十一月 01

インタビュー:DERRICK CARTER

DJ History.comのアーカイブから、1995年に行われたシカゴのレジェンドDJの貴重なインタビューをピックアップ

By Frank Broughton

 

シカゴのオリジナル・ハウスムーブメントが勢いを得ていた頃、Derrick Carterは、シカゴ西部の郊外から出てきたばかりの駆け出しのDJだったが、シカゴハウス第一世代のハウスプロデューサーたちがヨーロッパで人気を獲得し始めた1987年には、シカゴを代表するレコードショップImportes, Etc.に働き口を見つけた(その後、同じくシカゴを代表するレコードショップGramaphoneに移った)。

 

レコードショップのバイヤー兼店員として働いていたCarterは、シカゴのオリジナル・ハウスムーブメントが没落していく様子と、UKのダンスシーンの影響力が増していく様子を目の前で見ることになった。また、Carterは、レコードショップで働くかたわら、1988年にConception名義で初のレコードデビューを果たすと、その後も様々な名義 − ソロ名義や長年のスタジオパートナーであるChris Nazukaとの共同名義 − を使い分けながら、KMS、Rhythm Vision、Housetime、Networkなどのレーベルでリリースを重ねていった。

 

シカゴのハウスシーンが斜陽化する中、Carterはシカゴで最も高い人気を誇るローカルDJのひとりとなり、ShelterやFoxy’s、SmartbarのレジデントDJのポジションを獲得。1990年代中頃から、Cajmere、Felix Da Housecat、Chez Damier、Ron Trentなどと共に、シカゴハウス第二世代の中心的役割を担うようになった。そして、ヨーロッパでの活動機会が増えていくと、1995年にLuke Solomon(Freaks)と共同でClassic Music Companyを設立。それから20年以上が過ぎた今も、彼はハウスシーンの最重要人物であり続けており、DJと音楽制作という2つの情熱に力を注いでいる。

 

DJ HistoryのFrank Broughtonが1995年に行なったこのインタビューの中で、Carterはそれまでの歩みを振り返りながら、オリジナルシカゴハウスの隆盛と没落や、Music Box初体験時のエピソード、トラック制作初期などについて語っている。

 

 

郊外で生まれた夢

 

僕にDJの魅力を初めて教えてくれたのは、Good Time CharlieというDJだった。彼は家族ぐるみで付き合いのある友人で、親族会でいつもプレイしていた。その姿に影響を受けて、僕も9歳の時に親族会で初めてプレイしてみることにしたんだ。シンプルに「僕もレコードをプレイしたい」と頼んだのさ。それ以来、DJに夢中だよ。

 

家族以外の人たちの前で初めてプレイしたのは、親友のバースデーパーティだった。7年生だったから、1981年か1982年頃のはずさ。それから2、3年経った15歳の時に、初めてクラブの客の前でプレイした。ロフトパーティやウェアハウスパーティでも沢山プレイしたよ。当時のシカゴでは、みんなこうやってキャリアをスタートさせていた。

 

朝6時のウェアハウスやロフトにいるパーティクラウドを相手にプレイすれば、スキルを鍛えられる。一晩中踊り続けていたキッズや、夜勤を終えて入ってきたばかりの人たちを踊らせるには独特のスキルが必要だ。彼らは「ハイな俺たちを楽しませてくれよ」って感じじゃなくて、むしろ「さあ、できるもんなら俺を驚かせてみなよ」と挑んでくるような感じだった。僕は挑戦を受けると燃えるタイプなんだ。

 

僕がティーンエイジャーだった頃は、遊ぶパーティに困ることはなかった。Rainboで行われていたようなDJバトルや、BismarckやCongressなどのホテルで行われていたパーティがあったし、Hot Mix 5の5人目のメンバーを選ぶためのパーティもあった。Hot Mix 5で怪しい行動を取ったり、他のメンバーの悪口を言ったりすれば、すぐにクビになったからさ。まるでクーデターみたいだったね。他の4人が結託して5人目のメンバーを追い出していたんだ。Hot Mix 5は、7人が在籍していた時もあったね。Farley KeithとMickey Oliverの影響力はかなり強かった。Mickeyが候補を選んでいて、Farleyにはラジオ局とのコネがあった。

 

僕にとってラジオは重要だった。1981年から、Hot Mix 5をはじめとしたミックスショーがラジオで流れていたからね。僕がDJを始めた頃は、素晴らしい番組がいくつかあった。ラジオは、まだ少し若すぎてクラブシーンに関われていなかった僕の音楽への欲求を満たしてくれていた。

 

パーティに出かける回数が増えていくと、これといった垣根は存在しないんだってことが分かってきた。パーティではありとあらゆる種類の音楽がプレイされていたし、色々な人たちに出会えた。ディスコはもちろん、ワイルドで不思議なUKやESGも聴けた。マニアックな音楽ほど最高だった − ギターが入ってない限りね。

 

 

今の形に成長する、または “固定” される前のハウスシーンは、かなりオルタナティブだった。ハウスシーンはオルタナティブな音楽をベースにして生まれたんだ。ドイツ産のエレクトロニック・ミュージックをプレイしていたDJも多かった。そのあとで、ディスコの影響をかなり強く受けたワイルドな自作トラックが増えていった。たっぷりとディスコがプレイされたあとで、ドラムマシンで作ったリズムパターンに誰もが知っているディスコトラックのベースラインを乗せただけの、お手軽な “ジャンプトラック” がプレイされていた。それから、さらにもう少しディスコがプレイされると、今度はもっと奇妙で得体の知れないトラックがプレイされた。今世の中で言われているハウスは、こういうシーンから生まれていったんだ。

 

 

チェンジ・ザ・ビート

 

僕が初めてハウスを聴いたのは1985年か1986年だった。ある日、ブロードビューにある自宅のポーチに座っていると、友人のショーンがやってきた。その時、僕はクロスオーバー的なダンスレコードをいくつか聴いていたんだけど、ショーンが「おい、それってハウスミュージックじゃん」って言うんだ。僕は「ハウスミュージックって何だよ?」って返した。

 

当時は “ハウス” と呼ばれるものと “ビート” と呼ばれるものがあった。ハウスはWarehouseでプレイされていた超アンダーグラウンドなクラシックディスコに紐付けられていた。Corey DayeやKid Creole、Loleatta Holloway、Machineとかね。Donna McGhee、Pam Todd & Love Exchangeのような奇妙なクラシックも、誰も聴いたことがなかった。こういう異形のディスコトラックが “ハウス” だった。今、僕たちがハウスのレコードだと思っているものは、最初は “ビート” と呼ばれていたんだ。キッズは「俺はディープハウス専門だから、クラシックしかプレイしないぜ」なんて言っていた。

 

 

でも、シーンは大きく分かれていた。Ralphi Rosarioは17歳の時にラジオでのプレイを始めたけれど、彼みたいに、シーンでのし上がってやろうとする17〜23歳くらいの連中が徒党を組んでいた。ティーニーボッパー(流行に流されやすい)なアティチュードとメンタリティを持った、高校を出たばかりのキッズたちさ。

 

僕が高校3年の時、シカゴでは他の高校生たちが主催するパーティがあちこちで行われていた。彼らは “the down house kids” と書かれたフライヤーを撒いていて、その裏には彼らの高校名が書かれていた。僕たちも、通っていた高校のハウスキッズだった。当時は、ゲイの黒人のクラウドを相手にプレイしていたFrankie KnucklesやRon HardyのようなDJを中心にかなりシリアスに盛り上がっているシーンがあったけれど、僕たちはまだ若かったから、そのシーンとは切り離されていた。

 

 

 

"フロアの全員が泣いたり、我を忘れたり、興奮したりしていた。ジャンキーがドラッグを摂取した時みたいにね"

 

 

 

僕が音楽を作り始めたのもちょうどその頃だった。前から自分でレコードを作ってみたいと思っていたんだけど、高校2年の終わりに仕事を見つけて、ようやく音楽制作ができるようになった。友人が小さなスタジオを持っていて、1曲100ドルで貸してくれたんだ。50ドルを前金で支払い、残り50ドルは曲が完成してから支払うっていう形でね。オープンリールテープに制作した全てのトラックを録音していた。

 

Music Boxに初めて遊びに行った時は、奇妙奇天烈な体験だった。当時の僕は世間知らずの17歳のガキだったから尚更ね。天井からスピーカーが吊り下げられていて、マーズライトが回っていた。また、これはあとで知ったんだけど、Music BoxではフルーツパンチにこっそりMDA (3,4-メチレンジオキシアンフェタミン)を混ぜて客に提供していた。だから、Music Boxの客は揃って “宗教的体験” をしていた。そうなるように仕組まれていたことを知らずにね。でも、僕はドラッグに関する知識がゼロだった。当時の僕は、Buster Poindexter風の髪型に蝶ネクタイとメガネを合わせた、愛想の良いうぶな優等生だった。

 

Music Boxはどういうわけかジャンキーを連想させた。Music Boxのクラウドはミックスだった。でも、全員がなんて言うか… “夢中” だった。Ron(Hardy)がEddie Kendricks 「Goin’ Up In Smoke」のようなトラックをプレイすると、フロア全員が恍惚状態になった。泣いたり、我を忘れたり、興奮したりしていた。ジャンキーがドラッグを摂取した時みたいにね。そして、みんなが落ち着いて、次のトラックがプレイされると、さらに多くの人が恍惚状態になった。とんでもなくワイルドだったよ。

 

 

Power Plantもすごくワイルドだった。でも、Music Boxより遙かに大きい空間だったし、エモーショナルな側面もさらに強かった。ここの客はハウスがクールと言われていたから遊びに来ていたわけじゃなかった。来たいから来ていたんだ。(当時の)ハウスは全くクールじゃなかった。今みたいにクラバーが超スノッブでいられる時代じゃなかった。倦怠感もなかったし、フルーツパンチに入ったMDAを摂取すれば良い気分になれた。

 

メモリアルデイ(戦没者追悼記念日)の週末に、Loleatta Hollowayのパフォーマンスを聴きにPower Plantへ行った時のことを良く覚えているよ。たしか1986年か1987年だ。Ron Hardyが、僕の友人のそのまた友人を連れて遊びに来ていた。かなりぶっ飛んだ光景だったから、あの晩のことは忘れないだろうね。スカーフみたいに首にバンダナを巻いていた長髪の彼は、Ronの隣に座っていて、僕たちが話をしていた30分くらいの間、ずっとRonの髪をブラッシングしていた。

 

 

情報戦

 

僕がImportes, Etc.で働いていたのは1987年から1989年までで、丁度ハウスミュージックが本格的にブレイクし始めた頃だった。あのショップはシカゴのダンスミュージックの中心地だった。全員が来ていた。Lil Louisはいつも店にいた。彼はとても親しみやすくて、粋な男だったね。Marshall Jeffersonもいつも来てくれたし、Chip Eは働いていたことがある。彼らに会うためならお金を払っても構わない人たちが世界中に沢山いるなんて、当時は知りもしなかった。昼間はいつも店に来ていたよ。

 

1988年頃、SROというレーベルと繋がった。DJ Pierre「Fantasy Girl」などをリリースしていたレーベルさ。僕のシングルは、Conception名義で、タイトルは「Love Me Right」とクレジットされた。Georgie Porgie名義で知られる、友人のGeorgie Androsと共作して、900枚売れた。これはデビューシングルとしては上出来な数字だった。僕はハッピーだった。ギャラはなかった。ギャラに関しては、キャリアを通じてずっとそうだね。1989年になると、KMSや英国のNetworkからSymbols & Instruments名義(Chris Nazuka、Mark Farinaとのコラボレーション)で作品をリリースするようになっていった。

 

 

シカゴの状況が変わり始めたのは1988年からだ。英国で “サマー・オブ・ラブ” が起こり、UK産のアシッドハウスがシカゴにも入ってくるようになったんだ。シカゴの連中は地元以外にあまり関心を示さないから、僕たちも「マジかよ? ロンドンにアシッドミュージックを作っている連中がいるのか?」と驚いた。UKの雑誌なんて誰も知らなかったし、当時はダンスミュージック専門誌自体存在しなかった。僕はImportes, Etc.のバイヤーだったから、UKから入ってくるレコードに付いていたインフォシートを読んでいた。「ハードにうねったアシッドです」なんて書かれていたけれど、どこをどう聴いたらアシッドなのかさっぱり分からなかったね。当時、Genesis P-Orridge(元Throbbing Gristle / Psychic TV)が店に来てくれて、Importesで1日中一緒に過ごしたことがあるんだけど、本物のシカゴアシッドのレコードを教えてあげたよ。

 

ハウスシーンでのし上がろうとしていたシカゴのキッズたちは、Larry Sherman(Trax Recordsのオーナー)やLewis Pitzele(DJ International Recordsの副社長)たちがUKのPhonogramやLondon Recordsと結んだ悪徳契約の餌食になりつつあった。彼らはキッズたちにたったの500ドル程度で作らせた曲をUKのレーベルに売り払って、3万から4万ドルもの儲けを得ていた。

 

 

 

変わりゆく時代

 

こう言うとTyree Cooperは怒るだろうけど、僕はヒップハウスがシカゴをダメにしたと思っている。あの時期(1988年以降)はくだらない音楽が山ほど生み出されていた。LarryやRocky Jones(DJ International Recordsの社長)に搾取されまくったあと、誰もが「俺たちだって儲けてやるぞ」って考えるようになり、意気を上げて成功意欲を強めていった。UKでブレイクしていた連中もいたから、誰もが成功を求めてギラついていた。

 

それで、ヒップホップが台頭しつつあったから、彼らはそれをハウスと融合させようとしたんだ。でも、1989年初頭にシカゴのラジオ局が次々に倒産し始めると、それまでハウスシーンにいたキッズたちはヒップホップへ移っていった。

 

 

Importes, Etc.で働いていたある日、誰かが店の中に駆け込んで来て「今ラジオを聴いていたんだけど、WBMXが閉鎖されるってよ!」と言うと、店内は静まり返った。ハウスはラジオを通してビッグになり、そのおかげで僕たちがお金を稼げていることをみんな分かっていたからさ。ローカルヒットのレコードなら、Importesだけで1,500〜2,000枚は売れていたから、シカゴ市内だけで5,000枚は売れていた。今は、1,500枚でも売れれば大成功ってところだよね。ラジオ局が閉鎖されると、レコードのセールスはみるみるうちに落ち込んでいった。

 

また、ヒップホップはハウスのファッショナブルなイメージも盗んでいった。当時はライディングブーツ(乗馬用ブーツ)と1940年代風のディレクターパンツ(深いタックが入り、ゆったりとしたワタリを持たせたパンツ)、それにダブルブレストのシャツがハウスの定番ファッションだった。誰もが膝丈まである乗馬用ロングブーツを欲しがっていたね。中には、完全になりきるために乗馬用の鞭まで用意している人もいた。どうして乗馬風ファッションが流行ったのかは全く分からないけどね。1988年頃の土曜日の夜にCongressへ行けば、右も左もライディングブーツだった。Maurice Joshuaのブーツは特に目立っていたね。

 

 

 

“ハウスは自分たちのものではなくなってしまった。金を稼ぐためだけに関わる価値さえない”

 

 

 

半年ぶりにパーティで会った知人が、すっかりハウスに染まっていたなんて話は良くあった。当時は誰もがハウスだった。ファッションもハウスなら、聴くのもハウス。自分=ハウスだった。ハウスは常に最先端だった。キッズは1ヶ月に1度、狙っていたパーティで思いっきり楽しんでいた。最高の体験だったよ。僕たちはシカゴ郊外のNorthbrookという老人ホームで良くパーティを楽しんでいた。メインDJはRicky Lenoirと彼のクルーだった。みんな最高のハウスファッションに身を包んで、朝までジャックしていたよ。

 

現在(1995年)のシカゴはどうしようもない状態だ。この街にはもはやクラブシーンは存在しない。巨大なレイブスタイルのウェアハウスパーティだけだ。ポジティブに考えれば、地元のラジオやクラブシーンがシカゴ産の音楽をもっとサポートしてくれたら良くなるだろうね。ラジオ局とクラブが組んでいた当時よりもスケール自体は大きいからさ。とはいえ、元々そこまで大きなシーンじゃないけどね。ハウスは自分たちのものではなくなってしまった。サウンドは画一化されてしまって、スペシャルな音楽ではなくなってしまった。今シカゴで成功しているDJたちはよりキッズ向けのプレイをしている。クロスオーバーなブレイクを狙っているのさ。

 

今、新しい音楽を聴ける場所はどこにもない。ふらりと出かけて、斬新な曲を耳にできたり新鮮な体験をさせてくれたりするクラブはない。金を稼ぐためだけに関わる価値さえない。関わっているのは別の目的のためにやっている連中だよ。名誉や名声、UK進出などを求めているんだ。中にはUKを “プロミスド・ランド(約束の地)” と思っている人もいるよ。

 

このインタビューは1995年2月に収録されたものです。© DJ History