一月 18

Flying Lotus:ベッドルームからビッグスクリーンへ

LAビートシーンを代表するアーティストがキャリア初期や映画制作から得た経験などについて語った

By Frosty

 

Steven Ellisonは多才な男だ。2000年代後半にFlying Lotusとしてブレイクして以来、彼はエクスペリメンタルミュージックのリーダーのひとりであり続けてきた。一連のアルバム群をWarp Recordsからリリースして各方面から高評価を得た彼は、自身のレーベルBrainfeederをエレクトロニック・ミュージックの中で最も大きな注目を集めるレーベルのひとつに育て上げ、映画制作スタジオを設立した他、Captain Murphy名義でラップも披露した。

 

Ellisonはティーンエイジャーの頃に、従兄弟から譲ってもらったMPC的なシーケンサー / サンプラーでビートメイクをスタートさせた。元々映画の世界に進みたかった彼は、高校卒業後はLos Angeles Film Schoolに進学するが、やがて親族が経営するJohn Coltrane Foundationで働き始めると(Alice Coltraneは大伯母)、続けてStones Throw Recordsでインターンとして働き、EgonとPeanut Butter Wolfの薫陶を受けた。そして、同時期にRed Bull Music Academy Melbourneに参加したあと、Plug Researchからデビューアルバム『1983』をリリースした。

 

以来、Ellisonは順調に成長を続けている。Warp Recordsからの一連のアルバム群がヒットしたあと、2008年にはレーベルBrainfeederを立ち上げた。元々はLAのビートシーンの仲間の音楽をリリースするために設立されたレーベルだったが、現在ではあらゆるタイプのエクスペリメンタル・エレクトロニック・ミュージックに出会えるトップレーベルとして確固たる地位を築いており、2016年には映画部門も設立され、Ellisonの監督デビュー作『Kuso』が2017年7月に公開された(日本は未公開)。

 

Frostyがホストを担当したRed Bull Radioのインタビューからの抜粋となる今回の記事の中で、Ellisonはブレイク前の時代やBrainfeeder立ち上げ当初、そして映画制作から得た経験などについて語っている。

 

Flying Lotus ©Fabian Brennecke

 

 

スピリチュアル・ティーンエイジャー

 

僕は音楽に囲まれて育った。スピリチュアル、ディスコ、作曲家、ジャズミュージシャンなどに囲まれていた。でも、僕はそういう音楽にピンと来なかった。自分の世界じゃないと思っていて、心地良さを感じていなかった。でも、従兄弟が小型のビートマシンを使ったヒップホップの作り方を教えてくれたことがきっかけで、その手の音楽に興味を持つようになった。全てはそこから始まったんだ。聴きたいと思っていたヒップホップを作り出せるという可能性に刺激を受けた。

 

小さい頃は何でも聴いていたよ。Stevie Wonderは家でいつもかかっていたし、John Coltraneもかかっていた。Diana Rossも聴いたよ。ロックやカントリーは聴いた記憶が余りない。全部ブラックミュージックだったと思う。

 

 

祖母はMotownでDiana Rossに曲を提供していた作曲家だった。彼女が手掛けた最大のヒット曲は「Love Hangover」だったと思う。祖母の姉がAlice Coltraneだ。彼女は素晴らしいアーティストで、とてもスピリチュアルな存在だった。John Coltraneと結婚したんだ。John Coltraneは当時最も偉大なミュージシャンのひとりとして考えられていた。僕のファミリーはジャズで生活していた。僕が子供の頃、祖母はJohn Coltrane Foundationとそのフェスティバルに関わっていたし、母も時々手伝っていた。

 

 

僕は早くからクールなクラシック音楽にも触れていた。ティーンエイジャーになる前から、従兄弟がきっかけでStravinskyの音楽を聴くようになっていた。彼の音楽は、1曲の中で様々な感情を与えてくれた。聴いていると、様々な情景も頭の中に生まれてきた。魔法のようだったよ。John Williamsの音楽には、彼の音楽の影響が見受けられるね。Stravinskyの音楽を聴くと、彼の想像力は無限大だったんじゃないかと思えるんだ。僕はそういう印象を持っていた。

 

このように様々な音楽やサウンドコラージュを聴き、ヒップホップとサンプリングの可能性を知ったあと、僕は自分の音楽にも魔法を持ち込みたいと思うようになった。変なたとえだけど、そうとしか表現できない。リスナーにある種の魔法をかけたい − これが僕の最大のモチベーションなんだ。新しい何かを届けたいんだ。僕はいつもそれを探そうとしている。探すのが楽しいからさ。

 

音楽を作っている時は、ムードを生み出そうとしている。僕がアルバムを作る時は、必ずしもサウンドだけに拘っているわけじゃない。全体のイメージ、ムード、流れを重要視することもある。 “シャッフル” カルチャー真っ只中の2017年に、そういうアルバムを作るのは最善策ではないと言われたけれど、僕は、アルバムは全体で筋が通ったものであるべきだと考えている。「クールなトラックを集めただけ」のアルバムだけを作っていたなら、あと2~3枚はリリースしていたと思うよ。全体のイメージや旅、アートワークに至る全てが僕の中では大切なんだ。

 

ヒップホップのクリエイティブなポテンシャルを僕に初めて示してくれたアルバムは、Snoop Doggのデビューアルバム『Doggystyle』だった。僕はあのアルバムのSnoopが大好きだけど、一番大きな影響を受けたのはサウンドプロダクションだった。当時のヒップホップの中であのような音楽的センスを打ち出していたのは、とても革新的だった。あのアルバムは、ブレイクやレコードサンプルをループさせる代わりに、ミュージシャンに演奏させていた。スケールが他よりも大きかったんだ。サウンドプロダクションの可能性を僕に教えてくれたアルバムだよ。

 

 

このアルバムを聴く前から、僕はすでにサウンドプロダクションに興味を持っていた。僕はDr. Dreが大好きなんだ。ティーンエイジャー時代に一番大きな影響を受けたアーティストだね。彼はシーン全体を作り上げたけれど、表舞台に出ることはほとんどなかった。僕は、舞台裏に潜んでいた彼を “ウィザード” に違いないと思っていたし、テクノロジーに詳しい人物なんだろうと思っていた。僕もそういう側面に興味を持っていたから、一緒に活動したいと思っていた。他にも有名人は沢山いたけれど、彼は僕が唯一共感できる人物だった。僕のロールモデルだったんだ。

 

僕は昔から裏方の仕事が好きなんだ。3Dのライブをした時は、シネマティックにしたかった。視覚的要素は僕の中では重要だ。3Dライブで一番楽しみにしているのは、3Dのヴィジュアルを初めて目にした観客が驚きの声を上げる様子を見ることさ。観客のリアクションは最高だよ。目をまん丸にして驚くんだ。

 

 

 

“ティーンエイジャーの頃は、自分の音楽に何かが起きるなんて思っていなかった”

 

 

 

従兄弟から初めてビートメイクができるサンプラーを譲ってもらったあと、僕は2小節のループを作り始めた。何か意味のあるものを作りたいと思っていたけれど、同時に機材のテクノロジーも理解したいと思っていた。この2つが僕の基本的なアプローチだ。仕組みを理解したあとで、音楽的でクリエイティブな作業に取りかかるんだ。あのサンプラーでは200以上のパターンを組んだと思う。

 

しばらく忘れていたんだけど、15歳の時、ラップグループに所属していた。レコーディングは一度もしなかった。ただ、僕が組んだビートに合わせてみんなでラップしていただけだった。「いつかスタジオに入ってアルバムを作ろう」なんて言っていたよ。Unforgivenというグループ名だった。最高だったね。

 

当時の僕は色々なものから影響を受けていた。ありとあらゆるものからね。当時の僕の部屋の様子を鮮明に思い出せるよ。貼ってあった写真やポスターもね。Master P、映画『ブレイド』、映画『スター・ウォーズ ジェダイの帰還』、映画『レザボア・ドッグス』のポスターを貼っていた。フトンを敷いていて、いつもグレーのスウェットを着ていた。

 

この頃の僕は、正直に言うと、自分の音楽に何かが起きるなんて思っていなかった。単純に楽しかっただけだし、クールに思っていただけだった。バレー(サンフェルナンド・バレー)周辺で音楽活動をしている年上の人たちが「お前まだ16歳なのか。マジかよ?」なんて言ってくる若さだったけど、僕も今は年を重ねたから、ビートメイカーを捕まえて「君まだ15歳なの? ワオ!」なんて言っているよ(笑)。

 

自分の音楽を信じるようになったのは、当時立ち上がったばかりのMySpeceページを作ったあとだった。MySpaceページから自分の音楽が広がっていったんだ。ページ上の自分のトラックをチェックして、「おいおい、みんなが僕のトラックをチェックしているぞ」と思った。それで沢山の人が僕のビートを収録したCDを買いたいと言ってきたからハリウッドのAron’s Recordsに持っていくと、完売した。

 

MySpeceはみんなのハブだった。あとは、Dublab本部のすぐ側にある、Santa Monica Blvd.のLittle Templeにも良く集まっていたね。あそこはとても大切な場所だった。とてもウェルカムな人たちばかりだった。全員が何かが起きつつあることを感じ取っていたと思う。全員が深く繋がっていたことを良く覚えているよ。美しい関係だった。クラブの外に停めた車の中で、みんなでそれぞれの作ったビートを聴いていた。こうやってシーンが作られていったんだ。

 

あの頃はエキサイティングなビートを沢山聴いたよ。Dibiaseはいつもクールなトラックを作っていたし、Ras G、Take、Sa-Raもそうだった。僕たちのシーンが話題になっていて、彼らは全員、Kanye Westと契約の話を進めていた。当時は、Stones Throwのチームも色々やっていたし、Madlib、Legend、J Dillaなども注目を集めていたけれど、僕たちはそのムーブメントの外側に位置していたんだ。彼らのシーンは少し内輪乗り的なところがあったからね。でも、僕たちは彼らの音楽をプレイしていたし、彼らの音楽が大好きだった。彼らの外側に位置していたことは結果的に良かったと思う。自力で自分たちのシーンを作り上げることになったからさ。

 

 

当時、僕に希望を持たせてくれた素晴らしい人たちがいた。John Robinson、Carlos Niño、Del the Funky Homosapienなどだね。僕たちはみんな、iChatやAOL Instant Messengerで繋がっていた。彼らが僕の音楽のファンだということはとても励みになったし、Jneiro Jarel、Madlib、Doomも僕の音楽を聴いたあと返事を返してくれて、応援もしてくれた。Dudley PerkinsのようなStones Throwチームが気に入ってくれた時は、自分の実力が認められたような気がしたね。なぜなら、僕は彼らを尊敬していたからさ。彼らと関係が持てただけでも嬉しかった。「よし、一緒のテーブルにつけた。もっとやっていこう」と思ったよ。

 

僕が自作のCD-Rを除いて初めて世に出したレコード / CDは、Plug Researchのコンピレーションアルバム『The Sound of LA』だった。「Two Bottom Blues」というトラックが収録されたんだ。Carlos Niñoがコンパイルしたんだけど、当時のシーンで活躍していた沢山のアーティストが収録されていたよ。

 

 

この頃、僕はMia Doi Todd「My Room is White」のリミックスを手掛けた。駆け出しだった僕にとってとても大きな出来事だった。タイミングもパーフェクトだった。どうやって作ったのか覚えてないけれど、とにかくサンプリングを始めたら、それがトラックになったんだ。このトラックがきっかけでリミックスEP(「Pink Sun」EP)がリリースされることになったんだ。今でもこのトラックは気に入っているよ。聴くと当時の楽しい思い出が蘇るね。MySpeceでかなり注目を集めたトラックのひとつだった。

 

 

当時の僕はまだ別の仕事もしていたんだ。正直に言うと、別の仕事をしていた頃が一番音楽を作っていたね。そのあと、1日中ずっと音楽を作っていたいと思ったから、その仕事を辞めたんだ。僕は「1日中音楽が作れれば、アパートがなくったって構わない。音楽ができればそれでいい」と思っていた。これが当時の僕の人生哲学だった。今でもそうだけどね。

 

 

 

“何かになると信じてBrainfeederを立ち上げたわけではなかった。単純にレフトフィールドな音楽を届ける乗り物として考えていただけだった”

 

 

 

音楽の世界

 

音楽業界の初めての仕事は、ファミリーの手伝いだった。John Coltrane Foundationのフェスティバルを手伝ったんだ。John Coltrane Festivalは、毎年LAで開催されていたフェスティバルで、Carlos SantanaやAlice Coltraneが興味深い音楽を演奏していたけれど、次世代のジャズミュージシャンのショーケースとしても機能していた。僕は毎年遊びに行っていたんだけど、やがて運営を手伝うようになった。ちゃんとした仕事だったよ。John Coltraneの版権管理もしていたしね。

 

僕はAlice Coltraneの音楽に思い入れがあるんだ。というのも、僕はアゴウラヒルズにある、彼女の建てた僧院Sai Anantam Ashramで育ったからさ。彼女はそこで教えを説いたり、音楽を演奏したりしていた。僕と彼女の音楽は、音楽的というよりは精神的に繋がっている。子供の頃の僕は、彼女の音楽は世の中に存在するあらゆる音楽の中でとてもユニークな存在感を放っていると思っていた。当時の僕が彼女の音楽をちゃんと理解していたかどうかは分からない。でも、歳を重ねるにつれて、彼女の音楽をより深く理解できるようになった。

 

そのあと、僕はStones Throw Recordsで働いた。あれも良い経験になったね。ごく普通の仕事だったけれど、音楽業界に身を置けたのが嬉しかったし、当時起きつつあった様々な可能性も目の当たりにすることができた。彼らからは大いに刺激を受けたし、業界に対する正しい視点を身に付けることができた。あそこで働いて、音楽レーベルがどうやって経営されているのかを見ていなければ、自分のレーベルは立ち上げていなかっただろうね。EgonとPeanut Butter Wolfが助けてくれた。彼らは僕を後押ししてくれたんだ。

 

Stones Throw Recordsは働き始める前から好きなレーベルだった。僕がこのレーベルのファンのきっかけになったのは、Quasimotoのアルバム『The Unseen』だった。ブッ飛ばされたよ。あとは、JaylibとMadvillainも好きだった。僕は、J Dillaのアルバム『Donuts』がリリースされた頃に働き始めた。MadlibのSound Direction名義のアルバム『The Funky Side of Life』もリリースされていたね。Stones Throw RecordsのオフィスでJ Dillaと知り合えて、彼の自宅にも行けた。あの頃に業界の様々な人たちと会えたのは大きな助けになったね。

 

 

昔からレーベルを立ち上げることに興味があった。だから、Stones Throwで働いていた頃は、Egonを捕まえてレーベル運営に関する質問を沢山していたよ。彼は僕が出会ってきた音楽業界人の中で最もスマートな人物のひとりに数えられる。音楽を目指す人にとっては本当に素晴らしいメンターだし、ロールモデルだよ。彼の仕事への取り組み方は本当に凄いと思う。

 

レーベルを立ち上げることを真剣に考え始めたのは、Das Bauhausという名前の集合住宅で暮らしていた頃だった。Samiyam、Teebs、友人のAdamが同じ集合住宅に住んでいたんだ。丁度その頃、ヨーロッパの小さなレーベル群がビートミュージックのリリースに興味を持ち始めて、LAのアーティストたちにオファーを出していた。それを見た僕は「僕たちでコントロールするべきだ。自分たちの物、自分たちのサウンドにして、自分たちで育てることができるようにすべきだ」と考えた。このアイディアがBrainfeederに繋がったんだ。

 

僕は、レーベルを始めるために必要な全てが揃っていると感じていた。SamiyamやRas Gをはじめとする僕の周りにいるアーティストたちには才能があると感じていたし、僕もすでにレーベル的な活動をしていた。A&R的な活動をしていたのさ。人から人へ音楽を渡していたし、様々なウェブサイトやメディアに向けて自分たちの音楽のキュレーションもしていた。

 

 

でも、何かになると信じてレーベルを立ち上げたわけではなかった。単純にレフトフィールドな音楽を届ける乗り物として考えていただけだった。Ras Gのようなアーティストが奇妙な音楽を好きなようにリリースできる場所として考えていたんだ。だから、Ras GはBrainfeederから奇妙な音楽をリリースしつつ、もっと分かりやすい音楽を他のレーベルからリリースすることができた。レーベルの運営はローラーコースターみたいだよ。僕たちのレーベルからスタートして素晴らしいキャリアを築き上げていくアーティストや、僕たちのレーベルにずっといるアーティストの成長を追えるのは素晴らしいね。Thundercat、Kamasi Washington、TOKiMONSTA、Daedelusは今やビッグアーティストだ。

 

Brainfeederは探求者のためのレーベルだ。フリンジアート(外縁に位置するアート)を生み出している人たちのレーベルなんだ。だから、取っつきにくいと思われる可能性もあるけれど、この点はとても重要だ。扱っている音楽の幅広さは、最初から持っていたアイディアだった。僕はアーティストが実験をしたり、違う方向へ向かったりすることができるレーベルにしたかった。ずっと前にHudson Mohawkeとドラムンベースのアルバムを作る話をしたことを覚えているよ。Tyler, The CreatorとSamiyamのコラボレーションアルバムを企画したこともあったね。

 

 

 

“僕には確固たる自分のサウンドがあると思う。それを邪魔に感じることもあるけれど、戻れる場所があるのは気が休まるね”

 

 

 

Brainfeeder Filmsを立ち上げたことは僕にとってとても大きな出来事だった。実現するとは思っていなかったからね。それよりも前の話をすると、North Sea Jazz FestivalでKamasi Washingtonのステージを観た時、僕は心の底から自分を誇らしく思えた。アメフトのスタジアムのような巨大なヴェニューで演奏している彼を見て、僕は「ワオ、彼がこのフェスティバルのヘッドライナーだ」と確信できた。そして、彼の音楽を早くから信じてきた自分を誇りに思ったんだ。彼の成功をとても嬉しく思っているよ。この時代に、彼は自分のための何かを生み出せている。希有な存在だよ。

 

Kamasiは僕にとって大きなインスピレーションであり続けている。昔、LAのPiano Bar(編注:2018年現在は閉店)で彼が小さなグループと一緒に演奏しているのを聴いたことがあるんだけど、彼がソロを取った瞬間、僕は自分の意識の中に引きずり込まれた。過去、現在、未来が全て一緒になったような意識だった。聴いている間、僕は自分の意識の中のあらゆる場所を訪れた。普段は、意識がそこまでブッ飛ぶのは良くないことだと言っているんだけど、あの時の意識はとてもディープだった。初めての体験だった。本当さ。生前のJohn Coltraneを聴いた人たちの感想に近い体験だった。Kamasiの音楽を聴くと、教会を訪れているような感覚を得る。あらゆることを考えたり、自分の意識の中を巡ったりするんだ。

 

 

Thundercatが成功を収めているのも嬉しく思っているよ。彼との個人的な関係を無視して、彼の音楽だけについて話すと、彼はクレイジーなメロディセンスの持ち主で、サウンドに対して非常にユニークな基準点を持っているアーティストだ。Thundercatの音楽的な興味は僕のそれに一番近いと思っている。彼はあらゆる音楽的興味を自分の音楽に持ち込んでいる。Thundercatと話をする時に、彼からアイディアが出なかったことは一度もない。彼はいつだって何かを生み出せるんだ。その姿には圧倒されるよ。

 

Thundercatと最初に出会ったのはSXSWだった。僕の知人と一緒にいたんだ。それで紹介してもらって、意気投合したのさ。会うたびに、どこかのタイミングでちゃんと会おうという話をしていた。それで、ようやく会う話になった時に、実は、彼が僕の家からたった数ブロック先に住んでいることが分かったんだ。僕はちょうど引っ越すところだった。そのタイミングで彼が近所に住んでいることを知ったのさ。あれは笑えたね。

 

 

 

僕たちが2人で会う時に、何かを一緒に作る可能性は半々だ。作らない時は、Thundercatがラップトップを取り出して、しばらく一緒にビデオゲームをプレイするか、インターネット上の馬鹿げた画像をチェックするんだ。あと、彼は最低の人間の話を延々としてくる。そういう最低の人間の話だけで、結構な時間が取られるんだ(笑)。

 

僕はこれまでに様々なタイプの人たちと一緒に仕事をしてきたけれど、まずはひとりで進めて、ベーシックな部分を自分をちゃんと表現できていると感じられるまで作り込んだあと、他の人たちに話を持ちかけるのが、理想的な仕事の進め方だ。これは音楽でも映画でも同じだね。ひとりでベーシックな部分を作ったあとで、「ここにあの人が参加してくれたらクールだろうな」なんて考えるのさ。

 

僕には確固たる自分のサウンドがあると思う。それを邪魔に感じることもあるけれど、戻れる場所があるのは気が休まるね。全部自分で仕上げたあと、他の方向性を試したり、他のテンポや拍数を試したりして、自分に刺激を与えてみることがあるよ。あとは、音楽制作を始めた頃のようなビートを作ることもある。15分くらいビートメイクをして、「これだ!」なんて思うんだ。

 

Captain Murphy名義に対する世間のリアクションは嬉しかったね。今でもそう思っているよ。Captain Murphyのタトゥーを入れているキッズもいるんだ。クレイジーだよね。あのプロジェクトをやることは考えていなかったし、ましてや成功を収めるなんて露ほども思っていなかった。でも、あのプロジェクトでは楽しい時間を過ごせた。この感覚は音楽として表現されていると思う。自分が楽しんでいるかどうかはリスナーに伝わると僕は信じている。とことん楽しめたなら、その感覚は絶対に音楽の中に表現される。大好きにはなれなかった作品でも、情熱と細部までの拘りはその中に持ち込まれるから、少なくともそこを感じ取ることはできる。たとえ嫌いな作品でも、自分がハードワークをしたことは表現されていると思う。

 

 

そして映画へ

 

僕の映画『Kuso』は、純粋に自分の好きなようにやったプロジェクトだった。若い頃から、僕は視覚的にストーリーを語りたいと思っていたんだ。でも、映画学校に通い始めたあと、自分が崩れてしまった。“こうあるべき” というルールに従うようになってしまったのさ。ちゃんと脚本を書いたり、決められた手順を追ったりするべきだって思うようになった。これが僕を混乱させた。あの頃の知識を捨てて、自分の能力やセンス、スタイルに自信を持てるようになるまでは長い時間がかかった。

 

映画学校に通っていた頃は、いつも「なぜ君はこれをやるのか」と問われていた。でも、芸術、映画、小説、音楽では、常にその答えを持ち合わせている必要はない。自分の心の声を信じてやるだけだ。でも、学校はそういう内なる声を無視して、全てをロジカルに進めろと教えてくる。それはごく普通の映画を制作する時には役立つかもしれないけど、僕がやりたいことにとっては、邪魔でしかなかった。

 

僕が覚えている限り、僕は昔からずっと映画制作に興味を持っていた。でも、Kahlil Joseph、Eddie Alcazar、Alma Har’elのような人たちと出会うまでは、実現できると思っていなかった。ここ数年、僕は彼らと多くの時間を過ごしてきた。彼らと一緒に仕事をしたり、彼らの映像プロジェクトのサウンドトラックを手掛けたりしていたんだ。僕は彼らがどんなことをしているのか知りたいと思っていた。それで、「なるほど、自分がやりたいことを他人に上手く伝えることができれば、映画は作れるんだな」と理解した。

 

映画監督は物事を上手く説明できるようになる必要があると思う。というよりも、それさえできれば映画は作れる。誰かに「このキャラクターのセーターのデザインは?」と質問された時に、「赤字に白のストライプで、ネックは黒」と答えられる必要がある。細部に至る全てにちゃんと答えが用意できるなら、映画は作れると思うよ。

 

監督デビュー作『Kuso』に取りかかるまではかなり長い時間がかかった。なぜなら、音楽が大きなウエイトを占めていたし、人気も獲得していたからね。だから、映画制作に取り組む時間がなかったんだ。そのための時間を作り出さなければならなかった。映画制作をスタートさせたあと、音楽も担当できたのはクールだったね。アーティストとしてより大きく成長することができた。今は、音楽を作る時にそのロケーションもイメージするようになった。映画を作るまで、こういう進め方はやったことがなかった。最近は、サウンドのロケーションと、それが音楽に与える影響を考えてから作っている。音楽制作をスタートさせる前の段階で、空間とムードを用意するんだよ。映画と音楽がお互いに影響を与えているんだ。

 

『Kuso』は大地震が南カリフォルニアを襲ったあとの恐怖と向き合う5人のストーリーだ。ひと言で言えば、『Kuso』はそういう映画だ。馬鹿らしいと思える恐怖もあれば、深い意味を持つ恐怖もある。終末を迎えたあとの世界をダークな視点で捉えた映画だ。僕たちが今生きているポスト・トランプ時代と『Kuso』の間には関連性があると思う。でも、脚本を書いている時は、ここまで時代性を持つ作品になるとは思っていなかったね。

 

 

Header Photo:©Koury Angelo