十月 12

Interview: DJ Muro

日本のヒップホップ・シーンの最前線で活躍し続ける、DJ MUROのインタビュー

By Danny Masao Winston

 

ヒップホップ、ファンク、ソウル、ディスコ、ジャズ、レゲエ、ワールド・ミュージックなど、幅広い音楽への深い造詣と愛情を武器に、世界で活躍する DJであり、「King Of Diggin’」の名に相応しい、筋金入りのレコード・コレクターであり、DJ KrushとのKrush Posseや、TwigyとのMicrophone Pagerといったグループで、ジャパニーズ・ヒップホップの黎明期からラッパーとして活動していたパイオニアであり、アンダーグラウンドからメジャーまで様々なアーティストの楽曲制作を行ってきたプロデューサーであり、自身のブランドやショップを手がけるファッション・アイコンであり、常に日本のBボーイの鑑である、MURO。これほど芯がブレずに、なおかつ幅広い活動に着手し、各方面からリスペクトを集めている存在も珍しい。熟練の2枚使いを駆使したDJには定評があり、近年は7インチを主体としたプレイでオーディエンスを魅了している。そんな、幅広い活動でヒップホップ・カルチャーの奥深さを紹介し、その普及に貢献してきたMUROの軌跡を辿るべく、原宿にある彼のショップDigotを訪れた。

 

最初に夢中になった音楽は何でしたか?

 

子供の頃に漫画の主題歌とかをソノシートで聞いていたのが最初ですね。両親がガソリン・スタンドで働いていて、あまり遊んでもらえなかったんで、絵本についてるソノシートを聴いたりしてました。ちっちゃなレコードプレーヤーで再生すると話を読んでくれて、「ポン」と鳴ったらページをめくる、みたいな。それがレコードとの出会いでした。

 

いつ頃ブラック・ミュージックを意識するようになりましたか?

 

たしかEarth Wind & Fireが何かのCMに出ていたんですよ。80年代の彼らみたいなアーティストって、音楽も衣装などのイメージも宇宙を目指していたじゃないですか?無限大というか、どこまで行くんだろう、っていう感じがして惹かれましたね。小学校高学年ぐらいの頃ですね。

 

 

どういう経緯でヒップホップと出会ったのですか?

 

中学のときにディスコに行きたかったんですけど、そのころ服装制限があって中々入れなかったんです。それで、家の近くのローラースケート場でディスコ寄りな選曲をしているところがあって。そこでAfrika BambaataaとかGrandmaster Flashとかを聴きましたね。当時貸しレコード屋があって、そこでレコードを借りてカセットテープに録音して聴いてました。DJらしいことを最初にやったのは、高校生のときにモジュラーステレオっていう、レコード・プレーヤーの下にカセットデッキが2個ついてるコンポみたいなのがあって、あるとき両方を同時に再生してみたら音が混ざることを発見したんです。「これで繋げられる!」って思って。それで高校の学園祭のとき、頼まれてもいないのにカセットを積み上げてDJしたのが、初めてでした。

 

 

それから、原宿の歩行者天国でDJ Krushさんに出会うんですよね?

 

高校生のときヘヴィメタルが全盛期で、ブラック・ミュージックを聴いてる人が周りにいなかったんですよ。それが気持ち良くて。小学校の頃からひねくれていて、人と同じが嫌だったんで。しかしあるとき、「お前と同じようなことやってる人が歩行者天国にいたよ」って教えてもらって、行ってみたら、DJ KrushとかCrazy Aさんとかが発電機を持って行って、ターンテーブルでレコードを回したり、ブレイクダンスをしていたんです。衝撃を受けましたね。「この人たち日本人なのか?」って思いましたね。その頃歩行者天国には竹の子族とかロックンローラーとか色んな文化があって、その中にこういったことをやってる人達がいるってことが衝撃でした。2、3週間通い続けたら、Krushが声をかけてくれて、「一回うちに来なよ」って言われて。それからしばらくレコード持ちとして現場に行かせてもらったりしたんです。現場と言ってもKrushもまだクラブとかディスコでは回してないから、大道芸人と一緒に回したり、デパートのオープニングとかで回したりでしたね。僕もDJは前からやりたかったんですけど、その頃DMC(World DJ Championships) が日本にも入ってきてDJが流行り始めていて。それで、Krushに「今DJが多いからラップをやりなよ」と言われて、ラップを始めたんです。

 

そして、1980年代後半にMURO、DJ Krush、DJ Goという3人のメンバーからなるヒップホップ・グループ、Krush Posseが結成されたわけですね。Krush Posseとして活動した中で、最も印象に残っていることは何ですか?

 

TVK(テレビ神奈川)というローカルのテレビ局があるんですけど、『ファンキートマト』(1990年〜1991年)という番組に準レギュラーとして出演していて、毎週1、2曲ミュージック・ビデオを紹介するというコーナーを持っていたんですよ。 結構内容の濃い、良い音楽番組でしたね。でも当時はミュージック・ビデオなんてそんなに数がなくて、「え、この中から選ぶの?」って感じでしたね。でもそれを続けていたら、そのうち1時間の番組をやってみなよって言われて。テレビ神奈川さんにはお世話になりましたね。

 

その後、Krush Posseが解散し、MUROさんはTwigy、P.H. Fron、Masao、DJ GoとMicrophone Pagerというグループを結成します。

 

Krushが当時から先を行き過ぎていたんですよね。僕らはとにかくニューヨークの音を作りたいって考えていたんですけど、Krushは、「こんなことやったらこんな音が出た」とか、すごく実験的なことをしていて科学者っぽかった。そこについていけなかったというか(笑)。純粋にアメリカの音を再現したかったんですよその頃は。しかし年々、Krushのやってることが理解できるようになっていきましたし、やっぱりすごいなって最近特に実感じますね。「あの頃からそんなマインドだったんだ」って改めて思います。

 

 

では、Microphone Pagerがその時本当にやりたかったヒップホップを体現したグループだったんですね。90年代に入り、Microphone Pagerとしてリリースを重ねる傍ら、MUROさんはソロでもレコードをリリースしています。ところで、最初に出したレコードは何だったのですか?

 

最初に出したのはKrush Posseの頃で、『Yellow Rap Culture In Your House』(1990年)というレコードですね。これはHome Baseと、Honey Bombと、Gutch Geeと僕らという、4組のアーティストの曲が入ってるレコードで、僕たちは「K.P.」という曲で参加してました。

 

それはどういった反応がありましたか?

 

あの頃、僕みたいなタイプのラッパーはいなかったんですよ。僕はEPMDやRakimみたいな、低い声でぼやくような、ぼそぼそしたラップが好きだったんで。内容よりは、形重視みたいなラップをしていました。Krushもそうだったんです。Krushと一緒にリリックを書いたりしていました。

 

90年代の初期には、Microphone Pagerとしてすでに海外でもライブをしていたんですよね?

 

93年にTommy Boyが出した『Planet Rap』というコンピレーションに、Microphone Pagerで参加したんですよ。同じ年にニューヨークでイベントが行われて、日本代表で出ないかって言われてやったのが初めてでしたね。

 

それは凄いことですよね。Tommy Boyの招待で、日本人ラッパーがアメリカでライブするなんて。

 

日本にもこういうことをやってる奴らはいるんだよ、こういうシーンがあるんだよって、向こうの人にとにかく知らせたいと考えてました。

 

 

1996年には、「さんピンCAMP」というイベントが日比谷野外音楽堂で開催され、MUROさんもライブを行いました。Rhymester、キングギドラ、Lamp Eye、Buddha Brand、Shakkazombie、Soul Screamなど、当時の日本のシーンをリードしていたヒップホップ・アーティストが一同に集結した、日本のヒップホップ史上最重要とされるフェスですが、これほど歴史的な出来事になると思っていましたか?

 

いや、思ってなかったですね(笑)。ぶっちゃけ、ステージに出て行くまで特別な気持ちはなかったんですよ。出演者でがっちり固まって仲良くしてたわけでもなかったし、実はリハーサルも行かなかったし(笑)。今考えるとひどいんですけど。あれはECDさんが声がけしてメンバーを集めて、実現したイベントだったんですけど、ステージに出て行くまでは何の実感もなかったですね。今までのイベントと一緒の感じでした。でも、実際に出て行ったら、あの客の数とか、あの雰囲気とか…雨だったんですけど相当人が集まっていて、これはもうシーンとして確立してるなって思って、興奮してしまいましたね。

 

「こんなシーンを待ってたぜ!」という名言を残しています。

 

そうですね。(笑)あれはもう、そのとき思ったことが自然に出たんだと思います。

 

今振り返ってみると、あの時日本のヒップホップ・シーンは特に盛り上がっていたと感じますか?

 

そうですねぇ。来日アーティストのライブを見ていると移り変わりが実感できましたね。1986年にRun DMCが来日してNHKホールでライブをしたときは、スニーカーをひも無しで履いて来ている人たちがいて、その後にLL Cool Jが渋谷のLOFTの駐車場でライブをしたときは、ゴールドチェーンをぶらさげて、ジャージのセットアップを着てる人とかいっぱい来てたし、それと平行して洋服屋さんも入ってきて。Public Enemyのときにまたちょっと増えてるなって印象があって。Run DMCやLLのときとはまた違う幅広さを感じましたね。それで、Beastie Boysが来た時は、スケーターがスケボーもってライブ会場に来ていたりして、どんどん増えていったし。で、落ち着いたかなと思ったら今度はDe La Soulが出てきて、イベントも圧倒的に入りやすくなったんじゃないですかね。それまではやっぱり、結構イカついイメージがあったと思うんですよ。一般の人だと入りづらいって感じる人もいたと思うけど、De La SoulとかNative Tongue勢が出てきて、一般の人も来るようになって。日本では特に、多くの人にとってヒップホップを聴くきっかけになったんじゃないですかね。

 

 

MUROさんは、どういったアーティストに影響を受けましたか?

 

やっぱりRakimは大好きでしたね。Cold Chillin’に影響を受けました。Marley Marlのプロダクションは、料理でいったら素材を活かしたサンプリングというか、これ以上美味しいものはできないんだろうなっていう、究極の所を提示してくれていましたからね。こないだ引っ越しして、レコードを大量に売ったんですけど、やっぱりその辺りのレコードはまだいっぱい残してるんですよ。Juice Crew All Starsの「Symphony」っていう、Kool G Rap、Craig G、Masta Ace、Big Daddy Kaneがマイクリレーしてる曲があるんですが、あれはミュージック・ビデオも含めて一番好きですね。もう何回真似したか。ウエスタンの格好して。(笑)大好きでした。

 

トラックの制作は活動初期から行っていたんですか?

 

そうですね。自分の作品とかは、結構初期からDJ と一緒にトラックを作ってました。レコードを持って行って、ここをループさせたいとか言って、いじってもらったりとか。そうやって学んでいきました。

 

DJ 活動もそれと平行して行っていたんですね?

 

そうです。あの頃、ディスコとクラブって全く違ってたんですよ。ディスコっていうと六本木とかにあって、入り口に黒服の人が立ってて、服装チェックが厳しい、みたいな。選曲もディスコはブラック・コンテンポラリーというか、まずニューウェーヴとかレゲエはかからなかったですね。しかしクラブはなんでもありだったんです。Krushが六本木のDroopy Drawersって店のオープンと同時にレギュラーをはじめたとき、僕は免許を取りたてで、運転も楽しかったから、Krushを車で送ってたんです。Droopy DrawersにKrushを送って、ちょっとマイク持たせてもらって。あと、下北沢のZOOっていうちっちゃいクラブがあったんですけど、そこではTokyo No.1 Soul Setとか、レゲエの人達がよくやってて、そっちも遊びに行って、そこでもちょっとMCさせてもらったりして。その雰囲気を楽しんで、またKrushを迎えに行って… みたいな土曜日でした。両方の良さを吸収したというか。それで、「DJやってみる?」って言われて、いざ始めたとき、逆をやってみたら面白いなって思ったんですよ。ディスコでクラブみたいな選曲をして、クラブでディスコみたいな選曲をして。それが楽しんでもらえたみたいで。「なんかこのコ変だな」って可愛がってもらえたんだと思います。

 

 

ミックステープを作り始めたのはいつ頃でしたか?

 

ミックステープはもう、15歳くらいのころから作ってました。来年で30周年になっちゃいます(笑)。例えば夏休みで海に行こうってことになったら、そのためにテープを作ったり。貸しレコード屋でレコードを借りて来て作っていました。なんかこう、組み立てるのが大好きなんですよ。1曲すごく好きな曲があったら、いかにこの曲の良さを伝えるかがテーマになって。それがずっと今でも続いてる感じですね。

 

MUROさんの代表作的ミックステープである、『King Of Diggin’』シリーズはどのタイミングで作り始めたのですか?

 

93年にニューヨークに行く時はもうダビングして持って行ってたんで、リリースしてないものから考えたら、90年代頭ぐらいにはもう作っていたんじゃないですかね。当時、ネタもののミックスってなかったんですよ。例えばKid Capriのオールドスクール・ミックスとか、Jackson 5とかJames Brownを繋いだようなのはあったんですけど、もっと濃い、フュージョンとかジャズとかがごちゃ混ぜになってるミックスが無いなって思って。

 

『King Of Diggin’』のテープは海外でもかなり注目を集めたようですね?

 

あるときイギリスの人が、僕がやっていたSAVAGE!というお店に来てくれて、凄い量を買っていってくれたんですよ。それで、口コミとかで向こうで広がってくれたみたいで。

 

 

『King Of Diggin’』というタイトルは相当大胆ですが、これはご自身でつけたのですか?

 

当時のMicrophone Pagerのマネージャーの女の人がつけてくれた名前だったんですよ。その頃に、その冠は重かったですね(笑)。キングって言ったらもう、全部持ってなきゃ駄目じゃん、みたいな。もう飯食わないで練習の日々でした。

 

その名に恥じないよう努力したんですね。

 

そうですねぇ、今考えてみれば。もちろん、単純に好きだからなのもありましたけど。

 

ニューヨークのゲットーで生まれたヒップホップという文化を、日本で日本人としてやっていく上で、意識していたことはありましたか?例えば、MUROさんの90年代の作品は漢字4文字のタイトルが多いと感じたんですが。

 

それはあります。じいちゃんが神主をやっていたんですよ。夜中の2時半に起きて、水をかぶったりとかして(笑)。じいちゃんと2人暮らしだったので、4時半ぐらいにはお経が聞こえて来るんですが、それが全部韻を踏んでるんですよ。あと、じいちゃんはよく例えで4文字熟語を使っていました。なんか凄いカッコいいなぁって思いましたね。凄く深いし、日本語って色んな捉え方があって面白いなって思って。Microphone Pagerのときは特によく漢字を使ってました。ラップをする上でも、和の部分は意識していて、特に海外に行き始めてからは、日本のオリジナリティって何だろとか、向こうに伝えられるものはないかって考えてました。その頃の目標は、日本語がすごく広まって、日本語でライムする英語圏の人が出て来たらしめたものだ、って思ってました。向こうの人が聴いて興味持てるような言葉だったり、そういったものは意識して使っていましたね。

 

MUROさんのラップはバイリンガルではなく日本語ですが、D.I.T.C.の面々とも曲をやっていますね。アメリカ人にも受け入れられたのは、言葉の意味が分からない人が聴いても単純にかっこいいと思えるラップをしよう、という意識があったからなのだと思いました。

 

ラップを始めた頃は、5、7、5みたいな日本語ラップばっかりだったんですよ。今でこそリスペクトしてるようなアーティストでも、当時はどうしてもカッコ良く思えなくて。やっぱり響きって大事だなって思っていました。英語でもパッと聴いてカッコ良く無かったら聴かないですし。第一印象ってすごく大事だと思っていたし、他の人以上に響きに拘っていたと思います。

 

 

1999年にLord FinesseとAGとの「Vinyl Athletes」、2001年にはO.C.と「Lyrical Tyrants」をリリースしていますが、D.I.T.C.のメンバーとはどうやって知り合ったのですか?

 

Lord Finesseの1stシングルとか、1stアルバムを聴いて衝撃を受けたんですよ。彼は僕と同じようなスタンスで、DJもやるしプロデュースもやるしラップもやるし、Cold Chillin’と並んで、Wild Pitchというレーベルは自分の中でトップレベルで。ああいった作品を作る人ってあの頃他にいなかったんで衝撃的でしたね。93年にニューヨークに行ったときは、レコード屋に行けばFinesseは絶対に掘ってるはずだって思って、レコ屋にとことん行ったけど会えなかったんですが、The Roosevelt HotelでやってたRecord Conventionというのがあって、そこでFinesseと会えたんです。 そこで彼と喋って、テープを渡して、とにかく好きだっていうことを全身全霊でアピールして。いつか日本に呼びたいとか、プロデュースしてもらいたいとか、一緒にラップしたいとか色々な想いを伝えたんですよ。それで、Finesseが他のD.I.T.C.のメンバーに「MUROってやつがいるよ」って教えてくれたみたいです。

 

MUROさんはこれまでMicrophone Pagerとしても、ソロのラップ・アーティストとしても数々のクラシックを残していますが、その中で一番思い入れが深い曲をあげるとしたらどれですか?

 

うーん…「真ッ黒ニナル迄」ですかね。(註:Brownswood Recordsから発売された1994年のコンピレーション、『Multidirection』収録)日本のD.I.T.C. みたいなクルーを作りたいという思いで作った、ディガーの歌なんです。こういう歌をやる人は未だにいないし、やっぱ出てきたらいいなって思ってます。

 

80年代からヒップホップの世界を生きてきたMUROさんから見て、日本のヒップホップ・シーンはどのような変化を遂げてきたと思いますか?

 

もう、目まぐるしく変化してきましたね。90年代に入ってから圧倒的に人口が増えましたし、色んなスタイルの人が出てきて。日本のラップしか聴かないって人も今はいますし、凄い広がったなって思います。だけど、世界を広い視野で見たほうがもっと楽しいとは思いますね。昔は自分も、ニューヨークじゃなきゃ駄目、とかこだわっていた時期がありましたけど、今は一歩下がって視野を広げて色々と見れるから楽しいです。

 

 

MUROさんのDJスタイルには、どういった変化がありましたか?

 

90年代は、とにかく海外のDJの真似でした。これがカッコいい、生音をこうかけるとカッコ良く聞こえる、といったことを直輸入して。もう、Kid Capriのモノマネですね、今考えると。でも、それをやってる人は日本にいなかったんですよ。だからそこが良かったのかなとは思います。今では7インチがすごい流行ってますけど、昔はレゲエのアーティストしかやってる人はいなかったんですよ。海外に買い付けに行ったときにフリーマーケットとかで見かけると、安いからJackson 5とかJames Brownの7インチを買ってたんですけど、ある日、渋谷のCAVEってクラブで、この小さいのだけでやってみようって思って。やってみたら可能性が見えて、これは面白いなって思ったんです。生音もこんな風にかけられる、聞かせられるんだって。これからもできるだけ人がやっていないことを、今までの知識とか経験を活かしながらやっていきたいです。

 

7インチといえば、MUROさんは数年前に『ドーナツ盤ジャケット美術館』という日本盤の7インチのジャケを集めた本を出していますね。

 

元々7インチのジャケットを集めるのが好きでファイルに入れていたら、編集者の人の目に留まって、面白いねって言われたんです。ああいうジャケットって日本ならではですし、海外の人が見たら面白いんだろうなって思って。70年代から、ブラック・ミュージックをちゃんと日本でも広めようっていう文化が日本にはあったっていうことを解ってもらうためにも出版しました。海外での反応も良くて、人に渡して喜ばれないときがないですね。昔はカタカナとか日本語のフォントもなくて全部手書きだったし、「ほんとにこんなのになるの?」っていう無理矢理な邦題もありますし(笑)それも味として面白いかなと。

 

ネットで簡単に無料のミックスが聴けてしまうこのご時世、MUROさんは年間何作もコンスタントにミックスCDをリリースしている数少ないDJです。ミックスを作る際にはどういったことを意識していますか?

 

その都度その都度、自分がハマってるものをまとめているというか。どっちにしろ、毎日レコードはいじってるんですよ。毎月毎月、足元にレコードが増えて行く一方で(笑)。これ片付けないとどうしようもなんないなって状態になっていって。最近、自分の子供も生まれたんで、キッズもののミックスを作ったんですよ。子供のヴォーカルのレコードとか、キッズもののレコードを昔からちょこちょこ集めてたんで、それをまとめて。

 

ところで、現在のレコードの所有枚数ってどれくらいなんですか?

 

今回の引っ越しでレコードを大量に売ったので、4部屋が2部屋になりましたね。枚数は解らないんですけど。

 

MUROさんの場合、レコードの量は枚数ではなくて部屋単位なんですね。

 

ははっ(笑)。 あと、J WAVEっていうラジオ局でレギュラー番組を持っていたときは週1回ミックス・ショーをやっていたし、常に何かしらミックスをやってないと気が済まないんですよね。常に作ってる感じです。作ってくことで、その曲をじっくり聴くことにもなりますし、誰もサンプリングしてない2小節を発見することもできます。その“見つける”という行為はもう病気みたいで辞められないんですよ。レコード屋も試聴できるとこが多くなったんで、何枚でも聴けるお店に、空いてそうな曜日の空いてそうな時間帯に行って、レコードをずっと聴いて、一日一個、誰も知らない2小節、4小節を見つけるのがもうたまらなく好きですね。

 

 

生粋のディガーですね。

 

アメリカでは「ディギン」ってひとつのカテゴリーというか、ヒップホップの要素として確立されてきているようで嬉しいです。Stezoっていうアーティストが、昔Skull Snapsのドラムブレイクを使って「It’s My Turn」っていう曲を作っていたんですけど、2012年にニューヨークのPark Jamに出させてもらったとき、StezoがSkull Snapsと一緒に来て、「サンプリングしたアーティストだよ」とSkull Snapsを紹介してくれて、僕は「知ってるよ!今日もレコード持ってきてる」って話して。そして、サンプリングのドキュメンタリーを撮ってるから一言欲しいって言われて、その1番始めの質問が、「ヒップホップはMC、DJ、ブレイクダンス、そしてグラフィティがあるけど、5つめにディギングがくると思うか?」って言われたんです。「いよいよそんな所まで来たのか!」って思って、もう、涙出てきて。サンプリング文化だとかディギングの文化をこう、色々な人に広めたりすることができたらいいなとか、日本の人にも解りやすく伝えていけたらと思って活動しているので、本当に嬉しかったです。

 

MUROさんは過去にSAVAGE!というお店をやっており、現在はオリジナル・ブランドの服や、古着、小物、レコード、そしてMUROさんのミックスCDなどが売られているショップ、Digotを原宿で経営しています。このお店をオープンするに至った経緯は?

 

何でもよかったんですけど、とにかく何かしら“現場”を作りたかったんですよ。3.11の地震以降、特に現場が減ってるなって感じて。昔みたいに、ここに行けば必ず誰か居るとか、何かあるとか、そういう場所がどんどん無くなってきていて。クラブ・イベントでもそういうのはないし、そういう場所を作りたかったんです。色々な人が来てくれるのが、やってて楽しいですね。いつも来てくれる人もいて。

 

これまでのキャリアを包括して、最も誇りに思っていることは何ですか?

 

2010年に初めてニューヨークのPark Jamで回させてもらったときは頂点でしたね。しかもDJをする前に、Lord Finesseがマイクを持って紹介してくれたんです。「最初にテープをもらったときは、“King Of Diggin’”とか書いてあって認めてなかったけど…」って出会いから歴史を語ってくれて。もう涙がとまらなくて。自分の中ではある種、あれが卒業式でした。ここからはもう好きな事やってもいい、みたいな。彼には伝わってたんだなって思いました。英語でちゃんとコミュニケーションできてないのに、解ってくれていたんです。

 

 

2014 Photos: Tsuneo Koga

Archive Photos: Courtesy of DJ MURO