一月 07

ロングインタビュー:DJ Funk

近年はフットワークのインスピレーションとしても尊敬される、シカゴゲットーハウスを代表するアーティストDJ Funkが語る過去・現在・未来。

By Vivian Host

 

1990年代中盤以降、Charles “DJ Funk” Chambersという名前は、ざらついたチープな質感と力強いリズムが特徴の、シカゴハウスの変態な従兄弟「ゲットーハウス」と同義であり、彼(そして彼がベースとしているレーベルDance Mania)は、同じくゲットーハウスのオリジネイターである、Deeon、Houz’ Mon、Milton、Jammin’ Gerald、Slugo、Traxmenなどと共に、808と909が生み出す粗いハウスグルーヴに淫猥なリリックを絡めたそのトラック群が生み出す独特のパワーと娯楽を世界各地に届けてきた。

 

「Dik Work」、「Pump It」、「Face Down Ass Up」、「Pussy Percolate」という下品極まりないタイトルが揃っていることから、DJ Funkを忌避してしまう人がいる一方、Daft Punk、Basement Jaxx、Justice、Boyz Noizeなどは彼の音楽から大きな影響を受けており、実際に彼らはこのゲットーハウスの雄とコラボレーションも果たしている。今回のインタビューではミックステープからフットワーク、そしてギャングまで、DJ Funkが地元シカゴで辿ってきた道のりをインタビュー形式で振り返っていく。

 

シカゴでの幼少期の生活を振り返ってもらえますか?

 

ひと言で言うなら、ハードコアだな。俺の家族は超貧乏だったし、金も物も一切なかった。都市部で生活していて服もろくに持っていないガキだったから馬鹿にされたし、学校生活も酷かったな。周りはギャングの抗争、娼婦、ポン引き、詐欺師なんかに溢れていて、ポジティブさのかけらもない生活だった。都市部のガキが目標にできる大人はこういうタイプしかいなかった。近所にはスーツを着ているビジネスマンなんてひとりもいなかったし、ドラッグディーラーかギャングだけだった。10代のガキが目指せる職業なんてそれ位しかなかったのさ。マジでクレイジーだったよ。でも、俺は踏みとどまったね。「俺はこっちには進まねぇぞ。こっちに進めば人生終わりだ。刑務所で一生を過ごすことになる」って思ったのさ。もし、音楽がなければ、今ここでこうして話すこともなかっただろうな。音楽はネガティブな気持ちを取り除いてくれる存在なのさ。

 

当時、あなたの周りには先輩DJのような存在はいましたか? ハウスを初めて聴いたのはいつですか?

 

初めて聴いたのは13歳か14歳だった。俺と友人でクラブに忍び込んだのさ。ドデカいスピーカーがあって、ベースが体感できた。そこでプレイしているDJを見て、「何だこれ? やってみてぇな」って思ったのさ。別にキャリアにしようなんて考えてなかった。ただただエキサイティングだった。

 

 

 

“シカゴのガキが手持ち無沙汰でストリートをうろつくわけにはいかないのさ”

 

 

 

当時はDJと知り合いになる可能性なんてないに等しかった。DJがセレブみたいに扱われている今とはまったく違う時代だったのさ。当時のDJはとにかくアンダーグラウンドで、プライベートでパーソナルな存在だったし、(シカゴの)ウェストサイドのベストDJのひとりだったClint-Xと知り合うまでに1年以上かかったぜ。この頃にターンテーブルとミキサー、それにレコードを買ったんだ。当時これらをすべて揃えるのには金がかかったけど、とにかく用意した。それで18歳か19歳頃にクラブに雇われたんだ。

 

音楽制作をスタートさせたきっかけは?

 

DJをしばらく続けていると、音楽制作をしたいって情熱が生まれるものさ。808や909を使ったビートトラックのようなシカゴハウスを聴いた時に「自分でも作れる」って思ったんだ。あとは機材を買うだけだった。で、友人のひとりがドラムマシンを持っていたから、俺も買うことにしたのさ。808を1000ドルだったか、1500ドルだったかで手に入れた。無職のガキにとっては大金だったぜ。

 

ビートトラックというのはどういう意味でしょう?

 

ドラムマシンだけのトラックってことさ。基本はビートだけ。あとは入っていても多少のヴォーカルくらいだな。当時DJをしていて、A面よりもB面のトラックの方が客を踊らせるってことに気が付いたから、B面のダブバージョンやリズムトラックをヘヴィープレイしていた。それがひとつのスタイルになっていったんだ。A面はディープハウス好きの連中のための音楽だった。でも、俺たちはまだガキだったし、シンプルにパーティを楽しんで、女のケツを追い回せるトラックの方が良かったのさ。

 

当時のお気に入りのトラックは?

 

Farley “Jackmaster” Funk、Trax Records、Lil Louisだな。今でも1年に数回は酒を飲みながら昔のレコードを聴き直して、「このトラックは憶えてるぞ!」なんて言っているよ。インスピレーションを与えてくれるんだ。

 

最近聴き直したトラックのひとつが「Get the Ho」だ。サウンドのクオリティは最悪だが、生々しさは強烈だぜ。カセットにレコーディングしたようなテープヒスも乗ってるが、そんなのは一切気にならない。むしろそういう要素が音楽にスタイルとフレイバーを加えているのさ。ナチュラルなサウンドなんだ。

 

シカゴ、またはミッドウェストのミックススタイルについて具体的に教えてください。

 

メガミックスみたいなスタイルさ。その大半はツールというか、ミニマルだ。ビート、ベースライン、ハイハット、クラップ、ヴォーカルサンプルだけだな。BPMは140から150だった。速ければエナジーが生まれてくるんだ。それらを1分から2分、それよりももっと短い時間で繋いでいく。トラックをどんどん繋いでいくことでエナジーが更に生まれていくのさ。

 

 

 

“「そんなのゴメンだぜ。俺は自分で自分を支えるんだ」って思ったんだ。何かミスをしたとしても、それは自分のせいなのさ”

 

 

 

3分から5分も同じ曲をプレイしたり、8小節、16小節、32小節のタイミングで繋いだりするのとはワケが違う。俺たちはただ感じるままにプレイするのさ。俺も昔はメガミックスを作っていたよ。著作権で訴えられないようにとにかく細切れにしていた。今でも十分使えるぜ! 昔ブレイクダンサーだった俺は、Tommy Boyからリリースされていたメガミックスで馬鹿みたいに踊ってたんだ。だからそのアイディアをハウスに持ち込んだらクールじゃないかって思ったのさ。

 

音楽でブレイクしたと最初に思えたのはいつだったのでしょう?

 

最初、DJ活動は真面目に考えていなかった。真面目に考えるようになったのは、まだガキの頃だな。ある日、30本ほど買っておいたMemorexのカセットテープにDJミックスをダビングして売ったんだ。それで1時間で500ドルほど稼いだのさ。

 

そのテープはDo ore Die(ラップグループ)のメンバーのひとりと一緒に売っていたんだ。ショッピングセンターのPulaski & Madisonに出向くと、サウンドシステムを持っているような連中がたむろしていたから、奴らに − まぁ大半はドラッグディーラーだったけどな − 「DJ Funkのミックステープがあるんだ。プレイしてくれよ」って売り込んだ。それで「2本もらうぜ」なんて言われると、そいつらに「仲間を紹介してくれよ」って頼み込んで仲間の電話番号をもらったのさ。そうやって売り捌いたんだ。

 

これで500ドル位儲けたのさ。当時は祖母と一緒に暮らしていたが、彼女が週40時間働いていて稼ぐ金よりも多かった。だから俺は「待てよ。1時間でこれだけ稼げるんだったら、働かなくてもいいんじゃないか?」って思ったのさ。結局俺はまともな仕事には一度も就かなかったね。まぁ、実際は2回ほど働いたけどな。最初は2週間ほどAronsonって名前の家具屋で働いて、ドラムマシンを買ったんだ。今でもそのドラムマシンは持ってるぜ。あとは3ヶ月間別の仕事をして、Technics 1200を2台と車、レザージャケットを買って辞めた。祖母にはクレイジーだって思われてたな。

 

黒人の18歳のガキが工場で働いて両親と同じ金額を稼いでいたのに辞めたんだから、最初は怒られたし、音楽の道に進むことを良く思ってくれなかった。Justiceの「Let There Be Light」のリミックスを担当して大ヒットになった時に、ようやく理解されたのさ。

 

 

師匠のような存在はいましたか?

 

ひとりもいなかったな。俺の師匠は自分が買ったレコード、自分がプレイしたレコードさ。音楽制作をスタートさせた頃、手元に取説なんてなかった。ドラムマシンを買っても、取説がなかったのさ。でも、ドラムマシンの操作は凄く難しい。さっき、音楽に助けてもらったって話をしたが、それは暇を持てあます代わりにドラムマシンを理解しようと必死だったからさ。シカゴのガキが手持ち無沙汰でストリートをうろつくわけにはいかない。警察だってうろついてる。ブラブラしてれば奴らに目を付けられるのさ。

 

昔、やってない罪に問われてムショに入ったことがあった。大部屋に50人から100人と一緒に放り込まれたんだ。俺はそれまで一度も問題を起こしたことはなかったし、ムショに放り込まれたこともなかったから、マジでビビったね。当時はGangstar DisciplesとVice Lordsがギャングの2大勢力で張り合っていたんだ。ギャングに属していない奴らはNeutronって呼ばれて狙われていた。俺はグループとしてはNeutronだったのさ。でも、入所した時は既にDJとして名前が売れていから、ギャングたちが「こいつはクールな奴だから構うなよ」って言ってくれたのさ。神に感謝したね。

 

ギャングの連中は刑務所の中でもマリファナを吸ったり、ドラッグをキメたりしていた。俺は「おいおい! どうなってるんだ? なんでエロ本もマリファナもドラッグもあるんだよ!」って思ったね。それと同時に「俺はこんなクレイジーな奴らとは違う。こいつらと一緒にいたら駄目だ」って自分に言い聞かせた。この時の経験が俺を一層音楽に向かわせたんだ。ムショを出たあとは「もう二度と入らないぞ」って心に誓ったぜ。その2年後に「Pump It」をリリースしたんだ。

 

 

昔は前述のDo or Dieと音楽制作を行っていましたよね?

 

ああ。Do or Dieの最初のレコードを一緒に作った。そのあと奴らはTwistaってラッパーと一緒に活動するようになったんだ。俺にはヒップホップに進むか、それともハウスやブーティーのようなダンスミュージックに進むかのふたつの選択肢があった。でも、10代だった俺は「30歳になっても、人を殺したり傷つけたりすることについて歌いたくないね」って思ったのさ。60歳、70歳になってもやれるってことが分かっていたからダンスミュージックを選択した。俺はハードコアなギャングスタじゃないし、銃を持ってる連中が抗争をおっぱじめるような場所に出向く自分が想像できなかった。そこに顔を出す意味が理解できなかったね。俺はケツやチチを見たいんだからさ。分かるだろ? パーティでケンカするなんてゴメンだぜ。パーティではパーティがしたいんだ。

 

あとは、グループに属していると依存状態になるのが嫌だった。俺は「そんなのゴメンだぜ。俺は自分で自分を支えるんだ」って思ったんだ。何かミスをしたとしても、それは自分のせいなのさ。

 

Dance Maniaからリリースした経緯は?

 

最初は自主制作だった。1993年頃だったと思う。まだまだガキでね。とにかくレコードをリリースしたかったから、自分のウォーターベッドを売り払った。あの頃の俺はフリークだったから、車も売ったし、DJ機材も売った。その金でレコードをリリースしようとしたんだ。自主制作したあとは、シカゴ市内のあらゆるレコードショップに持ち込んで1ヶ月の委託販売の契約をした。すぐに回収できたぜ。

 

 

その頃にDance Maniaと知り合ったのさ。彼らはディストリビューター兼レーベルだった。Ray(Raymond Barney:Dance Mania主宰)に呼び止められて、「俺に任せればもっと売ってやるぜ」って言われた。それで「House the Groove」をリリースしたんだ。制作にまったく時間はかからなかったね。「とにかくこれをリリースするぜ」って感じでリリースしたこのEPは、今でも俺の代表作のひとつとして認知されてるが、自己投資して自主制作したことがきっかけになったのさ。当時の自主制作は金がかかったな。

 

売れるというかなり強い確信があったからこその自主制作だったのでは?

 

自分がダンスミュージックがどれだけ好きなのかは理解していたし、「リリースしてやる。俺は10代だし、とにかく10代の音楽を作るぜ」って強く思っていた。売れるって確信はあったな。だから、2、3曲が収録されている他の連中のEPとは違って、8曲くらい収録してリリースしたんだ。「できるだけ沢山の曲を1枚に収録してやるぞ」って思っていたのさ。2012年にリリースした「Booty House Anthems 3」も30曲程度を収録したし、2014年の「Gold Album」も42曲にDJミックスを足してリリースした。俺は小賢しいことはしない。みんなが聴きたい音楽を届けるだけさ。あとはその中から勝手に選んでくれればいいんだ。

 

 

 

“40代の連中がいるパーティなんて楽しくないぜ! 俺は若い連中が集まるパーティでプレイしたいんだ”

 

 

 

昔、シカゴでHot Mix 5のレコードをチェックして、1曲だけしかイケてるトラックが入ってない時は頭にきていたな。「この曲だけに金を払うつもりはない」って怒ったもんさ。でも、今はMP3だったり、無料だったりで音楽が簡単に手に入る。金がなくてもDJになれるのさ。俺がガキの頃なんてのは、レコードもミキサーもターンテーブルもスピーカーもアンプも手に入れなきゃならなかったんだぜ。“オーマイゴッド” だろ? だから最近はたまにTR-808とTB-303だけを持っていって、そこに自分のMCをかぶせたライブをするんだ。ドラムマシンに50曲程度のネタが入っているし、要するにその場でレコードを作るようなもんだな。こんなスタイルの奴なんて他にいないだろ?

 

最近はオリジナルというか、未発表のトラックをプレイするようになっている。自分のゲットーハウスのスタイルでな。まぁ、20年も続いているんだから、まっとうなジャンルを作れたんじゃねぇか? 今でもティーンが来るパーティでプレイしてるしな。40代の連中がいるパーティなんて楽しくないぜ! 俺は若い連中が集まるパーティでプレイしたいんだ。

 

ビートにMCを乗せるというライブパフォーマンスは、ゲットーハウスにおいてどの程度大きなウェイトを占めているのでしょう?

 

俺は5年前までそのスタイルのパフォーマンスはしていなかった。俺はシャイだし、特に伝えたいこともなかったからな。スタジオでは昔からやっていたぜ。

 

Jammin’ GeraldやDeeonやHouz MonをはじめとするDance Maniaの連中とトラックを制作するときはこのスタイルだった。ドラムマシンとキーボードだけで、サンプラーは使わずに、マイクを使ってその場でラップしたのさ。たとえば、俺が「Work It」を作ったあとに、Geraldが別の「Work It」を作って、次にDeeonが別の「Work It」を作った。全員のトラックが上手くいった。俺はサンプラーを使った。たしかEnsoniq ASR-10だったな。DeeonはYamahaのキーボードと909とマイク。GeraldはRoland S-10とRolandのドラムマシンを使った。使う機材に違いはあれど、同じスタイルで制作していたのさ。

 

 

それぞれが同じトラックの別バージョンを制作していたということですが、それらを個々でリリースする際には許可を取る必要があったのでしょうか? というのも、あなたの「Video Clash」はLil Louisのオリジナルにかなり似ていますよね。

 

いや。当時はRay(Raymond Barney)から許可を得ていたのさ。Dance Maniaはコラボレーションを頻繁にしていて、お互いのトラックも使い回していた。ライセンスで揉めるようなことはなかったぜ。DeeonやPaul Johnsonに「なぁ、あのサンプルが使いたいんだ。リミックスを作ろうと思ってるんだ」って1本連絡を入れるだけさ。俺たちは家族みたいなもんだったし、持っているリソースも少なかった。だからコラボレーションが良かったんだ。みんなを助けることになったのさ。今でもDance Maniaの連中、Paul Johnson、Deeon、Gerald、Wax、Robert Armani、Slugoたちのトラックをプレイするぜ。奴らのトラックがなかったら、今の俺はなかったな。

 

当時のシカゴのパーティはどんな雰囲気だったのでしょう? レイブでプレイする前はThe Factoryでプレイしていましたよね?

 

最初の頃にプレイしていたクラブの大半は黒人のクラブで、キャパシティは500人程度だった。ゲットーだったし、銃をブッ放しているパーティもあったぜ。信じられないだろ? 俺の家のすぐ近所のユースセンターで開催されていたパーティのことを良く憶えているよ。誰かが銃をブッ放しやがったから、みんながDJの方へ逃げてきたんだ。俺は「撃ち返せる銃なんて持ってないぜ! なんだってこっちへ逃げてくるんだよ!」って思ったね。

 

Dance Maniaでリリースしたあとにレイブでプレイするようになったが、それでも自分のゲットーハウスがプレイできた。かなり面白かったね。暴力を振るわずにひたすらハグしてくれるだけの連中に囲まれたことはなかったからな。「みんなファミリーさ」っていう雰囲気は未体験だったよ。

 

だが、俺がレイブでプレイする頃になると、シカゴの黒人はダンスミュージックの代わりにヒップホップを聴くようになっていた。Clear Channel(訳注:現iHeartMedia。米国最大規模の音楽系マスメディア)の連中がすべてをかっさらっていったのさ。奴らは俺たちがラジオでオンエアしていた20分のワークアウトミックスを終了させたんだ。当時のラジオは1日中Dance Maniaのトラックをプレイしていたのに、Clear Channelが「それはもう終わりだ。これからはギャングスタラップをプレイする」って言いやがったのさ。俺たちは「ハッピーな音楽をプレイしないつもりか? どういうことだよ?」って思ったね。

 

当時、俺たちのトラックはまだレコードショップで売られていたのに、奴らがラジオでのオンエアを終わらせやがった。だから俺は自分のレコードを売るのをやめた。ブートレグの連中が俺の音楽を利用して俺より稼ぐようになっていたからさ。俺は「こんなのファックだぜ。自分の音楽はパーティでしかプレイしない。他の連中が俺から金をかすめ取るからレコードを作るのはやめだ」って心に決めたのさ。

 

 

シカゴ以外で初めてプレイしたのはいつですか? 実は名曲「Pump It」が初収録されたのは、UKのCosmicからリリースされた「Pumpin' Tracks」EPですよね?

 

CosmicがDance ManiaのRayを通じて俺に連絡を取ってきたのさ。連絡をくれた時、俺の手元には既にトラックが用意できていたんだ。これが成功の秘訣だな。レコードを作るために制作するんじゃなくて、毎日ひたすらトラックを作るってのが大事なんだ。レーベルの連中は大抵の場合、何を用意しようが自分たちの好きなトラックをピックするしな。とにかく、俺は彼らと一緒に仕事できて良かったと思っているよ。あのレコードは本当によく売れたし、おかげで1994年にヨーロッパへ行けたからな。

 

シカゴ以外の人たちにも自分の音楽が影響を与えていることに気が付いたのはその時ですか?

 

ロンドン(Cosmicの拠点)へ行った時はまだ3枚程度しかリリースしていなかったし、色々衝撃的だったぜ。その頃の俺は色々なトラブルに巻き込まれていたんだが、それが片付いたタイミングでヨーロッパやアジアから連絡が来るようになったんだ。

 

結局、俺はあの頃に訪れたチャンスに乗り切れなかった。乗れていた可能性もあったけどな。というのも、俺はただのゲットー野郎だからさ。そこまでの人気になると思ってもいなかったし、Daft Punkのような連中がグラミー賞を獲得するようになるなんて思いも寄らなかった。もし分かっていたら、もっと高い意識で取り組んでいただろうな。

 

まぁ、正直に言えば、俺は本当に長い間、厄介な面倒に巻き込まれ続けてきたんだ。音楽に集中してレコードを作る代わりに、しかも、そういう気持ちがひときわ強かった時期に、俺は女と揉め事を起こしたり、マリファナが原因で家を追い出されたりしていたのさ。30代前半からの10年間は、俺ひとりで3人のガキの面倒を見ていたんだ。ブッキングを消化しながら音楽制作をして、その間に学校へ顔を出したり、病院へ通ったり、服を買い与えたりするっていう生活はハードだった。マジでハードだったぜ。当時はとにかく人生から落ちこぼれないようにしていたんだ。分かるか? それが理由でビッグアーティストやビッグプロジェクトに関われなかったのさ。俺にはそこまでのエナジーが残っていなかったんだ。

 

 

 

1996年にWax MasterがDance Maniaから「Footwork」というタイトルのトラックをリリースしましたが、ゲットーハウスがジューク、そしてフットワークへと変遷していった背景について教えてもらえますか?

 

パーティで踊っていた10代の頃にフットワークを踊っていたんだ。ビートに合わせてダンスする奴の周りを人が取り囲むっていうあのスタイルさ。ただ、当時はBPMが今とは違った。もっと自然なダンスだったのさ。で、俺がリリースした「Doggystyle」や、Jammin’ Geraldの「Hold Up Wait A Minute」がジュークだ。それをSpinnやRashadのようなフットワークの連中が上手く使って、ひとつのスタイルに仕上げたのさ。レゲエとムーンバートンの関係みたいなもんさ。特定のレコードからひとつのジャンルが生まれるってパターンだな。

 

フットワークの連中は俺たちのBPM140のトラックをBPM160まで速めて、別のバイブスを生み出したのさ。Trax RecordsがBPM125のハウスをBPM130まで速めたり、俺たちがそれを更にBPM140まで速めたりしていたのと一緒だな。

 

あなたの初期作品には猥雑さがありませんでしたが、女性のお尻や胸についてのメッセージを盛り込もうと決めたのはいつだったのでしょう?

 

単純によりリアルで自分らしい音楽を作ろうと思ったのさ。このままじゃ他人と同じだってな。それで「Pussy Ride」みたいな方向性を打ち出せば、世間の度肝を抜けるって思ったのさ。このトラックには「Don’t you want a pussy ride?」ってサンプルが入ってるが、誰だってプッシーにライドしたいだろ?

 

俺はそういう感じが好きなんだよ。超クレイジーなメッセージを伝えたいのさ。数年前に「Put Them Titties In My Face」(チチに顔を埋めたい)ってトラックを作ったが、「みんなが頭の中に想像してそうな中で、一番マヌケな言葉はなんだ?」って考えたのさ。クラブで「っていうか、誰かのチチに顔を埋めたいぜ! まぁ、次のトラックを制作する時に憶えてたらこの言葉を使おう」って思ったのがきっかけさ。俺はウソをつかずに、ひたすらリアルでいたいんだ。

 

俺の音楽が好きな女の大半は、俺のメッセージが自分たちに向けられたもんじゃないってことを理解してる。あいつらは俺がただのゲットー野郎だってことを知っているのさ。俺が売春婦についてメッセージを伝える時は、ガチの売春婦についてなのさ。自分がガチの売春婦じゃないなら、俺に怒る理由もないだろ? 俺が個人的に攻撃している訳じゃないってことは大半の女が理解しているし、あいつらはただパーティへやってきて踊るだけさ。家に帰れば普通の女に戻る。あいつらはパーティで自分を解放しているのさ。所構わずだらしない生活をしている訳じゃない。

 

そのようなレコードは言霊のような位置づけなのでしょうか? たとえば「チチに顔に埋めたい」というメッセージのトラックを作れば、それが現実でも起きるのでしょうか?

 

まぁ、そんな感じだな。リアルから離れた妄想を伝える気はないからな。Do or Dieと一緒に音楽制作をしていた頃は、ひたすら金がなかったし、金のことについては一切歌わなかった。なにしろ、手元に金がないんだからな。だが、Do or Dieが金についてラップし始めると、奴らはデカい契約を勝ち取った。ムカついたね。俺がプロデュースしたのに、勝手にデカい契約を勝ち取って俺から離れていったんだからな。俺の取り分はどうした? って話だろ。とにかく、言ったことは現実になるってことだな。モチベーションを保って、自分を信じるだけさ。

 

リリース後に「俺はなんてことを言ってしまったんだ」と後悔した経験はありますか?

 

ああ。昔は信じられないようなメッセージを盛り込んだレコードを沢山作ったぜ。今はそれが普通だけどな。今はラジオやインターネットで呪いのような言葉も話せるが、俺はもうそんなことはやりたくないね。公にそんなことができなかった昔の方がクールだったぜ。今はそれもOKな世の中なのかも知れないが、俺はやりたくない。だから俺はクレイジーなんだろうな。

 

ゴスペルはどうでしょう?

 

いや、それはない。まだ先の話だな。