四月 03

インタビュー:Bernard Purdie

Aretha Franklin、James Brown、Steely Danなどのヒットトラックに最高のグルーヴを提供してきたレジェンド・セッションドラマーが50年のキャリアを振り返る

 

By J-Zone

 

参加レコーディングセッション数世界一を誇るBernard “Pretty” Purdieは、50年という圧倒的な長さを誇るキャリアを通じて、Aretha Franklin、James Brown、King Curtis & The Kingpins、Steely Dan、Daryl Hall & John Oates、Roy Ayers、Gil Scott-Heronを含む数多くのトップアーティストたちのクラシックトラックでドラムを叩いてきた。

 

唯一無二のユーティリティドラマーとして知られるPurdieは、ジャズ、ロック、ポップ、ソウル、ファンク、ラテンなどのジャンルを自由に行き来することができ、このような多種多様な音楽から受けた影響を組み合わせることで、“Purdie Shuffle” と呼ばれる革新的なリズムを生み出した。

 

J-Zoneがホストを務めるRed Bull Radioの番組『Give the Drummer Some』からの抜粋となる今回のインタビューの中で、Purdieは、Aretha Franklinのミュージックディレクター時代や、独自のドラムブレイクやビートの特徴などについて語っている。

 

 

© Maxwell Schiano

 

 

 

— Aretha Franklin「Rock Steady」で聴けるあなたのドラムブレイクは、DJ、ドラマー、プロデューサーを含む全員に大きなインスピレーションを与えました。あのドラミングは、ファンクドラミングの最高峰として認識されています。

 

あれは完全なる偶然だったんだ。みんなでスタジオにいた時の話だ。Arethaがピアノで作ったあの曲を持ち込んでいた。それで一緒に演奏していると、彼女のピアノから譜面がずれて、床に落ちてしまったんだ。それで、彼女がピアノを演奏しながら誰か拾ってくれないかと頼み始めたんだが、私たちはそのまま演奏を続け、Arethaは「Rock! Steady!」と歌い続けた。

 

そのあと、誰かが譜面を拾ってピアノの上に戻したんだが、あのブレイクはその前に起きたことなんだ。私だけ演奏を続けたあの4小節は、私に欠かせない存在になった。

 

 

 

 

— あなたはメリーランド州エルクトンの出身です。

 

メリーランド州エルクトンは実にリアルだ…。大きいが、田舎で、哀れという意味でね。あそこで良かったのは、私には上手く機能したということだけだ。米国の小さな田舎町というのは、もはや別世界だ。だが、当時のエルクトンはセシル群最大の都市で、誰もがあそこで結婚式を挙げるような場所だった。また、毎週金曜日と土曜日の晩は、Clyde Bessicks Orchestraが演奏していた。私はこの都市で、Leonard Heywood先生に師事してドラムを学んだんだ。

 

 

— Leonard HeywoodはClyde Bessicks Orchestraのメンバーですよね?

 

彼はClyde Bessicks Orchestraのドラマーだったが、先生でもあった。他の生徒を教えている間、私は外のポーチに座ることを許されていた。私はすぐに全てを飲み込めたからね。外へ出るのを許されるくらい上手かったんだ。

 

 

— プロとしての初ギグはいつだったのでしょう?

 

8歳になる頃にはすでにビッグバンドで演奏していた。金曜日と土曜日の晩に、Heywood先生の代わりを務めていたんだ。ドラムのセットアップから何から何まで私が担当していた。なぜなら、休憩時間になると、先生は車に戻って少し休んでいたからだ。

 

先生の飲み物を運んでいたのも私だった。グラス一杯のウォッカかジンで、それを先生に渡したあと、先生が車に戻って眠るまで待った。そのあと、夜中の12時頃から、私がドラムセットに座って、残りのギグを担当したんだ。

 

あれは最高だったよ。12歳になる頃には自分のバンドを持っていた。

 

 

— ニューヨークに出たのは何年でしたか?

 

1961年だ。ニューヨークに出たのは、人生最良の出来事だった。最初の1週間で、Mickey & Sylviaと知り合い、彼らからレコーディングセッションに参加して欲しいと頼まれた。結局、アルバム1枚分レコーディングしたよ。

 

それよりも嬉しかったのは、80ドルも受け取れたことだった。当時の給料1ヶ月分だった。受け取った晩にComet Clubへ向かって、バンドと一緒に全額使った。バンドメンバー全員にドリンクをおごったし、そこにいた客にも振る舞った。あっという間になくなったよ。楽しかったね。

 

 

 

"Aretha Franklinが必要としているものを毎回提供することが私の仕事だった" 

 

 

 

— 1960年代中頃、あなたはドラムセットに掲げるサインでも有名になりました。サインを掲げた理由は何だったのでしょう?

 

あの看板について、自分のアイディアだと言えたら良いんだが、実際はベーシストのJimmy Tyrellのアイディアなんだ。彼から「なぁ、Purdie、君は本当にドラムが上手いんだからサインを作って宣伝した方がいいぜ。覚えてもらえるからさ」と言われたんだ。

 

それで、私は3種類のサインを作ってもらった。『If you need me, call me / ドラマーが必要ならご連絡を』や『You have done hired the hit-maker / あなたが雇ったドラマーはヒットメーカーです』と書かれているボードをね。そのあと、色々な町のプロデューサーたちが作曲家たちに頼むようになったんだ。「ドラマーはあのサインを持ち歩いている奴にしろ。あのボード持ちの若僧だ」とね。

 

 

— 他のミュージシャンから看板について何か言われましたか?

 

言われたよ。「あいつは自分の仕事を自慢していやがるんだ」とね。私は外交官のように、誰にでも良い顔をする方法なんて知らなかった。ビッグマウスだった。だが、私の言うことに耳を傾けた人は全員裕福になった。

 

 

— あなたのそのようなアプローチは、R&Bのリズムに多くの変化を与え、最終的にファンクドラミングを生み出しました。

 

そうだね。

 

 

— 伝統的なシャッフルやツイストの時代に育ったあなたは、左手の小技とルーズなキックドラム、シンコペーションが特徴的な8ビートを生み出しました。1960年代が終わる頃までに起きたR&Bのリズムの変化の多くは、様々なレコーディングセッションに参加したあなたのドラミングによって生み出されたものでした。自分のドラミングが革命を起こしていたことに気付いていましたか?

 

自分が何をしているのかを自覚していたら、人生は180°変わっていただろうね。もっと早くに “ビジネス” サイドに進出していただろう。

 

 

— James Brownとの仕事はどうでしたか? レコーディングに参加したことは存じていますが、ツアーも帯同したのでしょうか?

 

ああ、Jamesとはツアーも一緒だった。あれは良い刺激になったよ。なぜなら、ドラマー2人とパーカッショニスト1人という編成だったからね。

 

ある晩、Jamesがダンスをしている間にもうひとりのドラマーがミスをして、Jamesが罰金を命じたんだ。私も25ドルの罰金だと言われた。私のミスじゃなかったのにね。また、125ドルの25ドルは大金だった。私は関係なかった。

 

それで、ギグが終わったあと、Jamesのところへ行ったんだ。それで「ミスをしたのは私ではないということを改めてお伝えしておこうと思いまして」と言うと、「おっと。もう遅いね」と言われた。だから「いやいやいや。私は他人のミスにお金を払うつもりはありませんよ」と返した。

 

するとJamesは私を見て「いいか、俺はボスだ。俺はJames Brownだ。お前は俺の言うことをやればいいんだ」と言ってきた。私は丁寧に「もう話は終わりということですか? どうあっても25ドルの罰金を私に払わせるつもりなんですね?」と返した。彼が「ああ、そうだ」と言うので、「それでは、2週間後に辞めさせてもらいます」と伝えて、2週間後にバンドを去った。

 

 

— あなたはKing Curtisとの最初のギグでミスをしています。野外ステージでKing Curtisが「Sister Sadie」の演奏を指示した時、あなたはその準備ができていませんでした。King Curtisとの最初のギグについて振り返ってもらえますか?

 

「Sister Sadie」が指示されたら、すぐに演奏できなければならない。だが、私はその準備ができていなかった。なぜなら、展開を知らなかったからだ。ドラムセットに座って32小節叩いたあと、King Curtisが振り向いて「おい、お前だぞ!」と言ってきた。私が「どういうことだ?」と思っていると、「ドラムソロだよ!」と言われた。私のミスだった。完全なミスだった。泣きそうだったが、時すでに遅しだった。取り返すことはできなかった。あのミスのあと、ひとりで猛練習したよ。もう二度と同じミスをしないようにね。

 

 

 

 

— 最終的に、あなたは再びチャンスを得て、King Curtisとは素晴らしい関係を築きます。「Memphis Soul Stew」など最高のトラックを次々と生み出しましたね。

 

King Curtisとの関係はレコーディングだけではなかった。世間が知らなかったのは、私が彼の帳簿を管理していたことだ。ツアーでは必ず私が担当した。彼の懐事情は1セント単位で把握していた。どこから入り、どこへ出て行くのかを理解していた。彼はバンドリーダーのあるべき姿を私に示してくれた。

 

 

 

 

— あなたはジャズにファンクグルーヴを持ち込んだドラマーとしても知られています。あなたは、PrestigeやFlying Dutchmanなどのレーベルからリリースされていた、いわゆる “ソウルジャズ” 系と言われるサウンドの黎明期にリリースされた作品の多くに関わっていました。1960年代に演奏していた1トラック2~3分のR&Bとは完全に異なる、長尺のジャズの演奏をどう感じていましたか?

 

バンドがどう演奏したいかに任せていた。バンドが時間や展開を決めていた。私はクライマックスを作り上げたあと、静かな演奏に戻り、またクライマックスを作り上げて演奏を終えるだけだった。

 

 

— あなたはラテンファンクにも大きく関わりました。Mongo Santamaria「Cold Sweat」では素晴らしいドラムブレイクを披露していますね。ですが、それまでのラテンミュージックにいわゆる “ドラマー” は含まれていませんでした。どのようにしてラテンミュージシャンやプロデューサーたちから信頼を得て、彼らの音楽に貢献するようになったのでしょうか?

 

Mongoは、私が彼の音楽に貢献しつつ、彼の音楽の邪魔にならないことを喜んでいた。通常、ラテンミュージックでは、全てのビートを強調する必要がある。

 

ラテンミュージックではそれが普通なんだ。だから、彼らのパーカッションは全ての拍に乗せられていて、カウベルも常に鳴っている。だが、私はカウベルをバックビートで鳴らす方法を学んだ。少し後ろにずらして叩くことで、全ての拍で鳴るコンガやボンゴの邪魔をしないようにした。全てがファットに鳴っている中できちんと収まるようにしたんだ。

 

 

 

 

— あなたはあらゆるレコードやスタイルに合わせられるドラマーですが、同時に全ての作品であなたらしさを維持してきました。どうやって両立していたのでしょう?

 

私が私でいられるのは、男前なルックスをしているからだよ(笑)。周りが真剣になりすぎたり、緊張しすぎたりして、何も言えなくなって苛ついている時は、必ず「ちょっといいかい。君たちは今問題を抱えているようだが、私のことを考えてもらいたい。私のこの男前のルックスについてね」と言うようにしている。すると全員が笑い、その場が和む。こうすることで、全員の気持ちを揃えられるんだ。

 

 

— 全員の気持ちを揃えられるスキルは、長年担当していたAretha Franklinのミュージカルディレクター職で役立ったのではないですか?

 

私がミュージカルディレクターになったのは、Curtisが亡くなったあとだが、その前に8~10年ほどCurtisと仕事をしていたので、どうすれば良いのかは理解していた。また、Arethaとの仕事の進め方も理解していた。私の仕事 ― 最優先すべき仕事 ― は、彼女が必要としているものを毎回提供することだった。彼女が口を開いて歌う時、私は必ずそこにいた。必ず参加していた。それが私の仕事だった。

 

 

— あなたはSteely Danとも仕事をしました。彼らは非常に細かく、ドラマーには特に口うるさいことで知られています。スタジオで何テイクも録りますよね。セッションを次から次へとこなす環境から、同じ曲を何回も演奏するようになった変化をどう感じましたか? あなたが意見を出して、それをバンドが受け容れるパターンもあったのでしょうか?

 

両方経験したよ。「まず君たちが演奏してくれ」と頼んだ。それで2分ほど経過すると、どんな演奏をすれば良いのかが分かった。彼らから「どういう演奏を考えているんだい?」と訊ねられたので、「Purdie Shuffleを演奏するよ」と言うと、「ダメだ、ダメだ! あなたのシャッフルは必要ない!」と言われた。自分たちの言う通りにやってくれとね。だが、私は「でも、君たちは僕がどう叩くかまだ聴いていないじゃないか」と返した。

 

彼らは何が起きようとしているのか分かっていない顔をしていた。私がドラムスティックを手にした時は半狂乱な様子だったよ。

 

 

— あなたはこれまでに数え切れないほどのセッションをこなしてきたわけですが、聴き返せば自分の演奏だと分かりますか? すぐに自分の演奏を聴き分けることができますか?

 

できないね。なぜなら、他人の指示通りに叩くだけの時があるからだ。そしてそれもまた、私の仕事の一部だ。私は仕事をするだけだ。私の能力をただ奪うだけの人たちに感情を注ぎ込んではいけない。そういう仕事が何よりもキツかったね。

 

だが、今はもう気にならないし、心配もしていない。世間から自分の演奏を最低だと思われても構わないね。全く問題ない。なぜなら、私がやったという事実は変わらないからだ。その事実を私から奪うことはできない。誰ひとりとしてね。

 

 

Header Image:© Maxwell Schiano

 

05 Apr. 2019