十二月 15

ロングインタビュー: David Mancuso Part 2

2016年11月14日に72歳でこの世を去った伝説のDJの1999年に行われた貴重なロングインタビューのPart 2を紹介する

By Bill Brewster and Frank Broughton

 

2016年11月14日、David Mancusoは72歳でその一生を終えた。1970年にニューヨークシティの自宅ロフトを利用したプライベートパーティ、The Loftをスタートさせたオーガナイザー/DJだった彼は、ダンスミュージックのサウンドとエモーションの両面を切り拓いた真のパイオニアだった。

 

Mancusoは、コミュニティの重視、ダンスフロアにおける人種的・経済的バリアの撤廃、そしてミックスを行わず、1曲を最初から最後までかけきって次の曲へ移るというユニークなDJプレイを含めたオーディオへの徹底的な拘りなど、近年では当然と見なされている、ダンスミュージックのあらゆる基本的価値観の創出に絶大な影響を与えた人物だった。

 

今回は、選曲を通じてひとつのナラティブを生み出してパーティマニアの目に涙を浮かばせることができる類い希なるストーリーテラーとして、そして超越的な音楽体験を永遠に追求する理想主義者としても知られていたMancusoの人生とその影響力を称えるべく、1999年に発行されたFrank BroughtonとBill Brewsterによる著作『The Record Players: DJ Revolutionaries』の中から、Mancuso本人が幼少期やDJ哲学、自分が残した遺産などについて語ったインタビュー全編の後編を紹介する。

 

Part 1はこちら

 

さて、あなたはレコードプールの発案者でもあります。スタートさせた経緯について教えてください。

 

プリンスストリートに住んでいた頃だ。レコードを整理していると、そのままレコードプールに繋がっていった。当時は26、27人のDJがいて、お互いを良く知っていた。レコードを中心に自然な形で繋がっていたから、レコードプールを通じて仲良くなっていった。当時はみんなで “シェア” するというのがごく当たり前のことだった。

 

レーベルからDJへのプロモ盤の流通を整理するという考えがあったんですよね?

 

そうだ。Club Hollywoodで会合が開かれたんだ。そこでレコードレーベルとDJが初めて顔を合わせたんだが、最悪の内容に終わった。それで、Steve D’Acquistoを捕まえて、ひとつの発表をしてもらうことにした。私は前に出たくなかったからね。私は裏方で表に出るようなタイプじゃない。しかし、Steveは人前で話すのが好きだった。それでとにかく、私の家を少し整理して、DJたちにもう一度集まってもらった。その多くはすでに知っている人たちだった。そこでレコードプールのアイディアを発表したんだ。

 

かつてはJudy Weinsteinがレコードプールの管理を手伝っていましたね。彼女と知り合った経緯は?

 

彼女は私の元で働いていたんだ。Vince Aletti経由で知り合った。The Loftとレコードプールは同じ場所にあった。それで、Vince Alettiが仕事を探している人間を見つけてきてくれたのさ。

 

Vince Alettiと知り合った経緯は?

 

レコードプールをスタートさせた頃は、何回か会合が開かれていた。その会合にはレコードレーベルやメディアの人間がやってきた。Vinceとはその時に知り合ったんだと思う。彼は私を自宅に招いて、小さなレコードプレイヤーで音楽を聴かせてくれた。彼はその本当に小さなレコードプレイヤーで音楽を聴くだけで、そのレビューを書けていた。素晴らしい才能の持ち主だ。

 

レコードプールのシステムについて教えてください。

 

DJがレコードレーベルからテストプレスを借りて、戻すときにフィードバックを記入する。自分の感想やフロアの反応などを書き残すんだ。そしてそのフィードバックを元に、レコードレーベルは必要に応じて修正を加えるというわけさ。コミュニケーションも取れていたし、まとまりもあった。至って真面目な取り組みだったよ。

 

レコードレーベルはメリットを見出していたのでしょうか?

 

レコードレーベルの経理にとってはメリットがあった。プロモーションチームには特にメリットがなかった。当時は他の方法もあったからね。だが、レコード会社はひとつの結論、つまり、レコードプールからまとめてディストリビューターにレコードを送る方が安いという結論に辿り着いた。そうやってリリースされていったんだ。

 

私たちがDJやレコードレーベルともめるようなことはなかった。全員分が揃ってから渡していたからね。レコードプールには最大で275人のDJが登録していた。今はそこまでクラブの数は多くないが、50軒のクラブがあるだけでも、遊びに来る客の数は小さなラジオ局の聴取者数と同じくらいになる。だから、音楽をラジオよりも先にブレイクさせることができたんだ。

 

レコード会社はフィードバックを得られたことを喜んでいたのでしょうか?

 

27人のDJからのね。私たちがすべて準備した。私たちは協力体制を作りたかっただけなんだ。私たちには、レコードレーベルとDJの間にひとつのシステムを作り上げようなんて魂胆はなかった。長く続いた唯一のレコードプールだった。非常に上手く機能していた。しかし、レコードレーベルの経理側はこれでは儲からないと思い始め、プロモーションチームの多くも、レコードプールのせいで職を失うと感じるようになった。自分たちの存在は必要ないのではないかとね。だが、それは違う。

 

レコードプールはいつスタートさせたのでしょう?

 

1974年だ。特に順番は決めずに10枚をリストアップして、ライブラリセクションを設けた。そうやって、そのセクションに入れるレコードをリストアップしていった。当時のDJが置かれていた状況もスタートさせた理由だった。私はクビになったDJを数人知っていた。他のDJがやってきて仕事を失ってしまったDJをね。それでNew York Record Poolをスタートさせたんだ。多くの変化を生み出すことになった。

 

非公式な組合のようなものだったのでしょうか?

 

そうだ。自然発生したブラザー&シスター的組合さ。そういう政治的な部分も残してあった。

 

DJはいくら支払っていたのでしょう?

 

非営利でやっていたよ。

 

レコードレーベルが悪い噂を流して活動の邪魔をすることはありませんでしたか?

 

彼らがそうすることは不可能だった。お互いの力を必要としていたからね。私たちも音楽が好きだったから貸し出していただけだ。また、Denise ChapmanはSalsoulで働きながら、私たちと一緒によく遊んでいた。私たちはレコードレーベルの連中と一緒に遊んでいたんだ。レコードレーベルで働いていた連中の中には、ブロードウェイのパーティに遊びに来ていた人も多かった。

 

1970年代中頃ということは、素晴らしい作品が次々と手元に届いていたのではないですか?

 

レコードプールが存在していた頃にリリースされた音楽は最高だった。1975年から1980年までの期間だ。ほとんどのクラシックがその時代に生まれたものだ。少ない週でも素晴らしいと思えるレコードが3~5枚はリリースされていた。本当に素晴らしい作品がね。今はもう難しいが。

 

Barrabasのようなアーティストのレコードはどうやって見つけたのでしょうか?

 

Barrabas『Woman』か。元々は自分で買ったんだ。アムステルダムでレコードを探している時に見つけたのさ。一度も聴いたことがなかったが、ジャケットに書かれていた情報が気に入った。面白いレコードに思えたんだ。私はよくそうやってレコードを買っていたのさ。それで家に持ち帰って聴いてみると、良いと思える曲が数曲あった。それでレコード会社に電話を入れると、彼らは送料などすべて込みで1枚2.7ドルだと教えてくれた。それで発注して、他のDJにも売ったんだ。

 

 

他にはどんな場所でレコードを探していたんですか?

 

ロンドンだ。レコードを探すためによく訪れていた。プレスが良かったからね。1972年にはチジック(ロンドン西部)を訪れた。そこには私が良く知っている家族が住んでいたんだ。その家族の母親がガンを患っていて、私はそこに招かれたのさ。

 

The Choiceとは何だったのでしょうか?

 

私は一時仕事を休んだんだ。1982年、私はアヴェニューDとアヴェニューCの間のサードストリートに建物を持っていた。アルファベット・シティが全米最悪のエリアとして悪名高かった頃だ。近所に住む老婦人を何人か知っていたので、私はそこでパーティを開催するのをやめたんだ。本当に酷いエリアだったし、ビジネスも難しかった。それでその場所を貸し出すことにして、The Loftの場所ではあったが、The Choiceという別の名前のパーティが開催されるようになった。一時的にDJから離れるという決断はタフだったが、当時はみんなが次々と命を落としていった。友人も沢山命を落としていた。だから、知り合いに貸し出して、約2年間ウッドストック近辺に住んだのさ。記憶が正しければ、1980年にその建物を買って、1984年に移り住み、1988年に貸し出し、1990年に戻ったんじゃないかな。

 

The Choiceが開催されていた時期は?

 

1988年から1990年だったと思う。約2年間だ。

 

あなたは数多くの人たちに影響を与えています。有名になったDJやレーベルオーナーなどがThe Loftからインスピレーションを得ています。

 

それは私がパーティの会場を探してあげたり、人を紹介してあげたりした人の数が多かったからだ。

 

 

 

“サウンドシステム自体のサウンドが聴こえるようになれば、それは耳が疲れているということだ。聴きたいのは音楽であって、サウンドシステムではない”

 

 

 

ですが、The Loftのアイディア、スピリット、運営方法に影響を受けた人も多いですよね。あなたのアイディアを正しく表現できていると思える人、あなたが一番誇りに思える人は誰ですか?

 

Nicky Sianoが私に一番近かったと思う。ただし、これは悪口ではないが、私ならやらないことをNickyはやっていたね。とはいえ、彼が自分に一番近かったと思っている。彼はメンバーカードの販売をしなかった。プライベートのスタイルを貫いた。食事も用意したしね…。

 

The Loftが生み出したシーンの基準と言えるのは、支払った分の価値を提供するという点だ。適切なサウンドシステムを用意したという点もそうだ。私は音楽が聴きたい。サウンドシステム自体の音が聴こえている状況は、自分の耳を傷つけていることを意味する。私たちが聴きたいのは音楽であって、サウンドシステムではない。照明も同じだ。照明で疲れたくはないはずだ。いずれにせよ、Nickyがやっていたことは私に一番近かった。だが、自分の好きなようにやるべきだと思う。実際、私とは随分違う方法論を用いた人たちもいた。たとえば、Paradise Garagaがそうだ。ちなみに、Larry(Levan)に最初の仕事を与えたのは私だよ。

 

 

 

“他よりも派手で激しいパーティもあるが、私はいつも世界について良い気持ちを持てたし、自分や人々に対しても。常に何かよいフィーリングを得ていた”

 

 

 

あなたは、The Loftスタイルのパーティ開催に関する法的権利の制定にも注力しました。裁判所に呼び出されたこともありますよね?

 

いや、私の方から呼び出したんだ。ブロードウェイ時代は行政によって開催中止に追い込まれた。免許を取得していないキャバレーだと判断されたんだ。私の訴えは認められなかった。それでプリンスストリートへ移ったわけだが、2フロアの広いスペースになったこともあり、同じような面倒に巻き込まれるのはごめんだった。よって、法整備をする必要があった。それで1974年に、消費者問題としては史上最長の公聴会に臨むことになった。The Loftはキャバレーではなかった。直接的・間接的を問わず、飲食の販売は一切していなかったからだ。そのスタイルを認めてもらう法律を整備したかった。行政側はかなり腹を立てていて、賃料の支払いについて私を吊し上げたよ。しかし、この結果、プライベートパーティとして開催されていたすべての場所に対する法整備がされることになった。1974年の9月末だったと思う。

 

ちなみに、私は警察と消防署に対してはかなり優秀だった。警察との間で問題を抱えたことは一度もないし、火事や安全に関する問題を起こしたこともなかった。警察官や消防署員も遊びに来ていたしね。彼らが来ていたのは、全員にとって素晴らしいことだと思ったよ。

 

長年の活動を通じて一番のお気に入りのレコードは?

 

Level 41「Starchild」、MFSB「Love Is the Message」、Blackbyrds「Walking in Rhythm」、Ashford & Simpson「Stay free」、「Roots」などだね。

 

 

自分のパーティがスペシャルだった理由はどこにあると思いますか?

 

時代が良かったんだと思う。ドラッグもレクリエーションの一環としての側面が強かった。最初は全員がひとつにまとまっていたんだが、徐々に他のビジネスと同じ形を辿っていった。ゲイ、ブラック、ホワイトと、ナイトライフがゆっくりと確実に細分化されていったんだ。

 

細分化が始まったのはいつですか?

 

どこが最初に始めたのかという点については具体的な言及は避けたい。時期は1979年、1980年頃だ。

 

自分に似ている仲間と一緒にパーティをしたいというのは、自然な流れではなかったのですか?

 

それは確かにあるかも知れないが、すでに全員がまとまっているオープンな環境があったのに、どうして細分化する必要があるんだ?

 

どこかが入場制限やルールを意図的に設けたことで細分化が始まったということですか?

 

Paradise Garageが始めたんだ。Michael Brody(編注:Paradise Garage創設者)のことはリスペクトしているが、細分化を始めたのは彼らだ。メンバーカードのアプリケーションには「あなたはストレートですか? ゲイですか?」という項目があった。経済格差があるグループをひとつにまとめることができれば、社会は成長するのだが。

 

DJの役割とは何だと思いますか?

 

DJ本人たちはこう表現されるのを望まないはずだが、多少ネガティブな表現を使えば、DJはショートオーダーコック(編注:すぐに出せる料理を担当するコック。通常は新人が担当するため、厨房内の立場は低い)のような存在と言えるかも知れない。しかし、謙虚な人間であることは確かだ。エゴを捨て、音楽をリスペクトし、その場の流れをキープして、みんなを参加させる。それは非常にユニークなシチュエーションで、非常に慎ましい体験だ。

 

ですが、コントロールもしますよね?

 

どういう意味かな? 説明してくれ。

 

パーティをコントロールするという意味です。

 

今から話すことは私の実体験なんだが、多分君も理解してくれるだろう。音楽が “流れ” 始めると、サウンドがよりオープンになり、サウンドの痕跡、アーティスト、ニュアンスなど、すべての部分に自分が入り込んでいくようになる。これは非常に重要だ。そういうニュアンスに "音楽" が詰まっているんだ。

 

また、私はリクエストも受け付けている。そしてリクエストの順番通りにプレイする。なぜなら、みんなに参加してもらいたいからだ。そんな形で進めていくと、誰かが「あれをプレイしてくれないか?」と頼んできた時には、すでにそのレコードを手に持っていて、あとはスタートボタンを押すだけという状態になっていくんだ。超能力のような感じだ。これは言葉では説明できない。自分よりもっと上の存在、大いなる力がなせるものだ。別に神の教えを説いているつもりはない。これは音楽の話だ。

 

ダンスフロアの一体感ということでしょうか?

 

それが起きる時があるんだ。

 

他にも印象的な出来事はありますか?

 

何回もあったが、上手く説明できない。時々これが起きるんだ。数分間の時もあれば、何時間も続く時もある。君は素晴らしい気分になっていく。君のエナジーが高まるのさ。君のエナジーが高まらなければ、私のエナジーは高まらない。逆もまたしかりだ。全員に役割があるんだ。音楽とはそういうものなんだよ。

 

あなたとダンスフロアの理想的な関係は?

 

全員が同じバンドで演奏しているような状態、全員が同じ演劇に参加しているような状態だ。

 

最高のひと晩と言えるものはありますか?

 

どのパーティにも何かしら学べる部分があった。1970年代前半は特にね。あの頃は反戦をテーマにした音楽や、経済状況をテーマにした音楽が沢山あった。また、人間やロマンスについてのメッセージが込められた音楽もあった。すべてのパーティを細かく分けて、どのパーティが優れていたと断言することはできない。もちろん、他のパーティより派手で激しかったパーティもあるが、私はどのパーティでも、世界や自分、そしてすべての人間に対して前向きな気持ちを持てた。常にグッドフィーリングを得ることができていた。

 

いつの日も温泉に行けば気分が優れるものだが、日によって程度は異なるだろう。なぜなら、自分が温泉をそこまで必要としていない日もあるからだ。だが、程度の差はあれど、温泉が自分を浄化してくれることに変わりはない。そういうことさ。

 

※このインタビューは1999年8月にニューヨークで行われたものです。