三月 28

NYの音楽シーンを代表するロゴデザイン22 (Part 2)

ニューヨークの音楽史に燦然と輝くロゴの数々を3回に分けて紹介する。今回はPart 2をお届けする。

By Sue Apfelbaum and Laura Forde

Fool’s Gold


ニューヨークの街並みがゴールド-つまり「Fool’s Gold」で埋め尽くされているように思える時がある。多少大げさに聞こえるかもしれないが、ダンスミュージックとヒップホップのハイブリッドレーベルであるFool’s Goldのロゴステッカーは歩道をはじめとしたニューヨークの至るところに貼ってあるため、簡単にこのロゴを見つけることができるからだ。金の延べ棒に丸みの帯びた手描きの幾何学的なフォントが描かれたFool’s Goldのロゴとその名前は、ブルックリン・ウィリアムズバーグに拠点に格好つけたヒップホップをジョークで表現するというレーベルの姿勢を如実に表している。

「ヒップホップを誇りながらも、鼻につかないように、そして真面目になり過ぎないように表現できるロゴを作ろうとしていた」-こう振り返るのはA-Trakと共に2007年にこのレーベルを立ち上げたNick Catchdubsだ。彼らの頭の中には、「自分たちのDJセットに組み込んでいた一風変わったトラックをリリースするアーティスト主導のレーベル」というコンセプトがあった。

「ダンスミュージックの多くは自分たちをシリアスに考えすぎている。本来は楽しくあるべきだ」-Nick Catchdubs

立ち上げ当初は専任のデザイン担当を抱えていた。数年に渡りレーベルのすべてのビジュアル面を担当した、ニコロデオン世代のDust La RockことJoshua Princeが生み出した漫画チックなロゴは、快活で親しみやすいものだった。現在LAに拠点を置くPrinceは自分の制作方法について、「担当するコンテンツに関するすべてのものを徹底的にリサーチする」と説明しており、このロゴの場合も、「あらゆる『金』」と、80年代後半から90年代初頭にかけてのハウス/ヒップホップのジャケットとグラフィックを調査した」とし、その範囲はDesigners RepublicのPop Will Eat Itselfの作品やWarpの作品、そしてGenesis P-Orridgeのサイキック・クロスやオカルトまでに至ったと振り返っている。

ソリッドなゴールド感を全面に押し出したこのイメージは商品展開でも成功を収め、またマスコットMr. GoldbarはかのMr. Peanutを隅に追いやるような人気を獲得した。Catchdubsは言う。「ダンスミュージックの多くは自分たちをシリアスに考えすぎている。本来は楽しくあるべきなんだ」(Sue Apfelbaum)

Giant Step


1992年にロードアイランド・スクール・オブ・デザインを卒業したKevin Lyonsは、卒業から1ヵ月後にGroove Academyのオフィスを訪れた。本人はその理由を、「Paper誌で広告を見て、彼らをレコード店だと勘違いしたんだ」と振り返っている。実際は「ファンクの保護を目的とした」マーケティング及びコンサートプロモーション会社だったGroove AcademyでLyonsを待っていたのが、この企業の創設者で、パーティーGiant StepをオーガナイズしていたMaurice BernsteinJonathan Rudnickだった。2人はLyonsのポートフォリオに軽く目を通すと、Lyonsにパーティーのロゴデザインをオファーした。

「このロゴは私たちがどういう存在だったのかをすべて表現してくれた」-Maurice Bernstein

1990年に立ちあがったGiant Stepはロンドンのアシッドジャズシーンが打ち出していたビバップやビートニック、ファンクを融合させたレトロな質感を流用したパーティーだったが、そこに追加されていたヒップホップの質感はニューヨーク独自のものだった。「パーティー名にはふたつの意味が盛り込まれていた。ひとつはJohn Coltraneのアルバム名、そしてもうひとつは当時のニューヨークのシーンから一歩踏み出そうという自分たちの意志だ」とBernsteinは振り返る。1990年のGiant Stepは5ドルのエントランスを払った様々なタイプの若い世代が、DJたちのプレイするスムースなハウス、ファンク、ジャズ系ヒップホップに身を委ねているパーティーだったが、このパーティーではのちにGroove Collectiveとして名を馳せるフルートやホーン、パーカッション、ラッパー、シンガーからなるハウスバンドも用意されていた。

Lyonsはこのパーティーのロゴを制作するに当たり、Reid Milesが手掛けたBlue Noteの作品群のオマージュの代わりに、1960年代のテレビ番組『My Three Sons』のオープニングで用いられていた手描き風のフォントを使うのはどうだろうかと考えた。「『GIANT』という文字を跳ねるようなウッド系のフォントを使ってトランペットの形をしたらどうだろうと考えた」というLyonsは徹夜で制作し、「何回も描いては修正液で形を作っていった」としている。結局この時制作されたロゴは今でも使用されており、Bernsteinは、「Lyonsは良い仕事をしてくれた。私たちがどういう存在だったのかをすべて表現してくれた」と評価している。(Laura Fonde)

KISS


KISSの化粧とハイヒールブーツは時代と共に変化しているが、ロゴはずっと同じだ。ボルド調のKとI、そして稲妻のような形をしたふたつのSで象られた彼らのロゴほど大きな影響力を持つロゴは数少ない。彼らの存在感と同様の力強さを放つこのロゴは、ナチスの親衛隊(SS)のマークを彷彿させるという理由から、ドイツ国内では1980年から別のロゴが使用されているものの、それ以外の国では70年代中盤から今と同じものが使用されている。

このロゴはアートの才能があった初代リードギタリストAce Frehleyがデザインしたと言われており、Gene SimmonsとPaul StanleyがKISSを結成する前に所属していたバンドWicked Lesterのポスターの上にFrehleyが「S」の稲妻デザインと共にこのロゴを描いたのが始まりという説があるが、Wicked Lesterのロゴの「S」も稲妻になっているという指摘もある。また、Paul Stanleyがどこまでロゴに関わったのかについても明らかにされていない。

「このロゴの文字は正しく並んでいない。Sはそれぞれ異なった角度で、しかも斜めに傾いている。私はそこが許せなかった」-Michael Doret

KISSのアルバム『Rock and Roll Over』(1976年)と『Sonic Boom』(2009年)で見事なアートワークを手掛けたハンドレタリングアーティストMichael Doretは、『Sonic Boom』のジャケットデザイン制作中にPaul Stanley が訪れた時にそのロゴの秘密について訊ねたことがあった。Doretによると、「Paulが私のスタジオに来たので、ロゴが生まれた経緯について訊ねてみると、自分がキッチンテーブルの上で三角定規や製図ペンを使って描いたものだと言っていた」そうだが、一方でGene Simmonsは、2004年のBillboard誌のインタビュー内で、ロゴは元々Frehleyがデザインし、Paul Stanleyが実際にアルバムで使えるような形に整えたと発言している。尚、NBAのNew York Knicksのロゴなどを手掛けたキャリアを持つDoretはこのロゴがあまり好きではないようで、「実は私が担当した2枚のアルバムでは、ロゴを描き直している」と告白している。しかし、Paul Stanleyも「描き直しを許したのはあなただけだ」とDoretに直接伝えており、彼の才能を認めている。

ではDoretはロゴのどの部分を修正したのだろうか?「幾何学的に見てみると、このロゴの文字は正しく並んでいない。Sはそれぞれ異なった角度で、しかも斜めに傾いている。私はそこが許せなかった。『Rock and Roll Over』の時はさすがに修正したことを誰にも話さなかったが、多分Paulは知っていたのだろう」(Sue Apfelbaum)

Masters At Work


Masters At WorkのオリジナルメンバーでDJ/プロデューサーKenny ‘Dope’ Gonzalezは、今回の取材に対し、「23年の歴史の中で誰がロゴを作ったのか質問してきたのは君たちが初めてだよ」と驚いた。このロゴのコンセプトは一見シンプルなもののように思える-ベースボールキャップを横に被ったヒップホップファンのGonzalezと、髭を生やしたサルサファンの‘Little’ Louie Vegaの頭部をアイコン化し、工事現場の「作業中(Men At Work)」のサインのようにまとめただけに思えるが、いざ蓋を開けてみるとそこまでシンプルな話ではなかった。

80年代中頃にブルックリン・サンセットパーク出身のGonzalezがTodd Terryを介してブロンクス出身のVegaに出会う前、Gonzalezは友人のDJ、Mike Delgadoと共にビートメイクとパーティーのオーガナイズを行いつつ、地元のレコードショップWNR Music Centerで働いていた。そのショップの常連のひとりがRevlon(COSTとの長期に渡って競い合ったことで有名なグラフィティアーティストREVS)と共に活動していたことで知られる、グラフィティアーティストKAB-ONEことLuis Negronだった。そして目立つことを避け、地道な活動を行っていたNegronはやがてNu GrooveやGonzalezのDopewaxのロゴデザインや、GonzalezとDelgadoのパーティー「Masters At Work」のフライヤーデザインを担当するようになった。

「自分たちでレーベルと制作会社を作ろうと決めた時に、頭部だけのアイコンに変えた」-Kenny Gonzalez

Negronは1989年にオープンリールデッキを模したMasters At Workのファーストロゴを制作したが、これは当時地元のフライヤーにだけ使用されていたとGonzalezは振り返っている(その数年後にはTシャツにプリントされた)。そしてVegaとGonzalezがMasters At Workとして正式に活動を始め、1993年にCutting Recordsからファーストアルバムをリリースする頃には、ハットとキャップをかぶった2人のアイコンと共にテープやキーボード、そしてレコードが飛び交っているセカンドロゴへと変更され、その後2人のアイコンだけという現在のファイナルバージョンになった。Gonzalezはこの経緯について、「自分たちでレーベルと制作会社を作ろうと決めた時に、頭部だけのアイコンに変えた。そしてMAW Recordsが生まれたんだ」と振り返っている。

尚、グラフィック面で大きな力となったNegronはその後米海軍に入隊し、現在はアフガニスタンに駐在しているため、残念ながら今回の取材に向けたコメントはもらえなかったが、Masters At WorkのロゴはKAB-ONEが生み出したという事実に変わりはない。(Sue Apfelbaum)

MTV


世界初のミュージックビデオ専門局MTVは1981年4月1日に放送を開始し、音楽とテレビの両方に革命を起こした。そしてこの勇敢とも言える新たなビジュアルワールドと共に展開されたブランドイメージは、非常にラディカルなものだった。Google DoodlesやGIFが生まれる前だったこの時代に、MTVの初代クリエイティブディレクターFred SeibertManhattan Designに働きかけ、世間的に「良しとされるロゴデザイン」を小馬鹿にするかのようなブロック体の「M」とスプレーペイント風の「TV」が組み合わさったこのロゴを生みだした。そして無限にその姿が変わるというコンセプトは、「反抗的で予想できない新世代の存在」というイメージを世間に植え付けることになった。

有名デザイナーを雇えというプレッシャーがかかる中、Seibertは少年時代からの友人Frank Olinskyが共同経営者だった無名のデザイン会社Manhattan Designを選択する。SeibertとOlinskyはロングアイランド・ハンティントンで幼少期を過ごした仲だが、SeibertはOlinskyについて、音楽に興味を持たせてくれた人物であり、アニメが人間によって作られていることを教えてくれた人物だと評しているが、Olinskyはその素養の背景について、「私の父親はアニメーター兼商業デザイナーだったので、業界について色々教えてもらえたからだ」と説明している。

「ほとんどのロゴはプリントデザイナーによってデザインされ、モーションデザイナーがそれをどう動かすかを決めなければならない。そんなのは馬鹿げていると思った」-Frank Seibert

Manhattan DesignはグリニッチヴィレッジのBigelow Pharmacyの上にあった太極拳スタジオの裏に小さな事務所を構えていた。そして8カ月に渡る作業の後、MTVという名称が正式に決まるよりかなり前の段階で、Olinskyは今のロゴのプロトタイプを完成させた。Olinskyはこのロゴについて、パンクやグラフィティ、そして子供の頃に見ていたテレビ番組『Winky Dink and You』を参考にしたと振り返っている。ちなみにこの『Winky Dink and You』は、透明のプラスティック版をテレビの前に貼り、そこに自分で絵を描くことで画面に映っているシーンを完成させるという手法の番組だったとして知られている。この既存の伝統を打ち破り(パンク・グラフィティ)、無限に変化できる(『Winky Dink and You』)ロゴを作ろうという彼のアイディアは、時代、そしてテレビというメディアにピッタリとはまった。「ほとんどのロゴはプリントデザイナーによってデザインされ、その後でモーションデザイナーがそれをどう動かすかを決めることになる。そんなのは馬鹿げていると思った」とSeibertはその両方をまとめたこのコンセプトの背景について説明している。

Seibertは、当初MTV側の人間はこのコンセプトを嫌がったが、ロゴの下にフォントHelveticaで「Music Television」と付け加えることで納得したと振り返っている。ちなみに皮肉なことだが、2010年にロゴのリニューアルが行われた際、このフォント部分は取り除かれている。結局そのリニューアルまでの約30年間に同じロゴが使われ続けたという事実は、当初のコンセプトが正しかったことを証明している。Olinskyは、「このロゴは『誰のものでもない』というアイディアの元に生まれた。業界の常識で判断すると非常にアンチ・ロゴ的で逆説的な発想だ」とその魅力を分析している。(Sue Apfelbaum)

Nervous Records


Nervous Recordsの創設者Michael Weissは、父親がディストリビューター兼ディスコレーベルSam Recordsのオーナーという音楽一家に育った。よってWeissが、彼の世代のダンスミュージック、つまりBlack MoonやTodd Terry、Armand van HeldenやMasters At Workのようなヒップホップやハウスを抱えるレーベルをスタートさせるのは至って自然な話だったはずで、彼が「ナーバス」になるような決断ではなかったはずだ。では何故レーベル名に「nervous」を冠したのだろうか? 「Nervous Recordsを立ち上げる前、私はいくつかのヒップホップレーベルのプロモーションを担当していた。非常に積極的に営業していた私は、当時のWBLSの人気ヒップホップDJ、Chuck Chilloutに頻繁にレコードを渡していた。毎週金曜日の夜11時半にスタジオ出掛けて行き、積極的にプロモートしたので、Chuckは日付が変わる前に私が渡したレコードをプレイしてくれた。そして毎週番組が終わる前にトラックがかかるかどうかナーバスになっていた私を見たChuckが、私を『Captain Nervous』と呼ぶようになった。それがNervous Recordsと名付けた理由だよ」

Weissが1991年に起用したロゴは、当時の最新盤や限定盤を手に入れようと必死になっていたDJたちのエナジーもうまく捉えていた。Weissはロゴのアイディアについて、「DJシーンのスーパーヒーローのようなキャラクターを面白おかしく表現しようと思っていた。当時のDJは今のようなスター扱いをされていなかったが、私にとってはニューヨークのインディーダンスレーベルシーンのDJやプロデューサーはスター同然だった」と説明している。

「当時Arsenio Hallのフラットトップのヘアスタイルが流行っていたので、高速で飛ぶレコードに髪をスパッと切り落とされてビクビクしているキャラクターはどうだろうと思った」-Marc Cozza

そう考えたWeissはSam Recordsのジャケットをデザインした経歴を持つ知り合いのEMS/ChrysalisのアートディレクターMarc Cozzaにロゴのデザインを依頼した。Cozzaは依頼を受けた時のことを次のように振り返っている。「私が考えていたのは、『Nervous』という言葉を使わなくても成立するような印象的なキャラクターだった。George Herrimanの『Krazy Kat』やSuperwestのコミックなどを参考にしつつ、当時流行っていたArsenio Hallのフラットトップのヘアスタイルからヒントを得て、高速で飛ぶレコードに髪をスパッと切り落とされてビクビクしているキャラクターはどうだろうと思ったんだ」

最初のロゴはレーベル面にデザインされることを見越し、円形にシンプルなサンセリフのフォントを使用したものだったが、2004年からはデジタル販売を考慮して円形が四角形に変わり、背景にレンガの壁が加えられ、更にアーバンテイストを入れるために「Nervous」の文字がBlake “KEO” Lethemのグラフィティに差し替えられている。(Sue Apfelbaum)

NYHC


1980年代初期に生まれたパンクとメタルを組み合わせたスピード感溢れるジャンル、ニューヨーク・ハードコアには様々な派閥が存在するが、シーン全体の結束を示すロゴも存在する。XマークにN、Y、H、Cをレイアウトしたこのロゴはニューヨークのローカルシーンを示すものであるが、コンセプトは世界各都市に拡散しており、これを模したロゴが世界各地に存在する。

当時クラブのバウンサーは未成年の手に酒類を購入させないためXマークを手に記入していた。人の話では、The Teen Idles(のちのMinor Threat)のIan MacKayeとJeff Nelsonが西海岸のクラブでXマークを描かれ、Nelsonがこれを面白いと思いアルバムのジャケットにデザインしたのが最初だと言われている。やがてBad Brainsに影響を受けた彼らの反ドラッグのメッセージ性と共にこのXマークはストレート・エッジ(ドラッグ・酒・たばこなどに手を出さないライフスタイル)を示すようになった。NYHCバンドのひとつLudichristの元ギタリストで、Xマークについて深く考察したデザイナーでもあるGlen Cummingsは、このマークについて、「Xマークは『飲めません』から『飲みません』という意味合いに変化し、シーンが過激になってくるにつれ『飲んだらぶっ殺す』という意味合いになっていった」と説明している。

「NYHCのロゴはある意味自分たちのシーンの存在を示す意思表示のようなものだった」-Kevin Crowley

そしてCro-MagsやAgonostic Front、Murphy’s Lawがニューヨーク・ハードコアシーンを形成していった頃、やや無名だったストレート・エッジ系バンドThe AbusedのヴォーカルKevin CrowleyがNYHCの4文字を入れ込んだXマークを生み出した。CrowleyはCBGBやアルファベット・シティのA7といったクラブでのライブを告知するハンドメイドのフライヤーでこのロゴを使用していた。Crowleyはブログ『Noise Creep』上でこのロゴが生まれた経緯について、「自分たちを憶えて欲しかった。そして自分たちのバンドの音楽やアートワークの一体感を表現したかった。当時のハードコアシーンは地域性がかなり強く、ニューヨーク、ボストン、ワシントンD.Cなどスポーツチームに近いものがあった。俺は他の都市の音楽も大好きだったが、ニューヨークがホームだったから困ったよ。NYHCのロゴはある意味自分たちのシーンの存在を示す意思表示のようなものだった」と振り返っている。

NYHCのロゴは地元シーンを代表するものであったと同時に、無名のバンド同士のコミュニケーションツールにもなった。「フライヤーにロゴが載っていれば『俺たちはこのジャンルだ』という宣言になった」とCummingsも説明している。書籍『American Hardcore』の作者Steven Blushは、「Xマークをネクストレヴェルへ引き上げた」とThe Abusedを高く評価しており、「NYHCの4文字がXマークを美しいシンメトリーサインに変えた」としているが、当のCrowleyは、「ここまで注目されるとは思っていなかった」とコメントしている。(Sue Apfelbaum)

Paradise Garage


二の腕にタトゥーが入った筋肉質の男が伏し目がちにタンバリンを掲げているこのロゴは、たった10年強という短期間でありながら、ダンスミュージックとゲイカルチャーにおいて永遠に語り継がれていくひとつの時代を象徴するものだ。1976年から1987年にかけてKing Streetの駐車場跡地に作られたクラブParadise Garageは、音楽ファンとゲイにとっての安息の地になったという意味ではその名の通りパラダイスだった。毎週金曜と土曜にレジデントDJ、Larry Levanが、当時の他のクラブが打ち出していた退廃感とは対照的なコミュニティ感と信仰性を軸とした伝説のパーティーの数々を繰り広げていた。元ガラージDJのDavid DePinoは、「当時のニューヨークはふたつのロゴが際立っていた。Studio 54とParadise Garageさ」と振り返っている。

訪れたほとんどすべての人は、Paradise Garageを神格化しており、DePinoも、「あそこは教会だった。ダンスしていた人たちは音楽を崇拝することで、一週間のストレスを発散していた」と表現している。DePinoはLevanとMichael Brodyがこの特別なロケーションを見つける手助けをした人物だが、Paradise GarageでLevanの他にプレイをした数少ないDJのひとりでもあり、様々な局面でLevanを支えていた。ちなみにBrodyが1987年にAIDSで、そしてLevanが1992年にドラッグの影響による心不全でこの世を去っているため、DePinoはParadise Garageの数少ない生き証人のひとりでもある。

「5年目に次のロゴが出来た。そのロゴはダンサーが前方に、そして虹色のピラミッドが後方に描かれていたものだったが、ロゴを変えるというアイディアに対して反対運動が起きた」-David DePino

DePinoは誰がロゴを描いたのかについては知らないとしているが、そのモデルがParadise Garageの最初の数年間に渡ってチーフセキュリティを務めたプロボディビルダーWillie Gonzalesであることは明確に記憶している。タンバリンはデザイン上付け加えらたものだが、描かれているカーリーヘアと筋肉質な肉体はGonzales本人そのものだった。クラブのエントランスへ続く通路の奥でネオンサインとして光っていたものが一番有名だが、商品展開もロゴが多くの人に知られるきっかけとなった。DePinoはパーティーにはロゴを描かれたTシャツを着た人や、一晩でそのTシャツを何枚も着替えている人がいたとし、「客はParadise Garageに普通の服装でやって来て、中で着替えていた。エアコンが無かったので全員が汗だくだった。そこでMichaelが『Tシャツを用意したら売れるんじゃないか』と言い出して、実際に売り始めた。あっという間に売り切れたよ」と当時の様子を説明している。またDePinoはBrodyがロゴを変えようとした時のことも憶えている。「5年目に次のロゴが出来た。そのロゴはダンサーが前方に、そして虹色のピラミッドが後方に描かれていたものだったが、ロゴを変えるというアイディアに対して反対運動が起きたんだ」(Sue Apfelbaum)