六月 20

インタビュー:Amp Fiddler

ソロとしてはもちろん、George Clinton、J Dilla、Moodymannなどとの時代とジャンルを超えたコラボレーションワークでも知られているデトロイトのベテランプロデューサー / キーボードプレイヤー / シンガーがその長いキャリアを振り返った

By Jeff Mao

 

Joseph “Amp” Fiddlerは人生を通じて音楽的発見の旅を続けてきた。R&BグループEnchantmentでキャリアをスタートさせた彼は、1980年代前半にParliamentとFunkadelicのサウンドに魅了されると、強い意志と共にハードワークを重ね、それからたった2年でGeorge Clintonにキーボードプレイヤーとして雇われた。

 

1980年代中頃から1990年代中頃にかけてClintonと共に活動したAmp Fiddlerは、ダンスミュージックのサウンドとテクスチャがどのようにしてファンク、ソウル、R&Bと関係しているのかを徹底的に学び、Moodymann、Carl Craig、Theo Parrishなどのテクノ / ハウスプロデューサーたちや、Maxwell、Prince、Sly & Robbieなどのポップ / ソウルマスターたちとの仕事を通じてその知識をスタジオワークに落とし込んでいった。

 

経験豊富なコラボレーターとして知られるAmp Fiddlerは、長いキャリアを通じソロ名義のシングルやEP、アルバムも多数リリースしている。また、彼はJ DillaとQ-TipにAkai MPCを教えた人物としても有名だ。

 

Red Bull Radioの番組『Fireside Chat』からの抜粋となる今回のインタビューで、Amp Fiddlerは40年以上に及ぶキャリアを振り返っている。

 

 

 

《幼少時代》

 

俺が生まれる前、母親がすでにピアノを買っていた。俺は5人兄妹の末っ子で、誰もが何かしらの形で音楽に関わっていた。一番上の姉はひっきりなしにMotownを家の中でかけていた。次の姉はヒッピーで、俺が物心つく頃にブラックパンサーのカルチャーを家の中に持ち込んでいた。彼女はロックンロールやブルーズ、ソウル、ファンクなどあらゆる音楽を聴いていたよ。その下の兄はジャズファンで、かなりのレコードコレクションを持っていた。

 

ある日、そのさらに下の兄、Bubzと俺と父親でFederal Department Store(Federal’s:デトロイトにあったデパートチェーン)に出掛けた。俺はポゴスティックが欲しかったんだが父親にダメだと言われ、その代わりにBubzがベースギターを手に入れた。1年ほどBubzがベースを弾いているのを眺めていたが、彼はめきめき上達していったよ。この頃、家には色々なミュージシャンが家に出入りしていた。子供ながら「クールだな」と思っていた。

 

そしてある程度年齢が上になると、母親からピアノレッスンに興味はないかとひっきりなしに訊かれるようになった。それでレッスンに行ったんだが、「自分には無理だ。面白くない」という感想を持った。ピアノレッスンは大嫌いだった。

 

近所の全員が何かしらの楽器を弾いていた。当時はガレージバンドが全盛で、誰もがどこかに集まってはジャムをしていた。だから、俺も友人のBillと一緒にガレージに忍び込み、コンパクトエフェクターを盗んでは自分の家でギターをワイルドにかき鳴らすようになった。だが、しばらくして「なぁ、盗むのに疲れたよ。もうやめようぜ」と言って、ギターを弾くのをやめた。

 

ちょうどその頃、1時間半で7ドルというピアノレッスンの広告を見かけたんだ。それでMs. Whitneyという年配の女性からレッスンを受けた。確か、87歳くらいだったはずだ。それで彼女からピアノを1年半習い、そのあと大学に通い始めた。

 

 

 

《Enchantment》

 

 

 

 

大学1年生の時にEnchantmentのシンガーと出会った。俺の友人の兄だったんだ。それでEnchantmentのオーディションを受けることになって、加入が決まった。当時の俺は大学に飽き飽きしていたし、音楽にのめり込んでいたが、何しろ下手くそだった。四六時中練習していたが、Masonic Templeでのデビューライブで大きなミスをした。

 

そこは大きなヴェニューで、しかも満員だった。当時の俺はまだバンドに慣れていなかった。シンセサイザーとストリングスサンプルを入れたサンプラーを持ち込んでいたが、サンプラーのボタンが壊れていた。だから俺は超緊張していた。そして実際に自分のパートを演奏すると、異常にうるさい音量で鳴ったんだ。バンドメンバーが全員俺の方を振り返って「下げろ!」と怒鳴ってきたよ。

 

兄のBubzとは仲が良かったし、いつも家でジャムをしていたが、バンド演奏に慣れるまではしばらく時間がかかった。バンドのファンクをちゃんと理解するまでは3年くらいかかったんじゃないかな。Was (Not) Wasのヨーロッパツアーに帯同したんだが、俺にとってはこれが初めての海外だった。あのツアーは大きなブレイクスルーになった。俺の目を世界に向けさせた。

 

この頃、俺は地元の仲間と一緒に「Spaced Outta Place」をレコーディングした。ピアノを弾くのは楽しかったが、当時の俺は音声合成に興味を持ち始めていた。4トラックレコーダーを手に入れていたから、常にレコーディングをしていた。仲間とジャムをするようになり、仲間も面白いと思える音楽が生まれてきたから、レコーディングして曲にした。それがこの曲だ。俺のファーストシングルだ。

 

 

 

 

 

 

《P-Funk》

 

Clip Payneは彼の兄が俺の家に一時期住んでいた関係で以前から知っていた。そのあと、Andre Foxxe、Mallia “Queen of Funk” Franklinとも会った。彼女はBrides of FunkensteinとParletで活動していた。あとは優秀なベーシストのChris Bruceとも知り合った。Mallia FranklinとGarry Shiderとは一緒にギグをした。Malliaの家でJunie Morrisonと知り合い、Bernie Worrellとも知り合った。彼らは全員何かしらの形でGeorge Clintonと繋がっていた。

 

それである日、Jerome Rodgersの代役として呼び出されたんだ。俺はGeorgeの曲をほとんど知っていたからね。Dennis Chambersがドラム、Maceo Parkerがディレクターだった。Fred Wesleyもいた。Michael Hampton、Eddie Hazel、The P-Funk Hornsなど最高のミュージシャンが揃っていた。だが、俺にはカオスに思えた。なぜなら、当時の俺は自分が何をやっているかさっぱり分かっていなかったからさ。

 

さっきも話した通り、Georgeの曲はほとんど知っていたが、全部ではなかった。だから知らない曲はアドリブで弾いたんだが、全員クールに対応してくれた。そのあと、バンドのレコーディングセッションを重ねるようになった。

 

俺が初めて参加した曲が「Do Fries Go With That Shake?」だった。キャリア最大のブレイクスルーになった。夢が叶った瞬間だった。ずっと前からバンドメンバーとして活動するイメージを持っていたが、まさかこのバンドに入れるとは思っていなかった。何しろ誰もが憧れていたバンドだったからね。

 

 

 

 

俺がバンドに入れたのは、リハーサルとレコーディング両方で安定した演奏をして、バンドのバイブスに合わせられていたからだと思う。俺は学び続けたいタイプだからね。他のキーボードプレイヤーたちはいがみ合っていて、ちゃんと仕事をこなせなかった。自分のエゴで精一杯だったからさ。

 

だが、俺は「よし、みんなのお手並み拝見といこう。俺は君たちから学びたいと思っているんだ。どこで俺が入れば良いのか教えてくれよ」という感じだった。張り合う代わりに、賢く立ち回っていたんだ。「最高にクールだと思われなくても構わない。ただ自分の演奏をして今の活動を続けたい」と思っていた。George Clintonはその姿勢を理解してくれたし、俺は俺で、彼が何を求め、何を必要としているのかを理解していた。

 

P-Funkではクールなセッションを重ねることができた。初参加した時は、ちょうどGarry Shiderがレコーディング中で、ヴォーカリストを揃えていた。9人ほどいたんじゃないか。最高だったのは、彼がヴォーカリストたちに取るべき音程を教えて歌詞を渡すと、ヴォーカリストたちがあっという間にその指示通りに歌っていたことだった。

 

俺はまだ駆け出しだったし、ひと通り演奏してからじゃないと理解できなかった。だから、ヴォーカリストたちがどうやってすべての指示をすぐ完ぺきに覚えてハーモニーを作り上げているのか理解できなかった。のちのち自分で歌うようになると、対位法やハーモニーの仕組みが理解できるようになったが、その日はスタジオが人でごった返していた。

 

United Sound Systemは大きなレコーディングスタジオだが、いつもパーティが開催されているような感じだった。ミキシングボード周りにも1階にも常に人がいた。クレイジーだったよ。だから、「家族、友人、女性がこんなに集まっているのにGarryたちが仕事を進められているのはどうしてなんだ?」と思っていた。

 

 

 

“Princeと初めて会った時の俺は「P、P、P、P、P、Pri、Pri、Pri、Prince、ご、ご機嫌いかがですか? お、お、お、お会いできて光栄です」って感じだった”

 

 

 

《Prince》

 

George ClintonがPrinceと電話で話している声が聞こえたが、俺も彼と話したいとはさすがに言えなかった。Georgeからは「いいから演奏を続けるんだ」と言われたよ。Princeの「We Can Funk」はデトロイトでレコーディングした。Bootsy CollinsとGeorgeと一緒にスタジオに入って『Graffiti Bridge』の収録曲をレコーディングできるだけで俺は幸せだった。Princeがその場にいなくても構わなかった。

 

Princeがスタジオにいなくても構わなかった理由は、実はその1年前にロサンゼルスで本人に会っていたからだ。Sheila Eの誕生日パーティでね。Herbie HancockやGeorge Dukeもいた。ありとあらゆる人が来ていた。そこでPrinceと会ったんだ。

 

俺が「P、P、P、P、P、Pri、Pri、Pri、Prince、ご、ご機嫌いかがですか? お、お、お、お会いできて光栄です」と言うと、彼はクールに対応してくれて、気楽に話してくれと言ってくれた。あとは、パリのライブでPrinceがステージに上がってきて、俺の真横にマイクを立てて最高のパフォーマンスをしてくれた。この2つはPrinceとの最高の思い出だ。

 

 

 

《Mr. Fiddler》

 

兄と俺は昔からプロジェクトを一緒に進めたいと思っていた。俺たちは1940年代、1930年代の音楽に興味を持っていた。Cab Calloway、Duke Ellington、Louis Jordanのようなファンキーでホーンが入っている音楽の時代が好きだったんだ。俺はこの時代の音楽にファンクを組み合わせたいと思っていた。

 

それで1982年か1983年頃にそのプロジェクトをスタートさせた。俺が歌い始めたのはこの頃だ。なぜなら、当時の俺はファッションに夢中だったから、自分の頭の中に描いているイメージ通りのシンガーを見つけるのは不可能だということが分かっていた。だから、自分で歌を学ばなければならなかった。

 

アルバム分のデモを用意していたし、アーティスト写真も用意していた。パッケージとして準備していたんだ。Mr. Fiddlerは1940年代の音楽とニュージャックスウィング、ファンクをベースにしている。

 

Tom VickersがPolygramのEd Ecksteinmに俺を引き合わせてくれたので、このパッケージを提案すると大いに気に入ってくれた。そのあとは本格的にレコーディングを進めていった。4トラックレコーダーでカセットテープにレコーディングしたあと、オープンリールにまとめていった。

 

だが、結局、Polygramには契約を断られた。俺はこのアルバムを分かりやすいひとつのアイディアでまとめなかった。いくつかレフトフィールドな部分を残しておいた。そこが気に入ってもらえなかったんだ。それで、Elecktraからリリースすることになったんだが、担当は社内で人気がなかった。だから、十分なプロモーションをしてもらえなかった。

 

 

 

 

 

《J Dilla》

 

1986年か1987年頃、俺はしばらくカリフォルニアに住んでいた。ホテル暮らしをしていて、仲間がやってきては一緒にレコーディングをする毎日だった。4トラックレコーダー、キーボード、マイクを使って1日中レコーディングしていたから、俺たちはこのホテルをCamp Ampと呼んでいた。この名前を気に入ったので、デトロイトに帰ってからもホームスタジオの名前で使うことにした。

 

デトロイトに戻ってからは1日中地下室のスタジオにいた。窓は開けっ放しだったから、通りがかった人は必ずそこから流れてくる音楽を耳にしていた。

 

するとある日、ひとりの若者がやってきて「なぁ、あんたずっとレコーディングしているけどさ、俺たちヒップホップを作ってるんだ。クルーもいる。ラップ用のビートを組もうと思ったことはないかい? というのも、俺たちにはビートが必要なんだ」と言われた。だから「よし、分かった。明日クルーと一緒に来てくれ。何ができるか見てみよう」と返した。

 

それで翌日になると彼らが戻ってきた。7人ほどのクルーで、Ghost Townと名乗っていた。Slum Villageは彼らのユニットのひとつだった。それで彼らのレコーディングをひと通りやったんだが、彼らはまた戻ってきた。

 

だから「俺がずっとお前らのレコーディングに付き合うわけにはいかないが、お前らでこのスタジオを使ってプロジェクトを終わらせる分には構わない。だが、そうするならビートを組める奴を別に用意する必要がある。俺にビートを組んでもらいたいならそれでも構わないが、その分だけレコーディングの時間が短くなるぞ」と伝えた。すると「Jamesならビートを組める」と言ってきた。

 

 

 

“Dillaにサンプリングのやり方やAKAI MPC60の使い方を教えた。あいつはずっと俺のところに入り浸っていたよ。俺が仕事をしていない日にやってきては、一緒にやろうと言ってきた”

 

 

 

それでJames(Yancey aka J Dilla)と会ったんだ。あいつは俺に自分のビートを聴かせてくれた。俺が「カセットデッキ2台でこんなビートを作ってるのか?」と言うと、カセットからカセットへレコーディングしてループを組んでいくあいつなりのビートメイクを教えてくれた。ここからすべてが始まったんだ。

 

先ほど話したPolygram用デモ制作のために俺はAKAI MPC60を手に入れていた。これは最初期サンプラーのひとつで、当時の俺はこれでサンプリングを繰り返していた。地下室には山ほどレコードがあったからね。

 

それで、DillaにMPC60の使い方を教えたんだ。あいつはずっと俺のところに入り浸っていたよ。俺が仕事をしていない日にやってきては、一緒にやろうと言ってきた。また、家にいなくても俺の助けが必要な時は電話をしてきた。テクノロジーが分かっていなければMPC60は簡単には扱えない。まるで漢字で数学をやっているような感覚に陥る時もあった。マニュアルも酷かった。だが、あいつはあっという間に扱えるようになったんだ。

 

あいつは大量のレコードから大量のフレーズを抜き出し、まるで魔法のようにそれらを組み合わせてパズルや絵画のような作品を生み出していた。たったひとりですべてをやっていたんだから、とんでもない才能の持ち主だよ。あいつがサンプルをチョップして、ループからビートを組んでいくと、誰も聴いたことがないリズムが生まれていった。

 

 

 

 

 

俺があいつにQ-Tipを紹介したんだ。それで一気にあいつのキャリアが花開くことになった。俺は何も見返りを期待していなかったというか、単純に厚意から紹介した。ヒップホップシーンにデトロイトの名前が刻めれば良いなと思っていただけだ。デトロイトのヒップホップシーンはそこまでビッグブレイクをしていなかったからね。デトロイトのヒップホップはリアルだったから、その状況をなおさら歯がゆく感じていた。

 

「Waltz of A Ghetto Fly」は、Dillaのことを考えながら作ったトラックだった。Dillaのあのビートは神からの授かり物だった。というのも、ある日、俺の友人KDから「数人がZIPドライブの入ったバッグを売りに来たんだが、俺のためにビートを組んでくれるんなら、このZIPドライブをお前に譲ってもいいぜ」という連絡が来た。それで俺がそのZIPドライブを引き取って聴いてみると、どれもDillaのビートだったんだ。

 

それでDillaに電話をすると、引っ越した時に業者に機材をいくつか盗まれたんだと言ってきた。そしてそのあとに「なぁ、俺は今まであんたに何も恩返しして来なかったし、良かったら使ってくれよ」と言ってくれたんだ。それでそのZIPからビートを選んだんだが、それがすでにQ-TIPのアルバム『Amplified』でも使われていたビートだったということは知らなかった。

 

Dillaのビートは俺が作ったアルバムのほぼすべてで使われている。今も自分のアルバムに彼の音楽の一部を使い続けることができているのは、本当に素晴らしいことだと思っているよ。

 

 

 

《Waltz Of A Ghetto Fly》

 

 

 

 

息子の子育てをしたいという理由でP-Funkから脱退したんだが、生活に変化を加え、新しい何かに挑戦する良いチャンスになった。

 

10年一緒にP-Funkと一緒に活動して、十分に経験を積めたと感じていた。それで、兄と俺、DJ Dezで『Waltz of A Ghetto Fly』を作ったんだ。姉に会いにニューヨークへ行った時にハーレムで見かけた男がインスピレーションだ。超クールに歩いていてね。それで「こいつは世界一クールなゲットーフライ(※)だぞ」と思ったんだ。

 

『Waltz Of A Ghetto Fly』はデトロイトのストリートを歩いている遊び人をイメージしたアルバムだ。そういう連中のリズムとソウルが表現されている。ガキの頃、シャープなスーツを着込んだ男たちがストリートを歩いているのをよく見かけた。毎日、The Temptationsのような服装をしていて、肩で風を切って歩いていた。まるでダンスを踊っているみたいにね。

 

※:フライ(Fly)はクールな人物/物を指すスラング。

 

 

 

《Afro Strut》

 

俺が曲を作り、Tony Allenも参加していたから『Afro Strut』が最適なタイトルに思えた。『Afro Strut』は、ソロアルバム(『Waltz of a Ghetto Fly』)でようやく成功を収めて、自由に音楽を作れるようになったことで生まれた作品だ。当時の俺は本格派シンガーになろうとしていた。ヴォーカルレッスンを受け始めていたから、スキルが向上していた。作曲のスキルも向上していた。

 

アーティストとしてようやく独り立ちできた俺は、キャリアが成熟期を迎えているような感覚を得ていた。レコード会社もサポートしてくれていたし、成功が得られるなら何をやっても構わないという姿勢を見せてくれていた。当時の俺はとにかくハッピーだった。俺の “アフロ” が地球全体に広がっていった時期だった。

 

『Inspiration Information』はチャレンジだった。なぜなら、時間がなかったからだ。「Sly & Robbieと1週間後にスタジオに入って一緒に曲を作ってくれ」と急に言われたんだ。それでキングストンへ飛行機で向かい、気が付いたらSly & Robbieと一緒だった。

 

夢が叶った瞬間だったよ。というのも、George ClintonやWas (Not Was) と一緒にツアーに出る前はレゲエバンドにいたし、父がセントビンセント島出身だったから、カリブ諸島の音楽はいつも俺の心と血の中にあったからさ。

 

Sly & Robbieはイノベーティブでクールだった。どんなアイディアにも興味を示してくれた。彼らと過ごしたすべての時間が素晴らしい経験になったが、Strut Recordsはこの作品を上手く扱えなかった。どうしたら良いのか分かっていなかった。

 

このアルバムがクオリティに相応しい愛情を得られなかったのは残念だった。だが、最高の経験になったので後悔はしていない。このアルバには音楽がある。このアルバムが消えることはない。

 

 

 

《Moodymann》

 

 

 

 

俺がPlay It Again Samと契約した時、Bubzと俺はデトロイトでKenny Dixon Jr.のためのジャムセッションを繰り返していた。Kennyは他とは少し異なるダンスミュージックを作っていた。

 

『Waltz of A Ghetto Fly』の制作でPlay It Again Samの担当と話をしている時に「Moodymannと会うべきですよ。彼のことを知ってますか?」と言われた。それで「いや、会ったことはない」と答えると、「会ってないなんて信じられない! 絶対に会ってください」と言われた。だから「分かった、会うよ」と返した。

 

それである日、Kennyが俺の所にレコードを持ってきたんだ。それを聴いた俺は「これがお前のレコードか? お前がMoodymannか。ずっと前からお前に会うべきだって仲間に言われてたんだが、昔からお互いを良く知ってるようなもんじゃないか! 一緒にレコードを作ろう」と伝えた。

 

最初に奴が持ってきたトラックが「Love & War」だった。俺とBubz、そして息子も参加した。息子は素晴らしいコルネットを吹いてくれた。Bubzはベースだ。Kennyとは今も仲が良いし、音楽を一緒に作っている。

 

KennyはJ Dillaとは違うタイプだが、バイブスは似ている。イノベーティブでクリエイティブで、常にポジティブな方向へ進化している。俺のアルバムもMahogani Musicからリリースしている(『Amp Dog Knights』)。このアルバムにもBubzが書いたトラックやJ Dillaのビートを使っているトラックが収録されている。

 

 

 

《デトロイト》

 

俺はデトロイトの音楽に色々な形で関わってきた。俺たちは誰もが情熱的で、お互いをリスペクトしていて、自分たちの仕事を愛しているミュージシャンのコミュニティなんだ。偶然にも俺はミュージシャンやプロデューサーに囲まれている。お互いをリスペクトしているし、何のいがみ合いもなく、お互いの音楽をシェアしている。

 

 

 

"息子が亡くなり、兄と姉も亡くなったあと、俺はコンピューターの中に入っていた音楽をリリースし続けてきた。彼らの生前に作った音楽を手元からなくし、新しいパレットを手に入れ、完全に新しい音楽をまた作るためにね"

 

 

 

俺たちが美しい愛を育み、素晴らしい音楽を作れている理由は、演奏や制作のためにいくら払えば良いのかという点についてほとんど考えていないからだと思う。いつも「俺のためにやってくれないか。最高の作品になるから」と言っているだけだ。経験がやがて自分の役に立つ、作品も自分の血肉になる。

 

たとえば、俺の家の近所にOmar Sが住んでいるから、俺はいつでも自転車で向かってジャムできる。これが俺たちの素晴らしいところだよ。俺たちはアーティスト的思考を持った、成熟した大人のミュージシャンとプロデューサーの集まりなんだ。俺たちのこの絆がデトロイトを美しい都市にしている。これがデトロイトの魅力なんだ。

 

 

 

《信念》

 

将来的にはもっと活動範囲を広げていきたい。積極的にそうしていきたい。というのも、息子が亡くなり、兄と姉も亡くなったあと、俺はコンピューターの中に入っていた音楽をリリースし続けてきた。彼らの生前に作った音楽を手元からなくし、新しいパレットを手に入れ、完全に新しい音楽をまた作るためにね。そういう音楽を作るのを楽しみにしている。

 

俺は自分がクリエイティブな人間だということを信じている。神様は目的があって俺をこの世に作り上げたはずだ。だから俺も信念を持ち続ける必要がある。すべて問題ないと信じる必要がある。未来の可能性については常にポジティブに考えている。なぜなら、この世には学ばなければならないことが山ほどあるからだ。

 

 

Header Image:© Eri Harada

 

21. June. 2019