十二月 15

ロングインタビュー: David Mancuso Part 1

2016年11月14日に72歳でこの世を去った伝説のDJの1999年に行われた貴重なロングインタビューを2回に分けて紹介する。

By Bill Brewster and Frank Broughton

 

2016年11月14日、David Mancusoは72歳でその一生を終えた。1970年にニューヨークシティの自宅ロフトを利用したプライベートパーティ、The Loftをスタートさせたオーガナイザー/DJだった彼は、ダンスミュージックのサウンドとエモーションの両面を切り拓いた真のパイオニアだった。

 

Mancusoは、コミュニティの重視、ダンスフロアにおける人種的・経済的バリアの撤廃、そしてミックスを行わず、1曲を最初から最後までかけきって次の曲へ移るというユニークなDJプレイを含めたオーディオへの徹底的な拘りなど、近年では当然と見なされている、ダンスミュージックのあらゆる基本的価値観の創出に絶大な影響を与えた人物だった。

 

今回は、選曲を通じてひとつのナラティブを生み出してパーティマニアの目に涙を浮かばせることができる類い希なるストーリーテラーとして、そして超越的な音楽体験を永遠に追求する理想主義者としても知られていたMancusoの人生とその影響力を称えるべく、1999年に発行されたFrank BroughtonとBill Brewsterによる著作『The Record Players: DJ Revolutionaries』の中から、Mancuso本人が幼少期やDJ哲学、自分がシーンに残した遺産などについて語った貴重なロングインタビュー全編を2回に分けて紹介する。

 

まずは、ちょっとした自己紹介をお願いします。

 

1944年10月20日にニューヨーク州ユーティカで生まれ、キューバミサイル危機の時代、18歳になる頃にニューヨークシティへ移った。私の幼少期は非常に変わっていた。母親がいくつか問題を抱えていたため、私は幼い頃に孤児院へ預けられた。このことについては話をしたくない。そして、私が昔よく一緒に遊んでいた少年 − 私は彼のことは憶えていなかったが、彼の方は私を憶えていた − が、孤児院を出てから20年も経ったあと、自分のおむつを替えてくれていたシスターを探し始め、その流れで私に連絡を入れてきた。当時、孤児院には私を含めた幼い子供が18人いて、そのシスターが私たち全員の面倒を見てくれていたんだ。

 

話を元に戻すが、その彼は5~6年をかけて私を見つけ出した。私が彼と落ち合ったのはニューヨークだった。彼から連絡をもらった時、彼はすでにそのシスター − シスター・アリシアというのだが − を探し出していて、シスターが4~5歳の頃の私たちを撮ってくれた写真を私に見せてくれた。

 

孤児院のシスター・アリシアはよく、レディオグラム(*1)のレコードチェンジャー(*2)で45回転のシングルレコードをプレイして、冷蔵庫のジュースを振る舞ってくれた。私たちは小さなテーブルを囲んで座っていた。君が私のパーティの招待状を見たことがあるかどうかは知らないが、あの招待状で使っている写真と同じように、子供たちはテーブルを囲んで座った。こうやって、シスターは何かしらの理由をつけてパーティをしてくれたんだ。当時のこの経験が、私がコミューン的なスタイルでパーティを開催している理由、パーティを自分のやりたいようにやっている理由だ。あの頃に影響を受けているんだ。

 

*1:ラジオとレコードプレイヤーがはめ込まれたローシェルフのような家具。

*2:レコードを上に重ねられるレコードプレイヤー。下のレコードの再生が終わったあとでスイッチを押せば、上のレコードが下に落ちて連続再生できる。

 

そのシスターの名前は?

 

シスター・アリシアだ。ありがとう、と伝えたいね。

 

シスターはまだご健在ですか?

 

ああ。

 

彼女があなたのパーティに来たことはありますか?

 

いや。ご高齢だからね。だが、来たら楽しんでくれるだろう。シスターと連絡を取ったのは、私が36歳の時だった。彼女は私の35歳上で、非常に敬虔な方だ。私がいつどうやって連絡を取ったかという話だが、クリスマスの週に電話を入れたんだ。「シスター・アリシアですか?」とね。彼女は私の友人伝いに、私から連絡が入ることを知っていた。そして私が「私のことを憶えていますか?」と訊ねると、彼女は非常に柔らかな声で「まるで昨日のことのように憶えていますよ」と答えてくれたんだ。

 

自分のパーティをスタートさせたのはいつですか?

 

定期開催を始めたのは、1970年のバレンタインデーだ。だが、1967年、1968年にもパーティは開催していて、その頃すでにニューヨークのダウンタウンにロフトを見つけていた。私は実際そこに数年住んでいたんだが、ある時に、パーティを開催しようと思いついたのさ。それが上手くいったんだ。

 

サウンドシステムはどこから入手したのでしょう?

 

私が以前から持っていたものだ。昔からオーディオに興味を持っていたんでね。子供の頃から自分でオーディオを組んでいた。12インチのウーハーがついた旧式のラジオも持っていた。短波ラジオなどあらゆるものを持っていたよ。

 

レコードを集め始めたのはいつですか?

 

10代の頃からだ。幸運なことに、私は14歳の頃から、音楽好きで知識が豊富で、パーティにも出掛けるような人たちに囲まれていた。また、私は15歳ですでに自立していたから、他の子供たちよりも自由に使える時間も多かった。

 

 

 

“当時は、ディスクジョッキーを仕事にするのと、失業保険を受け取る生活を送るのとにたいした違いはなかった”

 

 

 

当時はどんな生活を送っていたのでしょう?

 

ユーティカで靴磨きをしていた。ある日、私と親友でニューヨークシティへ遊びに行こうという話になり、レイバー・デイの週末(9月第1週の週末)にニューヨークで3日間過ごしたんだが、魅了されてね。結局、その31日後にはニューヨークシティへ戻った。人々と出会い、彼らの元で過ごしても良いと声をかけてもらったので、そうさせてもらった。ポケットには2.15ドルしか入っていなかったので、仕事も見つけた。ニューヨークシティにはそれ以来良くしてもらっているよ。

 

ニューヨークシティでの最初の数年間はどうやって生計を立てていたのですか?

 

ウェイターの仕事を沢山こなした。出版社でも働いた。そのあとで、健康食品店で働き、レストランチェーンの人事担当もした。これが私にとっての初めての “9時−5時” の仕事だった。当時は、ディスクジョッキーを仕事にするのと失業保険を受け取る生活を送るのとにたいした違いはなかった。だから1967年頃に仕事を辞めた。沢山旅をしたよ。

 

最初のパーティのインスピレーションはどこから?

 

パーティに出掛けて踊るのが好きだったのさ。あとは、サイケデリック・ムーブメントと公民権の1960年代を直接体験していたというのも影響している。音楽に関して言えば、私は非常にコミューン意識が強い人間なんだ。

 

当時の私には伝えたいメッセージがいくつかあった。それはどちらかと言うと、社会的進歩に関することだった。当時の社会は経済格差によってグループ化されていた。私はそこに興味を持っていたんだ。だから、ありとあらゆるバックグラウンドやカルチャーを持つ人たちが来られるような場所を作りたいと思っていた。訪れる客のポケットにいくら入っているかは関係なかった。3ドルを払う人にも5ドルを払う人にも同じ物を提供したかった。収支はトントンだった。私はそれで良いと思っていた。

 

昔は、入場料50セントのハウスレントパーティのスタイルでやっていた。ニューヨークでは入場料を自分の家賃に充てている限り、パーティの開催は法律上問題ない。治安を乱すようなことさえしなければ、自分の住むアパートでパーティが開催できたんだ。入場料をしっかり取ることもできた。私は商業施設のロフトに住んでいたので、スプリンクラーなどの防災設備もちゃんと整っていた。だから、ハウスレントパーティを開催することにしたんだ。招待状は36枚送った。だが、実際に開催するまでは半年かかった。

 

どの程度のペースで開催していたのでしょう?

 

2週間に1回のペースだった。24時にスタートした。当時のバーは3時で閉まっていたから、そのあとでも開いているような場所には、ギャンブルか酒が必ず用意されているものだったが、私はそのどちらにも興味がなかった。どちらもやりたいと思わなかった。パーティはごくごくプライベートなものにしたいと思っていたし、第一、会場は私の住居だった。私はそこで眠り、夢を見ていたんだ。だが、半年経つと人気が出始めた。

 

客層はどんな感じだったのでしょうか?

 

あらゆる人たちが来ていた。ゲイ、ストレート、バイセクシャル、ブラック、アジアンなどがね。様々な人たちがいて、彼らは全員私の友人だった。私は来ていた友人たちを大切に扱っていたので、彼らがまたその友人を連れてくるようになった。本当に多種多様な客層だったが、喧嘩などの問題は一切起きなかった。

 

どんな音楽をプレイしていたのでしょう?

 

当時はMotownだった。一番ホットなレーベルだったからね。あとはStax、R&B、Jimi Hendrix、Rolling Stones、Doobie Brothersなど、様々な音楽をプレイしていたよ。デコレーションは風船だけとシンプルだったが、雰囲気は良かった。ロフト自体も清潔で、快適な空間を準備するのにたいして時間はかからなかった。スタートしてから半年後に毎週開催するようになった。入場料にはすべてが含まれていた。招待制だったからね。メンバー制ではなかった。クラブでもなかった。そういうカテゴリに入れるつもりはなかったんだ。私にとってThe Loftは異なる存在だった。なるべくパーティという形を維持したいと思っていた。入場料は2.5ドル程度で、クローク、食事、音楽が含まれていた。

 

どんなドリンクや食事を用意していたのでしょう?

 

フレッシュなオレンジジュースと、オーガニックのナッツとレーズンを用意していた。自分たちで頑張って用意したよ。すべての面でクオリティを重視していた。Patti LaBelleやDivineなどが肩肘を張らずに遊びに来てくれていた。その場にいる全員がリラックスできるような空間だった。もちろん、招待状がなければ入れなかったというのが、その理由のひとつではあるがね。

 

誰がThe Loftと名付けたのですか?

 

スタートした時からそう呼ばれていたんだ。ヒッピー的なノリでね。「どんな名前にしよう?」、「好きなように呼んでいいよ!」という感じだった。それでThe Loftと呼ばれるようになったんだ。私にとってこれは神聖な名前だったし、プロモーション的な、商業的な目的でこの名前を前に出したことはなかった。メディアに初めて取り上げられた時のことを憶えているよ。私が知らない間に、『The New York Times』紙の表紙に載っていたんだ。

 

それはいつの話ですか?

 

1972年半ばだったと思う。すると、私がやっていたようなスタイルの場所が他にもオープンした。それがThe Galleryだった。だが、Tenth Floorがもう少し前にオープンしていたかも知れない。

 

 

 

“ミックスに力を入れて、上手く表現できるとしても、そうなれば、レコードではなくミックスだけで自分が判断されるようになる。だが、ミックスよりもレコードの方が重要だ”

 

 

 

The GalleryはNicky Sianoのクラブでした。

 

Nickyは14歳の頃、私のパーティによく顔を出していたんだ。The Loftの最初期から遊びに来ていた。そのあとで、自分のパーティを金曜日に開催するようになったんだ。そして、後を追ってRichard LongのSoHo Placeがオープンし、Raede Streetもオープンした。そして、Paradise Garageがオープンすると、今度はThe Galleryが移転し、FlamingoがThe Loftからすぐのところにオープンした。だが、私のパーティは親しい友人を中心に大きくなっていったので、他のクラブの動向を気にする必要はなかった。むしろ彼らの存在を嬉しく思っていたよ。

 

なぜ嬉しかったのでしょう?

 

ニューヨークには800万人が住んでいて、多くの人たちがパーティを求めているから、クラブが存在するのはポジティブなことだ。パーティに出掛ける人数は多い方が良い。1週間で開催される数も増えていく。多くの人たちが住んでいたのだから、クラブが多いのは結構なことだ。公民権運動と同じさ。デモに参加する人が多い方が良いのと一緒だよ。

 

パーティの音楽はどう変わっていったのでしょう? どこでレコードを手に入れていましたか?

 

最初はブロードウェイに住んでいて、1972年にソーホー(99 Prince Street)へ移った。当時のソーホーには何もなかった。だから、ロフトの広さも465㎡から930㎡になったのさ。しかも、2フロアでね。個人的には移転したくなかった。だが、当時はすでに多くのパーティがあちこちで開催されていて、行政側も非常口が備わっているかどうかなどを色々精査するようになっていたんだ。私のパーティ会場はどこも非常口が備わっていたが、ブロードウェイでは、建物使用許可証(編注:日本の検査済み証に相当)が取れていなかったんだ。当時は音楽雑誌に色々な情報が載っていたから、行政側は市内で何が起きているのか、以前よりも明確に理解するようになっていた。

 

この頃、あなたはニューヨークのトップDJたちとの友好を深めていきますね。

 

Sanctuaryに出掛けていた。Francis(Grasso)が好きだったんだ。Francisは良いDJだった。基本的にはSteve D’Acquistoから人脈が広がっていった。彼は… TambourineとTamberlaineのどっちが先だったかは憶えていないんだが… いずれにせよ、そのどちらかで働いていた。そして、私は彼のプレイが好きだったから、彼の元へ向かって「私は音楽が大好きなんだが、ダウンタウンにちょっとした場所がある。そこは私の家なんだが、プライベートパーティを開催しているんだ。友人と一緒に来ないか?」と誘ったのさ。それで彼が連れてきたMichael CappelloやFrancisと知り合ったんだ。

 

では、クラブにも出掛けていたんですね?

 

クラブというよりもパーティが好きだった。クラブはそこまで好きではなかった。酒を飲み始めたのも26歳になってからだ。出掛けるときは音楽だけが目的だった。他は興味がなかった。大半はハウスレントパーティとハウスパーティだった。パーティが好きだったんだ。

 

DJという存在が重要視されていった時代ですね。

 

DJが2台のターンテーブルを手に入れ、録音された音楽を使用するようになった時、新しい時代がスタートしたんだ。ダンサーがパフォーマンスの一部になったのさ。ミュージシャンのライブでは、どこかへ出掛けて彼らの演奏を聴かなければならない。また、自宅ではカウチに座ってレコードを聴かなければならない。DJはちょうどその中間に位置することで、新しい何かを生み出した。ダンサーが音楽演奏の一部になったんだ。そこが他とは違っていた。片足をダンスフロアに、片足をDJブースに入れているようなものだ。DJは、パフォーマンスとリスナーの間に立つという新しいフォーマットを生み出したんだ。

 

 

 

David Mancusoがプレイしたクラシックを集めたプレイリスト『The Loft 100

 

 

 

あなたはレコードをミックスしてそのフォーマットを生み出していたのでしょうか?

 

ミックスはしていなかった。ミックスをしていたのはそれより前の話だ。私はオープンリールのテープに取り込んだサウンドエフェクトを加えてプレイしていた。1967年、1968年頃に開催していたパーティではテープを使っていた。当時の私はミキサーを知らなかった。そんな物が存在することさえ知らなかったんだ。だから、レコードが終わるとサウンドエフェクトをプレイしていた。サウンドエフェクトのコンピレーションアルバムを使っていた。サウンドが途切れることはなかった。

 

そのようなアルバムをオープンリールにレコーディングして使っていたのですか?

 

そうだ。音楽を途切れさせたくなかったからね。だが、同時にミュージシャンたちの意図を反映させた形でプレイしたいとも思っていた。最初はミックスも多少していたが、やがてしなくなった。レコードはミュージシャンがすべてだからだ。DJはレコードをミックスして流れを生み出そうとするが、私の場合は、とにかくレコードの内容、最初から最後までの内容を台無しにしないようにしていた。レコードの途中で次のレコードへミックスしていた時代もあったが、ある日「私はいったい何をしているんだ?」と思ったんだ。家の壁に勝手に絵を描いてしまうようなものさ。色は変えるべきではない。意図はそのまま残すべきだ。音楽をそのまま成立させなければならない。

 

ミックスに力を入れて、上手く表現できるとしても、そうなれば、レコードではなくミックスだけで自分が判断されるようになる。ミックスよりもレコードの方が重要なんだよ! ミックスは2秒か3秒の話だろう。また、私に言わせれば、ミュージシャンがそのミックスを決めるんだ。これはやや哲学過ぎる表現かも知れないがね。いずれにせよ、私は、ミックスをすればするほど、音楽が伝えようとしているメッセージから遠くへ離れてしまっているように感じた。個人的には「曲に任せよう」というアイディアに立ち返るようにしている。別にミックスという作業が悪いというわけではないが、曲をそのまま放置すべき時もある。自分の育てた子供を、どこかのタイミングで自立させるのと同じさ。

 

DJはアーティストになるべきではないと?

 

いやいや、そういうことを言いたいんじゃない。DJはアーティストだ。エゴを持たないタイプのね。DJがエゴを出してしまえば、アーティストにはなれないし、音楽のための存在ではなくなってしまう。そうなれば、いずれ存在を忘れられてしまうだろう。私はDJには第3の耳があると思っているし、全体を捉える能力が備わっていると思っている。大きな絵を描いているようなものだ。別に他のDJがダメだと言っているわけではないが、これが長年の経験を経て得た結論だ。

 

ミックスするのを止めてからはどんな音楽をプレイしていましたか?

 

それまでと同じだ。単純にミックスするのを止めただけだ。曲を最初から最後までプレイした。ミックスをしていると、オーディエンスは音楽よりもミックスを好むようになっていった。だが、ミックスに囚われる必要はないんだ。音楽は言葉よりも先に生まれたもの、神からの素晴らしい贈り物なのだから。

 

ミキサーを使用しなければ、その分、サウンドもピュアになりますね。

 

そうだ。音質が良くなる。スピーカーとレコードの間に繋がれている機材が少なければ少ないほど、サウンドは解放される。その部分も考慮してミックスするのを止めた。

 

あなたはサウンドシステムに対して信じられないほどの努力を重ねてきました。

 

11年目、1979年頃に大金をつぎ込み始めたんだ。この頃からカートリッジに3,000ドルを使うようになった。可能な限りピュアなサウンドにしたかったんだ。音楽には生命のエナジーが備わっているからね。

 

Klipschorn(ラウドスピーカー)は単純に物理学の原則に従って組まれたものだ。よって、アンプも物理学が原則に沿った製品が必要になる。“黄色のレンガの道” を辿るようなものだ。1ワット入力すれば1dBが出力されるという関係が崩れてしまえば、音楽にも影響が出てくる。だから、私が使っていた機材はすべて正しく計算された製品だった。

 

ターンテーブルは、唯一 “回転” する機材だ。一般的なターンテーブルにはベース(土台)やトーンアームなど色々なパーツがあるが、基本的にベースはひとつの塊になっている必要がある。Richard Longはそこをいじった。すべての基本となる部分だ。低音はかなりのエナジーを生み出す。よって、少しでも低音がターンテーブルに戻ってきてしまえば、クリーンなサウンドではなくなる。数パーセントは入ってくる。それが入ってきてしまえば、元のサウンドとは違ってしまう。

 

ターンテーブルの重さは?

 

かなり重い(笑)。トーンアームとカートリッジも重いからね。カートリッジはオニキス(縞瑪瑙)製、石でできている。最初に注意すべき点は、室内の音響の調整だ。コンサートホールの音量は80dBだ。つまり、90dB以上の音量のサウンドを45分以上聴き続ければ、耳が疲労してしまうのさ。

 

※このインタビューは1999年8月にニューヨークで行われたものです。 

 

Part 2へ続く