三月 31

NYの音楽シーンを代表するロゴデザイン22 (Part 3)

ニューヨークの音楽史に燦然と輝くロゴの数々を3回に分けて紹介する。今回はPart 3をお届けする。

By Sue Apfelbaum and Laura Forde

Public Enemy


世界がPublic Enemyを知ったのは、彼らが1987年にBeastie Boysの『Licencsed to Ill』ツアーのサポートアクトに抜擢された時で、このツアーを通じて地方のファンたちは乱雑で楽しいパーティーラップとは一線を画す社会派ラップの存在を知ることになった。Beastie Boysのライブが檻の中で身もだえする女性などを配置するなど、楽しさを追求したものだったのに対し、Public EnemyのChuck D、Flavor Flav、DJ Terminatorたちのライブは至ってシリアスで、ミリタリールックのサポート陣と、ライフルの照準にロックオンされている人のシルエットが描かれたバナーと共に展開された彼らのライブは社会への警鐘として受け止められた。

この不安感を煽るようなグラフィックとアーミー風のステンシル系フォントが組み合わさったPublic Enemyのロゴは、リーダーChuck Dによって生み出された。クィーンズ生まれのCarlton Douglas RidenhourことChuck Dはアデルフィ大学でグラフィックデザインを専攻。1984年に同大学を卒業したあとは、レコード会社のグラフィック部門で働くことを目指していた。Chuck Dはミュージシャンとして成功を収められるとは思っていなかったが、Rick Rubinが執拗に契約を迫ったため、最終的にDef Jamと契約。その後Public Enemyはロックの殿堂入りを果たすまでに成長した。

「ロゴの中央に描かれているシルエットの人物は長らく州警察官として考えられていたが、実際はLL Cool Jのプロデューサー兼パートナーのE-Loveだった」

2008年にバルセロナで開催されたRed Bull Music Academyにレクチャーとして招かれたChuck Dはロゴ制作の背景について、「俺は以前からロックンロールのアーティストたちをチェックしていた。奴らは自分たちのロゴを持っていた。だからラップグループもロゴを作ろうじゃないかと思ったんだ。俺はラップを他のジャンルと変わらない正式なジャンルに育てたかった」と振り返っている。そしてChuckは自分の手で切り貼りしてロゴのラフを制作した。尚、このロゴの中央に描かれているシルエットの人物は長らく州警察官として考えられていたが、実際はLL Cool Jのプロデューサー兼パートナーのE-Loveだった。Chuck Dはメールで、「雑誌からE-Loveの写真を切り抜いて黒く塗りつぶし、照準マークを上に乗せてコピー機でコピーした」と回答している。その後、Chuckの制作したラフはデビューアルバム『Yo! Bun Rush the Show』を担当したデザイナーEric Hazeによって整えられ、世に出ることになった。Def JamのアートディレクターCey Adamsはこのロゴについて、「アートワークを制作する時点で、Chuckの頭の中には明確なイメージがあった。『アメリカで狙われているのは黒人だ』というメッセージを彼は伝えようとしていた」と説明している。(Sue Apfelbaum)

Ramones


パンクロッカーの元祖Ramonesは、「少なさの美学」を打ち出していた。タイトなTシャツ、ライダース、穴開きジーンズ、スニーカーというシンプルなルックスと、スピーディーで簡潔な彼らのサウンドは非常にシンプルで効率的だった。このようなスタイルで、1974年にクィーンズ・フォレストヒル出身の4人の若者が兄弟(血縁関係はない)の契りを結んで結成したRamonesだったが、ビジュアルを担当した彼らの友人でアーティストのArturo Vegaは、逆に「多さの美学」で彼らのロゴを制作し、大きく分かりやすいフォントとアメリカ合衆国国璽(こくじ)を模すという大きなスケール感で彼らの存在感をより大きく見せようとした。

メキシコ出身のVegaはRamonesの22年の活動における大半のグラフィックを担当した。権力を示すシンボル、特にアメリカの象徴であるハクトウワシに興味を持っていたVegaは、Ramonesのビジュアルにもワシを多く用いており、Fringe Undergroundのインタビューで、「Ramonesは以前からアメリカを代表するバンドだと思っていた」とワシを起用した背景について説明している。また2012年のGoing Off Trackのインタビューで、Tシャツに描かれているワシはアイゼンハワー・ダラーの裏面からヒントを得たとしている他、Ramones黎明期のポスターには、Vegaのセルフポートレートの腰部とハクトウワシのバックルを拡大したものが使用されている。

「当時のパンクはヒッピー文化から離れようとしていたので、愛国精神を打ち出すという手法は最適だった」-John Holmstrom

『Punk』誌の共同創設者でRamonesのイラストを担当していたJohn Holmstromはこのイメージについて、「彼らの微妙なSM感とシンプルさはニューヨークのパンクロックシーンを定義づけた」と評価している。Veraはアメリカが建国200年を迎えた1976年にアメリカ合衆国国璽のハクトウワシと、その周囲にメンバーの名前(メンバー変更と共にこの部分も変更された)を入れ込んだロゴを制作した。尚、このロゴは1977年のセカンドアルバム『Leave Home』のジャケットの裏面で初めて用いられている。

「アメリカ合衆国のシンボルの使用はタイミングとして正しかった。当時のパンクはヒッピー文化から離れようとしていたので、愛国精神を打ち出すという手法は最適だった」とHolmstromはロゴの時代性について解説している。尚、バンド名のフォントには、シンプルでダイレクトなすべて大文字のサンセリフ系フォントを使用したいということから、Franklin Gothicが選ばれた。ちなみにこのフォントはこれから約10年後にRun-DMCのロゴにも使用された。Ramonesのオリジナルメンバーは大半がすでにこの世を去っているが、RamonesのTシャツは今も変わらず多くの人に愛されている。「Ramonesのロゴはバンドだけではなく、すべてのパンクロックを象徴するものになった」とHolmstromはその影響力の大きさについて言及している。(Sue Apfelbaum)

Run-DMC


Run-DMCはメインストリームでブレイクを果たした最初のラップグループのひとつだった。クィーンズ・ホリス出身の3人組による正確なライム、憶えやすいサビ、そしてクロスオーバーの先駆けとなったギターリフは、靴ひもを外したアディダス・スーパースター、フェドーラ、カンゴールのハット、そしてゴールドチェインというビジュアルと共に彼らを輝かせ、強烈なロゴマークが彼らのタフなイメージを保ち続けた。2本の太い線に挟まれたフォントFranklin Gothicで組まれた「RUN DMC」というロゴは、数多くのフォロワーを産んだ影ロゴのひとつとして認識されている。

しかし、誰が制作したのかという部分については謎が多い。デビューアルバム『Run-DMC』で手描きのロゴを描いた、グラフィティ出身のデザイナーCey Adamsがこのロゴを制作したという話は間違いだ。そしてこの件について、Adamsが「今でも誰が制作したかは正確には分かっていない。だが、セカンドアルバム『King of Rock』と1985年のシングル『You Talk Too Much』のデザインを担当した英国人デザイナーが制作した」と発言したことで、今回その謎が解き明かされることになった-現在ColumbiaのCEOで、当時Island RecordsのA&RだったAshley Newtonがデザイン部門に在籍していたStephanie Nashにこのロゴ制作を発注していたのだ。

「Franklin Gothicは流行に左右されないのに古臭さがない、タフで直接的なフォントでした。ソリッドで非常に優れており、ナンセンス感がありませんでした」-Stephanie Nash

現在ロンドンのデザイン会社Michael Nash Associatesの共同代表を務めるStephanie Nashは、このロゴが自分の作品として扱われることに驚きを感じながらも、当時について、「彼らの音楽を聴きながら、非常にビジュアル的な作品だと感じていました。当時の私にとってラップはインスピレーションを与えてくれる存在でした。深い意味を持つパワフルでアタックのある言葉は今まで聴いたことがありませんでした」と振り返っている。またフォントはシンプルな理由から選択されており、Nashは、「当時はフォントの数は限られていました。その中でFranklin Gothicは流行に左右されないのに古臭さがない、タフで直接的なフォントでした。ソリッドで非常に優れており、ナンセンス感がありませんでした。レイアウトについては、Run-DMCという2節から成り立っていたので、3文字を2列に組もうと思いました」と説明している。尚、このロゴが長年に渡って人々の記憶に残っている理由は、Franklin GothicのフォントデザイナーMF Bentonと、Run-DMCの存在感の功績だとした。「このロゴが一介のポップバンドのものだったならば、今のような評価は得ていなかったでしょう」(Sue Apfelbaum)

Studio 54


「discothèque(ディスコテーク:ディスコの語源)」が生まれたのは30年前のフランスだが、1977年に4月26日にその言葉を伝説に変えたのはブルックリンだった。Studio 54はIan Schragerと今は亡きSteve Rubellが、West 54th Streetにあった古いオペラハウス(1924年建造)を改装して生み出されたディスコで、イギリスの著名な作家Anthony Haden-Guestは、「日常生活という退屈な重力から抜け出し、瞬間的な衝動に身を委ねる場所だ」と表現している。

実はその1年前、「夜の女王」と言われたパリ出身のRégine Zylberberg が、自身がオーナーを務めるニューヨークのディスコRegine’sに50万ドルを費やして光輝く六角形のダンスフロアと鏡張りの天井を用意し、「究極のナルシシズムトリップ」(『New York』誌)と言われる豪華絢爛なアール・デコ調のディスコを生みだしたことで、ディスコデザインの水準を高めていた。

しかし、RubellとSchragerはその上を行った。彼らはStudio 54のオープンに向け、ブロードウェイ最高のインテリアデザイナーと照明デザイナーを雇い入れると、約500㎡の広さのダンスフロア、そこを取り囲むような10本のシルバーの通路、400を超えるライティングユニットを用意し、無限のスペクタクルを提供できるディスコを産み出した。しかし、このクラブのインテリアデザインで最も有名なものは、天井から吊るされた三日月男とコカインが乗せられたスプーンから成り立つオブジェ(Man in the Moon)で、これは三日月男とスプーンが接触するとライトが瞬くという仕組みになっていた。

「太い線と細い線で成り立つこのロゴは、70年代に一世を風靡したアール・デコ調のフォントを参考にしている」

Studio 54のロゴは、Gilbert Lesser(1935-1990)によってデザインされたが、これはアールデコリバイバルの退廃さとバウハウスの幾何学的デザインを融合した非常に洗練されたものだった。演劇『Equus』(1974年)と『The Elephant Man』(1979)のポスターデザインで知られるグラフィックデザイナーLesserによるこのエレガントでタイトな「54」は太い線と細い線から成り立っており、これは70年代に一世を風靡したアール・デコのフォントを参考にしている。しかし、その緻密な幾何学的なデザインと斜めに走るラインは60年代の影響を大きく受けたもので、このクラブの初期VIPカードにはこのロゴ自体が斜めに描かれている。

尚、RubellはStudio 54にエクスクルーシヴなスポットというイメージを与えようとしていたため、クラブ内が空いている時でも外に人を並ばせていた。『Village Voice』の1ゴシップ記事担当Michael Mustoが、「最重要スポットであると同時に最終地点でもあった」と表現したこのクラブは、ニューヨークで初めてベルベットロープの仕切りをエントランスに置いたクラブでもあり、一般人にとってはそのロープの先へ通されること自体に価値があった。(Laura Forde)

Tommy Boy


Tommy Boyの創設者Tom Silvermanは1981年に初めてAfrica Bambaataaを聴いた時に、Kraftwerkにファンクを混ぜる彼のDJスタイルに未来を感じた。当時ダンスミュージック業界の広報誌を運営していたSilvermanは、DJカルチャーに共鳴し、ポスト・ディスコ時代におけるヒップホップの台頭を感じ取ると、Bambaataaと契約を結びTommy Boyをスタートさせた。Bambaataaの提案でリリースされたCotton Candyによるファーストシングル「Having’ Fun」では、ブドウ農家Tommy Boyの木製の箱に描かれていたロゴをそのまま用いていた。しかし、Silvermanは、BambaataaとJazzy Fiveによるセカンドシングル「Jazzy Sensation」のリリース後、正式なロゴを制作する必要性を感じ、ロゴ制作に向けて動き出した。

Tommy Boy初の社員だったMonica Lynch(のちに共同経営者となっている)は、「当時は予算がなかったので会社のビジネス規模は非常に小さかったですね。デザイン部門も存在しなかったので、仕事は雑でした」と振り返っている。このような状況だったTommy Boyは、Lynchのつてで彼女の友人だったアーティストSteven Miglioにロゴデザインを依頼し、MiglioはLetrasetのスクリーントーンと印刷用フォントを使用してロゴを制作した。Miglioは「Tommy」と「Boy」のそれぞれ最初と最後の文字を大文字にしてから、文字の上部を揃えることで大文字の下部が飛び出すようにし、その上でムーブの方向を示す矢印が示された3人のダンサーを配置した。Miglioは、「段ボールの上でブレイクダンスをしているストリートダンサーをモチーフにした。このようなダンサーをレーベル面に描いて、それが回転すれば彼らがダンスしているように見えるだろうと思った」とロゴデザインのアイディアについて振り返っている。

「ダンサーをレーベル面に描いて、それが回転すれば彼らがダンスしているように見えるだろうと思った」-Steven Miglio

「とにかくエネルギッシュで、B-Boyカルチャーと結びつくロゴを作ろうとしていました」というLynchたちにとって、Miglioのロゴは功を奏した。初めてこの新しいロゴが用いられた作品はAfrica Bambaataa and Soulsonic Forceの「Planet Rock」だったが、これは60万枚を超える大ヒットとなり、Tommy Boyは世間に認知されるようになり、後にQueen Latifa、De La Soul、Digital Undergroundや数々のコンピレーションなどと共に語られる存在になった。

1989年、SilvermanはロゴデザイナーEric Hazeを雇って、ロゴのリニューアルを行い、Hazeは矢印を取り除き、フォントを変え、文字の揃え方も変えると、3人のダンサーも手描きで修正した。Silvermanは、「ダンサーは元々ベルボトムを履いていたが、Ericによってその当時の服装に変わった」とロゴの違いについて説明している。(Sue Apfelbaum)

Wu-Tang Clan


Wu-Tang Clanの蝙蝠のようなシェイプの「W」は1993年のデビューシングル「Protect Ya Neck」で初めて使用されたが、これは元々、彼らが打ち出すマーシャルアーツにインスパイアされたスピリチュアルな一連の手描きシンボルのひとつだった。

オリジナルロゴをデザインしたMathematicsは、「バットマンのマークのような目立つものを作ろうとしていた」と振り返っている。彼のWu-Tangにおける作品の大半は、Wu-Tangの音楽を通じて発展を続けてきたものだが、クィーンズ・ジャマイカ出身の元グラフィティアーティストであるMathematicsは、Thomas A. Edison Career and Technical Education High Schoolでグラフィックとコマーシャルアートを学んだ経歴も持つ。

「初期バージョンは、アジア系を模した手描きフォントで『Wu-Tang Clan』と描かれている「W」の文字から伸びた手がドレッドヘアの男の生首を握っているというものだった」

「Protect Ya Neck」のジャケットが印刷される際に、徹夜でいくつかの候補を作成したMathematicsだったが、「当時は親の大工仕事を手伝っていたんだが、RZA、Ghost、Power (Wu-TangのエグゼクティブプロデューサーOliver Grant)とU-Godが朝の10時にその仕事場へ来て、俺が作ったロゴを持っていった」と当時を振り返っている。ちなみに初期バージョンは、アジア系を模した手描きフォントで『Wu-Tang Clan』と描かれている「W」の文字から伸びた手がドレッドヘアの男の生首を握っているというものだった。RZAは著作『Wu-Tang Manual』で、「最初のロゴは残酷過ぎたが、文字の部分は気に入ったので、文字部分を活かしつつ剣をモチーフにしたものを作ってくれと頼んだ。何故なら俺の言葉は剣だからさ。だが、剣だけでも俺のすべては伝わらない。だから、剣と本、そして知性を盛り込むように伝えた」とその後の経緯について説明している。

こうしてファーストアルバム『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』がリリースされた1993年の終わり頃には、剣と本が用いられつつも、元々の「W」と「Wu-Tang Clan」の文字部分が保たれたロゴが制作された。(Sue Apfelbaum)