六月 21

Instrumental Instruments:Minimoog

経営危機が生んだアナログシンセはユニークなサウンドとデザインで現代のポータブルシンセに大きな影響を与えることになった。Moogを代表するシンセの歴史を振り返る

By Sophie Weiner

 

1964年に発売された巨大で恐ろしいほど複雑だったMoog製モジュラーシンセは、世界にエレクトロニックサウンドを広めたことで近代音楽を再編した。しかし、多くのアーティストにとってこの機材を手に入れるのは至難の業だった。

 

1970年の時点で、アーティストが所有するMoog製モジュラーシンセはたった28台だった。Moog製モジュラーシンセの大半は大学施設やビッグレーベルが所有するスタジオに置かれており、研究や企業用ジングル、映画のサウンドトラックなどに使われることが多かった。そのため、シンセサイザーがやがてポップ、ジャズ、ファンク、プログレッシブロックなど様々なジャンルで多用されることになるのを当時予想するのはほぼ不可能だった。

 

しかし、ニューヨーク州北部にある小さな町トゥルーマンズバーグにあった工場の数人のエンジニアがその状況を変えつつあった。完全なる偶然だったが、彼らは音楽の歴史を永遠に変えることになる機材を生み出すことになったのだ。

 

これらの初期モジュラーシンセ、つまり、異なる機能を備えたモジュールをパッチケーブルで接続して使用するシンセでは、自分の好きなサウンドを得るのが難しかった。Moog製モジュラーシンセがこの世に登場した頃、Robert Moogが率いるMoog社のエンジニアだったBill Hemsathは、自社が開発したこの複雑怪奇な機材を購入する可能性があるミュージシャンたちのためのデモ演奏を任せられていた。ちなみに、そのシンセは現在のレートで5万ドル(約550万円)以上もした。

 

コーネル大学の教授で『Analog Days: The Invention and Impact of the Moog Synthesizer』の著者としても知られるミュージシャンのTrevor Pinchは「Hemsathは自分の時間を作り、そのデモのサウンドとモジュールのセットアップを自分で再現しようとしていました」と語っている。Hemsathは、デモの最中にThe DoorsのJim Morrisonのようなトップミュージシャンから「数分前に聴いたサウンドをまた聴かせてくれ」と言われるたびに冷や汗をかいていた。熱や湿度によってチューニングが狂うことが多かったこの気難しい機材では、サウンドの再現は不可能とは言わずとも非常に困難だった。

 

 

 

“Minimoogは現在売られているあらゆるポータブルシンセのプロトタイプ、先祖なのです”

Albert Glinsky

 

 

 

やがてHemsathは、プリセットサウンドを内蔵した小型シンセを開発すれば、Morrisonのような比較的分かりやすいサウンドを好んでいたミュージシャンにより役立てるのではないかと考えるようになっていった。

 

1969年のある日、Hemsathは、スペアパーツや半壊したシンセ、以前修復を試みたパーツなどがあちこちに転がっている “シンセサイザー墓場(Synthesizer Graveyard)” と名付けられていたMoog本社の屋根裏部屋で作業をしていた。特にあてもなく、Hemsathはそこにあったいくつかのパーツを組み合わせていたのだが、その時に、キーボードが転がっているのが目に入った。

 

『Theremin: Ether Music and Espionage』の著者で、現在Bob Moog公認の伝記を執筆中の作曲家Albert Glinskyは「彼は、高域側のプラスティック鍵盤が全て外れているキーボードを見つけたんです。ですが、そのキーボードの低域側の3オクターブは鍵盤もついていて問題なく使用できました。それで彼は、“よし、これを使ってみよう” と思ったのです。Hemsathはモジュラーシンセの構造を非常に良く理解していたので、モジュールの数をその3オクターブの幅に収まるまで減らし、机の上に置けるようにしました。そのあと、ミュージシャンたちが望んでいたようなサウンドが生み出せるパッチをあらかじめ組んで結線し、フロントパネルのノブを触るだけでそのサウンドが生み出せる、よりユーザーフレンドリーなシンセを製作したんです」と説明している。

 

HemsathはそのシンセをMin Aと名付けた(Minは “mini” の略)。しかし、当時、本人はこの機材をそこまで重視していなかった。社長のBob Moogに見せた時も、彼からは「面白いがそれだけだ」と言われただけだった。Glinskyが続ける。「Bob Moogやエンジニア、他の社員を含めたMoog社の中で “これは次のビッグヒットになるぞ” と思った人はひとりもいませんでした。最初は、Hemsathが面白いと思って適当に組み上げたホビープロジェクトに過ぎなかったのです」

 

 

© Kasia Zacharko

 

 

それから数ヶ月間で、HemsathはJim ScottやChad Huntを含むエンジニアたちと一緒にこの新しい機材の別バージョンを数台組み上げた。Min Bと名付けられたそれらのバージョンは、Moog製の他の機材と同じ美しいクルミ材のケースに収まっており、チープなプラスティック製機材とは異なる本格派の機材としてのルックスに仕上がっていた。また、Min Bには持ち運ぶための小型のスーツケースさえ用意された。このアイディアは、Minimoogの大きなセールスポイントのひとつとなった携行性に繋がる第一歩となった。そして、1970年2月頃、Bob MoogがHemsathと組んでもうひとつのバージョンMin Cを製作すると、Bob Moogは社員たちにもう少し踏み込んだプロトタイプを製作する許可を与えた。

 

時を同じくして、Bob Moogはロードトリップに出発した。

 

Bob Moogの開発したシンセはカルチャー全体に大きなインパクトを与えており、1968年にWendy Carlosがリリースしたシンセアルバム『Switched-On Bach』も大ヒットしていたが、Moog社は傾いていた。『Switched On Santa』や『The Plastic Cow Goes Moooooog』(“プラスティックの牛がムーと鳴く”:Moogの正しい発音を知らない人物が名付けたタイトル。牛の鳴き声 “moo” の発音は “ムー” だが、Moogは “モーグ” と発音する)など、似たようなシンセサイザーアルバムが多数リリースされていたが、誰もWendy Carlosと同レベルの成功を収めることはできなかった。これを受けて、レコード会社はこの非常に高価な機材の注文をキャンセルするようになったが、Moogは『Switched-On Bach』のヒット後に大量に受けていたオーダーのためにすでに必要なパーツの発注を済ませていた。

 

Moog社は高価なパーツを抱えているにも関わらず、それらを使うあてが一切ないという状況に追い込まれていた。彼らはなんとかしてスピーディに収入を得る必要があった。そこで、Bob Moogはトゥルーマンズバーグの本社に新しいポータブルシンセとエンジニアたちを残し、投資家探しの旅に出たのだった。

 

 

 

"Bob Moogは「Minimoogを製品化するなら、パフォーマンス用小型シンセのキャデラックと呼ばれるような存在にするんだ」と言ったのです"

David Borden

 

 

 

Glinskyは「エンジニアたちは “この状況はまずいぞ。何か製品を開発しなければ、全員クビになるのは避けられない。かといって、社長は旅に出ていて何も開発は進んでいない” と考えていました。それで、 “それなら、この小さなオモチャを製品にしようじゃないか” と思いついたのです」と語っている。こうして、エンジニアたちは、Bob Moogの許可なくMinimoogを製品化することでMoog社を再建するというアイディアに取り組み始めた。Glinskyが続ける。「Bob Moogが旅から帰ってくる頃、つまり2週間後には、エンジニアたちはModel Dと名付けた機材を6台ほど組み上げていました。彼らはこのバージョンなら実用化できると確信していました」

 

しかし、Bob Moogはこの判断を良く思わなかった。彼はエンジニアたちをオフィスに集めると、勝手に製品化の判断を下した彼らを非難した。叱られたエンジニアたちはすごすごとオフィスから出て行ったが、まもなくしてBob Moogは彼らのアイディアに理解を示した。「Model Dなら会社を救えるかもしれない」と思ったBob MoogはModel Dの製品化にOKを出した。

 

しかし、そこにはひとつの条件があった。モジュラーシンセでライブ演奏をした最初のミュージシャンのひとりとして知られるDavid Bordenは「Bobは “よし、これを製品化するなら、パフォーマンス用小型シンセのキャデラックと呼ばれるような存在にするんだ” と言ったんですよ」と振り返っている。こうして目標が決まり、Minimoogの製品化がスタートした。

 

Glinskyは「Minimoogは全てがひとつの筐体に収まっている世界初のポータブルシンセです。現在売られているあらゆるポータブルシンセのプロトタイプ、先祖なのです」としているが、ポータブルシンセという新規性を除いたMinimoog最大の特長のひとつは、そのユニークなサウンドだった。そして、この機材の開発経緯と同じく、この機材を世界的に有名にしたサウンドも “偶然” が多少絡んでいた。

 

 

© Kasia Zacharko

 

 

Pinchは「Minimoogは電源部が不安定だったんです。エンジニアが望んでいたような安定したものではありませんでした」と語っている。この問題が原因で、Minimoogのオシレーター3基は位相がバラバラだった。しかし、「そのおかげで非常に温かくて豊かで美しいサウンドが生み出せました」とPinchが続ける。「電源部が安定していたら、オシレーターの位相も安定していたでしょう。Minimoogの美しい “サウンドキルト” は、デザイン上のミスから生まれたものだったのです」

 

また、Minimoogはピッチホイールを世に送り出したシンセでもあった。この小さなホイールは、ひとつのノートを隣のノートまでスライドさせることで、ギタリストやサキソフォニストのように音程をベンドさせる演奏を可能にしていた。Minimoogはモノフォニックシンセ、つまり1音ずつしか発音できないシンセだったため、ピッチホイールはこのシンセのアーティスティックな表現の幅を広げ、ミュージシャンたちに表現豊かなソロを演奏することを可能にした。この結果、Minimoogのあとに発売されたほぼ全てのポータブルシンセに同様のコントロール機能が用意されることになった。Bordenは次のように語っている。「Bobがピッチホイールの特許を申請していたら、大金持ちになっていたでしょうね」

 

それでも、ポータブルシンセを世に広めるのは簡単ではなかった。この目的を遂行するために、Moogはエキセントリックなエンジニア兼音楽学者のDavid Van Koeveringに協力を仰いだ。Van Koeveringは、シンセを大衆の目に触れさせ、楽器店に置いてもらうためにはなんでもやる人物だった。

 

彼は自分のキャデラックにMinimoogを積み込むと、ロックミュージシャンのギグに貸し出したり、楽器店のオーナーと話し込んだりしながら、全米を走り回ってこのシンセを売り込んだ。また、Van Koeveringは、Taco Bellの創設者Glen Bellと友人関係だったことも活用した。彼は、Bellが所有していたフロリダ州の島にあった円形の建物に拠点を置くと、その島でIsland of Electronicusと名付けたイベントを開催し、一般家庭に(ドラッグなしの)カウンターカルチャーを紹介しつつ、そこにMinimoogのサウンドを上手く結びつけていった。Van Koeveringのこのような努力によってMinimoogは楽器店に置かれるようになり、やがて若い世代のミュージシャンたちがその存在に注目するようになっていった。

 

 

© Kasia Zacharko

 

 

ミュージシャンたちがこのエキサイティングで新しい機材の可能性に気づき始めると、ロックバンドの内情に変化が訪れた。このシンセの登場によってキーボーディストが初めてリードギタリストとサウンドの主権を争えるようになったのだ。

 

UKのミュージシャンで『Analog Synthesizers』の著者として知られるMark Jenkinsは「Minimoogは非常にキレのあるメロディラインを生み出せたので、ギタリストと張り合えたんです。また、リスナーを押し潰すようなヘヴィなベースサウンドも生み出せたので、世界中のベーシストとも張り合うこともできました。正直に言えば、ファンキーさという面では大抵のベーシストのサウンドよりも上でしたね」と語っている。Minimoogの “ファンクネス” は、多くのバンドがベースの代わりにこの機材を選ぶ理由となった。その好例のひとつがParliament「Flashlight」だ。しかし、ライブに関して言えば、多くのバンドはベーシストを起用していたため、彼らがMinimoogも併用していたことは世間にはあまり伝わっていなかった。

 

Minimoogを使い勝手の良い新しいツールとして最初に認め始めたのはジャズミュージシャンたちで、その中で最も早くこの機材を使い始めたのが、アフロフューチャリストのフリージャズミュージシャンSun Raだった。

 

彼はMinimoog開発初期にトゥルーマンズバーグにある工場を訪れてMin Bを借りていたため、その頃の彼のライブは、Minimoogが初めてライブ演奏されたもののひとつとなった。Glinskyは次のように説明している。「Sun Raは明らかにMinimoogに何らかの手を加えていました。誤って落としたのかもしれませんし、手荒く扱っていたのかもしれませんし、実際にパネルを開けて中をいじったのかもしれませんが、いずれにせよ、Minimoogでは出せないようなサウンドを生み出していました。彼のMinimoogは不協和音的なノイズを出しており、オシレーターの発信は不安定でした。正しく機能している部分はひとつもありませんでした。ですが、それでも素晴らしいサウンドでした」

 

また、おそらくSun Raは世界で初めてMinimoogをレコーディングしたアーティストでもあった。1970年にリリースされたアルバム『My Brother The Wind』では、前述のように変容したMin Bのサウンドが聴ける。Herbie Hancock、Dick Hyman、Chick Coreaなどの他のジャズミュージシャンたちも、Minimoogの正規発売の直後に購入し、自分たちの使用機材のラインアップに加えた。Jenkinsは「Minimoogを使った彼らのソロはかなり衝撃的でしたね。当然ながら、彼らは非常に優秀なミュージシャンですが、Minimoogは彼らの演奏スピードと表現力についていけたのです」と説明している。

 

 

 

 

1970年、1971年頃になると、Minimoogを前面に押し出すアーティストが出始めた。そのひとりが、UKのプログレッシブロックバンドEmerson, Lake & PalmerのキーボーディストKeith Emersonで、彼はMinimoogでリードメロディを奏でていた。また、同じくUKのプログレッシブロックバンドYesのRick Wakemanは、この新しい機材をエクストリームな形で使用していた。Jenkinsが続ける。「WakemanはステージにMinimoogを5台用意し、それぞれに異なるサウンドを設定していました。ライブではMinimoogの間を移動しながら様々なパートを演奏していましたが、全てパーフェクトでした」

 

Minimoogがドラマティックで大仰なプログレッシブロックシーンを席巻し始めると、同時にエレクトロニックポップとエクスペリメンタルシーンの中では "シンセ" のルーツへ戻っていった。

 

Minimoogをそのような形で使用していたバンドの中でおそらく最も有名だったのがKraftwerkで、彼らはMinimoogを2枚のアルバム、『Autobahn』と『The Man-Machine』で使用している。また、Tangerine DreamやKlaus Schulzeを含む他のグループも彼らと同じ形でMinimoogを使用していた。Minimoogを使用していたアーティストとして有名なGary Numanも、サウンドを聴いた直後にこの機材に夢中になった。1970年代後半から1980年代前半にかけては、当時人気を獲得しつつあった新しいジャンルにも進出し、ディスコ(Giorgio MoroderやABBAなどのパイオニアたちが使用した)やハウス、ヒップホップでも使用されるようになった。

 

 

 

 

1970年代半ばまでに、このポータブルシンセは様々なジャンルのミュージシャンの中で便利なツールとしての立場を確立させていた。よって、他のメーカーが競合製品の開発を始めるようになったのは当然の流れだった。

 

Minimoog最大のライバルと言えたのはARP Odysseyで、実際、Minimoogを上回るほどの販売台数を記録した。Minimoogと異なり、ARP Odysseyはパッチングが可能だったが、サウンドのバリエーションに関してはMinimoogとほとんど変わらなかった。しかし、ARPがMoogからシェアを奪っても、シンセサイザーの代名詞はMoogであり続けた。ARP 2500は、スティーブン・スピルバーグ監督の1977年作品『未知との遭遇』の宇宙人との音声コミュニケーションが試されるシーンに登場したことでとみに有名だが、この映画の宣材写真に写っていたARP 2500には “Moog” と間違ったキャプションが記載されていた。自社を宣伝するビッグチャンスを失ってしまったARPは、その後、1981年に倒産した。

 

Minimoogが発売されてから数年後、日本のメーカーがシンセ市場に進出し、Minimoogの機能の大半をカバーできる低価格製品を投入し始めた。その中のひとつ、1983年に発売されたYamaha DX7は、アナログシンセに初めて大打撃を与えた機材だった。

 

Glinskyは「DX7は楽器店で一般人が購入できる初めてのデジタルシンセでした。DX7は、それまでシンセには採用されてこなかったテクノロジー、周波数変調(FM)を採用したシンセでした」と説明している。FM音源によるフレキシブルなサウンドメイクが可能だったこのデジタルシンセはシンセサイザーの勢力図を劇的に変えることになった。Glinskyが説明を続ける。「日本のメーカーがシンセ市場に進出すると、彼らは本格的な大量生産を始めました。米国のメーカーは彼らのそのやり方に太刀打ちできませんでした。ひとつ例を挙げましょう。DX7は3年で20万台が売れましたが、Minimoogは11年で1万2,000台でした」

 

 

 

“多くの人たちが、Minimoogには他の機材には真似できないサウンドクオリティが備わっていると感じています”

Mark Jenkins

 

 

 

Minimoogが大成功と呼べるようなヒット製品になったあとも、Moog社の経営危機は解消されなかった。Glinskyは「Moog社の社員は、1969年のピーク時には42人いましたが、1970年には6人まで減っていました」と説明している。その後、1971年になるとMinimoogの注文が殺到するのだが、Moog社はすでに資金切れで、その注文に対応するために必要なパーツを購入することができなかった。また、彼らには融資を受けられる信用度もなかった。

 

こうして − やや皮肉な話だが − Bob Moogは成功を手に入れる直前でMoog社を売却しなければならなくなり、Moog社はBill Waytenaという名前のベンチャーキャピタリストに買収された。しかし、WaytenaはMoog社の再建に苦労することになった。Glinskyは「売却されたMoog社はニューヨーク州ウィリアムズビルにあった元ゼラチン工場に拠点を移しましたが、ここは敷地内に動物の皮のにおいがこびりついていたので買い手がつかず、放置されていた場所でした。夏もエアコンがなかったので、社員にとって良い労働環境とは言えませんでした。彼らは相当苦しんでいました」と続ける。そして数年後、Moog社は再び売却されることになるのだが、この時に手を挙げたのは、Gibsonのギター製造工場など、多数の関連企業を持つ複合企業Norlinだった。

 

1977年、Bob Moogは自分が立ち上げたMoog社を去った。その後、Moog社は1986年に破産申請を行い、1993年にその歴史に幕を下ろした。しかし、Bob Moogがこの世を去る3年前の2002年、彼は商標を買い戻し、経営を再開させることに成功した。現在、Moog社(Moog Music Inc)は、ノースキャロライナ州アッシュビル郊外に本社が置かれている。Bob Moogが商標を買い戻して暗黒の時代に終止符を打ったMoog社は、2002年にMinimoogの改良版Moog Voyagerを発表してルーツに立ち返り、ミュージシャンたちの間で成功を収めた。2013年に生産終了となったMoog Voyagerの販売台数は、オリジナルのMinimoogを上回る14,000台を記録した。

 

しかし、オリジナルのMinimoogが世界に与えた衝撃は今も残り続けている。Jenkinsは「多くの人たちが、Minimoogには他の機材には真似できないサウンドクオリティが備わっていると感じています。Moog製のアナログシンセには、あの金額を払わせる説得力が備わっているんです」と語る。現在はコンピューターの安価なソフトシンセを使えばほとんど全てのサウンドが生み出せるようになっているが、アナログシンセには最近の機材にはない神秘的な雰囲気が今も感じられる。Bordenは最後にこう語っている。

 

「デジタルシンセのサウンドクオリティは日々向上していますが、そこには依然としてアナログシンセの温かみには敵わないと感じさせる何かがあります。Bob Moogもデジタルの限界について常にこう言っていました。“近いが不正解だ” と」

 

 

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