一月 05

Instrumental Instruments: Buchla

音楽制作の歴史に大きなインパクトを与えた機材を紹介するシリーズの第2弾は、モジュラーシンセサイザーの至宝を取り上げる

By Aaron Gonsher

 

エレクトロニック・ミュージックに革命をもたらすことになる機材を開発する前、Don Buchlaはチンパンジーを火星に送ろうと四苦八苦していた。NASAで働いていた頃の彼は、この “霊長類星間移送” だけではなく、耐宇宙線コンピューターの開発に取り組んでいたこともあった。しかし、この頃の彼の心に充足をもたらしていたのは、仕事の内容ではなく、給料だけだった。サンフランシスコに拠点を置いていたDon Buchlaが天啓を授かったのは、LSDを取り入れた新しい哲学の模索をしていた時、つまり、Grateful DeadとKen KeseyのMerry Prankstersの幻覚ツアーに帯同し、彼らのサウンドデザイナーを担当していた時だった。Buchla本人と彼の名前を冠した多大な影響力を持つ楽器は、Tom Wolfeの著作『クール・クール LSD交感テスト』に登場さえ果たしている:「突如として数百のスピーカーが空間を音楽で満たしていく… ソプラノのトルネードのようなサウンドだ… すべてがエレクトロニックで、Buchlaの電子音楽機材も論理的狂気のようなサウンドを生み出していた」

 

Buchlaの論理的狂気は機材のエンジニアリングだけではなく、自身の作曲にも表出していた。そして、その数々の実験的なテープレコーディングによってある程度その名が広く知られるようになり、そのテープレコーディング作品群が、BuchlaをSan Francisco Tape Centerへ導くことになった。Ramon SenderとMorton Subotnickによって設立され、クリエイターのコミュニティとして機能していたSan Francisco Tape Centerは当時の電子実験音楽の中心だった。1960年代初頭だったこの頃、SubotnickとSenderは、時代遅れのデザインとパフォーマンスを超越できる新しい機材をこの施設で生み出したいと考えていた。2人にはそれを実現するだけの技術的知識はなかったが、ロックフェラー財団から十分な補助金を受け取っていたため、その未だ見ぬ新機材のためにある程度予算を確保していた彼らは、自分たちの夢を現実に変えてくれる技術力を備えた人材を募集する広告を新聞に出稿した。

 

Buchlaはこの経緯を一切知らなかった。彼は単純にSan Francisco Tape Centerが主催していたコンサートを楽しんでいただけで、特にこの施設内に置かれていたレコーダーを使用した演奏にのめり込んでいた。しかし、ある日、Buchlaがその演奏セッションに顔を出した時に、Subotnickは自分たちが出稿した広告を見てやってきたのだと考え、新機材のアイディアについて熱を込めてプレゼンをした。そして、BuchlaはSubotnickの話に乗り、その委託を受けることにした。こうして1964年、Don Buchlaがその後半世紀に渡ってデザインを続けていくことになるシリーズの初号機、包括的で風変わりで魅力的で美しい、オルタナティブなアナログシンセサイザー、Buchla 100 Series Modular Electronic Music Systemが生まれ、エレクトロニック・ミュージックを永遠に変えることになった。

 

伝統的な演奏方法を否定する100 Seriesは、楽器デザインの新時代の幕開けを告げる機材となった。100 Seriesにはパッと見ただけで分かるようなシーケンサーや鍵盤は存在せず、大量の色鮮やかなノブと感圧金属プレートが用意されているだけだった。Morton Subotnickは2016年に行われたRBMAのインタビューで次のように振り返っている。「Donとは初日から議論を重ねていた。Donは楽器を作りたがっていたが、私は『目指しているのは楽器ではない。最大限近づけて表現するならば、“楽器を作るための機材” 、“絵を描くための機材” というところだ』と伝えた。Donは我々が望んでいた機材の本質を理解していなかった」

 

「このような考えを持っていた私は、鍵盤は不要だと考えていた。昔ながらの音楽制作を繰り返すようなことはしたくなかった。音程を軸にした音楽制作ではなく、奏者のアクションを軸にして音楽制作ができる機材を作りたかったんだ」

 

Buchla 100 Seriesは、すでに1963年の段階でプロトタイプが用意されていたが、その後1年間をかけてSubotnickとBuchlaが共同開発し、1964年に最終デザインが決定した。持ち運びがほぼ不可能な重厚な木製キャビネットに収められていた100 Seriesは複数のユニットで構成されているモジュラーシステムで、フィルターやノコギリ波のオシレーター、リングモジュレーターなど、ここには書き切れないほど多くのユニットを結びつけるパッチケーブルがほぐせないほど複雑に絡み合っていた。搭載されているユニットはすべてパッチケーブルで接続可能で、その無限の組み合わせによって、この世のものとは思えないサウンドを生み出すことができた。シーケンサーは3基含まれており、そのうち2基は8ステップ、残り1基が16ステップだった。また、ピッチコントロール的な役割を果たすAFG(Arbitary Function Generator)も用意されていた。よって、リアルタイムの処理能力は当時の電子機器とは比べものにならないほど高かったが、デザインした本人でさえも苦労するほど、扱いが難しい機材だった。

 

 

Subotnickは「私は『Silver Apples』と『The Wild Bull』をBuchla 100 Seriesで制作した。今でも、どうやって制作したのか把握できていない」と振り返る。1968年にリリースされたそのアルバム『Silver Apples of the Moon』は、蜘蛛の巣のような複雑なサウンドが非常にユニークな作品で、Buchla 100 Seriesのサウンドを確かめることができる初めての録音物となった。

 

Buchla 100 Seriesは必ずしも演奏・作曲用に制作された機材ではなく、どちらかと言うと、従来のシステムから解放された実験用ツールという扱いで制作された機材だったが、それでも、Buchlaの演奏面の可能性を追求しようとするアーティストたちが数多く存在した。そのひとりが、Buchlaとの出会いによって自分の人生の方向が決まることになった伝説のサウンドアーティスト、“ディーバ・オブ・ザ・ダイオード” こと、Suzanne Cianiだった。1968年、バークレーに住んでいた彼女は、Subotnickが教授を務めていたミルズカレッジに置かれていたBuchla 100 Seriesを使って、執拗に実験を繰り返していた。「毎日、毎晩いじっていたわ」と振り返るCianiは、それによってBuchla本人の気を引くのは難しい(これはBuchla信奉者の間で共通していた問題)ことに気が付いたが、それでも最終的にBuchlaの立ち上げた企業に勤めることになった。

 

Cianiが振り返る。「わたしが思い描いていた女性作曲家としての未来像は、Donとわたしが、壁一面にシンセサイザーが配置されている部屋に入った瞬間に具体的なものに変わったの。あの瞬間に、これがわたしの生きる道だって気が付いたのよ。これなら独り立ちできる、自分ひとりでできるって思ったの。他人は必要ないし、業界の政治に阿る必要もないし、特定の誰かを喜ばせる必要もないって思ったの。わたしに必要だったのは、Buchlaを買えるお金を貯めることだけだった」

 

Cianiは、Buchla 100 Seriesを手に入れて以来、自分とこの機材との関係は常に密接だったとし、「Buchla 100 Seriesを手に入れた瞬間、この機材に夢中になったわ。当時のわたしは、他には何の機材も持っていなかった。その状態が10年間も続いたのよ。100 Seriesはいつもわたしと一緒にいたわ。四六時中一緒だった。電源も一度も落とさなかった。わたしと一緒に住んでいる生き物のような存在だったわ」と振り返っているが、この関係性は素晴らしい結果を生むことになり、Cianiが100 Seriesを使用して生み出したサウンドは、コカコーラのCM、ユニークなソロアルバム『Seven Waves』、General Electricを含む大企業のサウンドデザイン、Mecoによる映画『スター・ウォーズ』のディスコアルバムなどで聴くことができる。尚、『スター・ウォーズ』のディスコアルバムへの参加は、米国の人気トーク番組『The David Letterman Show』への出演に繋がった(ホストのLettermanは彼女のサウンドに困惑しつつも楽しんでいた)。

 

 

Don Buchlaのデザイナーとしての努力は100 Seriesでは終わらず、続いて、現在ミルズカレッジにオリジナルが保管されている、CBSの資金を元に開発された200 Seriesが1970年に誕生した。これもまた100 Seriesと同じモジュラーシステムだったが、各パラメータは外部CV入力によって操作することが可能だった。また、外部CVと同じくユーザーに受け入れられたより分かりやすい変更としては、ユーザビリティを高めるためのカラフルなパッチケーブルの採用もあった。そして、この200 Seriesの直後には、デジタルコントロールが可能な初のアナログシンセサイザーとなった500 Seriesが発表され、1972年にはBuchla Music Easelが発表された。Music Easelはライブ時に携行可能なポータブルモジュラーシステムだった。また、Music EaselはBuchlaシリーズとしては初となるパッチの保存機能も用意されており、パッチごとのスイッチとノブの位置をメモリーカード上に残すことができた。

 

こうして、Buchlaのエレクトロニック・ミュージック機材群は、特にアヴァンギャルド系コミュニティを中心に、ゆっくりと確実に特定の人気を獲得するようになっていった。しかし、いくつかのモデルは非常にレアで、1970年代を通じて難解なプログレッシブロックや低音重視のファンクの主力機材として人気を博したMoogの影に隠れてしまうことも多かった。しかし、Buchlaのカルト的人気は、1982年のBuchla 400 Series(ディスプレイを搭載)と1987年のBuchla 700 Series(MIDI対応)の発売と共にさらに高まっていった。

 

モジュラーシンセを重用するエクスペリメンタル・ミュージックのベテランアーティストで、サウンドデザイナーとしても広く知られているアトランタ在住のRichard DevineはBuchlaのシンセ群について次のように説明する。「Don Buchlaに対しては、以前から非常に革新的で先進的なシンセデザイナーだという印象を持っていた。彼のシンセは非常に未来的で、ちょっと過剰だとさえ思える時もあるよね。彼は言うまでもなく “アシッドトリッパー” だけど… 僕は彼のそういうところが大好きなんだ。正気の外側に立っているシンセデザイナーや楽器デザイナーが好きなんだよ。僕が言いたいことは分かるよね?」

 

 

「正気の外側に立つ」ことは、生み出されるシンセや機材の操作が難しくなる可能性があることを意味している。しかし、近年のBuchla信奉者の多くにとって、それはポジティブな特徴でしかない。たとえば、Alessandro CortiniとKaitlyn Aurelia Smithは、Buchlaの予測不可能性を創造力の源として扱っている。

 

Nine Inch Nailsのエレクトロニクスを担当した経験を持ち、優れた作曲家としても活動するCortiniは「今でもBuchlaを使ってパフォーマンスをしますが、このシンセはまばゆい光を放つロウソクのような存在なんです。色々なサウンドを手にすることができますが、一度壊れてしまえば、完全な形で修理しなければならないんです。Buchlaの多くがそうなんですよね。デジタル系は特にその傾向が強いです。彼が制作した台数は少なく、どれもが不安定ですよ」と説明する。この欠点は、Morton SubotnickがBuchlaに伝えた安定性に関する指示が遠因となっている。ある日、バイオリンを演奏する友人がどれだけ長く同じ音程を保っていられるかを計測したあと、SubotnickはBuchlaに次のように伝えた。「私は『80万ドルの高価なバイオリンが10分で音程がずれるのであれば、君が作るオシレーターも同じにする必要がある』と伝えました。音程が非常に不安定なオシレーターは不要でしたが、音程が安定しすぎているオシレーターも不要だったんです」

 

 

一方、Buchlaを隣人から借りたことでその非伝統的なスタイルを初めて知ったSmithは、このシンセのユニークな特徴に大きな影響を受けており、特にオシレーターは自分とサウンドとの関係性を変えてくれたとしている。2016年初頭のRBMAのインタビューで彼女は「Buchlaは音楽の聴き方を教えてくれたの。オシレーターが2基しかないでしょ。だから、オシレーター2基を立ち上げて、お互いにどういう影響を与えているのか耳を傾けていたの。長時間放置しておけば、2つのサウンドが時間経過と共にどういう相互作用を生み出すのかについて学ぶことができたのよ」とコメントしている。

 

Don Buchlaのシンセ群が生み出す論理的狂気は、エレクトロニック・ミュージックに多大な影響を与え続けている。BuchlaはAphex TwinからNine Inch Nailsに至る様々なアーティストのリリース群で聴くことができる。また、Cortini、Smith、Donnacha Costelloなどは、そのサウンドを音楽制作の中心に据えている。そして、Matmos、Keith Fullerton Whitmanのような強烈な実験音楽を生み出すエレクトロニック・アーティストによって重用されてきた一方で、Maynard James KeenanのPuscifer名義のリリース群やChristina Aguileraの作品(!)など、奇妙な場所にも顔を出している。

 

 

 

"私は非常にオープンなモジュラーシステムをデザインしようとしている。『これがBuchlaのサウンドだ』という表現はこの世に存在しない"

Don Buchla

 

 

 

2004年、Buchlaは現在では200eとして知られる200 Seriesのアップデート版を発表し、Morton SubotnickがかつてBuchlaの “ストラディバリウス” と称したこの名機を、音楽制作を楽しむ新世代に改めて紹介したが、このアップデート版を手に入れることが出来たのは、懐に相当の余裕のある一部の層に限られていた。この機材の販売は、骨髄腫の治療に専念していたDon Buchlaが自社のBuchla & AssociatesをAudio Supermarket Ptyに売却する2012年まで続いた。しかし、Audio Supermarket Ptyは売却当初はDon Buchlaを従業員として雇用したものの、その後しばらくして解雇した。そして、この時点ですでに悪化していた両社の関係は、BuchlaがAudio Supermarket Ptyを相手取って、不当解雇と売却時の未払い金の支払いを理由に訴訟を起こしたことで泥沼化してしまう。また、2015年にも、Buchlaは継続的な訴訟のストレスで2014年に発作を起こしたとAudio Supermarket Ptyを非難した。

 

2016年9月14日にDon Buchlaは複数のがんが原因でこの世を去った。79歳だった。しかし、Buchlaがこの世を去っても、彼が生み出したシンセ群とそのインパクトはこれからも生き続ける。彼の機材群は、“珍品” から “アイコン” へ、 “FURTHER号(Ken Keseyのサイケバス)の荷物” から “米国議会図書館の所蔵品” へと、誰もがうらやむ道を歩んでいった。そして、口うるさいものの内面は優しい人物として知られていたDon Buchla本人は、自分が生み出した機材群が実験音楽の枠を飛び出して、今や世界に浸透しているエレクトロニック・ミュージックというジャンルにおける最重要機材のひとつになるまでのそのすべての道のりを間近で見届けた。

 

Buchlaのシンセ群の特徴は、一貫してその無限の可能性にあった。Buchla本人も、この特徴こそが、自分の生んだシンセ群が様々なミュージシャンや音楽スタイルの中で長きに渡って愛されてきた理由のひとつだと断言している。Buchlaは2007年のインタビューの中で次のようなコメントを残している。「私は非常にオープンなモジュラーシステムをデザインしようとしているんだ。自分のモジュラーシステムが特定の作曲スタイルにのみ使用されることは期待していない。Buchlaのサウンドサンプルのようなものを用意してくれと頼まれると、私はいつもこう答えている。『そのようなものを提供しても、Buchlaのサウンドの幅広さは示すことができない』とね。『これがBuchlaのサウンドだ』という表現はこの世に存在しないんだ」