だぞ」と思った。面白い話だが、「Never had a basement, never had an attic」(地下室も屋根裏も俺たちにはなかった)ってフレーズをはじめ、俺はその時のリアルなヒップホップについて語っていたつもりだった。「The Mad Scientist」がリリースされた時、沢山の人がこのトラックを高尚なものとして受け取った。「あの苦しい時代を忘れるな」って言われているようだってね。悪い気持ちはしなかったが、あれは当時の俺の気持ちそのものだったんだ。あと、このトラックは売れなかった。世間はヴェルサーチについてのトラックなんかが聴きたかったのさ。俺でさえそういうトラックを作ったよ。しばらくすると「こりゃクールだ」って思ったね。

 

この頃はリミックスも数多く手がけました。特に記憶に残っている作品はありますか?

 

一番気に入っているのはSlick Richの「It’s a Boy」のリミックスだ。当時Slick Rickはフラッシングに住んでいた。で、彼の息子の母親が俺の幼なじみだったんだ。その子が丁度生まれる頃で、周りでは色々なことが起きていた。Slick Rickは刑務所に入ったばかりだったと思う。そんな時に俺のところへ電話がかかってきて、「Def Jamがお前にSlick Rickのリミックスをやって欲しいって言っているぞ」と頼まれたから、「奴はマイメンさ」と返した。Pete RockがLonnie Smithのドラムのサンプルを持ってきて、Rashad SmithがCal Tjaderのアルバムを教えてくれた。それがひとつになった時は、「こりゃドープだ!」って思ったね。何回も聴き返したよ。最高にクレイジーだった(笑)。

 

あの時代は、そのようなエナジー、そしてビートやサンプルを掘り出そうという意識が特徴だったと思います。あなたたちがレコードショップにいる姿、そしてあなたやPete Rock、Q-Tip、Diamond Dたちがコラボレーションしていたことをよく憶えています。

 

確かに当時はそういうムードだった。 「T.R.O.Y」で使ったTom Scottのあのレコードをはじめ、沢山のレコードが掘り出された。Pete Rockはファンクやジャズにはまっていた。奴の父親はレコードを沢山持っていて、しかもアップタウンに住んでいたから、そういうレコードを沢山持っていた。俺はヴィレッジ周辺やジャマイカに出掛けてファンキーなレコードをディグしていたが、基本的にはヴィレッジとHouse of Oldiesの近所にあったBleecker Recordsに通っていた。あそこには昔ながらのジャズクラブも多かった。

 

あそこでTom Scottのレコードを見つけて買って帰っんだ。あのホーンのループは最高だったね。あの部分だけサンプリングしてフィルターをかけて何回も聴いていた。その証拠に「T.R.O.Y」の前にリリースされたSlick Rickのリミックスにはあのホーンが入っている。あのTom Scottのレコードのホーンを少し入れてあるのさ。

 

 

だが、大ヒットしたのは「T.R.O.Y」だった。Peteがあのフレーズを使ったんだ。だが、俺は奴に何の文句もなかった。周りは俺があのループを使っていたのを知っていたし、元々は俺から始まったんだろうってことは理解していたと思う。周りは、「Peteがあれを使っているぜ」と言っていた。奴がプログラミングから何から自分ですべてやってあのトラックを作ったってね。

 

当時の俺たちは全員そんな感じだった。Diamond Dにレコードを教えてもらう時もあれば、俺が奴に「おい、これ持っているか?」って教えて、奴がそのレコードを使う時もあった。当時はああいうレコードが人気だった。あんなに盛り上がるとは思わなかったが、俺たちはそれでも仲良かったね。みんなが良い思いを出来て良かったと思う。

 

Rashad SmithがBusta Ryhmesのために「Woo Hah!!」を作った時、Rashadが元ネタのレコードをプレイしてくれた。それで俺も、「これを使おう」と思い、「The Mad Scientist」で使ったんだ。だが、Bustaがやってきて、「やめろ」と言われた。こういう感じでネタを巡る争いが激化していたね。俺たちはBustaとは別のパートを使っていたが、「とにかくこのレコードは使うなよ!」って勢いだった。まぁ、たいした問題じゃなかったよ。みんな仲が良かったのさ。