十二月 09

ロングインタビュー:Gilles Peterson

ラジオ番組のホスト・プロデューサー・レーベルオーナーなど様々な顔を持つUKを代表するDJが語る音楽的影響やキャリアの変遷

By Jeff “Chairman” Mao

 

Gilles PetersonはDJ、ラジオ番組のホスト、プロデューサー、レーベルオーナー、キュレーター、コレクターなど様々な顔を持つが、本人はその生活を気に入っている。1980年代のロンドンのクラブシーンでDJとしてのキャリアをスタートさせた彼は、その後当時萌芽しつつあったアシッドジャズをフィーチャーしたパイレーツラジオ(海賊放送)でその名を知られるようになった。実際、1987年にはレーベルAcid Jazzの共同名義で設立したが、すぐにAcid Jazzを離れ、Talkin’ Loudを設立。ダンスミュージックを幅広く扱っていたこのレーベルは、Nuyorican Soul、Roni Size/Reprazent、MJ Cole、4Heroなどの作品のリリースによって高い評価を得ることになった。

 

しかし、彼が最も大きなインパクトを与えたのはラジオDJとしての活動で、LondonのKiss FMで8年間番組を担当したあと、1998年からはBBC Radio 1で人気番組「Worldwide」をホスト。更に2012年からは活動の場をBBC 6 Musicに移しており、インターナショナル版「Worldwide」とも言える番組は、世界中にファンを抱えている。

 

このような活動を通じて、Petersonは継続的に新しいサウンドの発掘に力を注いでおり、特にブラジルとキューバの音楽に大きな愛情を注いでいる。2009年にはキューバの音楽やアーティストを紹介するためのプロジェクトHavana Culturaを立ち上げ、数多くの才能を紹介してきたが、その中で最も有名なものが2012年のアルバム『Mala in Cuba』で、ダブステップアーティストのMalaがキューバを訪れて現地のミュージシャンたちと共演したこのアルバムは大きな話題となった。このアルバムは2006年にPetersonが設立したBrownswood Recordingsからリリースされており、このレーベルからは他にもBen Westbeech、Ghostpoet、José James、Owiny Sigoma Bandなど、数多くの素晴らしいアーティストの作品がリリースされている。

 

今回はRBMA Radioのインタビューからの抜粋を紹介する。

 

あなたが音楽の道を歩むきっかけとなった体験は?

 

僕は14歳か15歳の頃、自分を少し見失っていたんだよね。ガールフレンドもいなかったし、自分が何をしたいのかよく分かっていなかったんだ。でもある日、友人の家に行くと、彼のお姉さんがBobby Caldwell、Earth, Wind & Fire、Cameoのアルバムを持っていた。それらを聴いた時に「本当に最高だ。素晴らしいね」って思ったんだ。

 

僕がその時に何を得たのかっていうと、恐らくは音楽の持つ素晴らしいエナジーだったんだと思う。そのエナジーを感じた僕は、もっとレコードを聴きたいって思うようになって、その頃持っていたオモチャを売り払ったんだ。正直に言うと、両親が週末に家を空けている間に売り払ったんだよね。彼らは銀婚式かなんかだったんだ。それで彼らが戻ってくると、息子のオモチャの半分がなくなっていて、その代わりにCitronic Thamesが1台あったって訳さ。これはターンテーブル2台とカセットデッキがセットになっている機材で、レコードがカセットに録音できるってことで当時は画期的な製品だったんだ。当時売られていたモバイルディスコユニットの中ではトップクラスだった。

 

そのあと間もなくして、僕はDJとして名が知られるようになっていった。結婚式やバル・ミツワー(訳注:ユダヤ教の成人式)なんかでDJをしたよ。隣に住んでいた友人のAndrewとG & A Discoってユニットを組んで一緒に活動していたんだ。パーティもオーガナイズするようになって更に儲かるようになったから、当時住んでいたサウス・ロンドンで開催されていたサットン・マーケットに出向いては、US盤や日本盤、それにUKのホワイト盤なんかを買うようになった。当時はLevel 42、Slave、Trussel、Sharon Reddなんかが活動していて、凄く良い時代だったね。

 

そうやってレコードに投資しながら、どんどんパーティを開催していった。15歳の時にはクロイドンのゲイディスコでDJをしていたね。母親はクロイドンの友人に会いに行ってるって思ってたよ。そうやって切り抜けていたんだ! 17歳の時に運転免許を取ったことは自分の中で凄く大きい出来事だったね。免許を取ったあとはロンドン中を移動してラジオ番組を放送するようになったんだ。パイレーツラジオのようなものだったんだけど、そのラジオを通じて、自分がジャズファンクやUSの音楽が好きだってことを伝えられるようになったんだ。当時の僕はディスコDJのような存在だったけど、他のディスコDJよりもジャズ指向だったのさ。

 

ジャズファンクに深く関わっていったきっかけは?

 

まず、当時がパンクの時代だったってことを言っておかないとね。僕は両親がフランス・スイス系だったから、最初はフランス系の学校に通っていたんだけど、10歳の頃にUKの教育システムに切り替えて、男子校に通うことになった。男子校っていうのは何かしらのグループに属す必要があってさ。周りはモッズかスキンヘッドかテディーボーイ、それかヘヴィーメタルって感じだったね。

 

でも、友人のAndrewと彼のお姉さんが12~13歳位の僕にソウルを教えてくれたことがきっかけで、ジャズファンクの道に進みたいって思うようになった。キングス・ロード(ウェストロンドン)にあったJonesって店でレザーパンツを買ったり、キングストン(サウスロンドン)の店で靴を買ったりしていたよ。当時はユニフォームみたいに着ていた。髪型もウェッジでキメてさ。そういうスタイルの自分にプライドを持っていたよ。

 

当時のジャズファンクファンは、『Blues & Soul』か『Black Echoes』のどちらかを読んでいた。『Blues & Soul』にはロンドン以外の情報が載っていた。というのも、当時のロンドンにこの手の音楽をプレイするDJは数えるほどしかいなかったし、そのためのクラブもエセックス(ロンドン北東部の郊外)のような郊外に集まっていたんだ。ちなみにパンクスもエセックス発祥だ。オリジナルのパンクスはエセックスのキャンベイ・アイランドにあったGoldmineってクラブに通ってた。ここはUKのLarry Levan的な存在だった、Chris HillってDJが経営していた。

 

 

僕もGoldmineには何回か行ったよ。エセックスの外れの薄気味悪い工業地帯にあって、ロンドンからは3時間もかかった。酷い場所だったけれど、ラストには素晴らしい時間が待っていたんだ。Chris HillがDJブースに入って、ブラジル人ピアニストのTania Mariaの曲やKleeerの「Intimate Connection」、Candidoの「Jingo」なんかをプレイしていた。オーディエンスも最高にクールだったし、僕が目指しているのはここだって思った。こういうシーンに関わりたいって思ったんだ。

 

それで僕がやったことっていうのは… これはDJとして成功したい人にとってのヒントになるね。だってみんな才能は横並びだろ? Princeでもない限り、みんな “並” なんだからさ。とにかく、DJになりたいって人が他と差をつける唯一の方法はフォロワーを持つことで、そのために僕はバスツアーを組んでいたんだ。チケットを50枚用意して、クラブに電話して「僕はGilles Petersonって言うんだけど、もしブッキングしてくれたら、50人連れて行く。だからDJをさせてよ。Froggyのウォームアップをやるよ」って伝えたのさ。Froggyは当時活躍していた素晴らしいDJだったんだけど、クラブ側は「よし、50人だな。店に入ればドリンクを買ってくれるだろうし、OKだ」って言ってくれた。こうやって自分で企画してお客さんを運べば、店側も満足してサポートしてくれる。それで人気を得るようになった。自分を聴きに来てくれる人を増やすためには何だってやったよ! みんなもそれをやらないとね。忘れてしまいがちだけど。

 

ロンドンでのレジデントDJとしての活動はあなたのキャリアとって非常に重要なベースになっていきましたよね。Dingwallsでのレジデントが有名ですが、かつてはElectric Ballroomでもレジデントを務めていました。Electric Ballroomの初期はかなりの修行だったらしいですね?

 

Dingwallsで始める前の話だね。あそこは僕にとって一番大きなトラウマであると同時に、一番重要なクラブだった。Electric Ballroomの金曜日の夜さ。上階でThe Jazzy Funk Clubってタイトルでパーティが開催されていた。Electric Ballroomは今でも健在で、1950年代の香りが残っているんだ。

 

メインルームのDJはPaul AndersonとGeorge Powerの2人で、最高のダンサーたちがバトルしていた。それでダンスが上手ければ上階で踊れるっていうシステムだったんだ。真剣勝負だったよ。Paul Murphyって人物が仕切っていたんだ。彼は僕みたいな郊外からやってくる人たちに素晴らしいジャズレコードを売ってくれるレコードショップを経営していて、どのレコードショップのスタッフからもからかわれるような鬱陶しいガキだった僕は、その店にも出入りしていた。それで、2年ほどElectric Ballroomの上階でDJをしていた彼は僕にDJをやらせてみることにしたのさ。あれはどのDJにとっても難しいギグだったと思うよ。彼は僕の持ってる楽曲が頼りないことを知ってたのにやらせたんだ。

 

どんなDJでもこういう悪夢のような経験はあるよね。プレイする曲が見つからなくてずっとレコードバッグやiTunesを探し続けるようなDJプレイをした経験があるはずさ。しかもあの時は8時間ほどのプレイだった。大失敗だったよ。ダンサーはまったく踊らなかったし、「このDJは下手だな」って感じで見ていた。それで終わりだった。

 

 

 

“当時のウェストエンドでは、正しい服装じゃない黒人はクラブに入れてもらえなかった”

 

 

 

その夜が終わると、Jerry Berryっていう男性と知り合った。彼はI Dance Jazzっていう素晴らしいダンサーグループのトップダンサーで。彼はアクトン、僕はリッチモンドに住んでいたから、割と近所だった。それで僕が車を持っていることを知った彼は、送ってくれないかって頼んできたんだ。酷いプレイをしたあとだったけど、僕はとにかく彼を乗せて帰った。すると、彼が翌週にまたプレイするチャンスをくれたんだ。彼は「こいつがいれば毎週車で送ってもらえるぞ」って思ったんだろうね。車以外はナイトバスしか手段がなかったからさ。それで迎えた2週目のプレイは、1週間かけて楽曲を集めていたし少し良くなった。それでJerryがまたチャンスをやろうってみんなを説得してくれたんだ。こうやって僕は徐々に上手くなりながら出世していった。

 

Dingwallsはサンデーアフターのパーティを開催していたクラブという意味でユニークな存在だった。Body & SOULみたいなクラブがサンデーアフターを始める前の話さ。サンデーアフターのパーティにはいつもと違う職種や年齢層が集まっていた。というのも、当時のウェストエンドでは、正しい服装じゃない黒人はクラブに入れてもらえなかったんだ。人種差別が酷かったし、色々と難しい状況だった。今のロンドンに住んでいると当時のことなんて忘れてしまうけどね。

 

一方、Dingwallsはカムデン・マーケット(ロンドン北部)にあったし、そういう意味でも他のクラブとは違っていた。世界中から人が集まっていたし、誰でも入れた。料金もわずか2ポンドで、ライブバンドも一緒に出演していたよ。これは当時の僕が続けていたスタイルなんだ。両方のグループに機能することが非常に重要だって感じていたからさ。でも、バンドとDJが一緒の時は、色々と教え込む必要があった。完全に別のシーンだったからね。当時のDJのステータスは今ほど高くもなかったから、バンド側の人たちを含めた全員にちゃんと理解してもらう必要があったのさ。

 

 

Dingwallsでは、Sohoの「Hot Music」のようなニューヨークのレコードをプレイできた。あれは当時の “Dingwalls クラシック” のような1曲だったね。それと同時に、Pharoah Sandersの「You’ve Got to Have Freedom」のような誰もが嬉々として踊るようなアップリフティングなジャズトラックや、Richard Evansの「Capricorn Rising」のようなブギーソウルもプレイできた。Dingwallsの本質はこういうところにあった。あそこは素晴らしいジャズ、ラテン、ラテンジャズ、フュージョンをプレイするための場所だったんだ。

 

レジデントというのは非常に興味深いトピックだと思います。というのも、現在レジデントを務めているDJの数は少ないですよね。商業的に成り立たないというのが現実です。このような流れの中で、あなたはなぜ毎週ニューヨークでプレイしているのでしょう? 年に2回のプレイで大金を得るという方法も可能ですよね?

 

ビジネス的に判断して、レジデントをやらないっていう考えは理解できるよ。でもアーティストとして考えれば、レジデントって立場は凄く重要なんだ。レジデントだからこそ音楽を良い意味で壊せるし、シーンを生み出せる。そうやってムーブメントを起こしていくのさ。これはDJの責任のひとつだと僕は考えている。音楽を伝えていくつもりならね。

 

あなたのジャズファンクというルーツがアシッドジャズという形に進化したのはどのタイミングですか?

 

シーンが徐々に実体化していって、クラブも大きくなっていったし、同時にイビサに行くような人たちも増えていった頃の話さ。1985年にNicky HollowayとDanny Ramplingがイビサにいった頃、僕もそこに関わっていたんだ。さっき話したバスツアーと似たような形でホリデーツアーを組んだのさ。ロンドンで300人を集めて、イビサへの格安チケットを手配して、みんなで一緒にイビサに行って、僕たちがDJをするっていう企画だったんだけど、こういうツアーを通じて、サウスロンドンのパブでジャズファンクを聴きながらビールを飲んでいたようなキッズたちがエクスタシーを摂取してデトロイトやイビサの音楽、アシッドハウスを聴くようになったんだ。

 

でも、自分がそこに本気で関わりたいかどうかは別の話だった。もちろん、僕はDJカルチャーのワイルドな部分に昔から加わっていたけれど、ドラッグの登場でそのワイルドさが一気に加速したんだ。それまではマリファナを吸う程度だったからね。僕たちは「音楽は良いと思うけど、シーンにいる連中はどうかな」って感じだった。今振り返ってみると、その当時彼らの周りで起きていたことはある意味素晴らしかったと思うけどね。というのも、ある意味シーンを切り拓いていたわけだからさ。まぁ良く分からないけど。

 

 

当時のそのようなシーンは、僕にはアシッドハウスに対抗するオルタナティブバージョンを生み出せる良いチャンスに思えた。そのアイディアから生まれたのがアシッドジャズだったんだ。当然僕たちの中にもドラッグカルチャー的なエナジーがあったけれど、もっと奇妙な音楽と組み合わせようとしていた。アシッドハウスにフリージャズやファンクなんかをミックスしていたよ。その流れでAcid Jazzってレーベルを立ち上げたのさ。ファーストリリースはGallianoのEPで、A面が「Frederic Lies Still」、B面が「I Love You, Baby Jack, Jack, Jack Your Body」ってトラックだった。B面のこのタイトルが、僕たちの狙いを表現しているよね。

 

当時は凄く楽しかったよ。でも、アシッドジャズはモッズシーンに寄るような流れになったんだ。Acid Jazzは、James Taylor QuartetっていうバンドをマネージメントしていたEddie Pillerと僕でスタートさせたんだけど、その頃のJames Taylor Quartetはモッズたちが消えたことで勢いを失っていて、ちょっと厄介な状況に陥っていたんだけど、彼らはアシッドジャズにモッズの精神を再生できる可能性を見出したんだ。でも、僕はそこについては割とどうでも良かった。というのも、僕は「過去」よりも「今」に目を向けるタイプだったからさ。オールドスクールな存在はシーンを盛り上げるための重要なインスピレーションではあるけれど、僕にとってはほんの一部でしかなかった。僕の中では、これから世に出ていくような新しくエキサイティングなグループの方が重要だったんだ。A Man Called AdamやLeftfieldなど、いずれハウスミュージックに進化していくような存在がね。Acide JazzからはGallianoやBrand New Heaviesを世に送り出したけれど、個人的には少し古臭く感じていたんだ。成長する見込みがないように思えた。レトロワールドに留まり続けるようなムードを感じ取っていたんだ。

 

クラブシーンと比べて、ラジオ放送は音楽のソースとしてどれだけ重要だったのでしょうか?

 

非常に重要だったね。僕が大きな影響を受けた2つのラジオ番組があった。ひとつはCapital Radioが金曜日の夜に放送していたGreg Edwardsの番組で、ロンドンのLyceum Theatreから生中継されていた。当時はベイビーシッターをしていたんだけど、パーフェクトだったよ。Greg Edwardsを聴くだけでお金がもらえるんだからさ。最高だったね。

 

 

そして土曜日の晩にはBBC Radio LondonでRobbie Vincentの番組があった。これが僕は大好きだった。Vincentのその番組は『Jazz Funk 40』という名前で、日本盤をオンエアしてくれた時もよくあったし、The Jones Girlsの「Nights Over Egypt」を初めて聴いたのもあの番組だった。あの瞬間は忘れないね。ラジオのパワーは本当に素晴らしいものがあった。あとはブラックミュージックを専門にしていたパイレーツラジオ局のRadio Invictaも聴いていたよ。あれは日曜日の午後だったね。Radio Invictaは最高にクールなラジオ局だった。

 

僕が初めて作った自分のパイレーツラジオ局は、裏庭にターンテーブルとミキサーとレコーダーを用意したものだった。TDKのカセットに60分録音して、隣に住んでいた友人も60分録音してね。当時の僕は父親から良い意味で諦められていたから、父親は僕たちが自宅から数キロの距離にあったサウスロンドンのエプソム・ダウンズにトランスミッタ(送信機)を設置するのを手伝ってくれた。僕たちを車に乗せて送ってくれたのさ。アンテナを木の上へ伸ばして、それをトランスミッタに繋げば、カセットプレイヤーの内容がトランスミッタ経由で放送されたんだ。僕たちが再生ボタンを押せばあとは問題なかった。電源は車のバッテリーを使ったよ。そうやって放送していたんだ。

 

カセットに録音した最初の60分のエンディングに自分たちの電話番号を入れておいたから、父親と僕たち2人は田舎のど真ん中の電話ボックスで電話がかかってこないか待っていた。この興奮だけで数ヶ月は盛り上がれたね。1本か2本は電話がかかってきたし、最高だったよ。

 

この頃、僕にとって大きな出来事がもうひとつあった。それは僕のトランスミッタを製作したBob Tomalskiの話なんだ。彼は残念ながらもう亡くなってしまったけれど、彼は僕が大ファンだったRadio Invictaのトランスミッタも製作していたのさ。ある日、彼らのオフィスに警察が踏み込まれた関係で、新たにトランスミッタが必要だって話になった。それでBobが僕のところに連絡をくれて、「Radio Invictaの連中がトランスミッタを探しているんだが、君のを貸してやってくれないか?」って言ってきたんだ。そこで僕は「Radio Invictaで番組をやらせてくれるならいいよ」って返した。こうして僕はRadio Invictaで番組を持つようになったのさ。

 

Radio Invictaで番組を持った時、僕はまだ17歳だった。そのあと、僕はカレッジに通い始めるんだけど、周りから「普段何やっているんだい?」なんて訊かれた時に「Radio Invictaで番組を持っているんだ」って返すと、周りからは尊敬の眼差しを向けられたものさ。Radio Invictaはそういう存在だったんだ。Robbie Vincent、Greg Edwards、そしてRadio Invictaさ。ロンドンのラジオ局で僕の好きな音楽をプレイしてくれるのはこの3つしかなかった。BBC Radio Oneは当時ブラックミュージックの番組なんて持っていなかった。今と昔じゃダンスミュージックの立場はまったくの別物で、僕みたいにレザーパンツを履いているような人たちが聴くようなサブジャンルがプレイされるような余裕はなかった。でも徐々に広まっていったんだ。

 

 

 

“Radio Novaは僕が好きな音楽を他の音楽とミックスしてオンエアした初めてのラジオ局だった”

 

 

 

しょっちゅうフランスへ行っていたことも、ラジオDJとしての僕に大きな影響を与えたね。祖母が住んでいたからさ。フランスのラジオは楽しんで聴いていたよ。UKのパイレーツラジオっていうのは、退屈なラジオ局に電波が占領されていたことを背景に生まれたものだった。放送免許がオープンじゃなかったから “パイレーツ” になるしかなかった。でも、フランスはそういう世間の動きを敏感に察知して、様々なラジオ局の開局を許可したんだ。

 

ラジオ局の革命という点では、UKよりフランスの方が先を行っていたね。その革命が起きたからこそ、僕はパリのRadio Novaなんかを聴けたのさ。Radio Novaは僕が好きな音楽をプレイした初のラジオ局だった。他のジャンルの音楽とミックスしてオンエアしていたよ。Salif KeitaやTony Allen、Malatu Astatkeのようなワールドミュージックと平行して、Talking HeadsやUKファンク、Grandmaster Flash、Whodiniなどの初期ヒップホップなんかをプレイしていた。あれは本当に素晴らしかったね。UKらしさが良い意味でまったくなかったからさ。UKではみんなどこかのグループに所属していなければならなかった。そういうグループのために、ラジオ局も特定のジャンル専門になっていた。でもフランスのラジオ局はもっとオープンでアーティスティックだった。「ワオ!」って思えるものだったね。

 

僕はそういうラジオ局を聴くと同時に、UKの専門的なラジオ局も聴いていた。僕はその2つを組み合わせたような存在なんだ。こういう数々のラジオ局や番組から僕は大きな影響を受けたね。

 

あなたはBBCで長年に渡りホストを務めていますが、特に記憶に残っているような出来事や番組はありますか?

 

BBC Radio Londonから仕事のオファーをもらった時、僕はまだ音楽のことをほんの少ししか知らないガキだった。Charles Mingus、Roland Kirk、Sun Raなんかははっきり言ってほとんど知らなかった。だから仕事を通じて学んでいったって感じだった。だけど、周りの人たちは「童顔の18歳の少年がMark MurphyやMiles Davisのレコードをオンエアしているぞ。こういう存在がジャズには必要なんだ!」って思っていたのさ。ジャズのオールドファンは、僕を「ジャズシーンを盛り上げてくれる存在」として見ていたんだ。

 

BBC Radio Londonでは3週間仕事をしたんだけど、本当に素晴らしい体験ができたね。その3週間で3人の重要人物に出会えたんだ。その1人目がThe Last PoetsのJalal Nurridinだった。当時の僕は火曜日の夜10時から12時まで『Mad on Jazz』という番組を持っていたんだ。

 

 

Jalalはロンドンのタクシーに乗っている時に、僕の番組でThe Last Poetsの「It’s a Trip」がオンエアされたのを聴いたんだ。自分たちの楽曲がラジオでオンエアされたのを聴いたことがなかったんだろうね。ちょうどAlan Douglasがプロデュースした彼のアルバム『Hustler’s Convention』がリリースされた頃さ。とにかく、The Last Poetsはアンダーグラウンドな存在だったのさ。そんなレコードがラジオでオンエアされていたのを聴いた彼はタクシーを停めて、「このDJが誰なのか今すぐ知る教えてくれ! こいつは一体誰なんだ!」って言ったんだ。

 

そして彼はBBCに電話をかけてきた。もちろん、当時は当然携帯電話なんてなかったから、どこかの公衆電話だったからかけたんだろうね。彼は電話越しに「自分たちの曲をオンエアした奴が誰か教えないと、爆弾をしかけるぞ」って言ったらしい。当時はこんな脅迫じみたことを言っても罪に問われない時代だったんだよ! とにかく、彼は僕の存在を突き止めて、後日僕たちは会うことになったんだ。サウスロンドンのフランス系イギリス人の白人がThe Last PoetsのJalalと会ったんだから、それはもうまったくの別世界だったね。Wikipediaだってなかったから事前の知識だって限られていたし、とにかく貴重な経験だった。

 

Jalalと会ったのは3週間のうちの1週目だった。彼は黒人の市民権をはじめ、色々と先進的なことを教えてくれたよ。そして2週目に会った2人目が、Wayne Shorterだった。ちょうど彼のアルバム『Phantom Navigator』がリリースされたタイミングだったから、僕が彼にインタビューするっていう段取りになっていたんだ。彼はJazz Messengersに所属していたし、「Witch Hunt」が収録されている『Speak No Evil』はじめとする素晴らしいアルバムも何枚か知っていたけれど、とにかくあの “Wayne Shorter” だったんだ。僕たちはBBC Radio Londonの地下のスタジオで20分のインタビューを行う予定だったけど、結局彼は2時間も話してくれた。すべて録音したよ。何も知らないガキになんだって2時間も話してくれるんだ?? って不思議だったね。仏教やMiles Davis、Jazzについて話してくれた。これが彼の素晴らしいところだと思う。彼は本物だよ。

 

 

その翌週に出会った3人目もまたジャズの世界では非常に重要な人物だ。ジャズシンガーのMark Murphyさ。Mark Murphyは当時ロンドンに住んでいたんだ。僕は彼のすべての作品が好きだったけれど、彼はボヘミアンというか、サンフランシスコのゲイジャズシーン出身で、当時としては少し変わった存在だったんだ。

 

こうして僕は3週間で素晴らしい3人の人物からレッスンを受けたのさ。それぞれが独自の音楽人生を歩んでいた。あの3週間は僕にとっての大学みたいなものだった。ジャズの授業を無料で受けたようなものだったね。

 

長年に渡りラジオに情熱を注げている理由は? 今でもその時のようなエキサイティングな体験ができるからですか?

 

今日もBBCで働けていることは本当に特別なことだと思っている。デジタル化が進む今の時代の中でずっと続けてこられたこと、そしてBBCが世界各国で得てきた高い評価に少しでも貢献できたことは本当にラッキーだと思っているよ。BBCがオンライン化を進めた時は、僕のようなある程度のキャリアを持つ人間にとっては本当に有り難かったね。僕はJohn Peelや他の偉大な人たちと一緒に仕事をしてきた位長いからね。John Peelは僕にレコードをくれた時があった。Saturn RecordsからリリースされていたSan Raの「Dreaming」の7インチだった。Johnは「Gilles、君なら気に入ると思うよ」と言って渡してくれたのさ。「オーマイゴッド!」って感じだったよ。

 

BBCのそういう素晴らしい部分や長年のサポートには愛情を抱いているし、彼らのお陰で世界的にリスペクトされるようになった。それって僕には非常に重要なことなんだ。UK以外にも僕の声が届いているってことだからね。もちろん、ラジオそのものが好きだ。誰にも指図されないしね。僕は毎週感謝しているよ。いつ職を失うか分からないんだからさ。とにかく、僕は自分のフィーリングに合わせてプレイできるし、BBCはその自由を与えてくれている。素晴らしいよね。

 

僕の番組のようなスタイルは、一番最近の番組で評価される。駄目な内容だったときは「もうやめた。もうやらないぞ。これで終わりだ」って思うよ。まぁ、こういう瞬間は1年に1回は必要なんだけど、良い番組が出来た時の興奮は格別だよ。クラブDJ、生放送のライブミックス、トークなど、すべての要素が最高のバランスで結びつくんだ。そういう最高の番組を放送できる回数は少ないけれど、僕にとってラジオ番組はDJというよりもアートなんだよ。

 

 

 

“Jalalが「Gilles、音楽業界は95%がビジネスで5%が音楽だ。それだけ分かっていれば問題ない」って言っていたのを良く憶えている”

 

 

 

もちろん、クラブDJも好きだ。ニューヨークのOutputでのプレイも好きさ。素晴らしいサウンドシステムで8時間プレイできるんだから。オーディエンスとの会話は素晴らしい体験だからね。彼らが踊ったり、音楽を感じてくれたりしている時や、ロングセットを終えて朝を迎えた瞬間なんかは特にね。でも、ラジオならもっと多くの人たちに届けることができるし、なんていうか、もうひとつ別の次元を加えることができるんだ。そこが好きなんだよ。

 

デッキの前にも後ろにもいられるってことが、自分にとって大事なことなんだと思う。こうやって今アーティストとして君のインタビューを受けている一方で、君のように聞き役を担当するのも好きなんだ。レコードレーベルを経営する僕もそうなんだよ。スポットライトの下に立つのと同じ位、人に何かを教えるのが好きなんだ。裏方に回るのが好きなんだよね。僕は世界最高の仕事をしていると思うよ。他の仕事なんて考えられないね。大好きなんだ。

 

レコードレーベルに話を移しますが、Talkin’ Loudなどこれまでに関わってきたレーベルでの経験は、あなたが今運営しているBrownswoodにどのような形で活かされていますか?

 

僕がこれまでやってきたどんな仕事にも最低の瞬間があった。苦しい時期は体験しておかなければならない。自分の得意範囲から飛び出して挑戦する必要があるんだ。年を重ねるほどそれは難しくなる。「こっちの方が簡単だから、楽に終わらせよう」って思うようになるからさ。出掛けるべきだってことを知っていながら、家にいるみたいなものさ。でも、自分を無理矢理外へ連れ出すと、最高の夜が過ごせたりするよね。すべてにおいてそういう姿勢で取り組まないと。Jalalの話に戻るけれど、Jalalが「Gilles、音楽業界は95%がビジネスで5%が音楽だ。それだけ分かっていれば問題ない」って言っていたのを良く憶えているよ。

 

Talkin’ Loudの時代を通じて僕は沢山のことを学んだね。遊びの延長からコンピレーションをリリースするようになり、Acid Jazzを運営して12インチをリリースしていた僕は、突如としてTalkin’ Loudの関係からPolyGramやUniversalで働くようになり、Dire Straitsのマーケティング戦略について話し合うようなA&Rのミーティングに参加するようになった。僕は「一体自分は何をやってるんだ?」って思ったよ。彼らからは「君はどんな音楽を手に入れた? 今週は何を聴いたんだ?」なんて訊かれたね。

 

 

それで、当時最高だと思っていたYoung Disciplesの「Step Right On」なんかを聴かせると、彼らは「クソだね」と非難して僕のあらゆる自信を奪い去るか、「今まで聴いた中で最高の音楽だよ!」と褒めておいて、翌日にはすっかり忘れているかのどちらかだった。あの頃は音楽業界の最低の部分を学ばなければならなかったけれど、あれで良かったと思うよ。ビジネスなんだってことに気が付いたからね。

 

経験しておく必要があったんだ。クリシェな価値観しか持っていないA&Rの連中に引きずり回される痛みを経験しておかなければならなかった。音楽業界の底辺さ。ひとつ言っておきたいのは、Talkin’ Loudを運営していたのは1980年代の終わり頃だったってことだね。1980年代っていうのは、最低に下品な人間が業界に集まっていた時代だった。本当に酷かったよ。僕はそのような人たちと仕事をしていたんだ。でも良い経験だった。めげずに何かを学べば成長できたからさ。

 

 

 

“Brownswood Recordsを始めたのは、自分の好きなレコードを一切の面倒を抱えずにリリースしたかったからさ”

 

 

 

Brownswood Recordsを始めたのは、そういう面倒が一切ない状態で自分の好きなレコードをリリースしたかったからなんだよ。

 

でも、まったく儲からないよ。もうそこにお金は存在しないんだ。レコードのリリースをキャリアにしたいと考えている人たちのためにそこはハッキリ言っておくよ。今売れているのはAdeleくらいで、それだって宝くじみたいなものさ。それでも、自分が関わったレコードを世に出せるっていうのは素晴らしいことなんだ。最近はキューバのシンガー、Dayme Arocenaをリリースしたし、Malaがペルーでレコーディングした素晴らしい作品も控えている。Owiny Sigoma Bandのサードアルバム『Nyanza』もリリースしたね。エクスペリメンタルなアフロ/エレクトロニック・ミュージックで3枚のアルバムをリリースできたことは単純に誇りに思うよ。

 

あとはブラジルへ戻って、SonzieraのアルバムをAlexander Kassinと一緒に仕上げる予定なんだ。Jose Pratesのアルバム『Tam… Tam… Tam…!』をモダンにアレンジした内容になるね。とにかく、今は自分が好きなことを沢山こなしているから楽しいね。

 

外側から見ていると、あなたは常に自分のやりたいことができる立場にいるように思えます。そしてそれ故に音楽の素晴らしい旅を体験し、それを高いクオリティで伝えられているのではないかと思います。多少美化しすぎかも知れませんが、あなた自身もそう感じていますか?

 

そうだね。人生は山あり谷ありの旅みたいなものさ。結婚したり、子供が生まれたりもするし、簡単じゃないよね。でも、人生がいかにタフかを理解していれば、一瞬一瞬に感謝するものさ。僕が今でも現役というか、シーンにある程度関われているのは、「今」を生きているからだと思う。自分の過去に頼り始めたら終わりだね。まぁすべてが終わりって訳じゃないけど、もう「今」を生きなくなる。

 

最近の音楽、特にエレクトロニック・ミュージックは、James Blake、Floating Points、Fourt Tet、Dan Snaithのようなアーティストが体験できるという意味では黄金時代を迎えていると思うよ。

 

世の中は本当に沢山の素晴らしい音楽に溢れているし、世間は世界のあらゆる音楽に興味を持っていると思う。今まで以上に興味を持っているんじゃないかな。僕たちが音楽を続けたいと思えるような、音楽に熱心に愛情を注いでくれる人たちは確実にいるよ。世界全体で考えれば、音楽に興味を持っている人はそこまで多くないのかも知れないけどね。世界はもっと大きな問題を抱えているし、僕たちのようなアーティストや音楽関係者なら、LCD Soundsystemのトラック「Losing My Edge」じゃないけど、「自分はもう衰えたのか(Am I losing my edge)?」って感じる時も確かにあるよ。

 

とにかく、「今」を生きなければならないってことさ。少なくとも僕は「今」に留まるようにしているし、「今」こそが居るべき場所なんだと思う。