十月 05

Instrumental Instruments:Fairlight CMI

オケヒやヴォイスパッドなどサンプルベースのユニークなサウンドで知られる、1980年代を風靡したコンピューターシステムの歴史を振り返る

By Matt Anniss

 

1975年、機材ファンだったオーストラリア人の2人が、たった400ドルを元手に「世界最高のシンセサイザー」の開発に取り組むことを決めた。そしてそれから10年以内に、そのKim RyrieとPeter Vogelが立ち上げた会社Fairlight Instrumentsは、100人以上の社員を抱えながら、トップスタジオ、トッププロデューサー、そしてグローバルな人気を誇るミュージシャンたちからのオーダーに応えるまでに成長した。

 

彼らのフラッグシップモデル、Fairlight CMIは現在の価格に置き換えれば10万ポンド(1,400万円)という超高額で販売されていた。また、製造期間中に売れたのは、わずか200~500台程度だった。しかし、当時最先端だったこの “Computer Musical Instrument(CMI / コンピューター楽器)” は1980年代のサウンドを定義づける助けとなり、U2、Yes、Kurtis Mantronik、Klaus Schulze、坂本龍一など、多種多様なアーティストたちの様々なレコードにフィーチャーされた。

 

 

当時を象徴する楽曲群を聴いてみれば、その影響力の大きさが理解できるはずだ。このシンセサイザーが、Yello「Oh Yeah」にパワフルなドラムサウンドやピッチダウンしたヴォーカルを、Peter Gabriel「San Jacinto」に複雑なアフリカンリズムを、そしてFrankie Goes To Hollywood「Relax」に強烈なグルーヴを提供したのだ。そして、この機材のプリセットサウンドライブラリに収録されていたオーケストラルヒット(ORCH5 / 日本では通称 “オケヒ / オーケストラヒット”)とヴォイスパッド(ARR1)は、無数のレコードに使用された。

 

2011年にGhostly InternationalからFairlight CMIのトリビュートシングル「Fairlight」をリリースしたCom Truiseは次のようにコメントしている。「黄金時代のFairlight CMIは、必ずしも僕が気に入っている部分が人気だったわけではないと思う。僕はあのトーンとロービットなサウンドクオリティが好きなんだ。とても個性的だと思う。Fairlight CMIに似たサウンドはほとんど存在しない。テクスチャやトーンを似せることは他の機材でも可能だと思うけれど、僕はあの独特のヴォイス系サンプルサウンドが大好きだ」

 

 

Fairlight CMIが革新的な発明だったことに疑いの余地はない。このシンセサイザーはそれまでの機材では不可能だったことを可能にした。Fairlight CMIの歴史は、Kim RyrieとPeter Vogelが、コンピューターマイクロチップメーカーのMotorolaの営業マン、Tony Furseと出会った時から始まった。

 

「素晴らしいことに、出会った時のTonyは、すでに独自のデジタルシンセサイザーのデザインを始めていた」とRyrieは振り返る。「政府から助成金をもらい、Canberra School of Music(キャンベラ音楽大学)からの要請で1台目の製作に取りかかっていた。彼はパラレルプロセッシングを用いたシステムをデザインしていた。これは当時としては非常に優れたシステムで、私たちの開発プロセスを一気に加速させることになった」

 

FurseのシステムはQuaser M8と呼ばれていたが、本人には開発を完了させる時間的余裕がなかったため、RyrieとVogelに開発を引き継ぐように頼んだ。「1年間続けてみたが、最終的に彼のシステムは複雑すぎるという結論に至った」とRyrieは振り返り、次のように続ける。「基盤が40枚もあり、その大半が異なっていた。また、消費電力が2kwもあったので、置いてある部屋がかなりの熱を持った。要するに実用性がゼロだった。それで私たち2人は『いちから考え直す必要があるぞ』と思った」

 

1978年を迎える頃、2人はFurseのシステムに自分たちの革新的な発明を組み合わせた、実用性の高いプロトタイプの開発に成功した。そのプロトタイプは、カスタムメイドのOS、QWERTY配列のキーボード、ピアノ型キーボード、ライトペンで入力できるモニターを備えた巨大なコンピューターユニットだった。ライトペンはディスプレイ上にグリーンの波形で表示されるフルデジタルサウンドの倍音のエディットや、Canberra School of Musicがリクエストしていた基本的な作曲ソフトなど、その他の様々な機能に使用することができた。

 

 

そのプロトタイプは先見性のある革新的な機材だったが、まだ解決すべき問題が多かった。まず、サウンドが優れているとは言えなかった。Ryrieが振り返る。「興味深いエレクトロニックサウンドは出せたが、思い通りのナチュラルサウンドは一切出せなかった。しかし、当時は16KBのメモリが世の中に出始めた頃だった。つまり、サウンドソースによって長さは異なるが、0.5~1秒ほどのレコーディングと保存が可能だった」

 

すぐに、RyrieとVogelは生楽器から “ショート” サンプルをレコーディングして、プリセットとして収録することを思いついた。これらのプリセットサウンドは、サウンドソースになんとなく似ている程度のクオリティのものも多かったが、大きな一歩となった。

 

「当時、自分たちでそのサウンドを偽物のように感じたことはもちろんある。サウンドがかなりラフだったからだ。しかし、その一方で、サンプルレート変換などを行っていなかったことから、ソリッドなサウンドだった。そして、世間はそのサンプルサウンドと、私たちが開発した疑似16ビットシステムを気に入ってくれた」

 

Fairlight CMI Series Iの製造が本格的にスタートした1979年になる頃には、RyrieとVogelはサンプルのレコーディング / エディット / シェイプの機能を追加していた。これらの機能は現代の基準から考えればかなり原始的で、サンプル時間はサンプリングレート40kHzで0.5秒弱、サンプリングレートを下げても最大で1.5秒しかなかったが、それでもかなり革新的だった。

 

Fairlight CMIの熱心なコレクターで、たまに修理を担当することもあるロサンゼルス在住のTim Curtisは「Fairlight CMIのピッチのスケーリングは非常にユニークだった。たとえば、ピアノを1音サンプリングする時は、その音を鍵盤のどこで鳴らしたいかを考えて、サンプリングレートを決定する。それから、チューニングをして、全てのサウンドが音階に沿って正しくループするように設定する。波形表示はそのためのものだった。ただルックスをクールにするためのものではなかった。確かにクールなルックスだけどね」と説明している。

 

 

今はその扱いにくさで知られるFairlight CMIの波形表示は、確かに非常に近未来的なルックスをしていた。音楽で使用するサウンドがこのようなスタイルでグラフィック表示されたことはそれまで一度もなかった。最先端だったのだ。そして当然ながら、この特徴は、Fairlight Instrumentsが世界中のメディアから取り上げられる後押しになった。また、Vogel、Ryrie、そしてロサンゼルスを拠点にしていた彼らの友人、オーストラリア人のオーディオエンジニア、Bruce Jacksonの3人による数々のデモンストレーションに集まった、やがて彼らの顧客になる人たちを驚かせることにもなった。

 

「Jacksonは『とにかくロサンゼルスに持ってこいよ。こっちで売り込もう』と言ってきた」とRyrieは振り返る。「私たち3人が初めて出会ったひとりが、ロサンゼルスのスタジオ、Village RecordersのオーナーGeordie Hormelだった。このスタジオでは丁度Fleetwood Macが『Tusk』をレコーディングしていたんだが、彼は小切手帳を持ってきて、その場で1台注文してくれた。そのあとすぐ、今度はStevie Wonderの1台購入してくれた。私たちはラッキーだった。マーケティングをすることなく、購入できる人たちとすぐに知り合うことができた」

 

また、Geordie Hormelは、Robert Moogをマーケティングに関わらせるという素晴らしい功績も残した。Moogが1960年代と1970年代に生み出したシンセサイザー群のサウンドを聴いて、シンセサイザーの世界に興味を持ち始めたKim Ryrieにとって、憧れの人物が支えてくれたのは特別なことだった。

 

「Bob(Robert Moog)はメディアの前でFairlight CMIを紹介することを約束してくれた。気に入ってくれていたんだ。150人ほどのジャーナリストの前で、プレゼンテーションをしてくれた。マーケティングとしては大きな助けになった。私たちは本当にラッキーだった。私たちにはマーケティングやビジネスに関するアイディアがほとんどなかったからだ」

 

Fairlight CMIの注文が殺到するようになるまで、そこまで時間はかからなかった。当然、Peter Gabrielのようなトップアーティストからの熱心なサポートも大きな助けになった。Gabrielに至っては、英国内にFairlight CMIの代理店を共同設立するほどの入れ込みようだった。デュアルフロッピーディスクドライブ、プリセットサウンドを収録した32枚のフロッピーディスク、そして、ベーシックなMIDI機能が追加されたSeries IIxが登場した1983年頃には、すでにコンピューターはポップミュージックに大きなインパクトを与えるようになっていた。

 

 

多くのアーティストやプロデューサーがFairlight CMIによって現実となった最先端のテクニックを積極的に取り入れていたが、Trevor Hornほどこの機材を使い切っていた人物は他にはほとんどいなかった。BugglesとYesで一緒だったGeoff Downesの紹介でこの機材の存在を知ったHornは、ポップミュージックのプロデュースに多用した。

 

「Fairlight CMIを手に入れたTrevorがやってきて『こいつを家に持ち帰ってサンプルを突っ込んでくれ。そのあとでセッションだ』と言ってきました」と振り返るのは、のちに1980年代で最も大きな成功を収めたFairlightプログラマーのひとりとなったJ.J. Jeczalikだ。「Trevorのプログラマーとしては2~3年働きました。当時の私の家にはFairlight CMIとReVox A77の1/4インチテープマシンが置かれていました」

 

HornとJeczalikは賢かった。2人はFairlight CMIのサンプリングテクノロジーが、コンピューターのアシストによって生み出される奇妙で新しいサウンドはもちろん、あらゆるアーティスティックな可能性を解放したことを理解していた。そして重要なことに、彼らはこの機材の限界も理解していた。

 

「Fairlight CMIを使って、Paul McCartneyとセッションをした時のことです」とJeczalikは振り返る。「Paulがトロンボーン奏者の演奏を録音したテープを持っていたので、私がそれをFairlight CMIに取り込んだのですが、Paulはそのサンプルサウンドでコードを弾いたあと、『ホーンセクションのサウンドには聴こえないな』と言いました。そのサウンドは掃除機に似ていました。大量のサンプルが同時にループされていたので、とにかく酷いサウンドだったんです。この時に、Trevorと私は、Fairlightに本物の楽器のサウンドを求めるのは時間の無駄だということに気が付きました。Fairlightは、ある人にとっては優れた機材でしたが、別の人にとっては役立たずな機材でした」

 

 

 

 

やがてすぐに、JeczalikはSeries IIとIIxのポテンシャルを最大限引き出すためのベストソリューションは、そのサンプリング性能と革新的なシーケンサーPage Rを併用することだという結論を導き出した。

 

ドラムマシン的リズムシーケンサーとして使うことが想定されていたPage Rは、個々のサウンドや小節を繋ぎ合わせ、バッキングトラックや楽曲そのものを作り出すことができた。Page RはFairlight初のシーケンサーではなく、Series IにもぎこちないMusic Composition Languageと呼ばれるものが備わっていた。しかし、Page Rの方が遙かに大きなインパクトを与えた。これは世界初の正式なソフトウェアシーケンサーと言えるもので、エレクトロニック・ミュージックの制作における礎となった。

 

「Page RはFairlight CMIを別物に変えました」とJeczalikは説明する。「モノラル8トラックが用意されていて、小節単位のコピー&ペーストも可能でした。もちろん、ドラッグ&ドロップは不可能でしたが、コマンド入力に対応していました。コマンドを入力するだけで、素早くコピー&ペーストができたのです。現在のようなドラッグ&ドロップは不可能でしたが、拍の位置がリアルタイムで確認できましたし、複数の小節をまとめてコピーすることもできました。飛躍的な進歩でした。1小節だけプログラミングすれば、瞬時に16小節まで増やすことができたのです」

 

 

Page RのプログラミングとFairlightの革新的なサンプリング性能が、Jeczalikのキャリアで最も有名なプロジェクト、Art of Noiseのベースになった。彼と同じくHornのプロダクションチームに所属していたGary Langan(のちに作曲家のAnne Dudleyも参加)との “放課後” セッションが元になって生まれたArt of Noiseは、一風変わったアートポップレコードとエキセントリックなオーディオコラージュを得意としていたが、その全てはJeczalikの手元にあった大量の自作サンプルライブラリを中心にして作り出されたものだった。

 

Hornは、Fairlight CMIを自分のプロダクションに奇妙なイントロや不思議なテクスチャを加えられる(Jeczalikは “予想外のディテールを加えられた” と表現している)魔法の箱として考えていたが、Art of NoiseはFairlight CMIを前面に押し出した。

 

「Fairlightは私たちの活動の中心に位置していました」とJeczalikは説明している。「活動初期は、必ずFairlightからトラック制作をスタートさせていましたね。サンプルやアイディア、奇想天外なサウンドなどは、全てFairlightから生み出されていました」

 

 

 

“Fairlightをちゃんと理解していたのはプログラマーだけだった。複雑すぎたからだ”

Pete Gleadall(Pet Shop Boysプログラマー)

 

 

 

Horn、Jeczalik、LanganなどはFairlight CMIをアーティスティックに使おうと努力していたが、それでもこの機材に対する世間の評価は割れていた。エレクトロニック・ミュージシャン、プロデューサー、プログラマー、そしてこの機材を買える余裕がある人たちの全員が気に入っていたわけではなかったのだ。

 

Pet Shop Boysのプログラマーで、フリーランスのプロデューサーでもあるPete Gleadallは「Fairlightをちゃんと理解していたのはプログラマーだけだった。複雑すぎたからだ。このシンセサイザーよりも後期の機材は、Neil(Tennant)とChris(Lowe)はすぐに理解できていた。僕が説明する必要はなかった。でも、Fairlightは説明しなければならなかった」と振り返っている。

 

インダストリアルファンクの雄、Cabaret Voltaireは、1984年にリリースされたアルバム『Micro-Phonies』の制作中にFairlight CMIに初めて触れるチャンスを得た。このアルバムがHornのスタジオ、Sarm Westでミックスされたからだ。しかし、元メンバーのStephen Mallinderは「興味はあった。『家が買えるほど高価な機材なんだから、良いに決まってる!』と思っていたわけさ。だが、デモ演奏を聴かせてもらったあとは『別に使わなくても良いな』と思った」と振り返っている。

 

また、Musician’s Union(音楽家ユニオン)がFairlightに対して積極的ではなかったこともよく知られている。彼らはこの “オーケストラボックス” - あるジャーナリストがこう表現した - は、加盟メンバーの仕事を奪うと信じていたのだ。

 

 

Kim Ryrieは「Fairlightのユーザーが『スタジオミュージシャンはテンポをキープできないが、Fairlightなら可能だ』などと発言していたことが不利に働いたのは確かだ。最初は問題ではなかったが、やがて世間がこのシンセサイザーの限界に気付き始めた。また、自分たちの機材で他人の作品をサンプリングして自分の作品に使い始める人が出てくることも全く予想していなかった。信じられなかった」と振り返っている。

 

RyrieとVogelはパンドラの箱を開けていたのだ。1980年代後半までに、サンプリングテクノロジーはさらにパワフルになると同時に手に入れやすくなっていた。プロデューサーとミュージシャンは、AKAIのサンプラー、デジタルシンセサイザー、そしてソフトウェアシーケンサーをインストールしたMIDI対応のコンピューターAtari STを安く買うことができるようになっていた。

 

この結果、デモ制作のためだけにFairlight Series IIIを購入したPet Shop Boysのような熱心なサポーターたちでさえもFairlightから離れていった。「1993年、アルバム『Very』の制作中にChrisがFairlightで用意したデモをAtari STへ移したんだ」とPete Gleadallが振り返る。「当時は、巨大で高価な機材から小さなAtariへデータを移行する作業を面白おかしく思っていた。結局、FairlightのドラムサウンドをAKAIのサンプラーに取り込んで、それをAtari STで走らせることにしたんだ」

 

 

 

“私のような正式な音楽やプログラミングの経験を持たない人でも音楽を制作できるようになりました”

J.J. Jeczalik

 

 

 

RyrieとVogelが世界最高のシンセサイザーを生み出そうと決意してから20年が経たないうちに、彼らが生み出した革新的なコンピューターシステムは廃れた。今はオリジナルのOSとサウンドライブラリをベースにしたiPadアプリとして見かける程度だ。しかし、ミュージックテクノロジーのゲームチェンジャーとしてその名は永遠に残るだろう。

 

「Fairlightはサンプリングとシーケンスは、自分たちでもできるということ、ミュージシャンでなくても使えるということを世に示した機材でした」とJeczalikは説明する。「サウンドに関するほとんど全てを誰もが自由に扱えるようになる時代の始まりだったと思います。私のような正式な音楽やプログラミングの経験を持たない人でも音楽を制作できるようになりました。Fairlightが登場する以前は不可能でした」

 

Fairlight CMIは音楽制作を民主化したわけではなかった - それにはあまりにも希少で高価で複雑だった - が、のちに民主化を促すことになるテクノロジーを生み出した。

 

Stephen Mallinderは次のようにコメントしている。「Fairlightは前兆だった。このあと突然、テクノロジーがあらゆる行動のベースになり始めたんだ。スクーターに乗っていたのに、いきなり飛行機に乗ったような感じだった。音楽のテクノロジー化の始まりに思えたよ」